エルデ、貴族令嬢の知識と知恵を使い、枷から逃れる決意をする。
整えられた、応接室。 高貴な人々を迎える為に設えられた、格調高い調度品。 特別な空間。 特別な空気感。 その中を、誰に案内を乞う事もせず、誰の制止も受けることも無い、そんな人物が足音軽く入室してきたの。
紛れもない、高圧的な雰囲気を纏い、怜悧で冷たい視線を私に注ぎつつ、誰にも誰何される事無く応接の席に腰を下ろす。
私は、その様子を感じつつ、その方の入室をもって立ち上がり、聖杖を片手に深く膝を折り頭を垂れる。 下級神官職に有る者が、上級職の方々に差し出す、正規の『神官』の礼法を以てね。
そんな私に、とても不穏気な視線を投げてこられている。 頭を垂れた私には、完全には見えないけれど、纏われる雰囲気が、それを物語っても居る。 側で控えられていた、バン=フォーデン執事長様が、若干の不安と焦りを滲ませた表情を浮かべられている。
私の差し出した礼法は、まぁ、宰相閣下と云う高位貴族の方と庶民格しか保持していない第三位修道女が会い、会話をせねば成らないならば、そう云う風な仕儀となるのは仕方の無い事なのだけれど、どうも宰相閣下はそれがお気に召さないよう。
ようやっと、なにか不審な事でもあったのか、極めて不遜に、そして、機嫌悪げな声を以て言葉を紡がれる、その貴人。
「よく来たな、グランバルト男爵令嬢。 すでに教会から伝えられ、知ってはいると思うが、私はフェルデン侯爵家が当主、ウィル=トルナド=デ=フェルデン。 見知りおけ」
「キンバレー王国、王国が太陽にして、英邁たる ゴッラード=ベルフィーニ=アントン=エバンシル=キンバレー 国王陛下が、第一の藩屏たる宰相閣下の足下に参じましたるは、聖堂教会 アルタマイト教会が薬師院に『神籍』を置く、第三位修道女 エル に御座います。 深慮遠謀たる宰相閣下のご尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じ奉ります。 フェルデン侯爵家の小聖堂に、『聖堂付き守り人』として、着任いたしました事をわたくし『エル』は、宰相閣下に御奏上申し上げます。 万事、神様と精霊様方の御導き。 何卒、宜しくお願い申し上げます」
私の口上に、さらに不機嫌さが増す宰相閣下。 私の着任の挨拶は、貴人に対しての『羽切文句』とも云っても良い。 そこに、身内に対する一切の感情は含まれない。 極めて、感情を廃した言葉に、宰相閣下は鼻白まれているの。
多分…… 宰相閣下は、私が男爵家相当の教育しか受けていない、貴族の娘としてこの屋敷にやってきて、叔父様との面会に喜びを隠そうともせず、下級貴族の甘やかされた娘の反応を期待していたのだろう。
グランバルト男爵様に溺愛されていた ”ヒルデガルド嬢 ” なら、きっとそうする。
そんな、高位貴族的には気さくに過ぎる行動を、最初に『厳しく』叱責し、『私の立ち位置』を教え込むために、このような厳しめの雰囲気を醸されていたのが良い証拠。
当事者である私が、『 望んでも居ない 』とは、思っていらっしゃらなかったご様子。 余りにも、私の態度が神官職の者として貫かれていた為、少々戸惑われているのよ。
でも、なにも話さない訳には行かないモノね。 手の仕草で、着席を促され、私はそれに従った。 聖杖は、膝の上。 静かに、真正面から宰相閣下を見詰め、御言葉を待つの。 そう、今後、この屋敷における、私の成すべき生活を、お伝えになる、御言葉ををね。 宰相閣下の口から漏れだす御声は…… ちょっと、怖い位の低い御声で…… 静かに始まったの。
「……それで、教会上層部から、『 話 』は伝わっている筈だな。 まず、君を我が栄えあるフェルデン侯爵家に『 娘 』として迎え入れる。 幸いにして、季節も丁度いい。 ……過去にアルタマイト神殿に問合せた。 報告書から君の学習能力がとても高い事を把握している。
時間は少ないが、君はこの夏一杯この別邸にて、フェルデン侯爵の令嬢として、淑女教育を受けて貰う。 目的は一つ。 王立貴族学習院へ、高等部より編入を決めてある。
――― 君をフェルデン家の侯爵令嬢と成す為だ。
フェルデンの娘に相応しい対応も、既に各家に申し入れもした。 美しいドレスも、豪奢な宝飾品も思うがままに用意しよう。 なにせ、アレの忘れ形見なのだからな。
……とはいえ、以前に会った時と比べ、随分と薄汚れている。 髪もそんなに退色し、黄金の波のような髪から茶褐色となり、清冽な蒼い瞳が緑に濁る程のモノだったか。 教会での倹しい暮らしは、相当に堪えたと見える。 侍女達に、お前の手入れをさせよう。 フェルデン侯爵家の娘として、恥ずかしくない様に。 我が姪として、そして、フェルデンが娘として 『貴族社会』にデヴュー出来るようにッ」
低い御声は、ドンドンと強くなるの。 御声に力が籠り、なんとしても成し遂げようと云う意思を感じるわ。 奈辺にその意思の源泉が有るのかは与り知らない。 でも…… この方は、私を貴族の…… フェルデン侯爵家の『娘』として、この家に迎え入れる事を、誰かに誓った……
―――― そう確信したわ。
ふむ……
思考が急速に回る。 宰相閣下が『 誰 』に誓いを立てられたか。 私は猊下の御部屋で…… ” 過去のフェルデン家に対する『 傷 』を、糊塗する為に、私を迎え入れた…… ” そう、考えていた。
でも、違った。 始まりはもっと前から……
『アルタマイト神殿に問合せた』と云うのは、アルタマイト神殿の神官長様が仰っていた、アノ話かぁ…… つまり、今回の事が無くとも、宰相閣下は、私を…… グランバルト男爵の愛しい娘を、いずれフェルデン侯爵家に迎え入れる意思があったと推察されたの。
そう云えば…… 孤児院の院長様が、グランバルト男爵様の教会への書簡の中に、愛娘が何処かの大身に保護され、貴族社会に復帰できる可能性を、行間に匂わせていたと、そう仰っていたわね。 つまり、宰相閣下が…… フェルデン侯爵家がその家だったと。 漠然とした、疑問が晴れて、全てが……
――― 繋がったわ。
そして、私は、今一度、フェルデン侯爵閣下が、此度の仕儀を行うに至った、心内を考えてみたの。
――――
『貴族の醜聞』は怖いモノ。 何かしらの事件や疑獄に巻き込まれたグランバルト男爵様は、全てを闇の中に押し込む為に、自裁の道を取らざるを得なかった。 被害を最小限に抑える為に成されたと云う事。
御自裁される前に、愛して止まない男爵夫人を離縁され、御実家に御戻しに成った。 離縁と云う貴族女性にとっては『 最悪な決断 』を以て、『 罪 』の累が、愛して止まない方に至らぬ様に…… 御決断の理由ね。
何処まで、男爵夫人…… いいえ、フェルデン侯爵家の末姫様が、全貌をご存知だったか、それも闇の中。 もう当事者に聞く事も出来ない。 何故なら、私の生母と云える人は、産後の経過も悪く、心痛と重圧に苦しみ抜かれ儚くなってしまわれた。
男爵夫人は、フェルデン侯爵家にお戻りに成られてから、社交界にお戻りに成られる事も無かった。 失意の生母様の受難はさらに続くの。
グランバルト男爵様が関わった事件を担当されていた、貴族検察一等法務官のベルデン=シュバイン=グートマン法衣上級伯への御輿入れが、書類上行われたのよ。
極めて貴族的な、両者にとって不都合を曖昧にする為の、『 政略結婚 』。 法衣上級伯側が婚姻に際し、受け取れたのは、” 法衣 ” と云う『 冠称 』からの脱却。 そうね、婚姻により、フェルデン侯爵家の一族の末端に加えられ、フェルデン領の一部に新たにグートマン領が設立されたのよ。
つまりは、法衣貴族から領地貴族へ。 王国貴族社会での階位の上昇と云う訳。 これで、グートマン法衣上級伯家は、グートマン上級伯家となり、王領、王都での貴族的権威は揺るぎなくなった。
それ程の ” 政略 ” なのよ。 グートマン卿も相当に御年を召した方だったらしい。 名法務官が人生の最後の時期に臨んで、手に入れたのは御家の栄誉。
対する、フェルデン侯爵家の『 利 』は…… 男爵家から離縁された、生母様の名誉を回復せんが為、成された 『 グートマン上級伯夫人 』 と云う、権威付け。 これで、グランバルト男爵様の嫌疑をうやむやに出来るし、名誉を傷つけられた『生母様』は、曲りなりにではあるけれど、その名誉を「 回復 」された。
これが、フェルデン侯爵家の 『 利 』 よ。
でも、生母様ご自身は、そうでは無かった。 深く、深く、愛していたグランバルト男爵様。 その間に出来たと信じているヒルデガルド嬢との別離。 心の傷は、決して癒される事は無く、未来を諦めてしまった、御生母様は、生きる気力を失われた。
実際にグートマン上級伯家の御邸に居を移される事は無かった。 フェルデン侯爵家から、御身をグートマン上級伯家に移される前に、 自裁成された男爵様の後を追うように、儚くなってしまわれたそうなのよ。
王都に来る前、各地の教会や、薬師処なんかで、『王国広報』やら『王都新聞』を綴ったモノやらで、その事を知っていたのよ、私は。 ちょっとでも王都の 『 今 』 を、知った方が動きやすいと思ってね。
御生母様の『哀しい人生』は、時の風化に晒されて、今ではもう覚えている方も少ない。 微かに伝えられる、彼女の人生は市井の間で、細々と語り継がれているだけ。 ルカが街の噂話として、私に教えてくれた、王都の雑感の一つ。
なぜ彼がこの話を私にしたのかは、判らない。 でも、知って良かったと思う。 神様に曲がりなりにも、顔も知らない ”両親の冥福 ”を、祈る切っ掛けに成ったんだもの。
”幸薄き両親に、精霊様のお導きあれ " とね。
繰り返された世界の実相。 『世界の理』を修復する為に成された結果が此れよ。 私だけでは無かった。 ” 贄 ” とされたのは、私を含めた……
『 グランバルト男爵家 』 だったのよ。
――― グランバルト男爵様の御決断は、全て…… 最愛の人達が倖せに成る為の方策。
……愛ゆえの『別離』
……愛あればこその『決断』
そして、その時、現宰相閣下は表立っては動けなかった。 宰相家、フェルデン侯爵家に降りかかる『 醜聞 』となる事柄を、闇の中に押し込めねばならなかった。 家族として愛していた妹姫を贄のように差し出す事によって、全てを『時』の風化の向こう側に。 その決断をしたのは、先の宰相閣下。
そして、兄妹の間で交わされる、密やかで厳粛な…… 『 約束 』。
” 誰しもの記憶から事件の記憶が遠く離れて、しかる後に…… ” とね。
宰相閣下は、直ぐにでも、アルタマイト神殿から私を『 還俗 』させたかった。 しかし、貴族の体面や、宰相と云う立場では、それは無理筋に等しい。 先の宰相閣下も許しはしない。 貴族社会の目も厳しい。 遂行されない 『 約束 』 に、悶々と時間だけが過ぎ去っていった。
時が経ち、何らかの 『 大義名分 』 と云う名の 『 行動の起点 』 が、必要だった為。 そして、今回、貴族社会と教会勢力の間の深刻な断絶が発生した。 なるほど、十分な 理 由 と、成ったのか。
フェルデン侯爵家として 『 利 』 は無い。 むしろ、拾うべきモノでは無かった。 それ程の貴族的軋轢を、フェルデン侯爵閣下はフェルデンの家中に持ち込む可能性があった。
それでも、フェルデン侯爵には、違えられぬ 『 約 束 』 が、有った。
………………そうか。
そう云う事か。 自身の『 誓い 』を、全うする為の方策。 亡き人との『 誓約 』を、護ろうとしたのね。
――― でもね、そんな事情は、私には 全 く 関 係 な い もの。
だって、私…… グランバルト男爵様 ご夫妻とは面識すら無いの。 ええ、親子と云う絆は、生れ落ちたその日に、『 世界の意思 』により、引き千切られていたって事。
スンと心が冷えた。
二十七回の生まれ直しの世界の中で、『世界の意思』により、大多数の者の倖せの為に、グランバルト男爵家だけは、倖せになれなかった。 その事が、胸の内に滓のように沈み積み重なる。 冷たく、重い、モノが…… 私の心の奥底に堆積して行ったの。
でも、少なくとも、産みの両親には、愛があった。 相互に深い愛情をもって、自身の子供だと信じて疑わないヒルデガルドに無限の慈しみを与えた。 まさに、愛に溢れた 『 グランバルト男爵家 』が、存在していた。
―――― その中に…… 私の 影 は、欠片すら…… 無い。
そんな私が、宰相閣下の『 予 定 』に、 『 諾 』 と、応える筈もなく。
居住まいを正し、口調がかつて習い覚えた、口調となる。 用心に用心を重ね、相手の隙をつき、心寒い心理の裏側の攻防。 私が、私であるために、私の尊厳と『神様との誓約』を全うする為に……
―――― 戦いを挑むのよ。
怯む事は許されない。 情に流されるは破滅への道。 ならば、行動に移さねば成らない。
まるで、リッチェル侯爵領、領都アルタマイトの御邸に庭で、辺境の御夫人達と戦い抜いた、アノ時のお茶会と同様に……
私は、全身全霊と貴族令嬢の交渉術の全てを賭けて……
私を縛り付けようとする鎖を、引き千切って見せましょう。
ええ、それが、私の 『 唯一の生きる道 』 なんですもの。