エルデ、二十七回 繰り返した世界の強制力に怯む事無く抗う(4)
―――― 眉を下げた教皇猊下。
私を、”憐れ”に思われているのかしら。 沈痛な面持ちで、慈愛深く私を見詰めて居られるの。 気配が動く。 怒りとも、嘆息とも言えぬ、激情を押し殺した、静かな声。 背後で跪くリックデシオン司祭様が、低く言葉を紡いだの。
「猊下…… エルデは…… 第三位修道女エルはッ! 王都聖堂教会の『神籍』にはありません。 彼女の『神籍』は、遠くリッチェル侯爵領、領都アルタマイトに在する、『アルタマイト教会』に御座いますッ! エルは…… この子は『神籍』を離脱する意思が有りません。 廃大聖女様も、その様に申し伝えて居られます。 更に、『神聖聖女』たるエルデが、貴族の娘に成った場合、神の御意思を遂行する事もまま成らなくなるでしょう。 神と精霊方との『聖女の誓約』を鑑みますに、それこそエルの命が危うい。 彼女に『神の鉄槌』を、与える事など、あり得ません」
「それ故よ……。 悩み深き事なのだ。 神命を鑑みれば、その様な事は受け入れ難い。 大聖女との約束も有る。 ……しかしだ、『王国』と『教会』の均衡に思い巡らさば、フェルデン卿の申し出の通り、男爵令嬢として『エルデ』を差し出さねば成らぬ。 ……さて、如何したモノか」
――― 深く…… 溜息を吐かれ、悩まれる聖人の御二人。
この危機をどうやって乗り越えれば良いのか、私にも判らない。 私ひとりの意思で、この申し出を拒否する事は、” 神様の御手 ”である私には容易い。 でもね、幼少の頃より、身体の奥底から教育された私だったから、王国と教会が反目したままの状態と云うのが、如何に危ういかを理解している。
王侯貴族は自身の権力と権能を十全に理解して、如何なる者もその ” 権威 ” に対し、『否』を唱える事を良しとしない。 聖堂教会は、この国の人々の大多数を占める、民草の心に寄添い、諫め、癒している。 そんな教会と王国が反目し合えば、当然、民草と王国貴族の間に深刻な断絶が生じてしまう。
片や税を持って、自分たちの生活の安全を保障する者達。 片や本当に困った時に、濡れない寝床と生きて行くために最低限の食事を無償で提供してくれる者達。
断絶により、お互いが反目しあえば、自身の稼いだ金穀を奪い取っていくように見える、王国貴族の方々に、自然と民草の怨嗟は向くわ。 一般の民草にとって『政』は、果てしなく遠い『お話』なんだもの。
これまでは、教会が民草に対し、王国が如何に民草に心を砕いているかを説いて来た。 でも、反目が深まると、それも期待できない。 ええ、王侯貴族側から教会に対しての様々な恩恵が無くなるから……
ならば、と…… 教会が独自で動くとなると……
他国で…… そのような状態に成って、国内の政が滅茶苦茶になって、最終的には民草の安寧が脅かされた事なんて、枚挙に困らない程なのよ。 たとえ、それが神聖王国と呼ばれる、宗教国家でもあってもね。 だから、現存する王朝は、宗教との距離感を殊の外重要視しているのよ。
必要以上に近寄らず、放しもせず。
民草を統治する為の、一つの機構として、各国の王侯の皆様は認識されているの。
権威は認め、権能は認めず…… って処かしら。
人として…… この世界に産れて落ちた者ならば、他人に明かせぬ心情を抱える事だって有る。 王侯貴族であろうと、民草であろうと…… 神様が居られ、精霊様方が顕現される、この世界に於いて、次元の違う尊き方々と、人とを結びつける事が出来るのは、神に仕えし者なのだものね。 だからこそ、神官は身を清め、一心に神への祈りを捧げる者に成らないと……。
世俗の理とは隔絶されて然るべきなのよ。
そんな者達に、世俗の垢がこびり付く、国を纏め率いる 『 政 治 』 は、出来はしない。 故に王侯貴族の方々の対応や心情は、間違いでは無い…… と云う事なのよ。 その事は、法王猊下にしても、心ある高位神官の方々も、大変よくご存知であるのだもの。
―――― その、『暗黙の了解』が、破られた。
それが、大問題だったのよ。
―――― § ――――
握っている、教皇猊下の手がじっとりと汗ばむ。 こんな状態では、御心健やかとは行かない。 なんとか…… なんとか、成らないのかしら? せっかく癒えた猊下が、また、体調を御崩しに成られてしまう。 心因的な重圧は、そのまま、身体への打撃になるんですもの。
教皇猊下の手を見詰めながら、沈黙が続く。
焦る気持ちが前に出てしまう。 何とかしなければ、このままでは…… 方策を探す内に、私にとっては、『 禁断の手段 』に思考が向く。 出口の見えない思考の果てに、『最後の手段』を取らざるを得ないの。 そう、私は、思いを『 過 去 』に、巡らせたの。
――― 思い出したくも無い二十七回の過去を精査したの。
過去の情景から…… なにか…… なにか、この状況を打破出来るモノは無いのかって。 だって、今世では、ほぼほぼ手詰まりなんだもの。 過去の封印した記憶の中に、手掛かりが有るかと思って…… 痛む心に鞭を振るい、記憶の封印を破り、思い出したくもない記憶を浚っていたの。
――― 様々な情景が、幻視の様に脳裏に浮かび上がる。
さながら、流れる幻燈の様に。 流石に、二十七回前の過去は、鮮明には思い出せない。 しかし、それが、二十回前、十回前となると、徐々に記憶が鮮やかに戻って来る。 そして、三、四回前の記憶は、深く封印していないと、日常でも浮かび上がってくる事が有る程、鮮明なの。
王都に来てから、主に聖堂教会の薬師院の奥の院で製薬に励んでいるのも、それのせい。 だって、王都の街並み…… 貴族街には、過去の記憶を刺激して止まないモノが沢山有るもの。
高位貴族の紋章の刻まれた馬車。
優雅なお仕着せを身に纏った、貴族家のメイド達。
豪商と呼ばれる、政や、貴族達と深く関わりを持つ商家の人々。
薄暗がりの中、影の様に動き回る、町のお仕事に勤しむ、特定の要望を叶える、特種な冒険者さんたち…… 影に生きるそんな人達の事も……
王都の街中を歩くだけでも、そんな風に記憶を刺激する者やモノが沢山あるのよ。 近頃、ちょくちょく、ルカと王都の中を買い物に出かけたりする時に、そんな情景や人々を見る度、頭痛がするようになったの。 それは、過去、私がしてしまった『過ち』の数々が、私を責め立てるって事なの。
その中でも、幾つかの場所は、私にとっての『魔族の国』と云ってもいい程の場所。
過去世界で、通っていた王立貴族学習院。
王都最大の貴族図書館である、王立公文書館。
幾つかの高位の貴族の華咲き乱れる邸宅。
羞恥と悔恨に塗れる、過去の『情景』、『心情』が、脳裏をよぎる。
―― 『居候の身』を勘違いしていた私。
―― リッチェル侯爵家の食客としての立場を忘れた私。
―― まるで侯爵令嬢のように振る舞っていた私。
―― 『愛する者』を渇望して、『愛される事』を熱望した私。
熱病に浮かされる様に、愛が欲しいが故に、様々な悪行を重ねて行った……
――――『邪悪な私』。
その舞台となったのが、王立貴族学習院であり、其処を学び舎としている王侯貴族の方々のご実家。 幾つもの茶会。 幾つもの夜会。 年度末の舞踏会。 王家の尊き方々の生誕祭。
凄まじい羞恥と嫌悪と悔恨を、身の内に滾らせながら、それらの事柄を一つ一つ心の中に『封印』してある記憶から取り出して、精査していったの。
過去の悪行に、身を切られるような罪悪感を覚えながら……
『 愛 』を乞う、惨めな私を見詰めながら……
薔薇鞭で、全身を叩かれるように、心が血を流す。 深い悔恨の情が浮かび上がる。 『 愛 』など…… 『 愛 』など、求めなければ良かった……
心が血塗れに成った私に、天啓が降りた。 悔恨と懺悔の果てに、神様が下して下さった。 目の前に幻視が広がる。 過去に行った悪行の一つが、妙にハッキリと、視界に蘇って来たの。
――― とある情景が、蘇ったのよ。
その過去の情景に違和感が、湧きあがる。
その違和感の原因について、考察を深め、精査する……
違和感の根源に、辿り着いた私は……
遂に……
私は、一つの『可能性』を、 ……見出したの。