十カ月と一週間目
お洗濯で使う水がぬるみ、仲間の堂女達と喜んでいたのよ。 厨房でのご奉仕は、寒い間は人気なご奉仕だから、他の人に回してたの。 だって、ただでさえ大聖女様に ” 贔屓にされて居る ” なんて、思われていたんですもの。 だから、少しでも風当たりを抑えるのに、志願して不人気なご奉仕に身を捧げていたのよ。
聖修道女様方は、そんな私を見て密かに頷き合っていたわ。 大聖女様もまたしかり。 自分達が目を掛けている三級修道女が、陰で陰湿な嫌がらせを受けていないか目を光らせていたって、こっそり薬師院付きの聖修道女の御姉さまが教えてくださったの。 度々、大聖女様にも、” あまり強くあの子に関わると、他の者達への示しがつきません ” なんて、牽制もして下さったわ。
大聖女様ったらね……
「自ら見出した者へ、導きを与えるのがそんなに悪い事なのか?」
って、仰っていたらしいけれど、薬師院付きの聖修道女様に、
「王都大聖堂では、年端も行かぬ第三位修道女に高位の聖職者が目を掛ければ、どのような仕儀になって居りましたか?」
みたいに、やんわりと伝えてくださったの。 あちらは、領都とは比べ物に成らない程、聖堂内に魑魅魍魎が跋扈しているって聞くし…… 大聖女様は顔色を変えて、聖修道女様方に頭をお垂になったのよ。
「すまない…… 年を取ると、何事も性急に運ぼうとする…… 私には残された時間があまり無いからな」
「何を仰います。 あの子に大聖女様の全てを伝える切るまでは、黄泉の旅路に出立はせぬとの思し召し。 まだまだに御座いましょ?」
「はぁ…… そうね。 その通りね。 気を付けるわ」
あのちょっとお休みも、こんな感じのお話し合いが有ってから…… だったらしいわ。 だけど、それも又いい事だったの。 女子修道院の皆さん、孤児院の皆さん、薬師院の皆さん、そして、領都の中の人達との交流が一層深くなり、私もいじめられずにすんだんですもの。
教会の皆さんとお話をして、街の薬師所に教会薬師院のお薬を届け、商工ギルドへお供したり、色々と…… 本当に色々と経験させて下さったわ。 領都教会の中で、いずれ聖修道女としての道を歩み、大聖女様の業を受け継ぐ者として…… 様々なご教授を頂く毎日だったの。
でもね、ちょっとした暗雲と云うか…… 晴天に現れる雷雲みたいなモノが現れれては消えるの。
―――― それは、領都教会の聖堂からの知らせ。
ある日、聖堂の大司教様からの御呼び出しが有ったの。 余人を交えずお話がしたいとの思し召し。 大聖女様もお話の内容は知らされておらず、皆で少々不安に思ったのよ。 大司教様からの御呼び出しなんて、生半可なモノでは無いのよ。 だって、領都教会の一番偉い人よ? 王国で言ったら、|末端貴族の準騎士爵《庶民に毛が生えた程度の貴族》が、国王陛下に謁見の間に呼び出されるようなモノなの。
有り得ないでしょ?
だから、大司教様の意思がどの辺りに有るのかって…… 女子修道院の皆が…… 本当に皆様方が危惧されていたのよ。
呼び出し当日。 領都教会聖堂、面談室。 ちょっとした会堂で、部屋の大きさはさほどではないのだけど、さすがは領都教会聖堂の御部屋。 内装も什器も、一流のモノが揃えられている上に、部屋の奥には神様の紋章と精霊様の紋章が掲げられており、全く以て神聖な空気で満たされていたのよ。
担当の神官様に連れられて、その部屋に入り、静かに大司教様をお待ち申し上げていたわ。 瞑目して手を胸の下に組み、神様と精霊様に祈りを捧げながらね。
――――
「第三位修道女エル。 君の今後について、少々話がある」
「はい、大司教様。 わたくしの様な者にお時間を頂き、誠に心苦しくありますが、お尋ねになると云う事は、領都教会にとって重要な事であると認識致しました」
「うむ。 聡い子だ。 その通りなのだ。 しかし、この事については、教会の一存では決められぬ。 既に君は神籍に入っている歴とした『神官』第三位修道女なのでな」
「はい」
つ ・ ま ・ り…… 私の意思を確かめたいと仰っているのよ、大司教様は。
―――
このオズワルド大司教様は、枢機卿と云う地位にも就かれていらっしゃる、聖堂教会の事実上の最上位組織の一員。 大司教様の上には教皇様とお仲間の枢機卿が十七人居られるだけ。 そして、教皇様と十八人の枢機卿が、この国を含めた王国の有る大陸全土の聖堂教会の最上位組織となるのよ。
その権勢は絶大。 枢機卿で在らせられるオズワルド大司教様は単独で国王陛下とお話が出来る権能を持ち合わせていらっしゃるし、教皇様に至っては国王陛下がその足下にお運びに成られるような関係性が有るのよ。
もっとも、聖堂教会は政治的な事に関しては一切関与せず、神に祈りを捧げる崇高な使命をもって、大陸全土への愛と慈しみを以て、神様と精霊様方と妖精様方の加護を勧請する任を背負っていらっしゃるの。 世俗のアレコレにはほぼ関与せずって事。
それにね、それらの事を調整せねば成らない時には、枢機卿様方の『合議』で意思決定されるのよ。 もっぱら十八人会議とか教会内で言われているモノ。 枢機卿様方のなかで、世俗とよく交わられて居られるのが九名。 もう九名の方々は教皇派と云われる、信仰に生きて居られるから、よく言えば均衡がとれている。
悪く言えば、即断できないの。 とっても、とっても、保守的な組織なのよ、聖堂教会って。 だから、わたしが隠れ住むには、とても善き場所なの。 だって、政治的な事から離れていよう、貴族的思考から離れていようと思えば、いくらでも離れていられるのだもの。
このオズワルド大司教様は教皇派の穏健派。
なによりも前例を重んじ、過去に有った事を引き合いに出され、神の御心に叶う様にと御心を砕かれるの。 そして、なによりも聖典、教会奉典をなによりも大事に思われて居られる、清廉潔白な方なのよ。 ええ、そう、皆は信じている。
そんな方が、『重要』であると判断されて、私を呼び出し、さらに私の『意思』を聞くと仰られている。 とても…… とても、嫌な予感がするの。
「わたくしの意思で御座いますか。 それは、どのような意味でしょうか?」
「君に…… 『還俗願い』が、出ているのだよ」
「『還俗願い』にございますか? わたくしには係累はもういない筈。 ……親権を持つグランバルト男爵様はすでに黄泉路に旅立たれ、生母様は男爵様が生きて居られるうちに、全ての権利を放棄されてご実家にお戻りになったとか? 孤児院の院長様より戴きました、 ” わたくしに関する資料 ” に、そう記載されておりましたわ。 ですから、わたくしは『特例』で任じられている、第三位修道女として、日々のお勤めに励んでおります」
「うむ、君の事情と、君の献身はよく耳にしている。 大聖女様の秘蔵の子と、そう聖修道女たちから呼ばれて居る事もね。 普通ならば、こんな還俗願いなど、一顧だにしない。 しかし、それを教会に提出した人物が無下に出来るような方では無かったと云う事だよ」
「……領都教会に於いて、発言や書簡を無下に出来ぬ方…… つまりは…… そうなのですか?」
「推察通り、リッチェル侯爵家という訳だ」
「…………何故、今なのでしょうか?」
「そうだね、君の事情を知る私も同じ事を考えた。 ヴェクセルバルクとして、精霊様に断ぜられた君。 十一年暮らしたリッチェル侯爵家からほぼ着の身着のまま領都教会の『孤児院』にグランバルト卿の遺児として 『 交換 』 された君。 更に云えば、そのグランバルト卿は君を知らず、認知書類も無いので、貴族籍すら無くしてしまい『一介の庶子』と成ってしまった君。 ほぼ一年前の出来事は、『教会の神籍』を持つ神官達も皆、気を揉んでいた見詰めていた。 あの我等教会、領都の民、リッチェル侯爵領の民草に深い慈悲と慈しみを以て、様々な事を成して下さった エルデ=ニルール=リッチェル侯爵令嬢が何故故に…… とね」
身に染み入るような御声だったの。 そっかぁ…… 頑張って居たのを見てくれていた人も…… 居たんだ…… ちょっと前を、思い出してしまった私の口調は、少々変化したの。 ええ、第三位修道女では無く、蒼き血を持つ者としての声音を出してしまっていたのよ。
「……失いはしましたが、その時はわたくしは貴種に産まれ、貴族の有るべき『姿』、『行動』を成しておりました。 蒼き血の求むるに応えた迄に御座います」
「僅か十一歳にしてね。 本当にリッチェル侯爵家は馬鹿な事をしたと…… 今でもそう思うよ。 さて、君の推察通り、リッチェル侯爵家御継嗣 エオルド=ミルバースカ=リッチェル従伯爵様が君の還俗を願ってきた。 正式な書式に則ってだ」
「……それは、いかなる待遇によるものでしょうか?」
「『侯爵家の名に於いて身分保障をする』 だ、そうだ」
「聡明なるエオルド卿ともあろう方が、そのような事を? 王国法的にはありえませんわ。 横車を押されますか、あの方は」
「ん? どういう事だね? 聖典や教会奉典には明るいのだが、王国法…… いや、王国貴族法には少々疎くてな」
「はい、それは……」
まさか大司教様相手に王国貴族法をご説明するとは思わなかった。 今回、エオルド様が領都教会に出された還俗願いはそもそも筋違いの物なの。 教会に対し、『還俗願い』を出せる者の『条件』は、たったの二つ。
一つは、神籍に有る者の血縁者。
父でも母でも祖父母でも、そして兄弟姉妹でもいい。 血縁者が教会に対し、息子や娘、孫、兄弟姉妹を返して欲しいって願い出る事。悪評のほとぼりが冷めた、『やらかした令嬢』をもう一度社交界に迎え入れるとか、お家の為に政略結婚を結ぶとか、そう云った時に願いだされる事が有るのよ。
もう一つは、還俗する者の配偶予定者。
つまり婚約を前提に神の前に『誓約』を誓い、その者と永遠を誓う者。 夫、もしくは妻となる予定の者…… ね。 まぁ、堂女仲間達に言わせれば、“ 身請け ” って事ね。 教会の聖堂に於いて、神に誓うから、まぁあまり俗なモノでは無いけれど……
決して貴族家の利を求めて、『養女』とするとか、『身を請け出す』なんて事で、還俗願いを出す事は出来ないのよ。 まして、『侯爵家の名に於いて身分保障』なんて理由で、『還俗願い』を出す事は、出来る筈も無い。 そんな事を認めれば、神籍に入った者を貴族が自由に取り出せるって事になってしまうから。 孤児ならば…… それは可能よ? でも第三位修道女とは言え、神籍に入った者を教会から勝手に連れ出すのは神の御心に反するもの。
――――――
でもねぇ…… リッチェル侯爵家はこの地の御領主様でもある。
私が『諾』と云えば、教会も考えてしまうでしょうしね。 でも私は断固として『否』を申し上げるわ。 せっかく逃げ出せたのに、なんで今更戻らないといけないのよ。 それに、エオルド様の思惑も透けて見えるのよね……
ここ暫く、頻繁に孤児院の面談室にやって来られるのよ。 『愚痴』を云いにね。 正当な御婚約者様を未だにこの領地に招く事も出来ず、御成婚に至らない御継嗣様。 表向きは領政に邁進されているのだけど、それじゃ片方の車輪しかない荷車を曳いているのと同じ。 王都ではどうなっているのかは知らないけれど、王国辺縁域にある領地に於いて、領主、または御継嗣の御妻女の権能は絶大なのよ。 殿方の知らない情報は、社交の場で密やかに語られ、調整され、領政に反映されるの。
利益相反事案にかんしても、『お茶会』の席で “ ある程度 ” 合意に達しこれを以て『連枝』、『寄子』の者達に公平な判断が下されれるの。 殿方が面子を重んじ、異を唱えても、御夫人達が抑え込んでしまわれる。
―――― 辺縁域の御婦人はある意味御領主様方よりも力を持っているモノなのよ……
それが理解できたエオルド様は困られている。 私が紹介した御夫人方の御助力も、ご婦人方の御家にとって都合の良いモノと成る可能性も有るわ。 したたかな王国辺縁域の貴族の御夫人よ、そのくらいの利益誘導など御手のモノなのよ。 それを見極めて、公平に物事を進める事を強いられるのが、御当主、御継嗣たる方の片羽根に成るべき方。 『侯爵夫人』と、その権能を分与されている、領の『女主人』たる者の力なのよ。
その役目を私に押し付ける気ね。 あんなヒリヒリした空気のお茶会なんて、二度と出たくないし、出る資格も権能も何も無いと云う事は、理解されているのかしら?
エオルド様の御考えは……
―――― 浅すぎるわ
―――――
つらつらと、王国貴族法に関するこまごまとした条文を思い出しながら、ご説明申し上げたの。 大司教様はとても聡明な方。 わたしの拙い説明でもしっかりとご理解されたわ。
「つまり、御継嗣殿の『還俗願い』は、王国の貴族法的には、法的根拠が無いと云う事だね」
「はい。 王国貴族法に照らし合わせても、わたくしを “ 身請け ”する『条件』が揃っておりません。 あの方は、わたくしをまだ、ご自身の『妹』だと、誤認されて居られるやもしれませんが、既にわたくしはリッチェル侯爵家の者では御座いませんし、また、わたくしを『妻』にと、そう思し召して居られる訳でも御座いません。 仮にわたくしが『諾』と云いましても…… 王国法に照らし合わせますと、「違法」と成ります。 貴族の世界はとても怖い場所。 誰かがリッチェル侯爵家に意趣を向ければ、すなわち、わたくしが『その対象』となり、御領主様ご一家の未来に暗雲を齎すことにございましょう」
「成程、御領主一家の為にも 『 否 』を唱えるのか。 理解した。 王国貴族法も良く練られているのだな」
「過去の過ちを繰り返さぬ為の、『至高の法』と位置付けられておりますもの」
「ふむ。 私が考えていた以上に『聡い』な、君は。 どうだね、修道士と共に、聖典の研究を務めてみないか?」
「いえいえ、わたくしの様な第三位修道女には荷が勝ちすぎます。 それに、わたくしには成すべき事も多々御座います」
「大聖女様の元での研鑽か。 あの方の御手による薬は広く民への慈しみと成っている。 それを補助するのも……」
深く、慈愛の視線を向けられた大司教様をしっかりと見詰めなおし、絶対にリッチェル侯爵家には戻らないと云う意思を込めて、私は言い切ったの。
ええ、言い切ったのよ。
「それが、わたくしの『神様への祈り』の一つの形に御座います」