『思惑』 エオルド=ミルバースカ=リッチェル従伯爵
エオルド=ミルバースカ=リッチェル従伯爵は、陰鬱とした表情を隠すことなくその顔に浮かべ、事務官たちが出入りする執務室にて、領政を執り行っていた。 カリカリとペンが報告書の上をすべる音だけが、静まり返っている執務室に響いている。
心休まる何事もなく、ただ、ただ、日々の重責だけが彼を包み、抑えつけてくる様な感覚を持っていた。
領政の重圧がこれ程のモノであったとは、着任当初は思ってもみなかった。 自分の能力に絶大な自信を持っていた彼は、実際の業務に就いた後、それが砂上の楼閣であったことを痛切に感じても居た。 何かが足りない。 それは、領を恙なく治める為に必要な重要なモノであった。
ペン先が止まり、報告書の一つに承認印を押し、決裁済みの箱に入れたのと同時に、執事のセバスティアンが、茶の用意をして執務室に入ってくる。 優雅で油断ない、優秀な執事である彼が、静かに言葉を紡ぐ。
「エオルド様。 ご休憩のお時間で御座います」
「うむ…… もう、そんな時間か」
「ご休憩に成る事も又、執務かと…… お休みに成られれば、また、善き考えも浮かぶやもしれません」
「そう…… そうだな。 ありがとう」
「勿体なく」
「領の者達がどのような者であったか、改めて認識すると、自分が如何に思い上がっていたかを痛感する。 お前達無しでは、このリッチェル侯爵領は治めきれない。 『人を大切にする事』 ……あぁ、妹がそう云っていた」
遠い目をしてエオルドは執務椅子に深く背を預ける。 領の細々とした厄介事を捌くには、貴族女性達の力添えが何よりも有効なのを目の当たりにして、その事を彼に『伝えた』自身の妹だった女性の姿が脳裏に浮かんでいた。
――― 第三位修道女 ―――
自身の愚痴の様な話を真剣に聞き、そして、適切な助言を与えてくれた少女。 知性の輝きを瞳に灯し、もつれた厄介事の解決に向けた糸口を口にする彼女。 エルデとの会話に、” どれ程 ” 助けられたか。 もし、彼女が今も自身の傍にいれば…… そう切望しても、すでに叶わぬ事になってしまった。
「エルデ様がですか? 孤児院で、お逢いになった折にでしょうか」
「あぁ。 ……今では ……会ってもくれないがね。 もう、会うつもりも無いと、そう云われた」
「……やはり」
「あの子は、王国法も存分に学んでいたようだね。 学習院で上辺だけを撫でた私なんかよりも、余程深く理解している。 ……教会の大司教様より『お話』があった」
「無理筋の願いでした。 リッチェル侯爵家とは関係の無くなってしまわれたエルデ様を当家にお迎えしようとしても、どうにもその理由が御座いません。 これは、『お話』を致しましたね」
「それでも、あの子は、私の妹だ。 ……血縁関係に無くとも、私の妹なのだ」
「……エルデ様は、違ったのでしょう。 もう、あの方を縛る事は出来ますまい」
「…………縛る?」
怪訝な視線をセバスティアンに向けるエオルド。 自分は、自分の傍に妹を、置きたいだけなのに、それが彼女を縛るとは、どういうことなのか。
彼女が貴族籍を失っているのは、自身も知っている。 ゆえに、もう、王都に彼女を送る必要もなく、彼女が成したアレコレをこれからもこの領で引き続き担って欲しいと云う事が、彼女を縛る事に成るのか? ……と。
庶民よりもずっと恵まれた生活を保障出来るのに? 煌びやかなドレスだって、奇麗な宝飾品だって、望める生活があるのに? 女性は、そのようなモノに心を寄せるのではないのか? 自身の婚約者がそうであるように…… と。
しかし、それがどうやら違うと、エオルドは今更ながらに認識し始めていた。
「エルデ様は、高い貴族の『矜持』と、『存在意義』を、強く意識されておられました。 が、あの方は、お嬢様と立場を入れ替えられ、今では一般庶民。 王国籍も危ういその御立場。 しかし、幸いな事に『神籍』を取得されました。 神の家の僕たる立場を、ご自身で掴まれた。 わたくしは、そう理解しております。 なによりも、リッチェル侯爵家の疵に成らぬ様にと…… エオルド様、そうでは無いのでしょうか?」
「……大司教様にも諭された。 私が横車を押せば、それがリッチェル侯爵家の疵となる。 ……と。 あの子が侯爵家の『疵』となると。 他家への弱みと成ると…… エルデがそう云っていたと…… なぜ、何故に、あの子は……」
「そう云う方でした。 この地に住まう者達を…… 我等使用人にも…… その仕事と生業を、高く評価され、そして、慈しんで下さいました。 なによりもリッチェル侯爵家の体面を重んじ、貴族たるものとしての矜持をお持ちでした。 誠、領都の女主人だと…… 皆、そう云う目で見ておりました。 若旦那様にもそう云った方をお早くお迎えして頂きたいと、皆、思っております」
「セバス……」
「これは、失礼いたしました。 旦那様にお願いして、早急にエオルド様の御婚姻に向けた準備をせねばなりますまい。 女主人不在の今、少々…… いいえ、かなり領政に支障をきたしておりますので」
「…………判っている。 判っているのだ。 エルデが興した『事業』も早急に引き継がせねば成らぬのに、王都の者達にはどうやっても伝わらない。 私の婚約者にしてもそうだ。 いまだ学習院に在学中だが…… 認識が違い過ぎる」
「成さねばなりません、それが御領…… ひいては王国の安寧に繋がるのですから」
「…………そうだな。 また、考える」
「宜しいかと」
沈黙が静寂を呼び寄せる。 茶道具の音だけが広がる執務室。 つらつらと思考の海に沈みこむエオルド、何かを思い出しながら虚空を睨みつける。
そして、彼の心に浮かび上がる感情。 『諦めはしない』と、そんな暗い光がエオルドの瞳に浮かぶ。
彼の心を透かして見るセバスティアンは、小さく頭を振る。
” それは、望んでも手に入らないモノに御座いますよ、若旦那様 ”
……と。