『さよならを言う前に』6
6
それなりに期待していたものの、私の当ては外れた。
私が昔お世話になったかの先生は、ここ何日か病欠しているとの事だった。何でも、質の悪い風邪にかかったらしい。
「残念でしたね」
職員室を出たところで、奥鐘さんが言う。嫌味っぽい調子ではなかった。
「仕方ないわね。一番話を聞きやすかったんだけど」
まあ、よく考えてみれば、仮に会えたところでこの事態をどう説明するのか、という問題に突き当たる。相談部云々の話をして、さて細かい事情を話してもらえるかといえば、実際駄目だろう。話が思いのほか複雑だったせいか、ちょっと私も動転していたのかもしれない。
「どうします。思い切って他の生徒に話を聞いてみますか?」
「……いえ、やめておきましょう。変な噂が立てば迷惑するのは山祢さんだわ」
――事件を知って、他校生まで様子を伺いに来る。口さがない連中にしてみれば良い話のタネだ。どんな尾ひれがつくか、わかったものではない。
下手に動いて、これ以上事態を拗らせるのは御免だ。
「今日は帰りましょう。月曜までに今後の方針を考えておきます」
特に異論はないらしく、奥鐘さんは頷く。
収穫がないのは残念だが、仕方がない。私は昇降口のほうへと足を向ける。と――
「部長」
奥鐘さんが私を呼んだ。
「どうしたの?」
「これを」
奥鐘さんがA3くらいのサイズの紙を見せる。
受け取って眺めてみる。紙は何枚かが重なっていて、さながら新聞のようだった。『ナユタ市報』と見出しにある。
「市報紙。へえ、こんなものがあるのね」
「下のほうを見て下さい」
言われた通り、私は下部の記事に目を向ける。
と、見つけた。芸術欄だ。
第二回 ナユタ青少年芸術コンテスト 絵画部門
○最優秀賞 『火祭』 新郷学園中等部三年 小紋瑠璃
・選評
『小正月に行われる祭「どんど焼き」の風景を切り取った作品。雪が積もった中、燃え盛る炎と、それを見る人々の、息遣いさえ感じさせる筆致が素晴らしい』
○優秀賞 『ともだち』 ナユタ市立中学校三年 山祢カオル
・選評
『人物が漫画的ではあるが、温かみのある作品。作者の友人に対する思いがよく表れている』
○芸術賞 『キマイラの肖像』 ナユタ市立高等学校一年 網澤タカノ
・選評
『ライオン、鮫、鷲といった様々な動物達を伝説上の怪物キマイラの如く融合させた意欲作。筆使いはかの巨匠フランシス・ベーコンを思わせるアプローチだが、いささか意識しすぎか』
「山祢カオルと……小紋さん?」
受賞者は名前と写真が掲載されている。間違いなくそこには、小紋瑠璃その人の写真が載っていた。中学時代から、あの無表情は変っていないらしい。
そして、その横に並んでいるのが山祢カオルだ。二本結びの黒髪。顔には特にフュージョナーらしい特徴――鱗だとか体毛だとか――は出ていない。彼女の目元はきつく、カメラを睨み付けているような気さえする。
「小紋さんが美術関係で有名なのは聞いていましたが、山祢さんも実力者だったようですね」
相談の件とは直接関係ないものの、山祢カオルの顔がわかったのは進展だろう。
記事によれば、これらの作品は市役所の中で、今も展示されているらしい。市役所は北駅から歩いて十分ほどの位置にある。
――と、記事の終わりに、ある名前を見つけて私の気持ちは急速に落ち込む。
『選考委員 忍冬春治』
「……兄さん」
あまり見たくはなかった名前だ。春治は二番目の兄で、ナユタに限らず、世界的に見ても有名な芸術家なのだそうだが、性格は傲慢そのものな上に、承認欲求の塊のような男だ。今でこそ離れて暮らしているから顔を合わせる事はそうないが、まだ私が幼かった頃、作品作りに行き詰った兄が八つ当たりのように絡んできたのは一度や二度ではない。
「どうしたんです?」
「……いいえ。何でも」
まあ、兄の事はいい。
市報は職員室の入り口のすぐ傍にある棚の上に置いてあった。見ると、そこにはさらに手書きのポップのようなものが立ってあり、雲状に切り抜かれたピンクの紙に、マジックでこう書いてあった。『当校美術部、二年C組網澤さんと一年B組山祢さんの記事が載っています☆』と。
私は山祢カオルの次に選評が書かれた人物を見た。網澤タカノ。
……タカノ先輩、か。
「財布と絵具を盗られたという人ですね」
奥鐘さんも気付いたようで、市報を眺めながら言った。
「順番的には一番目であり、四番目の被害者、ですか。まあ、品物は見つかっていますけど」
「財布を盗られた事には、かなりご立腹だったみたいね」
当たり前か。財布を盗られて平然としてる女子高生、というのも想像しがたい。私だって盗られた腹が立つ。
「展示には、行ってみてもいいかもしれないけど……」
「いえ、部長。展示は今日の三時までです。もう間に合いません」
なるほど。まあ仕方がない。元よりどうにもならなかった事だ。
とりあえず市報を一部ずつ取って、私達は校舎を出た。
まだ明るいものの、夕暮れが近い。校庭では、野球部らしい生徒達が練習に励んでいる。
その中に、特に目を引く者はいない。服の下がどうなっているかはわからないが、おそらくは皆、普通の人間だ。
背後にある校舎を振り返る。
三ツ花とは違って、特徴的ではないのが特徴のような、どこの街にもありそうな普通の校舎だ。普通の人間のための、普通の場所。
山祢カオルはここに通った。昔からあるような普通の学校に。
隠すための手袋を嵌められているのだから、おそらく手の形状は大きく変化していまい。考えられるのは皮膚に変化が起きたか。いずれにせよ、『普通人らしい日常生活』を送るぶんには問題なかったはずだ。
私の場合、フュージョナーの特徴が表れているのは両側頭部より生えたイングリッシュ・ポインターの耳と、骨が尾てい骨にならずに発生した尻尾だけだ。足や手は普通人と変わりない。耳も人間の物が人間の位置に付いている。
犬耳は聴力がほとんどないし、座る椅子に気を付けていたりさえすれば生活に支障はない。
――『やっぱりおかしいんだよ。フュージョナーっていうのは』――
……実に、奇妙な言葉だった。
「――不思議ですね」
ふと、奥鐘さんが言った。
「何の話?」
「山祢さんの事件です。どうにも腑に落ちない点がいくつか」
「……私も、そう考えていたところ」
その言葉に、奥鐘さんの目が光ったような気がした。
立ち止まった彼女が、私の目を見ながら口を開く。
「一つ。何故、山祢カオルの鞄から全ての失せ物が出て来たのか?」
彼女の指が、一本立つ。
「二つ。何故、教師はすぐに持ち物検査を行ったのか?」
私もまた疑問を口にする。奥鐘さんが二本目の指を立てる。
「三つ――」
私と奥鐘さんの口が、ほとんど同時に動いた。
「何故山祢カオルがフュージョナーだという事が、生徒の間に知れ渡っていたのか?」
奥鐘さんが三本目の指を立てていた。
「一つ目の疑問から考えましょうか」
奥鐘さんが頷く。私は、これまでの道すがら考えていた事を口にする。
「発見された失せ物は、全て山祢さんの鞄に入っていた。ちょっと考えてみれば、おかしい状態よね」
「真っ当に考えるなら盗んだ物をいつまでも持ち歩いているはずはない。絵具にせよスケッチブックにせよ、もし彼女が犯人なら、盗んだその日に鞄から出しておくはず」
そうだ。自分が犯人であるという証拠を持ち歩くはずがない。必ず、自分の身から遠ざけておくはずだ。
「そうなると、次に問題になるのは二年生の財布」
落ち着き払った奥鐘さんの言葉を引き継ぎ、私は言う。
「もし山祢さんが犯人でないのなら、残る絵筆も財布も彼女の鞄に入ってはいない。でも彼女の鞄からはその二つが見つかっている。彼女が盗ったのでないなら、誰かが彼女の鞄に盗品を入れた事になる」
「犯人はあらかじめ絵筆や財布を盗んでおいて、隙を見てそれらを山祢さんの鞄に忍ばせた」
三年生の絵筆は、描かれている絵の近くにあった。
二年生は、普段から財布を鞄に入れていた。
絵筆は勿論、財布もその在り処を知っていれば、盗み出す事は容易だろう。鞄は普段、美術室前の廊下に設置された鍵なしロッカーに、信頼関係を前提に入れられている。
「問題は、何故そんな事をしたか、です」
絵具、スケッチブック、絵筆。この三つなら理由を想像出来なくもない。何かしらの理由からの嫌がらせだとか、こじつける事出来る。
だが、財布は毛色が違う。事はお金が絡む。相手に損害を与えるのだ。
さて、金銭狙いで財布を盗んだのなら、何故わざわざ他人の鞄に入れたのか。回収出来る手立てがあったか。いや。
「目的は財布ではなかった」
「犯人は最初から山祢さんに汚名を着せるために盗みを働いていた」
ご丁寧に持ち物検査の段階では、それまでなくなった物全てを、山祢さんの鞄に突っ込んでいる。
まるで、彼女が盗人である事を、強調するかのように。
「そう考えると持ち物検査がすぐに行われたのは、犯人にとっては幸運でしたね。山祢さんは部員全員の前で名誉を損ねられたんですから」
二つ目の疑問だ。『何故、教師はすぐに持ち物検査を行ったのか?』
「教師には、すぐに持ち物検査をする根拠があったはずです。調べれば何かしらの事実を明らかに出来る、と考えるだけの根拠が」
それが思想的なものであれ、感情的なものであれ、実際行動に移すには理由があったはずなのだ。
「でもそれは、今までの話だけだと考えようがないわ」
材料がない。今のところ聞き集めた情報だけでは、教師の人となりが少し伺えただけだ。手がかりが揃っているわけではない。
私は校庭のほうへ目をやった。何人かの生徒が、手を止めてこっちを見ている。一応警備室に話は通してあるし、ナユタ高校内にいるのに問題はないが、騒がれるのは面倒だ。
奥鐘さんも気付いたらしい。私達は自然と校門へと歩き出す。とにかく、ここは一度学校を出よう。考えるのは、外でも出来る。
「――何だ、君達は」
前方から声をかけられたのは、その時だった。
よれよれのワイシャツに、少し曲がった背中。痩身の男だった。手に書類か何かを持っている。おそらく、ここの教師だろう。
「他校生が何でこんなところにいる? 一体何の用だ」
「……いえ、実は私達、西ヶ谷先生に会いに来たんです。中学の頃にお世話になったものですから」
正直に私は言った。誤魔化す理由もない。
「西ヶ谷君に? 彼女はここ数日病欠している」
「ええ、伺いました。もう帰るところなんです」
「ああ、そうか。なら早く帰りなさい。他校生がよその学校をうろつくんじゃない、全く」
低い声でぶつぶつと呟くように、男が言った。
「ええ、すみません。すぐ行きます」
言いながら、私は男の傍を通り過ぎようとした。
……しかし、どこか見覚えのある男だ。どこで見たのだろう。最近ではない気がするが。
「……うん? 君、少し待ちなさい」
不意に、男が言った。振り返ると男がじっと私を見ている。
あまり気持ちのいいものではない。
「君は、確か忍冬さんの御息女ではなかったか。春治先生の妹さんだろう」
――ああ、そうか。どこで見たのか、思い出した。
今年の一月。屋敷のホールを使って開かれた新年会。そこに集まった数多くの客の一人に、いたような気がする。私は挨拶を済ませてから早々に離れへ引き上げたが、その時何となく見た中に、春治と話していたこの男を見つけた気がする。
「ええ、忍です。忍冬忍」
「そうか、忍君だ。思い出したよ」
そう言った男の顔が、笑みに歪んだ。気味の悪い笑い方だった。
「こう言うのも何だが、あまりご両親や春治先生に迷惑を掛けない事だ。君が何かをしでかせば、忍冬の家全体の傷になるのだからね」
――……ああ、この手の輩か。
「ええ、そうですね。ご忠告をどうも」
「立ち振る舞いには充分注意なさい。君らのような半人……いや、失礼フュージョナーは、ただでさえ、立場が悪いのだし」
胸の奥で血がごった返した。反射的に手が出そうになるのを、ぐっと堪える。
『半人』は明確な差別用語だ。内戦以前、フュージョナーという言葉が定着する前に、侮蔑的な意味を込めて使われていたこの国の言葉。
君「ら」のような半人ときたか……。
たちまち怒りに目が吊り上がってきた奥鐘さんに目で制し、私は言う。
「私達も常識のある〝人間〟なのですが」
「だが、悲しいかな世間はそうは見てくれない。疑わしきは罰せよ、という奴だ。ナユタはフュージョナーとの共存を主眼に置かれて造られた街だが、私に言わせればその共存という表現自体が差別的だ。人間とは違う生き物だと、認めているようなものだ」
「……長い、争いの歴史がありますから。それでも、共に生きていこうという目的は素晴らしいものだと思います」
「ふん。皆が皆そう考えていると思うのかね。ナユタは、いわば第二の東京だ。この街に集まるのは、新しい首都にいち早く住まおうと考えている連中だけだ。フュージョナー云々は関係ない」
「失礼ですが、あまりにも無礼な物言いですね」
ついに、奥鐘さんが口を挟んだ。
「差別感情を隠そうともせず、よく平気でいられますね」
「私の父も、そして祖父も、内戦時代はフュージョナーと戦ったのだ」
全く怯む事無く、男は言う。
「私自身も幼い頃にフュージョナーに襲われた事がある。そういう過去がある以上、残念ながら君達を公平に見る事は出来ない。扱いはきっぱりと分けるべきだし、私はいつでも人間の側に立つつもりでいる。はっきり言っておこう。フュージョナーは人類進化の過程で生まれた突然変異種であり、人間に比べれば劣るものだ。争いは決してなくならないし、我々人間が敗れる事はあり得ない」
堂々とした、一つの揺らぎもない言葉だった。あまりにも堂々とし過ぎていて、いっそ呆れるくらいだった。
ならば、もう話す事はあるまい。
「失礼します」
頭を下げて、奥鐘さんの袖を引っ張り、私はその場を辞そうとした。
と、またしても男の声が足を止める。
「ああ、そうだ。いずれ連絡するつもりだが、君から春治先生に伝えておいてくれたまえ。今年のナユタ芸術コンの選考委員に私も立候補するとね」
一瞬、考えを巡らせた。私は振り返った。
「――ええ、承りました。ごめんなさい、先生のお名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「私なら、ガンリュウだ」
ガンリュウ……。随分と厳めしい名前だ。苗字だろうか。たぶん、そうだとは思うが、名前にせよ苗字にせよ、あまり聞かないのは確かだ。
名前について咄嗟に考えてしまったせいで、結果的に私は反応するのが遅くなってしまった。それが面白かったのか、男が若干頬をほころばせた。
「はは、いやなに、雅号だよ。これでも画家の端くれだ。宮本武蔵が好きでね。先生にはこの名前を伝えてくれればわかる」
「……生憎と兄は職業柄人付き合いが多く、またあのような性格ですから、ほとんど人の顔など覚えておりません。出来るだけ正確に先生の事をお伝えしたいのですが、お名前以外には何か」
「だから、ガンリュウだ。ナユタ校美術教諭。先生とはそれなりに長い付き合いだ」
自分の認知度を否定されたのが気に障ったのか、男の声音に険が混じった。
「以前、担当している美術部にお招きして、講義をしていただいた事もある。とにかく、アミサワガンリュウが選考委員に立候補するつもりだと伝えてくれ。わかったね?」
奥鐘さんとは北駅で別れた。用事があるのだそうだ。
家に戻ると、私は着替えてランニングに出かけた。運動は好きだ。それに体を鍛えていないと、いつか、何かに負けてしまう。そんな漠然とした不安がある。
何かとは何か、と聞かれると困るが、たぶんそれは恐ろしいものだ。怪物めいた恐怖ではなく、背後から追われるような、油断すると私を引き摺り込む真っ黒な闇だ。
闇は、きっと私を離さないだろう。一度捉えられれば、私はきっと闇に捕らわれるだろう。
そして私もまた、闇の一部となるのだ。
ペースを上げる。呼吸が苦しくなる。筋肉を使い、走っている事を実感する。
鍛えていると、自己の存在を感じる。普段何気なく過ごしている自分というものが、体が追い詰められる事で認識を取り戻す。
鍛えている限り、私は私である事を実感する。闇と戦う自分、戦える自分を確信する。
何で、こんな事を考えてしまうのか。決まっている。兄と話したからだ。
仲の悪い兄――心を許せる兄弟などいないが――私を下等と言って憚らない、あの春治と。
『珍しいじゃないか、忍』
電話口で、数か月ぶりに兄の声を聞く。兄は今、この家に住んでいない。ナユタ市新市街の中心部、ナユタの富裕層が多く集う螺合区の高級マンションにアトリエを構え、そこで暮らしている。
『お前から俺を呼び出すなんて。何の用だ?』
『伝言よ』
約束は守る主義だ。何が禍根になるかわからないし、すぐに終わる用件だ。
『ナユタ高校のガンリュウ教諭が、今年のナユタ芸術コンクールの選考委員に立候補したいそうよ。伝えろと言われたから、電話した』
『ガンリュウ教諭だ?』
兄の反応は鈍い。
『誰だ、そいつ』
『前に、兄さんを美術部の講義に招いたって言っていたけど』
『……ああ、思い出した。あの画家崩れか』
兄が他人を見る際に気にする点は、基本的に二つだけだ。
容姿が美しいか、醜いか。
芸術的な素養を持つか、持たないか。
『あいつに伝えろ。自分の絵を見てから言え、とな』
『自分で言って。私は頼まれただけだから』
それじゃ、と言って電話を切ろうとすると、おい、と脂ぎった声で兄が呼び止めた。
『何か?』
『《バース》を読んだか? 最新号だ』
バース。確か、科学雑誌の一つだ。生憎とそれしか知らない。
『読んでないわ。じゃあね』
『そのバースに最新の学説が載っている』
自然と兄の声が張り上がった。私に何か聞かせたいのだ。どうでもいいような何かを。
『フュージョナー論だ。何故お前達フュージョナーが、何の前触れもなく突然に人間の腹から生まれるのか、という点に迫っている』
『どうでもいいわ』
兄がその言葉を聞いた様子はない。兄はたぶん、思い付いた事を思いついたままに喋りたいのだ。怒りに任せて絡んでくることはなくなったが、たまに話すとこれだ。
『大雑把に言えば、学者はストレスが原因だと書いている。フュージョナーが生まれた家庭で、子供が生まれる前後の家庭環境を調べたらしい』
私は黙って聞く事にした。早く終わるならそれに越した事はない。
『結果、フュージョナーが生まれる家庭のほとんどが、妊娠中に何かしら深刻なトラブルが起こり、母親の精神状態が著しく不安定になっていたらしい。頷ける話だ。確かにお前が母の中にいた頃、一時的に会社の経営が悪くなって母親が随分気を揉んでいたのを覚えている』
『ただの傾向でしょう。根拠に乏しいわ』
『かもしれん。まあそうでなくても、忍冬の家は呪われた家系だ。何が起こっても不思議じゃない』
科学雑誌の次は呪いか。節操のない男だ。
『何が言いたいの、兄さん』
『要するにフュージョナーとは、因果をその身に引き受けて生まれた存在だという事だ。この世界の邪念、禍、不条理、そういうものを体現すべく生まれたのだ。遺伝子の螺旋に呪いが刻まれている』
もしかして、酒でも飲んでいるんだろうか。この男は。
『フュージョナーだけじゃない。この世に特異な存在として生まれた者はどこにでも必ずいて、そういう奴等は皆、数奇な運命を辿るように仕組まれている。運命とは螺旋だ。この世この時代という一種の〝生命〟を織り成す、無数の遺伝子なんだ。俺達は螺旋の上を転がりながら動いているに過ぎない』
『……せいぜい良い絵を描く事ね、兄さん。仕事がなくならないうちに』
『お前が何故ガンリュウに会ったかは知らないが、何をするにしても気を付ける事だ。忍冬の家は他者を蹴落とし踏み躙って生き永らえた。お前にも俺にもその血が流れている。自分だけは違うと思うなよ。お前もいずれ必ず、自らのために人を傷つける』
私は電話を切った。最初からこうすれば良かったのだ。支離滅裂で、気味の悪い話だった。やはり、酒でも飲んでいるのだろう。
思い出すだけで気分が悪くなる。私は走り続ける。近くに海が見えるコースだ。ここ最近は街中を走っていたから、少し、良い景色を見たかった。
そうやって進んでいくと、久しぶりにナユタ港に辿り着く。
ちょうど夕暮れ時だった。
真っ赤な夕日が、今まさに水平線へと沈んでいく。
赤く照らされるナユタ湾は、まるで炎に燃えているかのようで。
――いっそこの身を沈めてやろうかと、そんな事を思った。
「……なんてね」
死ぬのは、怖い。仮に私が海に飛び込もうとしても、直前で足が竦むだろう。
呪いだの何だの、わけのわからない話を聞かされたからだ。こんな妙な気分になるのは。
やはり春治はろくな人間ではない。
息を吸って吐く。波止場の先まで行ってみよう。そこで夕日が沈むのを見届けてから、戻る事にしよう。
ペースを保ちながら、私は前方へと進んで行く。
港のほうに船が見えた。あれは確か、ナユタと旧東京都に当たる島々とを繋ぐ連絡船だ。
『――――わよッ!!』
思わず立ち止まってしまった。誰かの怒声が聞こえてきた。
波止場のほうだ。誰かと誰かが言い争っている。……いや、興奮しているのはどうやら片方だけだ。遠目からはわかりづらいが、あれは女の子だろうか。
一人は、埠頭の端にいる。ともすれば、すぐにでも落ちてしまいそうな位置だ。
もう一人はそこから少し離れたところで、何かを話しているようだ。
端にいる子は度を失っているように見えるが、もう片方はほとんど身動ぎせず、口だけを動かしている。
やがて、端にいた子は小さく何かを呟くと、傍らにあった鞄を掴み、せかせかと歩いて、そのままもう片方の子の傍を通り過ぎて行った。
残された子はしばらくぼうっとしていたが、やがてふらふらと波止場の先へ歩き出す。
何か考え事でもしているのか、夢遊病めいた不安になる歩き方だった。まるで自分の行き先など見ていないかのようだ。
そうこうしているうちに、女の子は波止場の一番端へと辿り着いた。そのまま顔を下に向けている。その姿勢のまま、じっと動かない。
そうして――……
――――――――――――――――――――――――――――――――…………ボッチャン。
大きな水音がして、水しぶきが跳ね上がった。何が起こったのか、目では見ていても理解は出来なかった。波止場の先に、もう彼女の姿はなかった。
次の瞬間、全速力で私は駆け出していた。