『さよならを言う前に』8
8
「―――――さようなら」
「山祢さん!!」
とにかく無我夢中で、わたしは走り出しました。彼女との距離は僅かです。飛びかかるように彼女の体を抑えれば――
「来ないで!」
裂けるような声で、山祢さんは叫びました。
「来たら死んでやるから。もう生きてる意味ないでしょう? あたしの無実を証明出来ないなら、裏切った人間が平然と生きているなら、あたしはもう死んだほうがいい!」
「馬鹿な事言わないでください!」
わたしは思わず、怒鳴り返します。
「言ったじゃないですか、傷つけられた人間は幸せにならなくちゃいけないって。傷つくだけの人生なんて、絶対に間違っています。そんなの、理不尽過ぎるじゃないですか!」
誰が何と言おうと、傷つけられた人間は幸せにならなくちゃいけません。
だって、だって、そうでないと何も救われない――
「ははは……」
山祢さんが口元を歪めました。
「あんた、随分甘いんだね。人生なんて、こんなもんだよ。何をしたかどうかなんて関係ない。理不尽な目に遭うか遭わないか。ただの運なんだよ、人生なんて!」
喉を嗄らすかのような叫び声が夜の空に木霊した、その時――
「人生が運かどうかは知らないけれど――」
不意に、誰かが静かに、そんな事を言いました。
いいえ、誰かではありません。ついさっき、ここへ来る前に聞いた声です。
花のような白い髪。その両側に見える黒い犬耳と、スカートから見える白い尻尾。
冷たい、湖水のような瞳。
「少なくとも、あなたは今ここで投げ出すべきではないわ。山祢カオルさん」
冬物らしいジャケットを身に纏い、軽くスカートを翻して、彼女はそこに立っていました。
「忍冬、さん……」
驚きました。何故忍冬さんが、ここにいるのか。彼女の後に続いて、知らない女の子が二人、こちらへやってきます。
驚いたのは、わたしだけではないようでした。
「忍冬。何でここに……」
「あれ、忍ちゃん?」
駒草さんとフェンネルさん、お二人もぽかんとして忍冬さんを見つめています。それに、何故かはわかりませんが、レージとエイリ、彼ら二人も驚いたように彼女を見つめています。
「もう……ホントに、何なの、今日は」
山祢さんが泣き出しそうな顔をしました。
「死ぬには良くない日、という事でしょう。とにかくそれを下して。余計な騒ぎになるわ」
忍冬さんがそう言いましたが、山祢さんは彼女を睨みつけたまま、包丁を離しませんでした。
「……そう。じゃあ、そのままでいいわ」
目を閉じて、小さく息をして、忍冬さんは言いました。それから目を開けて、今度は男の子のほうへと向き直ります。
「遠間レイジ、あなたの相談に決着をつけましょう。必要な手がかりは全て揃ったから」
「え……?」
男の子は何か聞きたげでしたが、忍冬さんは構わずに話し始めました。
「最初から始めましょう。今回の事件の頭から。
事の発端は、二年生の生徒の絵具が消えた事から始まった。探してみても人に聞いても見つけられず、結局この日はそれで終わった。
この時は、まだ事件ではなかった。
次の日になって、今度は一年生のスケッチブックがなくなった。これも探してみたものの、結局見つける事は出来なかった。
二日続けて失せ物が続いたけれど、この時もまだ、これらは事件ではなかった」
忍冬はさんは、そこで一旦息を継ぐと、再び口を開きました。
「さらに次の日、今度は三年生の絵筆がなくなった。と、同時にさらに別の物がなくなった。
最初に絵具を失くした二年生、網澤タカノの財布が消えてしまった。
ここで、事は事件性を帯びた。
それまでは美術部員の失せ物で済んでいた話が、金銭が絡んだ事で事件となってしまった。
そして、真相を知るために部員全員が荷物を検められ、一人の生徒が犯人とされてしまった」
わたしは、夕刻左目で見た光景を思い出します。
おぞましい目で山祢さんを見つめる、部員達の姿を。
「決め手になったのは、山祢さんの鞄から全ての失せ物が出て来た事だった。
でも、ちょっと考えればわかる通り、もし仮に彼女が犯人なら、二日も前に盗んだ物が、いつまでも鞄に入っているのはおかしい。さらに言えば、失せ物は皆全て、彼女の鞄に突っ込まれるような形で入っていた」
「何が言いたいんだよ?」
声を上げたのは、ギャルっぽい女の子でした。エイリ、という名前の。
「これが事件ならあまりにも出来過ぎているという話よ。絵筆と財布だけが出て来るならともかく、四つの失せ物全てが出て来るなんて、普通に考えればあり得ない。
そういうわけで、私と奥鐘さんは、この一件が山祢さんの名誉を貶めるべく仕組まれたものだと考えた」
「はあ?」
突っかかるように女の子は言いますが、忍冬さんは無視します。
「さて、事件が仕組まれたもので、その目的が山祢さんの名誉を貶める事だったとして、誰がそんな事を企んだのか。
条件から考えてみましょう。犯人は四つの失せ物全てを盗める人物で、なおかつ山祢さんの鞄にそれらを入れる事が出来る人物でなければならない。
部活中の美術部は部員全員が作業をしていて、人の出入りもあった。各部員は作業に没頭していて、人の目を盗むのも容易い状況だった。絵具、スケッチブック、絵筆の三つは、この状況下なら誰にでも手を出せる。
でも、財布は違う。
持ち主である網澤タカノは財布を普段から鞄の中に入れていて、人目に付かないようにしていた。犯人が財布を盗むためには、タカノの鞄に近付かなければならなかった。もっと言えば、財布が常にタカノの鞄にある事を知っていなければならなかった」
「いや、そんなの簡単じゃん? 友達とか財布出すとこくらい見てるっしょ?」
「そうかもね。でも、友達が勝手に財布を取り出すのは簡単ではないわ。ましてや、その財布を関係のない人物の鞄に入れるのは、どう考えても不自然よ。金銭目当てならお金は回収出来ないし、嫌がらせが目的なら方法が間違っている」
「いやいや、金抜いて財布だけ入れたのかもしれないじゃん? あんた頭悪いの?」
「本当にお金だけが目的なら、他の三つを盗む理由がない。お金だけでなく他の物も欲しかったのなら、せっかく盗んだ物をわざわざ持ち歩く必然性がない。犯人には必要だったのよ、山祢さんを窃盗犯に仕立て上げるための小道具がね」
そして、と忍冬さんは言いました。
「四つ全ての物を手にする事が出来、なおかつ山祢さんを貶める理由を持つ人間は一人しかいない」
「……それは?」
と、聞いたのはフェンネルさんでした。
「――一番目であり四番目の被害者、美術部二年、網澤タカノその人よ」
忍冬さんは静かにそう言いました。
頭の中で審判の声が響いた。Allez! 試合の始まりを告げる声が。まさか探偵ごっこをするとは思っていなかったが、乗りかかった船か。
首筋に近かった彼女の包丁が静かに下された。どの道、後には引けない。引く事はもはや、許されない。
「何言ってんの? そこのフュージョナーにタカノさんは財布盗まれたんだよ? 何でタカノさんが犯人になってんだよ!?」
「財布は盗まれていない。網澤タカノは隙を見て財布を山祢さんの鞄に入れ、その後で盗まれたと騒ぎ立てた」
「……最初から説明してもらえますか?」
そう言ったのは、遠間レイジだ。
「出来るんでしょう? そこまで言う以上は筋の通った説明が」
抑えてはいるが感情的な口調だ。相方の先輩を侮辱されて怒ったのか。
筋の通った、か。ふん、いいだろう。
「そもそもあなた達二人がこの事件を知ったのは、当事者からの伝聞だった。全ての経緯を知る、公平な第三者からではなく、事件の渦中にいた人物からの。村木さんは親しい人間からの情報だから疑わず、そしてあなたは村木さんからの情報だから疑わなかった。
あなた達二人は提供者の都合に沿うように歪められた事件を信じ、そして動いた」
「俺は山祢を信じていますよ」
平然とした顔で、遠間レイジは言った。
「でも、エイリの先輩が悪い事をしたとは思えません」
――……そう思うのなら、そう思っていればいい。
事件は、この場で終わる。
「一つ目の失せ物から説明しましょうか。
山祢さんに窃盗犯の濡れ衣を着せる計画を思いついた網澤タカノは、まず手始めに自分を被害者にする事にした。それも初めから財布ではなく、事件性をより大きくするためにか、絵具という、盗まれたのか失くしたのかわかり辛い物から始めた」
この段階では、実際に物がなくなる必要はない。『物がなくなった事実』を周囲に知らしめればいい。事前に絵具を隠した網澤は、ターゲットである山祢に尋ねる。
『ついさっきまでそこにあったんだけど、山祢さん、知らないよね?』
『知りません』
絵具を盗んだ事を隠す犯人の反応としては、上々だっただろう。
「二つ目と三つ目の盗みは自作自演をカムフラージュするためと、先に言った事件をより大きくするために必要だった。だからおそらく、盗む物はどれでも、誰の物でもよかった。
でも、ちょうどタイミングよく、こんな出来事があった。出来事とは呼べない程の些細な事だけど」
――そういえば、一度席を離れた時、山祢が自分の絵を遠くから見ていた事を、後に一年生は思い出した。
「網澤がこのちょっとした事を実際に目撃したのか、それともたまたま標的に選んだ品物に、偶然そういう曰くがついたのかはわからない。いずれにせよ、後から人が聞けば、山祢に疑いを持たせるような、そういう都合の良い出来事があった」
そして、三つ目。
「コンクール用の作品を手掛けている三年生から、網澤は絵筆を盗んだ。
『窃盗犯山祢カオル』というストーリーを展開するなら、これもまた、あつらえたような材料だった。嫉妬からくる妨害工作でも何でも、辻褄を合わせる事が出来る。才能に嫉妬、という〝動機〟を用意するなら、スケッチブックを盗んだ理由とも辻褄合せが出来る。
さて、準備が整ったところで、彼女は最後の事件を起こした。
スケッチブックを盗み出したのと同じ要領で、さりげなく山祢さんの鞄に近付き、財布とそれまでの盗品を入れ、席に戻って、タイミングを見計らって財布がなくなったと言い出した」
ここで一度深呼吸した。頭をベストの状態に保たなければ。
周囲の反応を窺う。極端に言えば、本当に知りたいのは、レイジとエイリの二人だけだ。
レイジは、何とも言えない顔をしている。言いたい事はあるのかもしれないが、どうにも整理し切れていないようだ。
だがエイリは違った。意味不明だと喚き立てるのかと、そう思っていた。
村木エイリが浮かべているのは、笑みだった。どこから笑いを堪えているような笑み。
「すっげえ。探偵ドラマかよ。推理っての、初めて聞いっちゃった」
心底おかしくて仕方ない、という笑い方で、エイリは私を見る。
「でもおかしくね? 先輩が山祢を犯人にするためには、先輩の財布やら何やらが山祢の鞄から出て来るのを他の奴等にも見せなくちゃならない。タイミングよく持ち物検査があったから、山祢は疑われたけど、そもそも持ち物検査が行われる保証なんてどこにもない。山祢が全部持って帰ってたかもしれないし、仮に山祢が盗んだ物を捨てたりしたら、先輩ただの間抜けじゃん。そんな不確実な事、普通だったらしないと思うんだけど?」
挑むように、エイリは笑う。
ふうん。意外と考えるじゃないか。それなら、私の説を聞いていただこう。
「確かに、財布がなくなった時点で持ち物検査を行うだろうなんて、普通は予測しないでしょうね。でも彼女はわかっていたのでしょう。自分の物がなくなれば、教師はほぼ必ず、この場で真相を明らかにしようとするだろう、と」
「何、お前、タカノさんが自分は特別って思っていたとでも言いたいの?」
「そうね。そう言っても過言ではないでしょう。現に、ナユタ高校美術部において、彼女は特別な存在だった。それに関しては、私よりあなたのほうが、よく知っていると思うけど?」
一瞬、村木エイリがぽかんとした顔になった。
「……は?」
心底意味がわからないとでも言いたげな、小馬鹿にしたような目だった。
「ごめん、全然意味がわかんないんだけど?」
ほとんど予想した通りの言葉が、続いて飛び出してきた。
……少し、困った。本当に知らないのか。
まあ、いい。
「村木さん、あなた美術部の顧問が誰か、知っている?」
「知らねーよ。美術部じゃねーもん」
そういうものか。確かに、普段から関わりがなければ知らないかもしれない。
「仮にあなたは知らなくても、山祢さんは勿論知っている。だから、山祢さんは今日、網澤タカノに会いに行った。そうよね?」
様子を伺う意味も込めて、私は話を山祢カオルに振る。
青ざめていた顔に、少し生気が戻ってきている気がする。急に水を向けられた彼女は驚いたような顔をしたが、小さく、こくりと頷いた。
「おい、勿体ぶんな! どういう事か説明しろ!」
「網澤先輩は、顧問のアミサワ先生の娘だよ」
呟くように言ったのは、山祢カオルだった。
「あんたも知ってるはずだよ。アミサワが普段学校でどんな態度を取っているか」
――相手が被差別者と見るや、傲慢な態度を隠しもしない。
私は勿論、あの教諭の普段の姿を知らない。だが、見ず知らずの生徒にさえ、あそこまで悪意を込めて話をするのだ。
日頃は態度が違うというのは、考えづらい。
「いやいや。あたしはそのアミサワって先生知らないけどさ、タカノさん、めっちゃいい人だよ。仮にタカノさんが自作自演したとしても、原因はあんたにあるんじゃないの?」
村木エイリは折れなかった。
彼女にとって、悪いのはあくまでもフュージョナーであり、山祢カオルなのだろう。
どこで根付いたかもわからない、まるで当人にとっては常識にも等しい差別感情。
簡単に消えるわけがない。
「残念ですけどね、網澤タカノが差別感情を持っているのは事実ですよ。現に私達、言われましたから」
傍にいた小紋さんを軽く手で示しながら、奥鐘さんが言った。
「脇に退いてろ、半人どもって」
小紋さんがそっと頷いた。
村木エイリが口を噤む。何か言いたげだが、言葉が出て来る気配はない。
「――父親の性格を知っていた網澤タカノは、あらかじめこうなるであろう事を予測して、今回の事件を起こした。アミサワ教諭が普段学校でどういうふうにタカノに接していたかはわからないけど、自分の娘の財布を盗んだかもしれない容疑者の中にフュージョナーがいれば、どういう対応をするかは目に見えていたんでしょう」
疑わしきは罰せよ、だ。
さらにもう一つ、付け加えられる事柄があるが、それは黙っておく。確たる答えはないし、言っても、言わなくても事態はそんなに変わりはしない。
――網澤タカノは、何故山祢カオルがフュージョナーだと知ったのか。
これは、勿論父親から聞いたという可能性があるが、あの男も一応教師なので、生徒が隠したがっている情報を、いくら娘とはおいそれと話すとは思えない。守秘義務くらいは、守るだろう。
では、もし仮に、父親から聞いたのでなければ誰か。
伝聞だとすれば、考えられるのは一人だ。彼女は今、何か言葉を言おうとしている。
「……しょ、証拠は?」
多少つっかえながら、村木エイリが言った。
「ロッカーに鍵はないんだから、鞄には誰でも触れるじゃん。理由がないとか差別主義とかじゃなくてさ、確実に先輩がやったっていう証拠はあるの?」
……来たか。
確かに彼女の言う通り、罪を追及するのであれば確たる証拠は必要だ。今まで私が挙げた状況証拠だけでは、結局、言いがかりをつけているようにもなってしまう。
「あの人は全部言ったよ」
力ない声で、山祢さんが呟く。
「だいたいは、今、そこの人が言った通りだった。全部網澤先輩が仕組んだんだよ」
「うるさい、黙れ。あんたには聞いてない。証拠がなければ誰が何言おうが全部デタラメかもしれないじゃん!」
喚くような声音だったが、間違ってはいないし、正直に言えば痛いところを突かれている。
それこそ探偵ドラマなら、絵筆やスケッチブックから指紋でも出ればそれが証拠となるが、これは現実だ。私達の誰も、そんな物を検出する技術も設備も持っていない。
あるいはこの場に網澤タカノがいれば、これまでの推論をぶつけるだけで、真実を吐き出してくれたかもしれないが、彼女はここにはいない。
手がかりは全て揃った。事件の内容も推理出来た。
でも証拠だけはこの場にない。タカノが事件に関わっていたという痕跡は、情報を集めただけでは決して手に入らない。
「ほら、どうしたの。黙ってないで証拠だせよ、証拠を」
エイリの口調に自信が戻ってきている。周りの者は誰も口を利かない。
皆、私が答えを出すのを待っている。
私は記憶を探って考える。本当に、何もないだろうか? 何かを、見落としてはいないだろうか。
………………ああ、待て。もしかしたら。
「証拠が欲しいのね」
私は村木エイリを見る。彼女は苛立たしげに私を睨み返す。
「そうだっつってんだろ。早くしろよ」
「……わかった」
私は頷き、それから山祢さんに向き直る。彼女は、びくりとした顔で私を見た。
左手には、例の黒い手袋をしている。その手には包丁が握られている。
右手は、特に何もしていない。手も、普通の人間の手だ。鞄を持っているから、指は握り込まれている。
「山祢さん、鞄を貸してもらえるかしら」
「え? ええ、いいです……けど」
「ありがとう」
彼女に近付き、鞄を受け取る。右手が引っ込められる時、私はちらと、その指を確認した。
――よし。
あとは、賭けだ。大袈裟に言えば、この世に神がいるかどうか、という具合の。
鞄をおろし、私はチャックを開けて中を見る。
「中の物、出すわね」
彼女が頷くのを確認して、私は慎重に、中に入った教科書などを取り出していく。
「おい、何やってんだよ! さっさと証拠――」
「黙ってて」
そう焦らなくても引導はすぐに渡るのだ。私か彼女、どちらかに。
……………………。
やがて、私は鞄の底にそれを見つけた。ポケットティッシュを取り出し、爪の先でそれを摘んで、慎重にティッシュの上に置く。
「待たせたわ」
ティッシュの上に載せたそれを、私はエイリに見せた。
「何だよ、見えねーじゃ……」
言いかけて、彼女の口は止まる。見えたようだ。そして気付いたのだ。
これが決定的な証拠だという事に。
ティッシュの上に置かれたのは、白いバラだった。よく出来た、ネイルシール。
「山祢さんは爪に何もつけていない。そしてこのバラのシールは……」
彼女の指が僅かに動いた。シールによって飾られた爪も。
「網澤タカノの自作、だったわね」
エイリが膝をついた。
賭けには勝ったようだ。だが、特に嬉しくはない。それに、まだ言うべき事が残っている。
「事件のほうはもういいでしょう。相談の件に、決着をつけましょう」
「……まだ、何かあるんですか?」
口を開いたのは遠間レイジだった。
ええ、あるとも。
「私にとってはこちらが本番よ」
そう言って、私は彼に向き直った。
「今回の一件で、一番事態を引っ掻き回したのは、あなたよ。遠間レイジ」
さながらピストの上で向き合う心持ちだった。
遠間の表情が瞬く間に変化した。今まで気付かなかったが、片頬が赤く腫れている。何かあったのだろうか。まあ、今はいい。
「いや何でです? 俺は何もしていないでしょう?」
「それが問題だと言っているのよ。一度は身を挺して助けた相手なのに、何故今回は何もしなかったの?」
「いや、それは」
遠間は頭を振った。
「仕方ないでしょう? 俺は三日前まで何も知らなかったんだ。それに俺だって忙しいし、神様じゃないんです。いつでも助けてあげられるわけじゃないんですよ」
「……三日前?」
途端に山祢さんが声を上げる。
「何言ってるの? あたし、もっと前に電話したでしょう? 困った事があったら言えって、遠間くんが」
「うるさいよ! 電話なんかしなかったじゃないか。こっちがかけても電源は切ってるし!」
「それは……。遠間くんがあんな事を言うから、もう助けてくれないんだなって、ショックで……」
「お前、いっつもそうだよな。困ったら誰かが助けてくれると思ってる。俺だって全部面倒は見切れないんだよ! お前のために何でもしてやれるわけじゃないん――」
「いい加減にしなさい!」
たまらず、私は怒鳴った。
「遠間レイジ、あなたが本当に、彼女の相談に乗らなかったのかどうかは知らない。でもあなたがやれる事をやらなかったのは事実だわ。電話がかからなかったと言っていたわね。だから、彼女と直接話す事が出来なかったと。でも、あなたは他に連絡を取る手段を持っている。もし本当に心配して、どうにかして彼女の力になってやろうと思っていたのなら、あなたは彼女の家を訪ねる事も出来た。私達のところに来る前に、打てる手はまだあった」
中学の時、彼は彼女の家を訪ねている。当の本人が、そう言ったのだ。
「いや、いやいや、急に訪ねていったらいくら何でも迷惑でしょう? 常識がないのか、君には!」
言いながら、遠間はエイリの手を取った。
「行こう、エイリ。こんな人達にいつまでも付き合う義理はないよ。全く、本当に何なんだ!」
エイリは返事をしなかった。だが遠間は強引に彼女を立ち上がらせ、彼女の荷物を持って踵を返した。
行かせるわけにはいかなかった。だが、同時に私は山祢さんの事が気になった。これ以上、この場であの男を糾弾すれば、結果として彼女自身を深く傷つける事にはならないか?
逡巡が私の行動を遅らせる。芳崎さんが張り詰めた表情で、遠間に詰め寄ろうとする。
その時だった。
「……今、か?」
誰かが、場違いな調子でそんな事を言った。
「うーん、今はちょっと忙しくて。あとでじゃ、駄目か?」
まるで男の子のような口調だった。声から誰が口を動かしているのかが、わかった。私は、彼女を見た。
その左目の瞳が、琥珀色に輝いている。
「いや、だから、忙しいんだよ。山祢」
咲分花桃が、遠間レイジを見つめながら、そんな事を喋っている。
「咲分、さん……?」
芳崎さんが怪訝そうに呟いた。北園さんも奥鐘さんも、あの小紋さんでさえ、困惑したような顔をしている。
「何だよ、お前。頭おかしいのか?」
戸惑ったような声で、遠間が言う。
咲分さんが、にっと笑った。見ているこっちがぞっとするような笑みだった。
「いいえ、見えるんですよ。この左目には。あなたが山祢さんにどんなひどい事を言ったのか」
言って、彼女の目が、ここではないどこかを見つめるように視線が中空を向く。
「『いや、ホントに悪いんだけど、今、他の人と電話してるんだよ。頼むから、あとにしてくれって』」
「やめろ」
「『山祢、我がまま言うなよ。俺も俺の事情があるんだからさ』」
「やめろって」
「『大丈夫だよ。何があっても、山祢なら乗り越えられるって』」
「やめろって言ってるだろ!」
遠間の手が、咲分さんの胸倉を掴み上げた。
「何が悪いんだよ! 俺にだって都合があるんだ! そりゃ中学の時は助けたけど、正しい事はそう何度も出来ないんだよ! いつもいつも正しくは出来ないんだよ!!」
胸の裡を撒き散らすかのような叫び声だった。
咲分さんの目は冷たかった。何も感じていないかのように、遠間を見ている。
「別に、正しくする必要はなかったんじゃないですか」
ぽつりと、彼女は言った。
「ただ、一緒にいてあげればよかったんです。それだけできっと、ここまでの事にはならなかったはずです。あなたは傍に行って少しでも安心させてあげればよかったんです。だって、あなたは……」
琥珀色に光る目が、彼の瞳を見つめている。
「彼女の友達、なんですから」
遠間レイジは険しい顔を崩さなかった。手に込めた力を、抜こうとはしなかった。
後方で、音がした。山祢さんの左手から、包丁が地面に落ちていた。ぞっとなったが、幸い刃は誰も傷つけていないらしい。
包丁を拾おうと、彼女に近付いた時だった。
嗚咽が聞こえた。しゃくりあげる声が、聞こえた。五月にしては冷たい風が吹いてきた。彼女が、力なく膝をついた。
誰かの泣く声が、聞こえてきた。