エルデの決断
私が、この『記憶の泡沫』を得て、事象を俯瞰的に考える事が出来たと云う『事実』が何を意味するのかを、必死に考え続けた。 実際には、瞬刻の間だったのかもしれない、でも、それは私にとっては『無限』の時間に等しかった。
―――― 思考は加速し続け、そして収斂する。
収斂した思考は、一つの可能性を『私の脳裏』に浮かび上がらせる。 世界が…… もう、“ 死して、『物語』の進行を過たず進める『鍵』 ” としての私の存在を、必要としなくなったのではないかと。
つまり、『世界』の意思が、私を必要としなくなり、私が私として生きて行っても良い…… と云う事なのでは? 『貴族の義務』とは別の、この世界のお話を成立させる為の『意思』から命じられた『黙示』から、解き放たれたと云う事なのでは?
この想像に至る原因の一つは、入れ替え子を成した妖精がその事実を忘れていたと云う、有り得ない事柄だった。 妖精の悪戯を忘れる妖精など居ない。 まして、入れ替え子などと云う、領地を統治している貴族家に対して、最大罰とも云えるような事柄を、忘れる妖精などと云う存在は、本当に有り得ない。
十一年の歳月を経て、今になってその事実が開陳されるのは、今まで27回の輪環でも、同じ事が行われたのは、『記憶の泡沫』が見せる過去の出来事の起点から判った。 産まれ落ちて、取り替えられ、十一歳の今日に至るまでは、多少の振れはあっても、全て同じ事象の連なりであったと、記憶は云う。
全ての起点は、今日…… この日、この場所、この時を以てして、始まると。 赤子の取り換えが発覚して、取り替えられた赤子が、十一歳に成り再びリッチェル侯爵家へと帰還すると決まった日。 その日、その時、その場所に居るのは、今までも同じ。 そして、この壮大な物語は、開始される。
今までの私は、その事を知らず、只、大人の云う事に諾々と従っていた。 質が悪いのは、貴族の体面と貴族的義務と云う本音を、優しさと云う甘美な蜜で包んだ事。 決して、私に配慮した結果では無く、全てが欲得ずくで成された決定だと云う事。 なにより、其処に私の意思は全く入って居なかった事。 いや、考えさせて貰う暇さえ与えられない程、押し流されて行った現実。 ふと、思ってしまう。 これは……
――― 妖精による、ヴェクセルバルクの解消が、人の『浅知恵』と『情念』で完了しなかったと云う事ではないのかしら? 収斂しきれなかったヴェクセルバルクが、世界を…… ループさせていた、根本原因なのでは無いかしら ……と。
世界の『意思』から、もう私を必要としないと云われたのならば…… 確実に『惨死』への道を歩むくらいなら…… 私が私として、生きて行けるのならば、もう私はこんな家に居る必要はない。
だから、決断した。 断固とした決心を元に、お母様…… いえ、侯爵夫人にご提案申し上げた。 これが、この家の娘として育てて戴いた、最後の御奉公として、遠く離れていたけれど、『娘』と呼んで育てて頂いた対価として、私が差し出せる最良の答えが口から紡ぎ出される。 まるで、本能に従うかのように……
「侯爵夫人。 即座に孤児院へ お嬢様のお迎えを送るべきです。 セバス。 お迎えの準備を。 わたくしは、部屋に戻り、彼の方の御迎えの準備を致します。 妖精様、御前を下がるお許しを」
綺麗に淑女の礼を捧げ、談話室を出る。 お母様…… いいえ、侯爵夫人は私の言葉にハッとし、家令のセバスに矢継ぎ早に何やら指示を飛ばしていた。 御兄さま達もソワソワとし始め、妖精様は……
満足げに頷いておられた。
――――― ☆ ―――――
お部屋に戻り、身に着けた宝飾品を手早く外す。 貴重品入れの宝石箱に大切に仕舞い、厳重に封印を施す。 それは、私とマーサの約束事。 ドレスを脱ぎ去り、髪を解き梳く。 出来る限り質素な下着に着け直し、マーサが用意していた、下町巡り用の庶民の服を着ける。 地味な茶色の髪の毛と、この国の人間ならば何処にでもいるような翠色の瞳の私は、何処から見ても庶民の娘。
マーサに言いつけたのは、この部屋の清掃と封印。 彼女の腕ならば、人が暮らしていた『生活感』すら払拭してしまうだろう。 そう、もう、私はこの家の娘では無い。 だから、私が暮らした痕跡は極力消してしまう方が良い。
誰が見ても、そんな娘が居なかったかの様に。 この家には、最初から私など暮らしていなかったかの様に。 そうした方が、これから迎える、『本当の御令嬢』が、此の館で、そして、王都本邸で敬われ生活出来る。 そう考えた。
―――― 『泡沫の記憶』では、今まで私を育てた経緯を鑑み、さらに本当の娘は領都の教会に併設された『孤児院』に居た為、侯爵夫人が私を王都本邸に急報を入れ、侯爵様に判断を委ねた。
侯爵令嬢としては、教育が出来ていない奔放な輝く愛らしい娘と、侯爵夫人の意地の薫陶の結果、侯爵令嬢として申し分の無い礼法と儀礼を身に付けた、煤けた娘を手に入れた侯爵は慶び、私たち二人を王都の本邸に受け入れたのよ。
ただ…… あくまでも、私は『おまけ』としてね。 だから、私は正式には侯爵家の娘では無かったの。 単なる居候。
侯爵閣下にしてみれば、もし、ここで私を放り出してしまえば、貴族的外聞に直結するとの思惑もあったらしい。 それに何より、侯爵令嬢として何も知らない彼女に付け焼刃とはいえ、「淑女教育」を施すのならば、私が近くに居た方が “ 良い手本に成る ” との判断もあったかと思う……
―――― 最初の頃は。
実際、彼女を目にした侯爵は、その愛らしさに心を奪われ、彼女を溺愛し彼女の意に染まぬ事を良しとはしなかった。 やがて、引き取った私を目の敵にするのは、火を見るよりも明らかな未来の出来事。
―――― 嫌だ。 もう、どんなに心を砕いて、愛したって、『愛されない』のは嫌だ。
疑惑の目を向けられ続け、義務を強要され、結果を求められ続けた結果、切り捨てられるのは、もうこりごりなの。 だから、速やかにこの家を出る方策を考えたの。 ええ、かつての記憶を取り戻した今なら、その『回答』が直ぐに出るのよ。 だって、十七、八歳までの人生を既に27回終えているのよ?
その中には、王族連枝の婚約者が施される『妃教育』すら含まれるのよ?
『記憶の泡沫』が結合した結果、その記憶を取り戻したのよ?
つまり、私は既に約450年分の『記憶』と『教育』を、受けているの。 こんなのって……ほぼ『人外』よね。 こんな事実を突きつけられた、十一歳の女の子が、これほど冷静に対処するなんて、可笑しいもの。 こんなにも、心が凪いで、思考の深みに更けられるなんて、まるで魔物よ。
――― だけど、今はそれに感謝すべきね。
全ての準備が整い、部屋を出ると、表玄関と談話室の方が騒がしくなり始めた。 到着したのね。 領都アルタマイトのリッチェル侯爵家本宅と、教会が運営する孤児院は、そう遠くは無い。 まして、「妖精様」の御顕現により示された『託宣』が有れば、教会は一言も差し出口を挟むことなく、彼女をこちらに向かわせるわ。
きっと……
『記憶の泡沫』にある通りの彼女ならば……
侯爵夫人を一瞬で虜にしてしまうわ。 公爵夫人の幼少期と、とてもよく似た美しい女の子なんですものね。 煤けた入れ替え子な私とは、比べるのも烏滸がましいわ。 さて…… 最後の仕上げと行きましょう。
談話室に戻り、奇跡の光景を目の当たりにするの。 美しい家族の肖像が其処に有った。 妖精様が多数の祝福と加護をお与えになる美しい女の子を中心に、侯爵夫人、侯爵家御継嗣、並びに御次男、御三男様方が膝を突き、一心に祈ってらっしゃる。
私も部屋の入り口で、膝を折り祈りに加わるの。
” 妖精様方の加護アレ ” 、と。
世界は…… 『世界の意思』は、やっと訪れた希望の情景に、最大限の歓びを御示しになられるわ。 それが何かと云うと、過去27回にお与えになった加護を全て彼女にお与えになる。 複合した『加護』は、光と成り吹き上がる。 過去27回も同じだった。 でも、28回目…… 最後の輪環は少し違った。 結合し交じり合った27回分の『加護』は、『聖なる力』と、変化した。
俗に云う…… 『聖女生誕』ね。
なんとなくだけど、想像していた。 何故、世界の『意思』がそれほどまでに、彼女を欲したのか。 この世界の平穏と安寧に必要不可欠の『聖なる力』の保持者を切望されていたのね。
ここに、世界の『意思』の希求は完成した。
宜しい。 もう、私が…… 『その呼び水』として存在する必要は無くなった。
万が一、私がこの『リッチェル侯爵家』に残り、その女の子と一緒に暮らしたとしたら……
きっと……
世界の『意思』は、私を排除しようと、残酷な未来を用意するに決まっている。
必要の無くなったモノへの世界の『意思』の対処は、
――――― 過去27回の『未来』で、十分に理解している。