エルデ、二十七回 繰り返した世界の強制力に怯む事無く抗う(1)
―――― 教皇猊下の御座所には、静かで心地の良い時間が流れた。
【癒し】の秘術は、聖女の特殊魔術の一つ。 『聖女』に任じられた者が、神様と精霊様と誓約を結びし後に習得する、魔法術式なの。 ゆえに、自身の魔力特性は関係が無いの。 たとえ、一般の人々には、忌避される『 闇属性 』の魔力だったとしても。
そうなの。 私の主な魔力属性でもある、『闇』の力でも如何なく【癒し】の秘術は行使が可能なの。 強く結ばれた、『誓約』のおかげか、その他の属性も徐々に発現してきているのは確か。 でも、やはり、私の魔力は何だと問われたならば、『闇』の属性を帯びた魔力と、そう答えるしかないわ。
でも、皆様の配慮と研鑽で結ばれた『誓約』で、私は『神聖聖女』として、この場に来ることが出来た。 なにより、教皇猊下の御命が天命を全うできる様になったの。 世界の理の危機に対し、為すべきを成せた。 神籍を持つ、神官として、これほど嬉しい事は無かったわ。
世界の理の危機は、暫しの間遠ざけられた。 その対価として、『極上』とも云える御加護も授けて頂けた。
輪廻を司る『風』の大精霊様。
――― そして、
時間を司る『刻』の大精霊様。
御恩寵を受けることが出来た事によって、もう、二度とあんな悲惨な最後を遂げる事なんて無いんだと…… そう思えたからなのよ。 不思議な想いに、心が惹かれ…… そして、あの幻視の異次元空間に於いて、私が至った『思考の結果』が、有ったの。
―――― なぜ、時が戻ってしまっていたかの理由。
かつての世界。 過去、二十七回巡った世界では、多分この段階で、教皇猊下の御命が尽きた。 清浄なる天空と、豊穣の大地を結ぶ、光の御柱たる教皇猊下の魂が、有象無象の『呪い』によって貪り食われ、ついには繋がりが途切れてしまった。
ゆえに、風の大精霊は、魂魄を輪廻出来ず……
ゆえに、刻の大精霊は、時を進める事が出来ず……
ただ、水車の様に、分岐点となった、特殊な取り替え子が発生した、私とヒルデガルドの誕生の日に、時が戻ったと云う事。 二十七回の試行錯誤は、風と刻の大精霊様方以外の精霊様方配下の妖精様方の奮励努力の結果。
時が戻らず、未来に続く様に、教皇猊下の御命をもう少し長く存続させる為に、どうしても 『聖女』の力を欲した結果の出来事。 愛し、愛され、妖精様方の加護を受けるそんな女性が必要だったの。 『聖女』として、力を持ち覚醒させるためには、多くの妖精様方の『加護』が必要だったの。
その数は…… 判らない。 でも、少なくとも、私に理解できたのは、過去二十七回の産まれ直しで、二十七精霊の加護が無ければ、ヒルデガルド嬢は『聖女』には成れなかった事。 そして、今世。 ……あの日、あの時、あの場所 に於いて、ヒルデガルド嬢は、その資格を得、覚醒された。
――――― 聖女ヒルデガルド様 ―――――
……に。
私は、その為の贄。 精霊様の御使いたる『妖精様』は、ヒルデガルド嬢が恙なく『妖精様の御加護』を賜わる為に、誰からも愛される存在にせねばならなかった。 驕慢で傲慢な性格では、精霊様方は決して御加護など与えない。 だから、妖精様に彼女が、必然と『慈愛の心』を得る為に、わざと困難な境遇を用意させた。
それだけでは足らず、其処に、決して愛されない 『 半身 』を置く事によって、彼女に愛が集中する様に仕向けたのよ。 まるで、『 囮 』の様に。 まるで、『 贄 』の様に。
それが、エルデ=ニルール=リッチェル侯爵令嬢の……
役割だったのね。
――――――――――
手を頭に乗せ、優しくなでている教皇猊下。 その表情は長い年月を経た、聖人の風格と、老い疲れ果てた者独特の退廃的な雰囲気を纏わられていた。 寝台に有らせられる御身体は、未だ病み衰えたまま。 一朝一夕には、往年の威風を漂わせる事など出来はしない。
一旦、私の頭から手を下ろされ、衰えた身体を持て余すかのように、寝台に腰を掛けられた。 リックデシオン司祭様が、近くにあった吸飲みを手に、教皇猊下の元へ伺候する。
「まずは、コレを。 聖水に滋養ある果物の果汁を混ぜた物。 聖水は此処に居るエルデが手に依る物。 決して、疑わしき筋のモノでは御座いませぬ」
「そうか。 薬師院の奥の院に居ると云っていたな」
「はい。 既に第二位の薬師として、勤めに励んでおります。 その身の内から溢れ出る慈愛と共に」
「それは、重畳。 戴こうか。 正に、天からの贈り物だな」
吸飲みを口に、喉が鳴る教皇猊下。 相当に消耗されて居られるけれど、アレならば、癒しの効果もあるし、何より滋養分が高く、弱った臓腑に負担を掛けることなく、体力を戻す事が出来るのだもの。 周囲の邪気は祓う事が出来た。 それでも、長年生きた身体は、痛めつけられてたのだもの。
教皇猊下は、何故にこのような状態に成ってしまったんだろう。 強固に護られてしかるべき人なのに。
そんな、私の疑問が表情に出たのか、教皇猊下はおもむろに言葉を紡がれる。
「教会の力を己の権力と勘違いした枢機卿共がいるのだ。 そして、その権力を己の欲望に結び付けた。 王都の聖堂教会は、総本山と云うべき場所。 ならば、寄進もそれ相応のモノとなる。 表では聖職者としての顔を存分に晒しているが、裏に回れば 「貪食」「淫蕩」「金銭欲」「怒り」「怠惰」「虚栄心」「傲慢」が『七つの大罪』心を占める、愚か者共。 派生する百と八つの煩悩に、己が縛られているとも判らずに…… まったく…… 心清き者達が、真摯な想いを以て、慈愛を胸に荒野を征くと云うのに、王都では、この有様。 オクスタンスが、見限るのもおかしくは無い」
「大聖女様は、その御力が衰微した故、隠居の為にアルタマイト教会へいらしたのでは無いのですか?」
「表向きははな。 枢機卿共が画策して追い出したと見せかけて、その実、アレが自身で出て行ったのよ。 まぁ、見捨てたと云っても良いか。 『信仰は辺境に有り』 王都教会から出る時に、枢機卿共にそう云い捨てたからな」
知らなかった…… そんな事が有ったなんて。 大聖女様は…… 何を見て、何を聞いたの? どれ程の『憂い』を、心に抱えられていたの?
「エルデ。 おぬしには、オクスタンスと同じ道を歩ませては成らない。 アレもそう願っている。 儂もそうだ。 それに異端審問官も、そのつもりでいる。 そうよな、リックデシオン司祭」
「はい。 それはもう、強く大聖女オクスタンス様から、伝えられております故」
「泣く子も黙る、異端審問官は、未だに大聖女を畏れるか。 フハハハ」
機嫌よく、お笑いになる教皇猊下。 何故か、その笑顔にほっこりとした感情が浮かび上がる。 ベッドに腰を下され、座られる。 完調とはいかないまでも、十分に『お話』には耐えられると、ご判断されたのね。 笑えると云うのは、心に余裕が有る証拠。 御身体の具合も、悪くはなさそうね。 急にその朗らかな表情を変え、真剣な表情で私を見詰める教皇猊下。 ベッドのわきに膝を落とし、手を握りながら、猊下の体調を探りつつ、『お話』を伺う。
「エルデ。 神聖聖女エルデ。 状況は少々込み入って居る。 こうやって、非公式な訪問で、近くに呼んだ理由もある。 リックデシオン。 説明はしたか?」
「いえ、未だ。 しかし、猊下。 わたくしは反対です。 あ奴等の要望を何故に受け入れねば成らぬのですか。 王都、王領に於ける、民草からの聖堂教会に対しての悪感情がやっと収まって来た昨今、そして、その研鑽と貢献を知らぬモノが居ない ” 第三位修道女エル ”を、聖堂教会の外に出すのは悪手」
「判っている。 しかし、状況がそれを許さんのだ。 儂に取りついた穢れの元は、貴族と枢機卿達の欲望の残滓だ。 野放しにしておくと、聖堂教会奥深くにまで蔓延り、やがて聖堂教会の屋台骨を喰らい尽くす。 外に新しき風、新しき祈りが完成するまで、今しばらくこの状況を続けねば成らぬ」
「それは…… いや、しかし」
「おぬしの心も又、判って居るわ。 異端審問官としてでは無く、王都薬師院別當としての気持ちが強いのもな。 大丈夫だ。 儂の身を案じるな。 エルデの張った【聖結界】のおかげで、まだ暫くは生きられる。 儂の本来の『命の灯』が尽きるまでには、次代が育つというもの。 儂が生き続けている事こそ、その者達へ、貴族派枢機卿共が視線を移す事は無い。 それが、儂が受けた天啓なのだ。 刻を稼ぐ必要が有るのだ。 判ってくれ。 これは、儂の『天命』であり、『役目』でもあるのだ。 儂はそれを『 諾 』とし、受け入れて居る。 時間は…… なに、もう、そう遠い話では無い。 ……エルデ」
教皇猊下は、私に向き直り、しっかりとした視線を私に向けて語り掛けて下さったの。 好々爺が、孫娘に対して、滾々と諭すようにね。 私が理解しなければならない事柄を、噛んで含むように、丁寧に伝えて下さる積もりなの。 破格の待遇。 それはきっと…… そう、私には難しい、王都の ” 大人の事情 ” についてだからだろう。
「聖堂教会には二つの派閥が存在するのは知って居るなエルデ」
「はい。 教会派と貴族派と大別されていると、大聖女様より承っております」
「うむ、その通りだな。 それで、今、色々と問題を引き起こしているのは、当然……」
「貴族派の方々。 教会の影響力を拡大し、王国の運営にも関わる事を『是』とする方々」
「政治が麻の様に乱れ、人心が不安に満ち、最も安全で有るはずの王都が最も危険となる場合ならば、秩序を重んじる教会がその不正擾乱に立ち向かう。 それなら、まだ理解も出来よう。 しかしだ……」
「王国は国王陛下並びに重臣の方々の日々の研鑽により、穏やかな政務が営まれている…… 裏側は解りませぬが、少なくとも戦争の影に怯える事も無く、世情が乱れている訳でも無い」
「だな。 王領内の『迷宮』や『魔物の森』などでは、少々不穏な出来事も増えては居るが、勇猛な王国騎士団や、王領軍が対処する程では無い。 つまりは、平穏なのだ。 平穏だからこそ、動き出す者達が居る」
「それが、王国の政権内部に入り込み、聖堂教会の影響力を行使したい枢機卿の方々?」
「聡いな。 そうだ。 王国貴族達を巻き込み、上へ上へと影響力を増大させていた枢機卿達は、王国の高みに手を出して居った」
「高み? 高貴なる蒼き血の一族の方々ですか?」
「有体に云えば、上級伯爵家以上の方々。 もっと言えば、侯爵家の者達。 今は、中枢から離れてはいるが、虎視眈々と復権を目指す者達への『助力』と云う名の教会勢力の合力。 そんなところだ」
「思い当たる節も御座います」
「王都での讃談は、辺境でも有名か」
「御意に」
「足掛かりとして、選ばれた貴族家も知っているな、エルデ」
「…………リッチェル侯爵家に御座いましょうか。 領都アルタマイトでは、其処迄あからさまでは有りません。 アルタマイト教会では、教会派の枢機卿オズワルド様が差配されておられます。 あの教会は、真摯な神への祈りが息づいております。 が、王都では……」
「受け入れたのは、リッチェル卿。 それを足掛かりに、王国の重要な政務に口を出そうとしていたのが、世俗に堕ち『権能』を追い求める者達だからな。 ……しかし、彼等は遣り過ぎた」
「遣り過ぎた? ですか?」
「そうだ。 リッチェル卿の逆鱗に触れた。 ……その直接の原因は、リッチェル侯爵家に『聖女』が生誕した事だ。 エルデは、アルタマイトの教会に属していたが、この事は知って居るか?」
思わず言葉を失った。 猊下は、私の出自をご存じなかったの? 思わず…… リックデシオン司祭様を伺い視る。 司祭様は、片手を顔に当てられ、首を振られているのよ。 と云う事は、猊下には私の出自を伏せていたと云う事?
「猊下。 わたくしはヴェクセルバルとして、十一歳までリッチェル侯爵家の娘でした。 領都アルタマイトにて、侯爵家の娘として教育を受け、暮らして居りました。 そして、わたくしは、リッチェル侯爵家の娘から、孤児としてアルタマイト神殿に受け入れられました。 聖女生誕は、この目でしかと、見ております」
声を潜め、そう宣言する。 かつての苦い記憶がまざまざと蘇る。 冷たく、誰にも愛されないそんな場所。 貴族の義務と責務を背負わされ、幼少の時から常に重圧を感じていた、あの頃を。 そして、聖女生誕の現場にも居た。 それを目にする事によって、二十七回の産まれ直しに関する「記憶の泡沫」が、意味を持ち統合され、不確定で陰惨な未来を直視し……
―――― 逃げ出したんだ。
昏く、闇に閉ざされたような瞳を覗き込んだ教皇猊下は、リックデシオン司祭様に非難の視線を向け、言葉を紡がれる。
「リックデシオン…… 貴様、儂に、知らせなんだな。 エルデの全てを……」
「エルは貴族であったことを捨てました。 彼女は、ただ、神の前の従順なる使徒に御座います。 過去は必要ありません」
「リックデシオン…… 幼子には、配慮が必要ぞ。 そうか…… 何もかも知っていると云う事か。 判った。 ならば、話は早い。 エルデには少々、酷な話にはなろうがな。 先に謝罪しよう。 しかし、背景を知らねば、エルデがこれから下すであろう『判断』に狂いが生じる」
「それは…… その通りに御座いますね、猊下」
猊下は私の手を取り、ベッドから立ち上がる。 これから物語られるお話は、きっと極秘のお話。 伝えられる者にも、相当の資格と覚悟が強いられるお話。
――――私は、そう認識した。
猊下は私と手を繋いだまま、寝台とは反対側にあるゆったりと座れる応接に誘われたの。