エルデ、仮初の名を受け、その時に備える。
その日は、思ったよりも早くに訪れ……
そして、容赦ない現実が、私を包み込んで行く。
別邸本棟の、フェルデン侯爵家の御令嬢の為に用意された部屋の中。 贅を尽くした調度類に囲まれた私。 身支度をする為に用意された、化粧机の鏡の前に座り、そっと口にする、新たな『名前』。
フェルデン侯爵によって、与えられた新たな『 名前 』。
役割を全うする為に必要な、最後の一欠片。 これから、私に対して別邸の皆さんが口にする……
私の呼称。 それが……
侯爵令嬢として、私に授けられた、二節名。
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この国では、庶民もまた『 家名 』を持つ。 大それたモノでは無く、連綿と続く家が王国に根付いた証として、王国に戸籍が有る者は、『 家名 』を持つ。 其処には、庶民の生活が息づいた、家名があった。 家業がパン屋ならば、〈ブレッドリー〉、鍛冶屋ならば〈スミッソン〉などが、良く知られる家名となる。
それに比し、『名前』は、神聖な物。
名前の第一節名は、生まれた時に神殿に於いて、神様から授けられる。 高貴なる御家の ” 家族 ” が付ける名が、『二節名』に成る。
庶民はこんな面倒な事はしない。 『神名』が、そのまま自分の名前に成る。 でも、そのままを口にするのは、神聖な名をむやみに告げる事となり、『障り』が有る。 故に庶民は、『愛称』を神名にちなんで付け、それが呼び名に成る。
故に、庶民には二節名が付けられる事は無い。
養子や『養育子』の様に、自分の所属する『御家』が変わる時、自分が何処に所属する者かを規定する。 いいえ、せねば成らない。 そう云った場合、神様が近い ”この世界 ”では、当たり前の事だけど、『神名』を除き、『二節名』から以降は、新たな家長が決定し、『名前』が大きく変わる。
これで、私は三回目ね。 生れ落ち、妖精様により、取り換えられた時は、
リッチェル侯爵家が第一女。 ” エルデ=ニルール=リッチェル ”。
その時の『二節名』である 『 ニルール 』 は、リッチェルの古い継承名。 そして、リッチェル侯爵家の『止め名』でもある。 主に男性に付けられる名なのだけれども、それを敢えて名付けられた。 この二節名を持つ方が、リッチェルの家名に大きな傷を付けられたために、『止め名』と成っていたの。
女児を切望していたリッチェル卿が、私の容姿を視て落胆され、夫人の不貞まで疑われた結果、リッチェルの止め名である、『ニルール』を付けたって事。
リッチェル侯爵家では、誰も…… 私の家族が付けた名を呼ばない。 呼びたくもないから、敢えてその名を付けた…… と、云う事ね。 悪意は、加速するのよ。 血統の正当性を証する、三節名は最後まで付けて貰えなかった。
でも、それでいいの。 だって、私はリッチェルの子では、無かったんだもの。 そして、あの日…… 私は、二節名と家名を失う。 存在自体をかき消されたかの様、もう、誰も私がリッチェルの娘であった事を忘れてしまった………… 筈ね。
神名を、常用する事は出来ない。 だから…… 自分で決めた。
『 堂女 エル 』…………と。
『単節名』は、神様から頂いた名のみを自身とする。 この王国の国民は民草も血統を示す家族名を持つ為、普通は二節となる。 『単節名』を名乗る者は、この国の民では無いと云う事。 つまりは遊民。 王国では、身分的に最下層に位置する、根の無い浮草。 『自分が自身の所有権を持たぬ者達』と同じ。 でも……
私は望んで、単節名に成ったの。
もう、何にも縛られる事が無いように。 神様の従僕である事だけを望んで。 でも…… 『世界の意思』の奔流は、私に新たな名を授けると云うの。 私に、私しか出来ない 『 役割 』を、与えると云うのよ。 それは、王侯貴族と、聖堂教会の溝を埋める事。 為すべき役割は、王国…… いいえ、この世界の生きる者達の、安寧の為を繋ぎとめる事。
神様は、担える者にしか、『 役割 』を与えない。 つまり、神様の御意思。 神様の従僕、その御手先たる私は、与えられた『 役割 』を全うし、神様の御威光を広く知らしめねば成らない。 それが、神職に有る者の責務なのだから。
『役割』を果たす為に、神様は授けられたのよ。 宰相家である 『フェルデン侯爵家』の 『 養育子 』としての『 名 』を。
一節名は 神名。 これは変わりない。
依って、『エルデ』。
二節名は、フェルデン侯爵家当主により決められる。 決定に時間が掛かったのは、様々な名前が候補に挙がり、消えていったから。 そして、フェルデン卿により決定された。
その名が、『エルディ』。
まさかの三節名。 フェルデンが正当なる血統保持者として、示す事となる名。 御家の血統の正当性を示す為の名。
その名が、『ファス』。
最後が栄光に包まれた名家の家名。
『フェルデン』。
これより後は、『 養育子 』 として、考え、動き、何かを成す場合は、『 家 名 』を、決して傷付ける事は許されぬ ” 高貴な家名 ” を、名乗る事に成るの。
続けると……
――― エルデ=エルディ=ファス=フェルデン ―――
通常の呼称に使用される『二節名』は、熟考の上、選考され決定された。 ミリリア様の血統の正当性を証する為に付けられた、『ディ』を、私の神名に付けたモノ。 つまりは、二重にフェルデンが血統だと云っているのも同じ。
この与えられし『 名前 』は……
酷く重く、心に圧し掛かり……
…………溜息しか出なかった。
でも、これは、あくまで『 借名 』。
私は、実際には『 神籍 』からの離脱は行われていない。 『貴族籍』無き、『 養育子 』 として、与えられた名前。 成人を以て『この名』はフェルデン侯爵家へ返納する。 そして、王国にはエルデ=エルディ=ファス=フェルデンと云う人物は存在を消す。
『仮初の私』として、『貴族の面子』を立てるだけの為に、与えられた
『 名 』。
なぜか、酷く不快に感じてしまう。 『名』を酷く軽く扱っている…… 神聖な名に対する冒涜すら感じてしまう。 だからこその不快感。 神職で有るからこその、不快感でもある。
その『名』で、縛る事で、私の行動を掣肘し、神様の御意思の遂行に障害となるかもしれない。 それが、貴族の方々の思惑かもしれない。
……でも……
これは、私の『 役割 』でもある。 だから、敢えて受け入れようと思う。 そして、何故だか、私の心の中に、じっとりした不快なモノが迫りあがる。 まるで、何かに追われるように。 何かが私を塗り替えようとしているように。 虎視眈々と機会を待つ魔獣が如く…… 鏡の中から、鏡の前に座る私を、ジッと見据えていた。
――――― § ―――――
今、私は、第三位修道女エルでは無く、フェルデン侯爵家の『 養育子 』 ” エルディ ”となり、別邸本棟に滞在している。 貴族学習院に於ける『 見極め 』予定が立てられ、それが実際に動き出した。
一週間で…… そう、『 見極め 』を、一週間で全てを終えられる様に努力した。
その間、フェルデン侯爵家の小聖堂は一時閉鎖。 護衛の聖堂騎士様方は、聖堂教会にお戻りに成られている。 裏門も決して開けられる事は無い。 関係各所にも通達は飛んでいる。 小聖堂にも、【重結界】の術式を展開した。 私以外、その結界術式を解除する事が出来ない様に…… しっかりとね。
『 神聖聖女 』 の権能を行使したわ。
この【重結界】を結んだ小聖堂に、押して侵入してこれる者は、たぶん…… 教皇猊下か…… 王宮魔術院 筆頭魔術師くらい。 強度の点に於いては、王宮の宝物庫を凌いでいると、自信を持って言い切れる。 だって、私は前世に於いて、王宮宝物庫の重結界を視ているから、そう言い切れるのよ。
一週間だけの予定で、居場所を別邸 ”本棟 ”に移した。
そう、一週間だけ自身を韜晦するの。 最初の三日ほどは、そこで集中的に ”磨かれて ” いたの。 身綺麗にはしているつもりだったけど、それでも沐浴程度じゃぁ、落ちない汚れもあった。
高位の貴族令嬢に対し行われる 『 美容術 』の限りを施されると、くすんで、煤けて ”見えた” 私ですら、輝く肌を得る事が出来る。
肩口で切りそろえられた髪は、美しく纏め上げられ、しっとりとした肌に化粧が乗せられる。 大変美味しい食事は、第三位修道女的には、【お祭りの祝餐】が、毎食出ると感じられるほど。 身体が沈み込む柔らかな寝台、格調高い調度、什器の数々…… 誠、フェルデン侯爵家は家格が違う。
そんな、私的には豪華…… としか言いようのない環境を与えられたにもかかわらず、バン=フォーデン執事長様等は、
” 質素な御部屋で申し訳ございません。 お好みが御座いましたら、如何様にも ”
などと、仰るの。 そりゃ、前世で暮していた場所と比べてたら華やかさは足りないかもしれないけれど、こんなに素敵な環境を卑下する必要はこれっぽっちも無いと思うの。 必要十分な上、色々と配慮されて、私を精一杯慮る気配が、随所に現れているのだもの。
不満なんて…… ある…… 筈も…… 小さく心が疼くの……
何故かしら? その小さな小さな『心の中の声』に耳を傾けると……
”もっと、もっとよッ! もっと素敵なモノを、寄越しなさいッ! 何もかも足りないッ!”
と、囁くような絶叫を叫んでいた…… 震えたの。 余りにも悍ましくて。 前世の傍若無人で驕慢で傲慢な私…… 愚かな私が…… 影の中に潜んでいたの。
必死に【聖句】を口にして、それを押さえつける。 私の中に居る、且つての私の残滓達。 もう、二度と破滅への道を辿りたくは無いの。
だから、お願い。 出てこないでッ!!
―――― ――――
別邸本棟に滞在してから五日間。 私は、身体を磨かれる以外の時間を、別邸の図書室で、晩餐室で、舞踏練習室で、【思い出した事柄】についての、確認作業に没頭したわ。 記憶違いが有るかも知れない。 マナーは、記憶と一致させなくては成らない。 ダンスのステップ迄、一人きりで、おさらいしていたの。
ほぼ、大丈夫だと思うの。 生まれ直した回数分だけ、記憶が有るのだもの。 それも、十七~十九歳の頃までの。 積み重ねは、大切な『 宝 物』だと思い知らされたわ。 何度も、何度も、魂に刻み込まれたかのような『知識』と『知恵』は、消えようも無かったから。
その上、今世。 私は教会の薬師処で研鑽を積んでいるの。 身体だって、過去のどの世界よりも頑強に成っている。 均衡のとれた栄養を摂取し、教会の『お勤め』に邁進し、魔法を使い続け、文献を読み、諸々の問題を抱えた民草の悩みを聞き、一緒に解決策を探し…… 魂を磨き続けてきたのだもの。
「エルディ御嬢様。 御仕度の準備が出来ております」
「はい。 良しなに、ミランダ」
「此方に」
準備の為に家政婦長が、私に付いた。
いよいよ始まるの。 私の孤独な戦いが……
貴族学習院で『 見極め 』と云う、
私が『世界の意思』の奔流へ 抗 う 、最初一歩目の……
……当日の『 早朝 』となった。