エルデ、『世界の意思』の奔流に怯まず。
カチリと、茶器に音が鳴る。 手にしていたカップが、カップソーサに触れた音。 不作法をしてしまった。 心の動揺が抑えきれない為に生じた隙……
流石はエステファン子爵様。 そんな些細な私の変化にも気が付き、目聡く声を掛けられるの。
「なにか?」
「いえ、その様なお話も頂いた様に記憶しております。 ……わたくしの『身分の規定』も行われていない、と云う事でしたが、そのようなわたくしが、王立貴族学習院への編入など、出来ましょうか?」
「はい…… それが、他家より御主人様に強い要望が出されておりまして…… 今回の事で、多数のリッチェル侯爵の連枝たる者達が、貴族院に掛け合われたご様子。 御主人様にも、強く進言が成されたと…… 御主人様は、フェルデンが家の『お嬢様』と云う事で、その身分を規定されようとなさっておりますが、貴族院紋章局が、強く難色を示して居られまして……」
やっぱり…… そうか。 リッチェル侯爵家は、絶対に表ざたにしたくない事柄が有るものね。 なにせ、私の出自が明かされると、『貴族家の恥』となる醜聞が、表沙汰になってしまうのだもの。 でも、愛するヒルデガルド嬢に成された非道は『 許し難く 』、その罰を求める心情も手に取る様に判る。
そう云う方でしたものね、リッチェル卿は。 そこで使ったのが、御連枝の暴走。 自分達と同じ場所に立つ事によって、高位貴族家の令嬢に成した高慢な振る舞いを後悔させるのだと、そう意気込んでおられるのよ。 主家の御令嬢が蔑まれたのだもの、連枝の者達が黙ってはいないわ。
面倒な手続きは、フェルデン卿に丸投げ。 抑える所は抑えているので、あの事柄は、表沙汰に成らない。
――― リッチェル卿の考えそうな事ね。
相手が教会と云う事で、対象が漠然としていたけれど、そこに差し出されたのが私。 だから、標的を見定めたって感じなのかしら。 先が思いやられるわ。
「そうでしょうね。 ……わたくしは、グランバルト男爵様と面識すら無い 『 娘 』ですし、そもそも、グランバルト男爵様から認知すらされて居ない 『 庶子 』 ですから、貴族籍取得要件は揃っておりません。 制度的に、わたくしを貴族にするには、そもそも無理が有るのです。 フェルデン侯爵様とバン=フォーデン執事長が、その辺りをいくら探り、横車を押されようと、流石に無理でしょう」
「……お嬢様、それで宜しいので?」
「すべては神様の御心のままに。 ……でも、フェルデン侯爵様と、侯爵家にとっては、それでは宜しくは無いでしょう。 アルタマイト神殿の証により、わたくしは庶子とは言え、れっきとしたグランバルト男爵様に連なる者と、そう証せられております。 貴族籍が取得できないのは、偏に亡きグランバルト男爵様が認識されていたお嬢様が、私では無かったと云う事に尽きます。 様々な請願書、任命書、命令書、そして 『 勅 』 が、複雑に絡み合い、男爵様が『 愛娘 』 とされた人以外、何人も男爵家を継承出来ない様に、お決めに成られましたからね」
「はい…… お嬢様が此方にいらしてから、バン=フォーデン執事長が詳細にお調べに成られました。 お嬢さまが、男爵家の御継嗣に成られるのは難しいと、伺っておりますわ」
「そして、その事実は、決して表立って公表される事は無い…… とも?」
「ええ…… ええ…… そうなのです!」
私が『グランバルト家の男爵位』の継承権を持たないと云う事実は、『秘中の秘』とされている事柄。 グランバルト男爵様が様々な知恵と策謀の限りを尽くし、韜晦し、隠し、ヒルデガルド嬢にのみ全てを継承すると云う宣言。
これが公に成れば、リッチェル侯爵家の『 貴族の恥 』 が、公になってしまうもの。 その辺りは、用心に用心を重ねたリッチェル卿が、凄まじい緘口令を貴族院紋章局辺りに掛けているのでしょうね。
溜息と共に、私は言葉を紡ぐ。
「貴族の面目とは、果てしも無く複雑で…… 誰からも祝福されない 女児 には、どうする事も出来ない事と相成りました。 ……そんな、わたくしに周囲からの強い要望とはいえ、フェルデン侯爵様が、本来立つ場所へ帰還せよと思召し。 しかし、法は法。 横紙破りを強硬されるとあらば、宰相の権を用い 『 専横 』 を、振るわれると、揶揄もされましょう」
「……御慧眼、誠に……」
「一つだけ、方策が御座いましてよ、エステファン子爵様」
「と、云われますと?」
「わたくしが、フェルデン侯爵家の小聖堂に赴任してきた経緯もご存知でしょうから、わたくしにも課された『 役割 』が有る事も、ご存知でありましょう。 亀裂が入り溝が出来てしまった、王侯貴族の方々と聖堂教会の関係性の修復の為の、『 繋ぎの手 』 ですわね。 『 神籍 』 の ” 放棄 ” は、断固としてお断りいたしました。 しかし、御役目までは、放棄しておりませんのよ」
「ええ、承っております。 既に、様々な取り決めが有ると…… そう、ご主人様からも」
「そうなのです。侯爵様の御指示に従い、この身の在り方を ” 韜晦 ” する事も辞さない。 そうする事により、『問題』を解決に導き、王国の民により多くの慈愛と慈善が、広がる事が期待されております。 この小さな 『 嘘 』 も、神様は、お許しに成ると、そう愚考しております。 この事は、教皇猊下もお含みおき下さっております。 また、リックデシオン司祭様もお認めに成っておられます。 韜晦を為す事により、多くの者が救われるのならば…… と」
真摯で一心な祈りを旨とし、虚言を排する聖職者なんだけどね、私。 でも、問題の根は深いの。 個人の意向より、大多数の倖せが優先されるのは、仕方の無い事。 それに…… これを成して、私が死ぬ事は無いわ。
私と同じ立場に成ったら、喜んで貴族家に染まる方もいらっしゃるでしょうね。 それ程、庶民にとっては、貴族家のお嬢様生活は、憧れのモノなんだものね。
私は、必要無いけれど…… だけど、困惑している諸卿に思い出させてあげる。
――― 成立年代はとっても古い条文なんだけど、
今も王国に生きている 『 法 』 をね。
「な、成程、それで、エルお嬢様の御身分は……」
「王国貴族法 大綱、第十八条。 爵位法 第百ニ十八条、四項。 王国民法 第七十二条、一項。 貴族との血縁関係が証明された場合に適用される、
” 成人前児童の後見人制度 ”
に、御座いますわ。 王国で且つて制定された、古き『法』に御座います。 事、私的な事情で蒼き血の惑乱の結果産み落とされた者達に対する、救済処置…… と云うよりも、無体を成した、貴族の方の罪悪感の糊塗が主な目的と思われる、『 法 』 が、御座います。 ……それを適用できるかと?」
「つまり……」
「わたくしの籍は、『神籍』のまま。 ”フェルデン侯爵家 ”の血統を、この身に持つ私を、フェルデン侯爵家で保護、成人年齢に達するまで養育。 爵位、財産、権能の継承権はこれを認めず、『 養育子 』 として、フェルデンの名を名乗る事を許される存在。 でしょうか? 神名はその子が持つ、固有で神聖な『 名 』。 よって、『 養育子 』には、養育を決めた御当主様より、 『二節名』 を頂き、正式な場に於いても、その名を呼称する事と成りましょう」
「り…… 理解いたしました。 よもや『法典』にまで、深い理解をされておられるとは、思ってもみませんでした。 この事は、御当主様、執事長へ『お話』申し上げましょう。 身分的軋轢や、混乱がこれで収まる…… 善き事なのでしょう。 あぁ、忘れる所でした。 内々に執事長より、お嬢様に 『 お話 』 が有るのでした。 御当主様より特別な依頼があったらしいのです。 お時間は御座いましょうか」
「……行かねばなりませんね。 エステファン子爵様」
「どうか、ミランダと…… お嬢様」
「……それは、私が『 養育子 』として、決まった後ではいけませんか? エステファン子爵様を使用人扱いにする権限など、わたくしは保持しておりませんので。 今は未だ、アルタマイト神殿の一介の第三位修道女 ”エル ” ですから」
「……い、委細、承りました。 お嬢様…… 貴女は…… 本当に…… あの方に御性格まで……」
「?」
とても、懐かしいモノを見る様に、エステファン子爵様は私を見詰める。 相貌に浮かぶ涙が、何故かとても優しく温かいモノであると云う事は、深く私の胸に刻まれたの。
『 表 』 と 『 裏 』 の約束を上手くつなげる為の方便。
この提案が、『 吉 』 と出るか、 『 凶 』 と出るかは…… 今は判らない。 立て続けに起こった、『世界の意思』の奔流は、私を押し流そうとしている。
その奔流は、且つてそうであった、流れの残滓。
だから……
だからこそ、私は抗うの。 『世界の意思』が、想定して居る、驕慢で我儘で、何処までも自己中心的な、貴族の振る舞いを知ってなお、狂乱したかのように振舞う……
………… 一心に自分への愛を乞う 『 道化にして愚者。 』に。
だから、もう、『 愛 』 を、乞わないの。 それは、妄執と何ら変わりは無いから。
『 愛 』とは、求めるは許さるけれど、乞う事は許されない……
――― だって。
怯まず、前を向いて歩いて行くしか、
悲惨な末路から、逃れる道は無いのだから。