エルデ、二十七回 繰り返した世界の強制力に怯む事無く抗う(5)
猊下の御手を握る手に、力が籠る。
たった一つの、道筋が見えたから。 この困難な状況に於いて、誰しもが、納得できる 『落とし処』 と云うべき状態が、如何にか整えられる…… 可能性を見出したから。
「猊下…… 私に身柄を所望された、宰相家…… フェルデン侯爵家ならば…… 一つ、考慮に入れても良い事柄が有ります」
「なんだね?」
「はい。 勿論、わたくしは『神籍』から離籍するつもりは、全く御座いません。 が、王国と聖堂教会の反目が続かば、この国に未来は御座いますまい。 それは、貴族の教育を受けた、わたくしならば、自然と理解も出来よう所」
「エルデのその聡さが今は辛いな」
「……有難く。 続けます。 現状を鑑みますと、フェルデン卿の申し出は、宰相家の面目…… つまりは、フェルデン卿の貴族的思惑が多く感じられます。 我が身を考える…… 姪の将来を安堵する…… そう云った感情から、この申し出をされた訳では無いように思うのです」
「ふむ、続けなさい」
「はい、フェルデン侯爵が思惑、 ” 貴族的な考察 ” を鑑みますと、おそらくは、悪辣で悪意をある『 噂 』を、撒き散らす輩への打撃を与え、『 噂 』 自体を打ち消す為の方策かと。 フェルデン侯爵家は宰相が職を奉じ、王家の藩屏たる家系。 権勢を誇られる、” 彼の家の方々 ” には、それは大きく嫉妬や妬み嫉みの感情が向けられています。 そして、隙あらば彼らの『 矜 持 』を貶めようとする輩は、それこそ掃いて捨てるほど。 貴族の思惑は、綾なす反物の紋様の様に複雑で、表面には美しい紋様を描きますが、その裏側は推して知るべし。 自身の立場の強化と隙を潰すには、その悪評の元を断たねば成らないと、フェルデン卿はお考えになった筈です。 ええ、貴族的には、それが正解なのですから。 その上、王国と教会に出来つつある深い溝。 この難問を、一つの方策で解決できるとなると? その機会を逃す『王侯貴族の者』は、居りません」
ふわりと私は笑う。 その笑みは、寂しさと哀しさで塗り潰されては居たのだけれど…… 導き出せた予測が、たいして外れても居ない事を確信して、私は言い切ったの。 猊下は視線で続きを促して居られるの。 ならば、結論を。
「貴族の面子を保つためには、聖堂教会側から、『 重 要 』と、目されて居る者を、教会から引き剥がし、王国に従わせる事が肝要。 ……さすがに、わたくしが『 聖 女 』であることは、深く秘匿されておりますが故、ご存じ無いかとは思います。 が、フェルデン卿は宰相様の事に御座いますから、わたくしがアルタマイト神殿で、そして、この王都聖堂教会 薬師院で、『何を為した』か、それがどのように『評価されている』かは、ご存じのはずです。 この状況で事態を進展させる為には、『わたくしの身を還俗させ、フェルデン卿の御邸に令嬢として迎え入れる事』が、王国側の面子を護る『方策』と考えられた…… ”穢されたのならば、穢せばよい ”、 ”ヒルデガルドがされた事ならば、『神職に有る者』にすれば良い ” ……なのかも知れませんね。 ……状況は、コレで間違い無いかと思います」
「うむ。 貴族家の子女に対する教育とは、それ程の洞察を求める事なのか。 いや、リッチェル侯爵家の教育の賜物と云う事か? いやはや、なんとも、凄まじき事だな。 ……それでエルデ、どのような思案があるのか?」
その様な思惑が有ると知ったからには、普通ならば拒否案件なのだけれど、そうも言ってられない。 だから、そこに細く険しくとも抜け道が求められるのならばと…… 一縷の望みを抱いた猊下が、私に尋ねられたの。
「はい。 その事ですが、フェルデン侯爵家のお噂を、色々と思い出してみました。 これらを語ってくださったのは、アルタマイト神殿での「お友達」であった、商人のルカです。 あの者は、王都の事情にも精通し、商売柄貴族家にも、顔が利きます。 下男下女の噂話を、わたくしに語ってくださったのです」
「ルカ……? あぁ、エルデが民草や冒険者、探索者向けに、安価で安定的な薬品類を作る為に集めた『魔法草』を、探索者ギルド から、運んでいる、商家の者か」
リックデシオン司祭様が、そう口にされる。 思わず頷き言葉を紡ぐ。 どうか、彼に悪感情を持たれない様にと祈りながら。 どうも、司祭様は第三位修道女を度々街に誘う『商家の者』に、あまり良い感情を持たれていない様だもの……
「はい、リックデシオン司祭様。 左様に御座います。 ……それで、その『噂話』の中で、興味深いモノが御座いました。 フェルデン侯爵家は、王都に二つの御邸をお持ちです。 一つは本邸。 王城に程近く、広大な御邸です。 もう一つは、別邸。 こちらには普段、フェルデン侯爵家の家人は滞在されておらず、フェルデン侯爵家本領、王領各地、王国の各地、各辺境領の方々が『陳情』に王都に推参された折、宿の取れなかった者達に特別に解放されている御邸です」
「うむ。 宰相と云えば、それ程の財力はあるか。 そうだな、身近に陳情しに来た者達を置きたくないと云うのも有るだろう。 それで?」
「はい。 そして、その別邸には規模は小さいですが、『祈祷所』が、御座いました。 元はご家族達が祈る『祈祷所』の様な建物だった様です。 現在は少々、趣が異なります。 事情としては、どうしても王都で『御婚姻』の挙式を…… と望まれる、御連枝の方々への御対処が最初であったとか…… 幸薄き地の貴族家の方々にとって、大聖堂での挙式は荷が重く、そんな方々への救済策として、フェルデン侯爵が『 御 用 意 』されたと、そう仄聞しました。 御身内への気遣いでしょうか、それとも…… 甘き『 餌 』でしょうか……。 フェルデン卿の思惑は別として、下位貴族の方々には、好評で、宰相様への感謝が溢れていると、そうお聞きしました。 その時は、聖堂教会大聖堂より貴族派の司祭様なり、司教様を『 個 人 的 』に、御迎えされて、そんな方々の『婚姻式』を挙行されるとか」
「ほう…… その様な事までされていたのか。 連枝の人心を掴むのもまた、大儀なこと。 貴族派の枢機卿共の遣りそうなことでもあるな。 ……そうか、ほう、そうか。 あの家には、『小聖堂』が、有るのか」
普通『祈祷所』では、『婚姻式』のような神事は行えない。 ただ祈る為だけの場所だから。
神事を行う為には、『聖堂』としての格が必要なの。 精霊様方を御迎えし、神事を成す為には、それ相応の格式と設えが必要だから。 私費でそれをまかなえるのは、大層な家柄の方々でも、ちょっと難しいのよ。
私が知っている限り、私設の『小聖堂』を建立されているのは、公爵家の方々であり、さらに信心深い御家である…… ほんの数家。 そんな中で、いくら宰相家だとしても、私設の『小聖堂』を持っていらっしゃると聞いた私は、本当にびっくりしたモノよ。
過去の記憶の中に、そんな事跡があったのよ。 そう、御嫡子ヴィルヘルム従伯爵が、聖堂教会にて否定されたヒルデガルド嬢の『聖女』就任を貴族派枢機卿様方と、その小聖堂で行ったと云う、……記憶があったの。
勿論、その世で愛していたヴィルヘルム様が、自分には愛を返さず、ひたすらヒルデガルド嬢へ御心を向けていたと知った、私は、その場で大いに暴れたのだけどもね。 『聖堂』の『神聖』を穢す程に…… その結果が、断罪と続くのよ……
――― だから、 よ く 知っているの。
「はい。 『小聖堂』が御座います。 何分と、常用は、されて居ない小聖堂。 噂では、荒れていると。 十分な掃除すら行き届いていない。 婚姻式の時には、新郎家、新婦家の家人達が総出で清掃と飾りつけを行なう…… とかなんとか。 勿論、聖堂付きの神官すら、いらっしゃらない筈です。 そうですわよね、リックデシオン司祭様?」
私の問いかけに、リックデシオン司祭様は、深い思考の海の中から立ち戻られ、言葉を紡がれる。 私の提示した事実に、色々と思う所が有るらしく、いつもの、飄々とした表情からは、対局に有る表情をして『苦い顔』を、されておられたの。
「……たしかに。 大家である公爵家ならば、何家か、『小聖堂』建立と、神官派遣の要請が有りましたね。 現に、猊下が訪れ『神降ろしの義』を、なされた事も何度か…… しかし、貴族家の個人邸宅の『祈祷所』には、そのような面倒な手続きは無い。 フェルデン侯爵家『別邸』に有る、その小聖堂は、聖堂教会に対しては無許可で建立しているという事となりますね。 ……そうでなければ、『小聖堂』建立の伺いや、神官派遣の『要請書』が、聖堂教会に来ている筈ですからね。 それに猊下も、その小聖堂の存在をご存じなかった。 つまりは、そう云う事…… それが、小聖堂として機能し、『婚姻式』すら挙行しているならば、神官を派遣せねば成らなくなります。
…………ん? …………エルデ?
そうか、聖堂付きの修道女として派遣するならば…… こちらも、あちらも、面子を保てるのか」
私の顔をマジマジと見詰め、合点が行ったと云うような表情を浮かべられたリックデシオン司祭様。 そう、其処なの。 私が見出した、一筋の状況打破の道筋は。 『神籍』を離脱せず、『貴族籍』に入らず、今後も秘匿されし『神聖聖女』の力を行使し、神意を遂行する為の方策を…… ね。
「ええ、そうです。 フェルデン卿が何を言われたとしても、わたくしは『神籍』を離れるつもりは有りません。 が、別邸の聖堂付き修道女ならば、我が身をその小聖堂に置く事も可能です。 さらに、幾つかの取り決めをして頂ければ、その小聖堂にて製薬のお勤めを引き続き全う出来ましょう。 表に出ない『密約』ならば、表面上はどうとでも、言い繕うことが出来ましょうし、そのくらいの肚は、宰相閣下には有りましょうし……」
思案気には為されているけれど、明らかに顔色が良くなった教皇猊下は、静かにリックデシオン司祭様に問いかけられたの。
「……あちらは、それで納得するか? いや、説得できるか?」
「猊下。 交渉は、わたくしと教会派の枢機卿が。 ええ、成して見せましょうぞ、エルデが云う『 密 約 』とやらをッ!!」
「リックデシオン。 ……頼む。 大聖女から預かりし『神聖聖女』を、その者の意思を無視して、投げ渡す事など出来ぬ。 儂が…… 万全で有ったならば………… 今は、悔やむほかない。 リックデシオン司祭。 全権を用い、事を成すのだ」
猊下と司祭様は何かしらの合意に至ったみたい。 猊下の脈も穏やかになり、今後の経過観察も容易に成るでしょうね。 そっちの方は、聖堂教会薬師院の薬典神官長様にお願いする事に成るわよね。 万が一、何らかの不都合が有った場合のみ、私がお呼ばれする? みたいな感じになる筈。 それも、人払いをした上で、極私的な環境でね。
うん、秘匿されし『神聖聖女』と云う存在ならば、それしか方策は無いでしょう。 リックデシオン司祭も、きっとその様に差配される。 ええ、それは間違いない。 それに聖櫃だって有るもの。 たしか、司祭様が仰って居たわよね。
――― あの聖櫃に認められし者は三名のみ
だって。 大聖女様でしょ、私でしょ、もう一人は…… 尊き教皇猊下以外、考えられないんだもの。 意を決し、言葉を紡ぐ。 これは、絶対に守って貰うべき事柄。 猊下の命の炎は、この世界に於いて、誰よりも重要なモノなんですもの。
「猊下。 御身体の変調あらば、聖櫃に、その旨を記載したお手紙をお入れくださいませ。 わたくしが緊急と判断した場合や、周辺の状況に応じ、必要であるならば、調合製薬した『お薬』を、お送りいたします」
「……そうか。 エルデもアレに触れるのだったな。 相判った。 そうしよう。 天寿全うし、後進に我が『 権 能 』を移譲するその時まで、儂の主治薬典としよう。 リックデシオン、それで良いな。 第二級薬師、エルデを儂の主治薬典と成す様に儂は求める」
「御意に。 おお、もうこんな時間。 猊下、そろそろ……」
「……あぁ、判った。 今はとても気分が良い。 善き祈りを捧げられると思う。 エルデ。 そちの献身は、王国のみならず、『世界の理』すら救った。 これに勝る慶びは無い。 神も精霊も此度の事、祝福されよう。 忌々しき ”欲望に堕ちた者達”の為に成す『魂の救済の祈り』すら、今の儂は出来そうだ。 誉れあれ。 祝福あれ。 神名『エルデ』を持つ、『 神 聖 聖 女 』よ」
「有難く。 御前、辞させて頂きます」
そっと、猊下の手を離す。 その場に平伏して、その高貴で神聖な方へ、祈りを捧げる。 天と地と人を繋ぐ、猊下へ……
―――― どうか、心、御健やかに…… と。
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猊下の御部屋から退出し、月光で青白く輝く回廊を粛々とリックデシオン司祭様と戻る。 手には、まだ、猊下の手の ” 温もり ” が、残っている。 力強く脈打つ、御手の感覚が。 自然と頬に笑みが浮かぶ。 天命を知る者の御手。 神様が、精霊様方が、絶大な『慈愛』と『加護』を、御与えに成った尊き人の手……
老木の様な節くれだった御手は、
暖かく、
優しく、
慈しみ深く……
天と地を結ぶ『 人の手 』だったの。