エルデ、大聖女オクスタンス様の極秘命令を遂行し、秘匿された『聖女』となる。
「おやおや。 大聖女オクスタンス様の愛弟子は、その愛が怖いと見えますね。 その気持ちは理解できますよ。 よもや、このような聖遺物を送って来られるとは……。 申し訳ないのですが、こう『精霊様の息吹』が荒ぶっていたのでは…… 私が付き添えるのは、此処までになりそうです」
リックデシオン司祭様は、少々困った顔で、司祭服に縋り付いている私を優しく見つめながらそう言葉を紡がれるの。
「あの聖櫃の傍に近寄れるのは、相応に鍛錬した聖騎士か、あの聖櫃の中身に認められし者だけの様です。 よくぞ無事に此処まで届けられた事。 アルタマイト教会の聖堂騎士は、清廉な者が多いのでしょう。 しかし、あれに近寄る事が出来ますかエル? アレに近寄れる何かしらの『出来事』が有ったのでしょうか…… エル、覚えは有りますか?」
強烈な精霊様の息吹が取り巻く聖櫃の中に収められているモノ。 それは、現状では、『禁忌』と云える古代の英知。 ” その術式を知る者は、その力の使い方を知らねばならず、創造神様の御心に叶う行動を取らねば、『黄泉路』へと直行する ” と、言い伝えの有る、ある意味、強烈な『呪詛』が掛けられたかのような、聖遺物の内容物。
――― 上位巻物
『特級呪物』とも云われる物
憶えは有るわ。 ええ、大聖女オクスタンス様に手渡され、アルタマイト教会、大聖堂の聖壇前で掲げたんだもの。 そして、その聖遺物による『試問』が行われた。 そう、『知識の源泉』が私の脳裏に転写された、あの時の事をまざまざと思い出していたの。
「はい…… 司祭様」
「ならば、エルは何を為すかの『答え』は、その身の内に有るのでしょう。 大聖女オクスタンス様は、それを実行する事をお望みです」
「はい…… 畏れ多い事成れど、大聖女様の御意思ならば、第三位修道女エルは成さねばなりません」
「善き哉。 ささ、お早く。 この扉を開けたままにしておくのは、少々問題が在りますからね」
「はい」
リックデシオン司祭様の司祭服から手を放し、震える膝に叱咤激励を与えつつ、一歩一歩と、その質素であり、神聖な箱へと歩みを進めるの。 いや、もう、本当に、どうなっているのよ。 渦巻く精霊様方の息吹は、並みの『聖結界』なんか目じゃない程強い。
邪なる思いを持った者。 邪悪な思想を持つ者。 人の昏い想いを強く保持する者。 悪鬼、魔物の類。
そういった者達は、この箱に近寄る事も出来はしない。 精霊様の息吹が、燃やし、溺し、腐食させ、身の内に刃を生成し、蔓草が体を拘束し、聖なる風が体を切り刻むから。 複雑な術式が、風の中に漂い、この箱を包み込むように、堅固に守護しているのよ。
私は…… そんな暴風の様な精霊様の息吹の中、一歩一歩と歩みを進める。
真摯な祈りと、創造神様への感謝を胸に、怖がらず、恐れず、心を静め、さしずめ、深い森の奥の泉の様に凪いだ心で……
頭では判っているの。 感情がうねる度に、精霊様の息吹が、私の身体を強く押し留めるから。
でもね…… それでも、行かねば成らない。 まるで何かの審問の様に。 私が慈愛の心を持ち、人々の安寧に努力してきたかを問われている……
精霊様の御力をお借りして、数々の『祈り』と『浄化』を、アルタマイト教会から王都聖堂教会までの道程で執り行ってきた。 その中には、明らかに上位巻物の知識も含まれていた。
大聖女様にも内緒で行使した、いわゆる『聖女』の術式。 人を癒し、穢れを祓い、『創造神様の鉄槌』まで、『勧請』したんだもの……
だから、私は、この審問に応えねば成らない。 その術を知り、その術を使い、その術が創造神様の御意思に叶うと、私は信じていたから。 なにより、私が為した事なのだから。
―――― 私の『意思』で。 我が神名エルデを以て。
だから、怯んでなんていられない。 一歩一歩確実に。 さながら、森を歩む巨獣が如く。 私が私でいられるように。 神様と精霊様の御意思を顕現せしむ為に。
これこそが、今 私に求められている……
―――― 矜持 ――――
俯き加減だった姿勢を正し、真っ直ぐに視線を聖櫃に向けて、近寄っていく。 もう…… 精霊様方の息吹は、私を押し返す事は無い。 私が何者で、何を為す者か…… それが、判ったから。 押し返す『力』は、今や私の背中を押す 『力』となる。 この聖櫃を護る精霊様の息吹が、私に力添えを与えてくれたのよ。
ええ、そう。
心を決め、背筋を伸ばし、私は歩む。
そして、ついに、聖櫃に辿り着いたの。 質素な箱の上に手を翳し、掌に内包魔力を練り上げつつ集中させる。 頭の中に刻み込まれた、『古の知恵と知識』が私にそうさせるの。 口から祈りの聖句が流れ出る。 意識も何も有ったものじゃない。
それは単なる『儀式』では無かったの。 もう、古すぎて誰も覚えていない、『誓約の儀』。
そして、私は真理に辿り着いたの。
ええ、既に誓約は成されていたと。 あの日…… 大聖女様に 上位巻物を手渡された時から。あの審問に私なりの答えを回答した時から。
――― 上位巻物が、私を認め、私に知識の源泉を転写した時から。
「我、エルデ。 此処に、聖櫃との道を開かん。 聖櫃が蔵するすべての知識と知恵を以て、倖薄き人々を安寧に導く事を誓わん。 【開錠】、聖櫃が内に秘めし全てを我に」
手元が眩く光り、そして、いくつかの魔法術式が飛んできたの。 私の右手の掌にくっきりと印綬が刻印されたわ。 周囲の精霊様の息吹が、まるで無かったのかの様に凪いだの。
そう…… 【誓約】は成った。
私は、聖櫃への接触接続権を手に入れたの。 私は何処にいても、聖櫃の中身を閲覧できるし、聖櫃の中に何かを入れる事も、出す事も出来る様に成ったの。
正に神の奇跡ね。 聖遺物と云う、本物の『解析不能の古代遺物』の使用権限を手に入れたのよ。 対価は…… そう、言上げした通り ” 倖薄き人々を安寧に導く事 ”
貧しく病に倒れた人を無償の愛で癒し、もう一度立ち上がれる様に導く。
傷を負い、生活が困難になった人の傷を癒し普段の生活に立ち戻れる様に導く。
親無き幼子の心の支えとなり、愛する人を黄泉路へ送り出した人に寄り添って、その心を慰める。
数え上げればキリがない程。
神官のあるべき姿であり、極めて厳しい道でも有るの。 でも、それは私も望んだ事。 悲惨な死を迎えまいと、創造神様に縋った私の行くべき道でもあるわ。
あの日、大聖女様は仰った。
” 残念ながら、巻物自体をエルに与える事は出来ない。 それを持つ者は、『聖女』である必要がある。 エルは第三位修道女。 その事に変わりはない。 よって、保持は出来ぬ。 が、内容を知る事は構わぬ。 わたしがそれを許したのだ ”
と。 今日、私は聖櫃との誓約が結ばれ、接触接続権を戴いた。 中に所蔵される上位巻物を手に入れたと同義なの。 つまり…… 私が知らない間に、試されたと云う事。
―――― 試練を完遂して、【聖女】として、認められたと云う事。
聖櫃の前に跪き、創造神様への感謝の祈りを捧げる。 真摯に、感謝の心を以て一心に。 すでに、私の手には大きすぎる力を手に入れてしまった。 そして、何を為さねば成らないかの『指針』をも、戴いてしまった。
もう、後戻りは…… 決して出来ないのよ……
もう…… もう…… もうね。 なんとも言えない気持ちが、心の中を渦巻いているの。 表面上は静謐な心。 深層部分では、激しく流れている…… そんな気分なの。
「よくやりました。 まさか、この目で『神聖聖女の生誕』を見るとは思いもしませんでしたよ。 知っていますか、エル」
「はい、何でしょうか?」
「聖女には二通りあるのを」
「えっ? も、申し訳ありませんが、存じ上げません」
「では…… 一つは、妖精様方が見初められて、彼等の権能を以て、聖女の資質を与えられる者。 もう一つは、自身の研鑽と、献身を以て、創造神様と精霊様方から諮問を受け、それを完遂せし者。 多くの聖女様方は、前者でした。 しかし、本物…… という訳では御座いませんが、力ある『神聖聖女』……
” 聖なる力を振るう、神の代理人たる女性 ” は、本当に希少で、貴重なのです」
「私が後者の…… なのですか?」
「エル。 これは、極めて政治的な話になりますが、神を奉じ、世に安寧を願う本物の神官達は、後者の聖女の出現を、心から願っているのです。 しかし、多くの場合、世の柵がその本物の聖女から神聖を奪ってしまう。 恐ろしい事に、後者の聖女は、神様の御信頼を失うと、黄泉路へと誘われる。 そして、数々の誘惑がそれを容易くしてしまう…… 気に恐ろしい、” 人の業 ” という訳です。 よって、貴方が『神聖聖女』として、聖櫃に認められたことは、秘匿せねばなりません。 この世界の為に、有象無象の思惑に乗って、失う訳には行かないのですよ」
「……はい。 それは、理解しているつもりです。 わたくしは、十一歳まで侯爵家で、『人の業罪』を隅々まで学んでおりました。 それを実践しても居りました。 もう、そんな事をしなくても良いとなって…… わたくしは自身が罪深い者であることを自覚しました」
「そうですね。 エルは、そう云う人でした。 今、聖櫃と誓約を結んでいるのは、三人だけです。 一人は貴女。 そして、大聖女オクスタンス様。 今一人は…… 病に伏している教皇猊下です。 皆、深い信仰心を持ち、倖薄き人々に神の恩恵を導こうとしている尊き人達。 貴女もその一員に成りました。 これからも、民の為に尽くしてくださいますか、聖女殿」
「勿論に御座います。 第三位修道女エルは…… 神名エルデは、倖薄き人々に幸多からん事を真摯に願い、これからも『お勤め』していく所存に御座います」
「善き哉。 これで、大聖女オクスタンス様の厳秘の『御命令』は完遂出来ました。 神に感謝を。 貴方に祝福を。 あとは…… そうですね。 教皇猊下との面会を如何にかしなくては成りませんね」
「はい…… 御目通りする日を、心からお待ち申し上げます」
あれほど荒れ狂っていた精霊様の息吹は今は静まり、聖櫃を取り巻く聖結界に収斂されていたの。 最初からそうであるかのように。 そして、それが常態であるかのように。 微笑み頷くリックデシオン司祭様。
柔らかい笑みが、私に向けられるの。
春の日を思わせるような、そんな暖かい笑顔。
慈愛に満ちた目で、私を見詰めて下さるの。
あんなにも、恐ろしかった異端審問神官様だったのにね。
もう、二度とリックデシオン司祭様は、私を陥れるような事はしない。 何度目かの最後の様には成らない。 私に牙を剥いた世界の一部が、私に笑顔を向けてくれたの。 そうね…… もう二度と、あの道には入らない。
選択が、行動が、私の在り方を変えたと…… 世界の意思に 『定義』 された私とは違う ” 何者かに ” 私は成れたのだと……
そう、自覚した瞬間だったのかもしれないわ。 その事を理解した私は……
――――― 自然と『微笑み』を、浮かべていたの。