エルデ、二十七回 繰り返した世界の強制力に怯む事無く抗う(6)
幾日も経たぬ内、リックデシオン司祭様と教会派枢機卿の方々によって、フェルデン侯爵との暗黙の了解が締結されたわ。 でもね、余り楽観はできない状況なの。
あちらは、この密約は、単に『口約束』であり、教会の意思だと思われている様なの。 そして、私の本意は侯爵家の娘に成りたいと、そう思われているって、リックデシオン司祭様が危惧されていた。
フェルデン侯爵の考えでは、密約はあくまで、教会の立場を明確にするための方策だと思われているのよ。 聖堂教会の言い分としては、私はあくまでも『第三位修道女』であり、その身をフェルデン侯爵に委ねる。 と。
私を、宰相家に差し出す。 それは、教会が王侯貴族の怒りを躱す為に、しなくては成らない行動。 何故なら、リッチェル侯爵家ヒルデガルド嬢が受けた、非道に対して、聖堂教会が差し出した『 誠意 』。 どの様な境遇でも、文句は言わないと、そう確約したと、表向きは、そうなるのよ。
教会の意を汲んで、フェルデン侯爵…… いえ、宰相閣下が王宮と貴族達へ、根回しを行ない、そしてそれを認めさせた。 教会の薬師院、それも奥の院に居る特別な修道女を、宰相家に引き取ると云う形で、教会が民に施している、安価な薬剤を ”王侯貴族”が手にすると云う触れ込みでね。
リッチェル侯爵家も、それで矛を収めた。
リッチェル侯爵家を始め、この問題にかかわっていた多くの貴族の御家の方々は、以前の様に表だった盛大な慰問は行わなくなったけれど、それでも御領に於ける『喜捨』の停止や、その他諸々の幸薄き者達への救いの手は、なんとか継続される事になったの。
教会のお財布的に、一息付けたって事。
フェルデン侯爵様は、そんな私を無下に扱う事は無い。 血統的には、私はフェルデン侯爵様の姪に当たり、グランバルト男爵家に嫁いだフェルデン卿の妹姫様の忘れ形見。 依って、私の『神籍』は脱籍させ、フェルデン侯爵家の 令 嬢 として、迎え入れる…… と、触れ回っておられるの。
其処には、まさしく貴族的な意味で、過去の醜聞を覆い隠す為の方策が仕込まれていたわ。 悪事を成した高位貴族家の為に、自裁されたグランバルト男爵様の名誉回復。 フェルデン侯爵家の傷と成り得る、その事象に対しての、『過去の清算』。
生き残っている、グランバルト夫妻の『忘れ形見』を引き取り、自家の令嬢として遇する懐の深さを喧伝し、フェルデン侯爵家の傷と成り得る醜聞を、美談で糊塗する為の方策。 大人達…… 蒼き血の流れる、尊き人々の間では、それはその通りなのかもしれない。 『誠、天晴な宰相家よ』と、賛辞を受ける事、間違いなし。
でもね、それを既定の方針として、突き進まれている事に関しては、異議を申し立てるつもり。
――― だって、私にはその資格は無いんですものね。 認知されていない貴族の庶子には、貴族籍を与える事など、夢物語なんだもの。 それを、与えられる、両親は既に遠き時が意味を成さぬ場所に旅立たれているのだもの。 フェルデン侯爵様。 卿の目論見は、最初から破綻しているのですよ、王国貴族法的には。
神様との誓約を破る訳には行かないわ。 懸案は幾らでもあるの。 為さねば成らない事は山積。 決して一筋縄ではいかないわ。 『焦眉の急』とも云える事柄は、民草の『 命 』に直結しているのだもの。
私が聖堂教会薬師院から引き抜かれ、我が身をフェルデン侯爵家に置く事に成った事により、市井の方々や、探索者ギルド、冒険者ギルドへの安価な薬品類の供給は一時的に停止する事になってしまった。
だって、その為の設備の無い場所では、製薬は出来ないから。
フェルデン侯爵家の小聖堂には、『 祈祷所 』に毛が生えた程度の設えしか無いんだもの。 製薬を始めるには、薬師院の設備を…… 少なくとも、地方教会の薬師処の設備は必要なのよ。 その為の準備は、既に始まっている。 『 密約 』の中に、その事も含まれているんだものね。
私は『神籍』を脱籍する事は容認して無い。 貴族派枢機卿の方々から、いくら強要されても、それだけは断固として拒絶した。 そして、私は、教会の神官職の『 第三位修道女 』として、フェルデン侯爵家別邸にある小聖堂の聖堂付き神官として赴任する事になったの。
『 正約 』と『 密約 』。
たしかに、リックデシオン司祭様はそれを成した。 そして、私に託された。 幸薄き者達への至誠を、今後も継続して行けるようにと。 思惑は幾重にも、幾重にも重層にして、深く重く……
『誤認』と『誤解』と『錯誤』を孕みつつ、事態は推移していったのよ。
――― § ――― § ―――
居場所を移したのは、春も終わりの頃。
――― 夏の足音が其処此処に散見される、命が漲るそんな時分。
フェルデン侯爵家別邸に、私は今世で初めて足を踏み入れたの。 記憶の中の情景とは異なり、かなり荒れてはいた。 常時、棲む家人も無く、最低限の人員で回している御邸なんだと、そう強く感じたの。
修道女の制服と、神聖な聖杖を携え、小さく古ぼけた鞄を手に、別邸前に徒歩で辿り着いた。 貴族の籍に無い、第三位修道女という、云わば民草と同じ立場である私は、高位の神官様方の様に馬車での移動はしない。
そんな私を、異質な者を見る眼で、見詰めているのは、この別邸の バン=フォーデン執事長様。
聖堂教会との密約は、御当主様より聞かされて居なかったのか、それともフェルデン閣下は最初から『密約』など、眼中になかったのか、私を『小聖堂』の ”堂守り人” と、認識されていなかった。 別邸の正門を通り抜け、玄関ホールに立った私に、困惑の表情を浮かべつつ、バン=フォーデン執事長様は言葉を紡がれる。
「本日お越しになる予定の方は…… グランバルト男爵家の御令嬢の筈では無いのですか? その御姿は、聖堂教会における下級修道女が装束に御座いますね。 主人から聞いていた『お話』とは、少々違うようですが? わたくしは、お嬢様をお迎えするよう主人に申し付かった、執事長のバン=フォーデンと申します。 以後、お見知り置きを」
「ご丁寧なご挨拶を頂き、恐縮しております。 わたくしは…… アルタマイト神殿、薬師院付き第三位修道女エルに御座います。 宜しくご指導頂ければ幸いに存じます。 最初にバン=フォーデン執事長様、わたくしは、『神籍』を脱籍しておりません。 アルタマイト神殿にお問い合わせ頂ければ、その事は証せられます。 また、この事はフェルデン侯爵様にも、ご理解して頂けている筈に御座います。 ……バン=フォーデン執事長様、『小聖堂』は何方でしょうか? 『小聖堂の守り人』として、お勤めを始めなくてはなりませんので」
「いえ、待ってください。 しょ、少々お待ちを。 本日、ご主人様が、まもなく、こちらにお見えに成られます。 エル様は、まだご主人様とは、一度も会っておられないと、そうお聞きしました。 また、御主人様より、フェルデン侯爵家にグランバルト男爵令嬢を迎えると…… そして、栄えあるフェルデン侯爵家に迎え入れられると、そう伺っておりました。 あの場所の『守り人』とは、お聞きしておりません。 御主人様と、応接室にて『お話合い』を、持たれては如何でしょうか?」
「……左様に御座いましたか。 それは、少々行き違いが有ったのでしょう。 バン=フォーデン執事長様の、御指図に従いましょう」
執事長の困惑に染まる瞳をしっかりと真正面から見詰め、そう口にする。 誰がグランバルト男爵令嬢よ。 そんな者、居ないわよ。 その為の資格やら、個人資産やら、仮継嗣認定書やら、そんなモノが与えられているのは、私じゃ無くてヒルデガルド嬢なのよ? そのあたり、判っていらっしゃったのかしら?
認識が甘い…… と云うよりも、此処に来るのが、ヒルデガルド嬢だと、そう思っていたのかしら?
王国に提出されている書類に関しては、ヒルデガルド嬢しか貴族の権利を有する娘は居ない。 認知もされず、会った事も無いグランバルト男爵様にとっては、男爵様の娘はヒルデガルド嬢でしかない。 その存在が、実はヴェクセルバルで取り替えられたリッチェル侯爵家の娘であった事が表に出たのも、男爵様が自裁なさってから。
構図としては、一人の男爵令嬢が、まるで二人分の貴族籍を持っているかのように、王国の記録上には見えるのよ。 私は…… 私は、どんなに時が経とうと、『貴族の嫡出子』として、認識される事は、王侯貴族の間では無いと云う事。
だって、貴族名鑑には、私の名は刻まれていないもの。 認知されていない ” 庶子 ” なのだものね。
その存在が、”居る筈の無い亡霊 ”の様な、実体を持つ私に、宰相閣下はどのように思われるのでしょう。 まぁ、逢ってみれば、自ずと判る事だもの。 暫くは、待ちましょう。
執事長様の先導で、応接室に入る。 豪華な設えは、流石筆頭侯爵家だなと思う。 云われるがまま、ソファに腰を下ろし、膝の上に長い聖杖を横に持つ。 幾つも下がる徽章は杖に巻き付き、静かに…… 祈りの文言を口の中に唱え、その時を待った。
「お嬢様の お荷物は、あれだけですか バン=フォーデン執事長様?」
「その様だ。 第三位修道女…… 侯爵家の小聖堂の”守り人”という、聖堂教会から派遣される神官職ならば、当然とも云える。 元々、聖堂教会は清貧を旨とする 『 神と精霊の使徒 』ですからね。 身の回りの個人的なモノは極力持たぬと聞きます。 あの御姿は…… 誠の神官と、云えるのでしょう。 しかし……」
部屋の隅で控えている侍従長とメイド姿の女性がコソコソと言葉を交わしている。 わたし、耳は良いの。 幸薄き民草の声なき声を聴くために、神様が授けて下さった『 耳のよさ 』なのかもしれないわ。 使用人の方々の認識は、私が教会から引き取られ、この家の娘に成る…… らしいわね。
でもね、何故本邸では無く、別邸に迎え入れられたのか。 そして、強硬なまでに私を教会から引きずり出したフェルデン侯爵様が何故、その事を容認しているのか。 その事については、大体の予想は付くわ。
――― とても簡単な事。
たとえ血が繋がって居ても、教会に居た私を貴族派の枢機卿様方と同じような者だと認識されている、ご家人達の悪感情が原因でしょうね。 それほどまでに、ヒルデガルド嬢に成された非道は、王侯貴族に対して強い感情を植え付けたと云えるわ。
敢えて言うならば、教会と王国の間を取り持たねばならなかったフェルデン侯爵様が、家中に火種を持ち込んでしまったと云う事に違いないわ。 誰がどう言っても、この事実だけは変わりはしない。 そう、例え、私がフェルデン侯爵閣下の『 姪 』であろうとしてもね。 その事実だけでは、覆されるような、簡単なモノでは無いもの。
事は、本当に重大事で、王国と聖堂教会の間の亀裂なんだもの。 『 一度動き出した流れは、容易には止まらない。 』 今一度、猊下の言葉が重く私の心を閉ざして行くのよ……
――― その上、私が『 ヴェクセルバル 』で、発覚するまではリッチェル侯爵家の娘として生活していた事は、既に闇の中。 私が貴族の娘としての教育を執拗に、教条的に受けた事実など、もう、何処にも存在しないんですものね。
ヴェクセルバルが、妖精様によって成されたと云う事実は、貴族の体面に於いて、面目が丸潰れに成るような醜聞なのだものね。 リッチェル侯爵家がひた隠しにするのも、貴族の世界ならば当たり前な事。
――― 事実は捻じ曲げられ、事実を知る者の口は閉ざされる ―――
虚構は速やかに捏造された。 身体が弱かったヒルデガルド嬢は、領地に於いてずっと療養していたと。 そして、妖精様方による『聖女授与』によって、健康な身体を取り戻し、王都にお戻りに成ったと。 そんな話が、” きちんと ” 触れ回られているの。
王都に来て、市井の人々の噂話でも、聞こえてくるくらいにね。
更に言えば、リッチェル侯爵家に連なる方々により、” 美しく可憐なヒルデガルド嬢にして、神聖な『聖女』を利用した貴族派枢機卿達 ” の『 お 話 』は、市井の人々の間にも、十全に広げられていたの。 その事から、聖堂教会自体が白眼視されてしまっていたと…… そう云う事なのよ。
だから、不埒な彼等は異端審問官様により、断罪され…… 地位を剥奪され…… 命さえも…… 潰えたのよ。
私がリッチェル侯爵領、領都アルタマイトで生活していた事は、今では秘匿事項に成っている筈よね。 たぶん、ご領地では、御継嗣エオルド=ミルバースカ=リッチェル従伯爵が、主家の強権を持ち出しながら、連枝の者達や郎党の者達に『 緘口令 』を、出しているに違いないもの。
私が成した事は、全てヒルデガルド嬢の為した事にすり替えられ…… 私がリッチェル侯爵家に存在した事は、完全に覆い隠された筈。
うん…… きっとね。 御領、領都から出た事が無い私だったから、私を知る者はとても少ないもの。 教育に当たり、交流した方々も、主家の意向には歯向かえないし、市井の方々が御領主様の威光に、異を唱えられる訳も無いし、その必要もないものね。 だから、きっと、私の貴族の娘としての存在は、きれいさっぱり消えているのよ。
なのに……
―――― 聖句を唱える口元が僅かに歪む。
この状況が何を意味するのか。 一旦、流れ始めてしまった、世界の趨勢という流れは、その根源たる憂いを取り除いても尚、流れ続けるのか。 私は、既に達成されてしまった『世界の理の修正』にも拘わらず、無為に『 贄 』として、準備されているの……
ヒルデガルド嬢の神聖を高めるだけの為に?
―――― やってられない…… わ。
半目に目を閉じ、この流れを断ち切る方策を考え続けているの。 宰相閣下の思惑の流れ着く先…… 誰がどのような想い…… 悪意にせよ善意にせよ、私がフェルデン侯爵家の娘に成るとすれば、自ずと定まってしまうと思う。
何処までも、何処までも、『 教会の者 』という色が付いて回る私。 今の王侯貴族の『社交界』の中では、激しく嫌悪されるしかない。 まして、同年代ならば猶更。 わたしはヒルデガルド嬢と同じ年。 王立貴族学習院への編入を余儀なくされると、確実に彼女と、その周囲の方々と、御会いする事に成るでしょうね。
そして、『世界の趨勢』が、状況を押し流していくのよ。
何もしなくても…… いえ、其処に存在するだけで…… きっと…… 破滅への道を転がり落ちる事に成るでしょうね。 ええ、私が何もしなくても…… ね。
二十七回の記憶の断片は、私だけでなく、ヒルデガルド嬢に関わった人すべてに有るはず…… 存在するに違いないわ。 つまり、”エルデ ”と云う『神名』を持つ私に対して…… 前世以前で、悪辣な行動をした私に対して、その方々は、最初から悪感情を持っていると云う事。
『貴族籍に入ると決める』と云う事は、自分の命の終焉を自分で決めてしまう事。
有り得ないわ。 せっかく…… せっかく…… 未来を掴みかけているのに。
―――― 私はエル。
聖堂教会、第三位修道女エルなの。 もう、他のモノに成りたくもない。 神様と精霊様方に立てた誓約もある。 『聖女が誓約』 は、何にも増して遵守すべき『 掟 』なのだもの。 例え、私が『 神籍 』 を失おうとも…… 一介の民草と成ろうとも…… 『誓約』を違えれば、私の命は遠き時の輪の接する処に強制的に送られる。
……引くも、行くも……
私の命は、本当に細い糸の上に乗った、雨粒の様なモノと成ってしまったわ。 心を落ち着け…… 平坦に、静謐に。 私の運命は、神様の御手に委ねられているのよ。 神様への祈りと、精霊様方への奉祝を、『聖句』に乗せて一心に祈祷する。
お願いいたします…… 神様……
強き心を…… 我が心に…… 植え付けて下さい
『誉』深く『矜持』高く…… 穢されぬ心を下さい
昏き道を征く私を、御守り下さい。
応接室の扉が開き、壮年の男性が入室してきた。 御尊顔は拝した事は無いけれど、怜悧な表情と、氷を思い浮かばせるような雰囲気を纏った方だったわ。 私の 『 色 』とよく似た姿形をお持ちではあるけれど、雰囲気はまるで違う。 私を睥睨しつつ、歩を進められるその御方は……
ええ、キンバレー王国 王国宰相……
ウィル=トルナド=デ=フェルデン 宰相閣下
その人だったの。