第一日目 前提条件
小さな革の鞄に僅かな身の回りモノを詰め込んだ私は、孤児院の扉を叩いた。
そして、私は…… 『施す者』から『施される者』になったの。
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領都の中では相当に大きな建物なのよね、教会の建物は。 だって、大司教様が御説法される大聖堂の他に、孤児院、貧窮院も併設されていて、さらには修道院も有るのだから。
私が向かうのは孤児院。 でも、将来を考えれば、どうにかして修道院に潜り込む事が必要になるの。 私はまだ十一歳。 これからの事は、孤児院の中で決められるのよ。 でも、孤児院出身と云う事で、実社会に出た後、何かと制約を受けるのは目に見えているわ。
その上、私は侯爵家で薫陶を受けた身。 下手をすれば、格安の家庭教師にされてしまう可能性も有る。 そうなったら、行きつく先は、雇われた家の誰かに無理やり…… とか、他の方々の思惑で、どう転ぶか、判ったものじゃないわ。 まだまだ女性が一人で『生きて行く』には、難しいのが現実なの。
――― ならば、どうするか。
狙い目は、修道院の修道女。 この国の教会は割と緩い所があって、一旦修道院に入っても、素敵な殿方と出逢う可能性も有るの。 特にこの領都教会の修道院ではね。 それは、既に調べてある。 特に注視して、探ったわけでは無いのだけれど、薫陶の一環のお茶会に於いて、御婦人たちの話題に上るのよ。
どこそこの、誰それが、女子修道院に一時入っていた御令嬢の付き添いの修道女を気に入り、御邸に迎えたとか、第二夫人に迎えたとか…… 慎ましやかで、清廉な姿に 『 べた惚れ 』 だとか…… 愛を捧げ、日々、大切に扱っている だとか……
リッチェル侯爵家の中で、『家族愛』を感じられない毎日を送っていた私。 義務と柵は、私を強く縛り、リッチェル侯爵家の体面を保つ為に、努力に努力を重ねて居た私。 そんな私が、心から望んでいた事。 それは、『 愛する人に愛されたい 』だったわ。
そう願う私としては、ギリギリの精神状態で参加していた『お茶会』で仄聞する『噂話』に、浅ましくも、強い憧れを持ってしまうの。 羨ましく、そして、出来る事ならば、その立場に立ちたいと、そう願ってしまう程にね。
―――― そして、その機会が巡って来たと、感じているの。
領都教会の修道院。 何処の街の修道院と同じく、領都の修道院も男性、女性の区別が有るの。 修道士が暮らす場所と、修道女が暮らす場所は完全に隔離されていてね、それぞれに神に敬虔な祈りを捧げているわ。 修道女が暮らす場所は男子禁制。 でも他の街の女子修道院とは違い、貴族の方々が、『其処』に訪れられる事が有るの。
理由は至って簡単。 領都教会の修道院には…… 特に女子修道院には、『別の顔』も有るのよ。 ほら、良く聞くでしょ? 素行の悪い貴族の娘が修道院に放り込まれたって『お話』。 実際に有るのよ、此処に……
何故、そんな人を受け入れるのかは…… 必要だから。 勿論、教会の『懐の都合』も有るのだけれど。 実際、此処に放り込まれる様な事を『仕出かした』貴族娘の親族は、外聞を恥じ、娘を貴族の社交の場から隔離する為に利用するの。 そして、 ” 心を入れ替え真摯に神に祈りを捧げる、『清廉な女性』と成った ”と、そう云う風な体裁を取りたがるのよ。
そして、優秀な領都教会の女子修道院は、『その体裁』を、収監された女子に、 ” ちゃんと取らせる事 ” が出来た結果、更に多くの問題児を抱える事になったの。 でも、其処にはやはり 『 対価 』 は必要なわけね。 俗に云う『市場原理』なわけ。 問題児の親族は、貴族の体面を護る為に、金穀を相当に積むと聞くわ。
――― 領都教会、女子修道院の 『 闇の部分 』 でもあるの。
でも、必要とする人は居るのよ。 もし、此処が受け入れなければ、人が営む社会の中で一番古い『職業』に就く事になる。 ……ええ、二度と日の目を見ない、女性の尊厳を全て失う場所へと落とされてしまうのよ。
貴族の者からすると、それは不名誉どころの話じゃ無いわ。 本人だけでは無く、その女性を育てた『家』及び『家門』の係累、連枝なども、他の者から白い目で見られてしまうのよ。 ひたすら隠しても、社交界には妙に鼻の利くご婦人たちがわんさか居られるのよ? 隠し通せる訳は無いもの。
だから、公にしても問題の無い方法を採るの。 一時、神に仕える事で、その身に ” こびり付いた悪評 ”を、自ら雪ぎ、『改心』したと云う状況を作り上げ、なんとか『家名に対する不名誉』を回避し、その家が貴族社会に、残り続ける事が出来るのよ。 勿論、本人には『本当に善き縁談』など、来ないけれどもね。
私にとっては、修道院の修道女になれれば、少なくとも悲惨な末路に落ちる事は無くなる。 そして、そんな修道院にやって来た ” 問題児 ” と、仲良くなれれば、市井の方とも交流が生まれるのよ。 そして、素敵な殿方との出逢う可能性も有るというもの。
女性の社会的地位の低さを考えると、より選択肢が多いのが、女子修道院と云う事。
とまぁ、色々と考え抜いた後、領都教会の聖堂の前に立ったの。 まず行くのは、『 孤児院 』。 私は取り替え子だから、私と替えられていた子の場所に、私が行くの。 そう、それだけの事よ。
突然、放り出され、行く当ての無い状況よりは、幾万倍もマシよ。
幸運な事に、孤児院の院長様である、老齢の修道女様は、私が『見知った顔』であったからか、それとも、私の過酷な状況に心を痛めて下さったからか、それは判らなけれど、にこやかに受け入れて下さった。
全く面識も無いよりは、遥かにマシな状況という訳ね。 慰問に領都教会を訪れた時、併設の孤児院もその慰問先となっていてね、私に色々な事を教えて下さったのも…… この方。
マーサの教えを受けて、このままじゃいけない。 何か自分に出来る事が無いかと、色々と試した事が功を奏したという訳。
これも、『妖精様』の御加護なのかもしれない。 妖精様に忘れられた『ヴェクセルバルグ』の対価としては、甚だ僅少ではあるけれど。
院長室に通され、対面に座りお話を始めたわ。 これから、孤児院で御厄介に成りたいと。 もう、私が居る場所は此処しかないと。 そうお伝えしたのよ。 ヴェクセルバルクの相手が ” この孤児院 ” に、暮らしていたから…… と、理由でね。
深く何かを考えられていた院長様。 思慮深い光を瞳に乗せ、私に言葉を与えて下さったの。
「エルデ様。 事情は、理解しております。 今まで、エルデ様には、色々と御心を砕いて、この孤児院や貧窮院を支援して頂きました。 また、制度を整える為に、街の者達からの『喜捨』を商工ギルド経由で、此方に流して下さるように提言もして頂きました。 他領の街の聖堂と比べ、アルタマイトの聖堂は本当に恵まれております。 偏にエルデ様の行動が、『皆達』を動かしていた…… からだと、そう思います」
「院長様。 過分なお言葉を頂き、誠に嬉しく思います。 しかし、わたくしは既に侯爵家の娘では御座いませんし、エルデの名も…… 名乗る事は出来かねるのです。 エルデの名はこの領では、余りにも知られ過ぎておりますから。 神名を偽る事には成りますが、これからは、エルとお呼び頂ければ幸いに存じます」
「……庶民となられる覚悟が、お有りのようですね。 判りました、今後エルデ様では無く、エルとお呼びしましょう」
「ありがとう御座います。 院長様」
私の想いと状況を受けれて下さった院長様を見詰めつつ、私は『自身の願い』を叶える為に、習い覚えた貴族的手練手管を駆使しつつ……
――――― 交渉を開始した。