一カ月と一日目
朝のお勤めを終えて、朝ごはんの支度の為に、厨房に向かう。 目をこすり、眠そうな同僚たちの後に続くのよ。 堂女服も、着慣れたら過ごしやすい。 色々と動き回らなければならない今の私には、動きやすい服というモノは、なによりも重宝するの。
竈の前に立ち、指先に小さな火を灯し、竈に火を入れる。 それが、朝ご飯の準備の合図となったのよ。 皆で朝ごはんの用意をするのは楽しい。 色んな事を聞けたり、お話したり。 いままで、はしたないと云って、決して許されてこなかったことが、此処では日常なの。
思いっきり楽しんでいたわ。 ええ、とても。 朝ごはんの後は、修道女様方の御部屋の掃除とお洗濯。 ここでも、私の使う魔法は有用なモノだと認識されて行ったのよ。 だって、重労働なのよ? お掃除も、お洗濯も。
みな気がいい人…… だったらいいのだけど、そうでも無いのが、今の女子修道院。 仲間の堂女の皆は、徐々に打ち解けていったのだけど、修道女の皆様方…… 特に、貴族の家から『お願い』されてこられている人達は、まるで私たちを下女かなんかの様に扱うのよ。
皆で憤慨する事もしばしば…… でもね、ある日、仲間の堂女の一人が気が付いちゃったのよ……
「ねぇ、エル」
「はい、なんですか?」
「あんた…… たしか、男爵家の娘…… だったよね?」
「えっと…… まぁ、そうですけど…… 今は違うと思いますよ?」
「どう云う事?」
「えっと…… 私、お父様である男爵様とは面識が無いんです」
「ん? どう云う事?」
「取り替え子って、知ってますか?」
「えっと、妖精様が…… 悪人を懲らしめる為に、その人の最愛を誰かと交換する……って奴?」
「ええ、その認識で間違いは有りません。 わたし、取り替えられていたらしいんです」
「えっ?」
「孤児院の院長様から渡された数多の書類が有りましたの。 其処には、沢山の事実が記載されておりました。 男爵様は、取り替えられていた子をとても愛していて、その子を条件付きの『継嗣』として、その旨を貴族院議会に提出しちゃってたらしいんですよ。 男爵家の『家名』の相続はもとより、『財産権』なんかも、その子を名指しで指名してて…… いくら取り替え子とは言っても、面識も無く、認知もされて居ない私は、男爵家の娘と云うにはいささか無理がありまして…… 書類を精読致しましたが、その何処にも私の事は書かれていないのですよ。 だから私は、どこの誰だか判らない孤児なんですよ」
「……え、えっと…… も、もしかしてその男爵令嬢って…… 二カ月くらい前に鳴り物入りで修道院に来た、あの男爵家のお嬢様の事? その子って、名前……って……」
「現在は、ヒルデガルド=シャイネン=リッチェル侯爵令嬢。 取り換えが発覚する前は、ヒルデガルド=メイリン=グランバルト男爵令嬢…… でしたかしら?」
「り、リッチェル侯爵令嬢って!! じゃぁッ! じゃぁさぁ、あんた…… ま、前は…… リッチェル侯爵の御令嬢…… エルデ様って事?」
「そう呼ばれて居ました。 今は孤児の堂女の『エル』ですよ」
「うっ…… うううっ……」
なんか、胸を押さえて蹲ってしまわれた。 具合悪いの? 医務神官様にお願いしようか?
「どうしました?」
「なんか…… 胸が悪くなってきた。 そっか…… なんか、えらい人達が、あんたにすごく気に掛けているのが…… なんとなくだけど…… 判ってた」
「いらないですよ、そんな気遣い。 だって、今の私は見習い堂女でしょ?」
「そりゃ…… そうなんだけどさぁ……」
「良いんですよ。 私、今、とっても楽しいんです。 ええ、とっても。 同胞の皆さんと一緒にお勤め出来るのが、何よりも楽しいのですよ。 神の御前に、同じ同胞なんですもの。 貴族のアレコレなんて、もうまっぴらなんです」
「で、でもさ、良い暮らしが、出来ないじゃん、此処じゃ」
「心の豊かさや、打算の無い会話や、真っ直ぐな人達とお友達になれる事がどれ程素晴らしいか…… 私は、此処が良いのです」
まぁ、ね。 人って欲深いモノだから、他人より良い暮らしをしたがるものなんだけどね。 でもさ、心の豊かさや優しさなんかは、いくらお金を積んだって、買えるモノじゃ無いんだしね。 それに、貴族的思考をずっと続けていると、ほんと人が悪くなるのよ。
綺麗な服を着て、宝飾品で身を飾り、裕福な生活をして、多くの使用人に傅かれて…… そんな恵まれた環境で、口から漏れる言葉が他者を貶めたり蔑んだりする事なのよね。 なんか、ほんと、心が貧しくなりそうで…… 人にもよるんだけど、他者に弱みを見せれば負けな貴族社会って、ほんとに気が休まる暇も無いのよ。
心が平安に満たされるのが、唯一寝てるときくらいとか…… 嫌に成っちゃうわよね。
まぁ、統治者として、支配下にある人達を導いて行くためには、それこそ、悪鬼羅刹が裸足で逃げ出すような悪辣無残な判断を下さなきゃならないんだしね…… 上に立つ人の苦労は、計り知れないわ。 私もその一員だったんだけど、いざ離脱してみればあら不思議……
わずらわしさばかりで、なにも良い事が無かったって感じるのよ。
たぶん…… それは…… 世界の意思の意地悪が原因。 そして、その世界の意思が、もう私はいらないって云うのなら、喜んで貴族社会から退場するわ。 幸い、こうやって、女子修道院に入れたんだもの。 もう、何処にも行きたくないものね。
「それで、いいのかい?」
「ええ、それが良いのです」
ニッコリ笑って、同胞と歩みを進める。 元貴族だから、魔法が使えるって多少の出来る事は多いけど、まぁ、無難に祈りの生活を護っていきたいわね。