エルデ、リックデシオン司祭様と共に月夜を進む。
重く滞留した空気。 息をするのもやっとな、そんな雰囲気に包まれながら歩みを進める。 第三位修道女の装束、徽章が取り付けられた聖杖。 心持ち俯きながら、リックデシオン司祭様の後を付いて歩む。
既に夜の祭礼も終わった大聖堂は、シンと静まり返り、普段は気にも留めない足音が、ヒタヒタと耳朶を打つ。 リックデシオン司祭様も沈黙を守りながら、歩を進められている。 行く先は、云わずと知れた、教皇猊下の足下。
なんでも、ご高齢の上、身体に病を得られたと、そう噂されている尊き御方。 そして、大聖女オクスタンス様の同胞でもある、そんな神聖な方だった。 静かに大聖堂を進む。 まだ春浅い王都の空気は冷たい。体が震えるのは、寒さ故か、それとも別の何かの何かのせいか。 歩みを止めず、リックデシオン司祭様の後に続き、唯々静かに心を抑えなくては、ともすると、何かを叫びだしたくなる衝動に捕らわれる。
それが、恐怖なのか、畏怖なのか。
余りにも清浄なる空間の中を歩む為に、自身の犯した罪を裁かれているような気持がした。 現世ではなく、前世に行った、数々の愚行の…… 断罪。 息を詰め、ひたすらリックデシオン司祭様の後歩む。
歩みの先、高い尖塔の基部に到着する。 教会所属の聖堂騎士の方々が護る、大きな扉の前に進む。
「教皇猊下の足下に向かう。 私は、薬師院 別當、司祭リックデシオンである。 こちらは、本日、猊下に召喚されし第三位修道女エル。 扉を」
そう、奏上されるリックデシオン司祭。 厳めしい雰囲気の聖堂騎士様方は、その装具を鳴らしながら、重く巨大な扉を開いて下さった。 既に先触れや、根回しは終わっていた様ね。 さながら、流れる川の様に、私達は本来ならば高位の聖職者の方々しか、足を踏み入れられない場所に入る事になったの。
―――― 静かな夜だった。
細長い窓から、煌々と月光が斜めに差し込む。 青白い光が回廊を、蒼く染め上げ、静謐な空間を更に神聖なモノに変えていたわ。 そう云えば、足音…… 私たちの足音は既に消えている。 毛足の長い絨毯が、足音さえ消し去って、耳が痛くなるような静けさだけが、私達を取り巻いていたの。
先を進むリックデシオン司祭の足取りは止まることなく、回廊を進む。 回廊の先に階段が見えた。 何処までも、高く続く階段の初段に到着すると、天を仰ぐように見上げる。 尖塔の内部を螺旋に上に続く階段。 かなり高い所に丸い天井が見える。
天井画は、経典に謳われる、精霊様方の御姿。 命の灯を回し、人々の運命を司る『尊き方々』を描いたモノ。 薄青い光の中でも判る、その神々しさに、思わず歩みが止まる。
「エル。 聖画ならば、また見る事が出来ます。 今は、先を急ぎますよ」
「はい、申し訳御座いません。ただ、余りに……」
「そうですね。 初めてこの場に入った者は、皆そうなります。 心情は理解できます。 さぁ、少々大変ですが、行きますよ」
「はい」
螺旋に続く階段を、ひたすら上っていく。 必然か偶然か、それとも、心の中より漏れ出した何かか…… 私の口からは聖典の聖句が漏れていた。 気が付くのは、天井近くの場所だったの。 それほど、圧倒されていたのかもしれない。 目の前に、重厚な扉が現れる。 強固な結界が張られ、何人たりとも通さない、そんな威厳と権威を如実に表している、そんな重結界だった。
「エル、扉に手を。 召喚された者が触れると、結界は一時的に解除されます」
「……はい」
リックデシオン司祭の言葉を受け、聖杖を片手で持ち直し、空いた手で扉に触れる。 涼やかな鈴を幾つも鳴らすような音が響き、扉に施された重結界が一時的に解除されるとともに、扉自体が内側に、まるで招き入れる様に開いた。
「さて、ここからが、内宮です。 教皇猊下の私的空間ともいえる場所です」
「はい。 粗相の無いように気を付けます」
「行きますよ」
薄皮の様な結界が幾重にも、幾重にも、張られている。 まるで、何かに怯える様に。 でも、それだけじゃ無いの。 確かに神聖な場所だと云う事には違いないのだけれど、なにか…… そう、なにか邪なモノも感じるの。 自然と口から聖句が漏れる。
「エル。 判りましたか」
「なんとなくですが…… これは、一体……」
「ある種の呪いと云うべきモノでしょう。 幾多の高位聖職者が世俗に巻き込まれ、その中で特に貴族社会と関係深い者達に取りついた、残滓とも云える物です。 よくぞ、此処まで穢れを持ち込んだものだとは思いますが。 穢れである『呪い』には、触れぬ様に」
「はい。身を慎み歩みます」
「それが良いでしょう。 さぁ、もうすぐです」
リックデシオン司祭の歩みは止まらず、それが、偏に彼がこの場所に何度も訪れた事を、雄弁に物語る。 月の無い夜もあっただろう。 漆黒の闇の中を一人、教皇猊下の元に参じた事もあるのだろう。 彼の足取りは確かで、迷うそぶりを全く見せない。 わたしは、ただ、ただ、リックデシオン司祭の後を付いて行くだけだった。
やがて、大きな扉の前に到達する。 何回も階段を上った事で、この場所が中央尖塔の最上部に近い場所である事は、なんとなく理解出来ていた。 周囲を伺うと、その大きな扉が有るばかり。 木製の扉は金の装飾で飾られ、その部屋が特別なモノだと云わんばかり。
尖塔の最上部にしては妙だよね。 となると、この場所は……
―――― 教皇猊下の御座所となるの?
重厚で大きな扉の前に立ち、黄金で出来たノッカーを三度鳴らすリックデシオン司祭。 静かにその扉が内側に開く。 侍従職の神官が頭を下げ、聖印を胸に私たちを迎えて下さった。 私も聖印を胸にして、扉の内側に入る。
魔法灯火が、壁際に幾つか灯る、広い部屋の中。 幾つかの小部屋続く扉は有るものの、大きく見れば、単一の御部屋。 円形の御部屋は、とても広く、周囲の壁には幾つもの長ぼそい窓が見て取れた。 勿論、窓には様々な精霊様の徴を刺繍した、豪奢なカーテンが掛かって居て、外を伺い知る事は無い。
しかし、それも窓の上迄。 天井は高く大きくせり上がっていて、中央部はとても高いの。 あちらこちらに細く天窓が設えられているけれど、夜の帳が降りた後、ただ漆黒の星空が覗くばかり。 月光が天窓から差し込む、その天井は全天を思わせる様に丸く、天空のような壁画が描かれている。
今は闇に閉ざされているけれど、きっと、日の出ている時間に訪れたなら、この場所が室内とは思わない…… だろうな と、思った。
部屋の中央は、一段高くなっており、祈りの聖壇が設えられていた。 今は、其処に人影は無い。
周囲の開けた場所に、執務机や晩餐に使うような長机、書籍を一杯に収めた書架が並ぶ場所、それに、大きな寝台が有った。 大きな影が、その寝台の上にあった。
リックデシオン司祭は、歩みを寝台のある方へと進める。 侍従職の神官の方々は、既にその姿を小部屋に隠し、この広いお部屋の中に佇むのは、私とリックデシオン司祭、そして、寝台の上の人影ばかり。
「猊下、お連れ致しました」
寝台の上に横たわる影から、重々しい声音で、お言葉が紡がれたの。
「うむ…… そうか。 刻はまだ、輪転していたか。 それは、重畳」