エルデ、貴族学習院での行動を開始する。
――― 貴族学習院内の小聖堂の静謐 ――――
始めて、足を踏み入れた『その場所』は、『記憶の泡沫』にも無い場所。 前世では、神に祈る事はしなかった。 いいえ、したかも…… ただ、ただ、私の望みを叶えて欲しいと、そう求め訴えただけだったわね。 だから、聖堂に足を踏み入れる事も無く…… 『祈る』作法さえ、無視していた驕慢な『娘』だったわ。
―――― 成程、高位の貴族子弟子女の通われる学び舎に、
併設されているだけの事は有るわね。
什器も超が付くくらいの一流品。 学習院の勤務者による、完璧な清掃により、美しく保たれている。 天井から垂れる徽章も、在籍された方々の御実家から、寄進として納められた、華麗なモノ。 徽章の紋章はそれぞれの貴族家が信奉する精霊様の御紋が刺繍されていて、其処には確かな信仰も見受けられた。
ただね……
小聖堂の空気は重い。 精霊様の息吹の流れが全くないのよ。 空気の入れ替えに、細窓は開けられているのだけど、それだけ。 巡り廻る風の精霊様の息吹を感じられないの。 つまりは、停滞。 祈りの残滓が色濃く残る、澱みと云ってもいいの。
それは、そうなるわよ。 だって、この小聖堂に祈りに足を運ぶ方は、今も居ないのだもの。 ただ、形だけの祈りの場所。 建立された当初は、そこかしこに神様と精霊様を讃する人が溢れていたのにね。 だって、この場所に漂う『祈りの残滓』は、とても濃いのだから。
あの隔離された小部屋と対になる様な、怒りを鎮める為のそんな場所。 皆が知っていた時代の…… そんな素敵な次代の『残り香』とも云えるわ。 あの『小部屋』の『怒りの残滓』は、浄化した。 そして、慰撫の『祈り』を必要としなくなった。 だったら対と成るこの場所の、『残り香』もいずれ霧散する。
ならば…… 王国の豊穣を祈るのは、誰になってしまうのか。
聖堂教会では、日々祈りの勤行を行っているのよ。 でも、実際に国を回している方々が、その祈りを胸に置かなくては、いずれ衰亡する。 『祈り』無くば、聖堂は単なる場所になり果てる。 人の心は、天に通じなくなり、ひたすら人の『 業 』を紡ぎ出し、穢れ堕ちていくばかり。 理は失われ、やがてこの世界は失われる。
――― それは、必然。
だからこそ、再度結ばねば成らないのよ。 それが、創造神様と精霊様が愛するこの世界を護る為の唯一の方法なのだから。
貴族社会と聖堂教会の間に横たわる溝は、こんな所にも影響を与えていたのね。 貴族が政を司り、封建制であり、王政を取る私達の国は、別に宗教に重きを置く必要は無いのは理解している。 故に、貴族の方々の中に、確かな『祈り』が必要なの。 折に触れ、機会があらば、神様と精霊様に感謝を捧げ、豊穣の祈りを捧げるのは、決して難しい事ではないわ。 小さな祈りは、つどい集まって、やがて大きな祈りの奔流と成り天へと至る。
” 優れた誰か ” が、無私の心で世界を繋ぎとめる? 心の中にある、様々な感情や言いようのない不安、そして、善悪と人の行いに関する葛藤などは、人が対処するには、強い意志の力が必要なのは、余人に疑いを差し挟む事が出来ない事実でもあるし、数多の人々が等しく認識する事でもあるの。
もしも…… そんな人が居るのならば、その人は ”化け物 ” と、呼ばれるわ。
そんな者は居ない。 どんな能力や権能を持つ者で在れ、『超越した者』、たった一人きりで、全てを背負えるようなモノは…… 居ない。 だからこそ、小人たる私達は、皆で少しづつ祈りを捧げるのよ。 小さくとも真摯な祈りは、優れた超越者の絶大な力とは対極にあるモノ。 でも、その小さくとも真摯な祈りがつどう事によって、瞬間にしか振るわれない超越者の力を、遥かに上回り、そして、永遠と成るのよ。
―――― よって、『聖職者』の正しい行いとは、人々の心の内にある『隙間』を埋め、心に安寧をもたらす為に、人成らざる者に祈りを捧げるのよ。 ……只人としてね。
宗教の在り方として、それは正しく、神様と精霊様の御導きと御加護が、人の心の不安定さを補完しているとも云えるの。 『不安』と『安寧』の間に、その理を熟知する聖堂教会が挟まるのが…… 貴族家の方々にとっては、少々不安に思う所なのよね。
だって、今の状態になるまでは、聖堂教会と貴族家の方々の間は良好な訳だったし…… ね。 心の隙を曝け出し、脆弱な部分を『告解懺悔』と云う形で、人に伝え自身の不安や葛藤なんかを昇華する。
……つまりは、自身の弱みを曝け出す行為。
『聴聞神官』の守秘義務は、精霊誓約に於いて護られている。 正規の神官ならば…… ね。 王国建国当初から時が経ち、聖堂教会内に於ける権力闘争が始まると、一部神官が禁を破り貴族家の様々な醜聞を掴み、それを利用するに至る。
貴族の意に沿うように、不逞の神官や枢機卿様方が己の利益を得る為に色々と動かれ、さらに貴族家の方々に様々な便宜を図っておられた。 それは、それで、判る話でもあるのだけれど、余りにもそこに自身の『利』を絡ませ、挙句、貴族家の方々を思うがままに動かそうとした結果、『涜職』にまでに至るのよ。
聖職者に於ける『涜職』は即ち、『邪教信仰』と云われる、特大の『罪』となる。
判っていなかったのか、判った上でしていたのか。 でも、そんな聖職者様達は、自身の愚行を己の命で償う事に成ったのよ。 罪に問われた方々は、貴族の方々とも深い関係性を持つ方々ばかり……
もう、貴族の皆様と懇意にしていた神官様方々は居ない。 故に、貴族の方々の動向を、正確に聖堂教会に伝えるモノも居ない。 だから、双方の思惑を擦り合わせる機会も無い。
悪しき循環が、漣から波と成り、やがて渦と成る事は、予測の範囲内。 教皇猊下も、たぶん…… 国王陛下も、その辺りの事を憂慮していらっしゃると思うのよ。 ただ…… これは、王領で蔓延している、” 貴族の思考 ” の問題。
王領外縁部、辺境と呼ばれる場所では、その自然環境の厳しさ、更に言えば辺境の経済規模の小ささと、国に収めるべき『税』の重さから、両者の協力無くしては、領政、いわんや辺境域の民草は塗炭の苦しみを味わる事に成るのよ。
優遇されている王領壁内。 それが故の、貴族の在り方。 一般王領内貴族と聖堂教会の『認識』の違いは、王国全土の状況を、鑑みない事に由来するのよ。 だから…… ここから始めるの。
―――― 誰も居ない学習院の小聖堂。
設えられた聖壇の前に於いて、祈りを捧げるの。 風の精霊様に伏し願うの。 細々と称えられ祀られている様々な精霊様を繋ぎ賜う事を。 この国におわします、幾多の精霊様がその恩寵を垂れて下さるように、幾多の精霊様の間を流れる風と成る事を。
『侯爵令嬢』としては、異例の事なのだけど、私は『修道女』でもあるの。 不可視の『斎戒のストラ』を首に掛ける私は、貴族学習院に於いても、『神職』にある修道女として振舞えるの。 たとえ、素敵なドレスを着用していてもね。
聖壇の前に跪いて、跪拝を捧げる。 体に漲る『神聖な力』を、そっと紡ぎ、聖句を口に乗せる。 祈りの言葉は、私の内包魔力を纏い力を発揮する。 聖句には『力』が有り、その力を増幅し発現させるのが、修養をこなした修道女が練る魔力。 小聖堂内に、風が舞う。 唄う様な聖句の調べに、鐘や鈴、竪琴の音が乗る。 風の中に光輪が生まれ、消える。
停滞していた、人々の祈りの残滓が昇華され天に召されるのが、肌で感じられたわ。 これで、澱みは解消された。 何時いかなる時でも、この小聖堂に祈りに来られる方の真摯な想いは、天に通じるわ。
善き事……。 続く方が居れば、とても…… 『善き事』に成るのよ。
人気のない小聖堂での、『お勤め』。 私が貴族学習院に登院する日の習慣としようと思ったの。
§ ―――――― §
あの日、閣下とのお話の後、私は閣下のお気持ちを受けて、自身の為すべき事を成すと気持ちを新たにしたわ。 お忙しい閣下と事務次官様は、別邸より王城へ御出仕と成り、私は日々の『お勤め』を続行する為に別邸小聖堂へと歩みを進めたの。
すべき事は、山積みなのだから。
製薬に関しても、医薬品の確認にしても、『祈り』にしても。 『養育子』として振舞わなければ成らない私は、本来の修道女が成すべき事柄には届かない。 自身が何者かを理解している私には、心苦しくも有り、そして与えられた『使命』の重さに身が震えるようにも感じるのよ。
そんな中、探索者ギルドからの薬草を運んできたのがルカだったわ。 学習院で顔を合わせている時とは、本当に違って、どこか生き生きとしているのよ。 にこやかな笑みを頬に乗せて、教会によって作られた厳重な警備の玄門を通り抜け、小聖堂の傍らに馬車を止めるの。 言葉遣いだって、ほら……
「エル! 今日はいつもより多いんだ。 手伝ってくれないか? ギルド長から、特別な運送箱も預かっているんだ」
「いいわよ。 ……あら、本当に多いわね。 どうしたの?」
「市井に流している医薬品があるだろ、アレについて聖堂教会から認可が下りたんだ。 これまで、王都にある薬師所に庶民向けに下ろしていた医薬品があっただろ、アレを王都治癒所組合に下ろす事を認可して貰えたんだ。 エルの方からも云って呉れたんだろ?」
「うん…… まぁね。 そうなれば、良いかなって。 聖堂教会の薬師院別當 リックデシオン司祭様に少しお話したのよ。 出来る範囲でいいから、市中の薬師所だけじゃ無く、治癒所にも置けないかなって。 ピンキーが云ってたよね、市中の薬師所に駆け込む人って、なんでもいいから薬を呉れって人が多いって」
「まぁ、そうだね。 治癒所に掛かる位なら、自力で治そうって思うからな。 特に低所得者層なんかは」
「でしょ。 でね、彼女が云うのよ、それじゃ医薬品の無駄使いだって。 それに過剰使用も考えられるって。 少なくとも、必要でない薬の使用は避けた方がいいから、一度は診察を受けるべきなんだって」
「ん。 まぁ、その為には少なからぬ『金』が、必要だけどね」
「そこに、何らかの光明が見えたってことじゃないの? 聖堂教会が認可したって事は」
「低所得者層向けの診察かぁ…… 市井の治癒師は、志は高いけど貧乏なのがほとんどだからなぁ…… そのくせ、少し有名になると直ぐに貴族家からの専属を求められるし。 志は高くっても、家族だっているし、喰わないといけないし。 ピンキーの親御さんが、どっかから資金を引っ張って来たのかな?」
「判らないけど…… そんな所でしょ。 きっと。 でもまぁ、それで助かる人が多く成れば、それだけ沢山の祈りが生まれるもの。 良い事なのよ、きっと。 さぁ、手伝うから、薬草箱を下ろして下さらない?」
「ああ!」
荷馬車に積まれた薬草箱を、小聖堂の製薬部屋に持ち込んでいくの。 数十の薬草箱はいつもの三倍はあったわ。 出来上がっている医薬品は前に入れてもらった薬草箱に丁寧に梱包してあるから、下ろした箱の代わりに、荷馬車に積み込むの。 これは、何時もの薬師所各所に配っていくもの。 それも又、ルカがしてくれたわ。
あらかた終わったところで、探索者ギルドのエステファンギルド長からの運送箱を手渡された。 特別なモノが入っているのか、厳重に施錠され更に指定受取人しか開けないよう、【鍵の魔法】すら施されている小箱だったの。
「なにかしら、これは?」
「多分…… 珍しいモノなんだろう。 探索者ギルドに卸している医薬品で、かなりあっちも助かっているから、探索者の誰かが恩に着て、特別な採取物をギルドに持ち込んだんじゃないかな?」
小聖堂の入口に立ったままで、手渡された運送箱に手をかざす。 魔力を練り、そっと流すと運送箱に施された鍵は開いた。 確かに、指定受取人が受け取ったと、これで運送箱に記録される筈ね。 箱を開けてルカと二人で中を覗き込む。
いや、まぁ、凄いね。 これ、探索者さん達が拾って来たの? ホントに? 指定依頼を掛けたって、中々お目に掛かれない程、稀少な魔法草やら…… 魔物由来の爪やら牙やら内臓やらだよ? これだけ有れば、既存の魔法薬草と組み合わせて、そりゃ色々と錬金製薬が出来るわよ。
聖堂教会 薬師院の『奥の院』でも、そうは御目に掛かれない希少な材料。 まぁ、あっちなら全て貴人向けに使われる事、間違いなしのそんな極上品。 でも、これって……
「貰っちゃっても、いいのかしら?」
「その為に、ギルド長から直接手渡せって…… かな? 正規品じゃ無くて、”拾得物 ” 扱いなんだろうな。 有効に使って貰えて、その幾分かはギルドにも還流するからね。 なにせエルの医薬品はとても良く効くし、何度も何度も探索者達の命を救ったんだものな。 あっちも、期待しているんじゃないかな?」
「まぁ、私もアルタマイトの薬師院の先輩方に、手に負えない位の巻物を、頂いちゃってるし、コレがあれば、幾つも試してみる価値の有るモノを錬成出来そうだけど……」
「良い事なんだよ。 エルが神様と精霊様に『御誓約』を差し出しているのは、認識されておられるんだもんな。 ならば、それを助ける様に動かれると。 エルの祈りを通じて、自身の祈りも乗せられた。 なんて、考え方も出来るでしょ」
「たしかに…… そうかも……」
「何にしても、使えるモノは使わないとね。 そうそう、学習院での行動についてなんだけど、俺も自分なりにちょっと調べてみたんだ」
「うん。 たしか…… 学習院内の小聖堂で祈る事にしようって。 でしょ?」
「そうそう、それね。 だから、学習院の小聖堂周りについてちょっと調べてみたんだ」
「ありがとう…… それで?」
ルカの情報収集能力はとても高いのよ。 流石はエルネスト=アルファード老の薫陶を受けた『商人』って処かしら? 如才なく動き回って、学習院内の小聖堂についての現状を事細かく調べてくれたの。 その結果は、まぁ、惨憺たるモノよ。 一応、清掃は行われている。 けど、祈る人が殆どいない。
小聖堂に足を運ばれる方が居たとしても、人目を憚る様な要件での密会の場所にされて居るとか。
使い方が間違っているわ。 そんな事をする為の場所じゃないもの。 物凄く不機嫌に成った私をルカが諫める。
「今の学生たちは、聖堂教会に重きを置かない。 その上、目先の奇跡的な事柄に目を奪われ、『祈り』の本質を見誤っている。 エルがあの場所を最初の一歩にするのは間違っていないよ」
「廃れた辺境の教会…… くらいなのかな?」
「もうちょっと良いかな? ちゃんと職員の方々が清掃しているし、学習院の建物の中に有るから」
「そう…… 行かなくちゃね」
「それが、良いと思う。 なにせ、エルは第三位修道女で、このフェルデン侯爵家の『聖堂の守り人』なんだから、その資格は十分に有ると思う。 でね、これは俺からのアドバイス」
「ん?」
そう云って、一枚の羊皮紙を手渡してくれたの。 チラリと中身を読んでみると、その場所が本当に一人きりに成れる時間帯を書き記して呉れて居たのよ。 ほう…… なかなかにやるね、ルカ。
「エルは、目立たない様にしたいって云っただろ? なら、他に人が居ない時が良いんじゃないかなって」
「有難う! そうね、ちょっとした術式を組みたいから、誰も見て無い方が良いわね」
「ちょっとした? …………あぁ、あれかぁ」
ルカの瞳に好奇の光が宿るの。 何を思い出したの? ルカが私が紡ぎ出す魔法術式について、何か知っているの? えっと……
「ほら、俺たち孤児が成人して孤児院を出る時に、祝福を与えてくれただろ」
「えっ?」
「孤児院の『成人の儀』でさッ。 アノ時の『託宣』は、まだ心の中に刻まれているよ」
「あ、あれは…… ジョルジュ=カーマン導師の奇跡よ?」
「ん? まぁ、そう云われているね。 けどねぇ……」
何かしら、有るのかしら? ルカの表情が、とても歪んだ笑みを刻んでいたのよ。 でも、詳しくは聞かなかった。 だって、あの人も又、『記憶の泡沫』によると、私を断罪した一人なのよ。 だから、極力近寄りたくないもの。
これから始まる、学習院での日々について、ルカと御話出来たのはとても良い事。
私が、私なりにどうやって行くかを、『道を定める』指針と成ったのよ。
だから…… とても、感謝しているの。
……ルカ、 有難うね。