十一カ月と二週目
もうすぐ領都教会にお世話になって一年。 長くもあり、短くもあった日々に、思いを馳せる。 遠く連山が夕日に赤く染まる、夜の帳が降りる時間。 教会の裏庭で本日最後のご奉仕である、薬草園での薬草採取の合間に、ふと立ち上がり蒼く、紅く、漆黒染まりつつある空を見上げる。
『記憶の泡沫』が語る、わたしの壊滅的な未来は、かなりの部分で回避できたと思う。 第一、私の立場は、記憶の泡沫の中の様に根の無い水草の様な者では無かったから。 信仰と慈愛と云う大地にしっかりと根を下ろし、その上でようやく双葉を開き始めた、『民草』となったんだもの。
『民草』には、『民草』の生活があるわ。 もう、蒼き血を保持している方々の手先になるのは、まっぴらごめんなの。 だから、あの日から面談を求められたエオルド様と逢う事は無い。 もう、二度とお逢いする気は無い。
私をリッチェル侯爵家に?
有り得ないわ。 なんの身分も持たぬ私が、侯爵家に入り「女主人」の役割を「仕事」として成す? そんな横紙破りを国や他の貴族は絶対に認めない。 そして、また、私は何かの謀略に巻き込まれるわ。 きっとね。
嫌よ、そんな中に敢えて飛び込むなんて。
もう、私の役割は終わったの。 だから、放っておいて欲しいのよ。 そんな私と教会の対応に、エオルド様は相当に焦っておいでで、何通もの『お手紙』が、領都教会に届いているらしいわ。 それは、それで困った事なんだけれども、理を以て大司教様が立ち塞がって下さっているの。
私の元には、そんなモノは届かない様にね。
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大聖女様の御導きで、ようやく自身でお薬も製薬する事も出来る様に成り、薬師院でのご奉仕の幅もいよいよ広がって来たの。 大聖女様から読んでおくようにと渡される『巻物』も、もう五十巻を越えた。
魔法を編む方法も、その精度も向上して、さらに神様と精霊様への祈りを朝夕繰り返す事で、体内魔力量も、『記憶の泡沫』が教える過去の私と比べても、まさに『巨大な内包魔力』と云えるほどに成長した。
使える魔法も又、その効果が大きく成る。 夕暮れに沈んだ薬師院の奥へと、大聖女様に呼ばれた。 何かしらの教授が有るのだと思う。 今までもそうだったから。 解放されている『奥の間』には、ゆったりとした椅子に大聖女様がお座りになって居られた。 にこやかに私を部屋に招き入れられたの。 大聖女様の前まで伺候して、膝を付く。 そんな私を極めて優しい視線で見つつ、大聖女様は仰るの。
「……第三位修道女エルよ。 その力は、まさに神と精霊の御力。 ゆめゆめ、我利に使う事、無きように。 なに、心配はしておらぬよ。 そなたには、そなたのやり方で、慈愛と慈しみを広げれば良い。 教会に利用される事も、まして狸共の思惑に乗る必要もない。 信じる道を歩みなさい。 神様の御意思を汲み取り、精霊様の御声を聴きなさい。 どんな仕打ちをされようとも、エルの心は硬く護られ、神様と精霊様に愛されるから」
「はい、大聖女様」
「エル…… これを」
一巻の巻物を手渡された。 今まで、頂いた物とは違い、黄金のケースに保護された、とても貴重な上位巻物。 巻物を開くには、相応の内容魔力と、魔力操作の力が必要とされ、誰彼構わず開く事は出来ない。 間違った手順で開こうものなら、特大の呪いが、『開こうとした者』に振り掛かる『特級呪物』とも云われる物。
「こ、これは……」
「『聖女』が『聖女』足り得るのは、【浄化の魔法】を行使する事が出来るから。 術式は王宮魔道院の禁忌術式を収める書棚にも有るが、アレでは起動出来ぬ。 その巻物に、その事が記されている。 残念ながら、巻物自体をエルに与える事は出来ない。 それを持つ者は、『聖女』である必要がある。 エルは第三位修道女。 その事に変わりはない。 よって、保持は出来ぬ。 が、内容を知る事は構わぬ。 わたしがそれを許したのだ。 良いな」
「は、はい……」
「良い子よな、エルは。 エルならば、この中の『知恵の源泉』を得る事が叶うであろう。 聖堂に於いて、巻物を開きその知識を得よ。 開き方は、そなたの中より湧き出る。 巻物は既にエルを認めて居るでな」
「はい、大聖女様」
退出を進められ、その足で大聖堂に向かう。 まるでそう定められた様に。 神様の御許、精霊様の息吹の強き場所に於いて、開くべしと、そう定められているかのように、私は何の迷いもなく、大聖堂に足を踏み入れる。
―――― シンと静まり返った薄暗い大聖堂の中央。
聖壇の前に跪き、『上位巻物』を掲げる。 神様と精霊様への祈りを口にし、掲げたそれに、私の魔力を注ぎ込む。
『設問』が、私の頭に浮かび上がる。
〈 汝、命を慈しむ者か? 〉
「はい」
〈 汝が手に託される人々の幸の為に身を捧ぐか?〉
「はい」
〈 汝が知り得た事を余人に漏らさぬか?〉
「はい」
〈 汝は研鑽を常とし、より高みを望めるか?〉
「はい」
〈 汝は善きものと悪しきものを見極め、善き道を進むことが出来るか?〉
「はい」
〈 汝は慈愛を以て勤めを精勤するか?〉
「はい」
〈 汝は、神と精霊に問いかけに対する答えを実行すると誓えるか?〉
「はい、わたくしの全てを以てして、御心に叶う様に精進いたします」
〈 聖女が『誓約』は結ばれた。 善き哉。 さすれば、汝に知識の源泉を転写ようぞ〉
両手で捧げ持つ、『上位巻物』の封印が解かれ、黄金のケースが蓋を開ける。 中から夥しい数の光帯が紡ぎ出され、私を取り巻く繭の様に、包み込んだ。 脳裏に膨大な「何か」が、送り込まれ、刻み込まれた。
右手の甲が熱くなり、何かが其処に送り込まれる。 ぼんやりと、意識を保つことが難しくなりつつも、その事は、何故かはっきりと理解できた。 そして、わたしは突然理解した。 右手の甲に『聖紋』が刻まれた事を。 この力を行使する時、『聖紋』がそれを判断すると云う事を。 神様の御心に叶うならば、絶大な力を放出する事を。
……これが、『聖女』の任命式だと云う事を。
大聖女様は、独断でわたしにこの任を任された。 また、『残念ながら、巻物自体をエルに与える事は出来ない。 それを持つ者は、『聖女』である必要がある。 エルは第三位修道女。 その事に変わりはない。 よって、保持は出来ぬ。 が、内容を知る事は構わぬ。 わたしがそれを許したのだ』と、仰った。
つまり、「秘匿せよ」との思し召し。 巻物自体は、大聖女様にご返却する。 しかし、知識と知恵は、私が保持せよと云う事。 なにより、病に侵され、傷を負いても尚、黄泉路への時間が有る者に、治癒を施せと云う、強い祈りがそこに在った。 聖女として教会に任じられてしまうと、どうしても高位の者達へしか、その力を行使する事は出来ない。 囲われてしまう…… 民草に神様の思し召しは遠く届かず、だから、故に、大聖女様は広く人々に神様の恩寵を広げたく思われ……
―――― 私に託された。
そうね。 そうよね…… あの悲惨な末路に至る『役割』を放棄した私が、何のために産まれ、何のために生きているのか。 神様と精霊様は、私に新たな『使命』を、お与えに成ったのよ。 多分ね……きっとね……
ややもすると、意識が飛びそうになるけれど、何とか踏ん張って、儀式を最後まで終える。 巻物が持つ知恵と知識が私に転写されると同時に、上位巻物は、しっかりと再封印された。 捧げ持つ上位巻物は、鈍い黄金の輝きを持つケースに再び戻され、私の手の中に有った。
「御誓約申し上げます。 今も、今後も、わたくしエルデは、神様と精霊様の思し召しと慈愛と恩寵を、恵まれぬ者達への献身により、分け与える事を。 祈ります。 祈願いたします。 この誓約が良きモノとならんことを」
聖壇の前で跪いたまま、深く頭を垂れ、床に額を付け跪拝し、『言上げ』を行った。 これって、確実に「精霊誓約」の上位互換よね。 神様に直接誓約申し上げる事になったのよ。 大聖女様…… 知ってて、敢えて私に云わなかったよね。 『その道の秘儀は、その者にしか見えない……』 だったかしら? 途轍もなく重い『御役目』を背負った気分。
でも、いいの。
だって、私が何者であるか……
それが、今夜規定されたんですもの。
秘匿された『聖女』かぁ……
でも、大聖女さまは、こうも仰っていたわよね。
” よいですかエル。 貴女は貴女の倖せを求めてもよいのです。 廃聖女の私が云うのもなんですが、教会だけが全てでは有りません。 貴女の献身や努力は間近で見ている私には、よく理解できていますよ。 でもね、何事も遣り過ぎは良くないのです。”
と。
” 別に聖修道女に成るのが唯一の道では有りませんよエル。 貴女はまだ未成年。 これから素敵な恋をするかもしれないのです。 人の心など、どういう風になるものか判りはしません。 素敵な殿方を見つけ、どうしてもその方の傍に居たいと云うならば、還俗し生涯を誓い合うのもまた一つの道。 神の御心に叶う行動なのですよ、よいですか。”
とも……
「聖女」の心得を持ちつつ…… 自身の人生を歩めと…… そう、大聖女様は仰るの? 私の身を案じ、未来に於いて、どんな選択をしても良いように? 頬に涙が零れ落ち、流れてゆく。 心が温かいモノで満たされてゆく。 こんなにも、こんなにも、想われていた。
私のお勤めへの献身は、たんにあの悲惨な未来から逃げたかっただけだった。 だれも愛してくれない。 誰からも、疎まれている…… そう、思いこんでいた。 でも、でも…… 違った。 聖修道女の皆様、そして、教会の神官様、修道士様、童女の同僚たち。 優しく力強い皆の心。
……誰よりも、私の事を考えて下さり、様々な未来への岐路を用意して下さったのは、大聖女様。
それは……
紛れもなく……
愛しい子への……
” 愛 情 ” に、他ならない。
そう、強く心に刻まれたの。