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『さよならを言う前に』1


      1


「あのー、ちょっといいですか?」

 夕日を背に立つ女の子に向かって、わたしは声を掛けます。

故郷の島から海を渡って約五時間。ようやくナユタに着いたかと思えば、思わぬ事態で。

「やっぱり良くないと思うんですよ。たとえどんなに辛い事があったって、次の瞬間には、良い事があったりするじゃないですか。つまり、その、簡単に諦めてはいけないというか……」

 波が波止場に打ち寄せています。しどろもどろになりながらも、わたしは精一杯言葉を発します。

「だから、その……やめたほうがいいですよ。飛び込みなんて」

 彼女の顔が、瞬時に変わります。

「うるさい、黙れ!!」

「駄目ですか……」

 夕日の中、女の子はぐしゃぐしゃ泣き顔で、わたしを睨み付けます。

「だいたいあんた何なの!? いきなり現れて、何かあたしに言う資格あんの!?」

「いやあ、まあ、ないっちゃないんですけど……」

 明らかに憔悴した顔で海を見つめていたら、普通は止めます。人として。

 うーん、参った。まさか、この展開は予測していなかった。

「いやだって、死んだら勿体ないじゃないですか。きっとそんなに簡単じゃないですよ。かなり苦しいと思いますよ。そんな思いを、進んでする事ないですよ。たぶん、人生」

「うるさい!! うるさい!! あんたに何がわかるっていうの!? あたしはね、裏切られたの、あたしが大事にしてたもの、全部奪われたの! もう何にも残ってないの!!」

 手を振り回して、女の子は叫びます。奇妙な事に、女の子は左手にだけ、黒い手袋をしていました。まるで、何かを隠すかのようです。

「傷つけられたなら、死んじゃ駄目ですよ」

 わたしは一歩、彼女へ近付きます。

「傷つけられた人は、死んじゃ駄目なんです。死ぬ理由がないじゃないですか」

 女の子の顔が、丸めた紙のように歪みました。

「うるさい!! 来ないで!!」

 彼女の足が、一歩後ろへ下がります。もう数センチ踏み込めば、そのまま海へと滑り落ちてしまうでしょう。

 ……仕方ありません。

 わたしは自分の左目に手を伸ばします。そこを覆っている眼帯を取り払い、瞼を開いて、左目で彼女の姿を見据えます。

 ぼんやりと、彼女の姿が歪んで見え始めます。

この左目には〝力〟があるのです。彼女の背景を見渡す、特別な〝力〟が。

「死んだら駄目ですよ、山祢(やまね)カオルさん」

 少し遠目からでも、彼女の表情が変わったのがわかりました。

「……え? 何で、あたしの名前……」

「何でもわかりますよ。見えるんです、わたしの目には」

 ――サイコメトリー、という超能力があります。

 物や場所に残った人の思念を読み取る能力ですが、わたしの左目もそれに近い。この目の視界に入った人が思う、最も重い記憶。強烈に刻まれた過去の出来事。

 人や場所に刻まれた過去を、この左目は読み取ります。

 ぼんやりと歪んだ彼女の姿は、やがてある情景へと視界の中で変化していきます。彼女が抱え込んだ、過去の情景へと。

 ――美術室らしい部屋で教師らしい男が彼女を詰問している。その様子を、彼女を取り囲む人間達がおぞましい目で見ている。鞄の中に物が無造作に入っている。いくつかの絵具と、小さなスケッチブックと、それから、あれは長財布、か?――

――場面が変る。自室で彼女が泣いている。壁に向かって拳を打ち付けて、彼女が怒っている。真夜中、彼女が絶望している。二人の人間の姿が浮かぶ。同年代らしい男の子と女の子。彼らの視線が、ひどく心にのしかかる――

わたしの心が、彼女の辛い記憶を共有し始めています。その時に得た、辛い思いさえも。

「あんな事があったなら、なおさら死んじゃ駄目です。生きて、幸せにならないと……」

「何……なになに、何なの、あんた一体……」

「まだ描いてない作品があるじゃないですか。それに……」

 言うべきかどうか迷いましたが、結局わたしは言います。

「誤解されたままでいいんですか、あの人に」

「――ッ!!」

 うるさいわよッ!! という特大の声が、波止場の夕空に響きました。

「何なのもう、ホントに! 気持ち悪い、何なのアンタ!」

「わたしは別に普通ですよ。この目が変わっているんです」

 言いながら、わたしは眼帯で左目を覆いました。これ以上見続けると、今度はこちらが変調をきたしてしまいます。

 ポケットから携帯電話を取り出して、わたしはさらに畳み掛けます。

「これから警察を呼びます。もし飛び込んだとしても、わたしがすぐに助けに行きます。こう見えても、泳ぎには自信があるので」

 彼女の顔にいくつかの感情が表れました。怒り、驚き、恐怖。勿論、わたしの主観ではありますが、概ね間違ってはいないでしょう。

「……何なのよ、本当に」

 やがて彼女は言いました。傍らに置いてあった鞄を掴み、わたしの方へと歩いてきます。殴られるかも、と思いましたが、彼女は怒ったような表情のまま、足早に通り過ぎて行きました。

 一分、二分と経ちました。彼女の後ろ姿は、だんだんと小さくなっていき、やがて見えないところへと行ってしまいます。

 どうやら、ひとまず飛び込みは防げたようです。

 赤い夕陽が眼前でゆっくりと沈んでいきます。引っ越してきてから早々に、我ながら随分と妙な事に首を突っ込んだものです。

 彼女がさっきまで立っていた波止場の先へ、わたしは足を向けます。

 自分が彼女に言った事を、わたしは思い返します。そう、傷つけられた人間は死んではいけません。必ず、傷つけられた分、幸せにならなければいけません。

 だって、そうでないと帳尻が合わないではないですか。傷を負ったその人は、どこかで救いを得なければ、痛んだままではないですか。

 だからわたしは思うのです。傷つけられた人は簡単に死んではいけないと。たとえいずれは天に召されるとしても、その道中、ありったけ幸せにならなければ、と。

 波止場の先にたどり着き、わたしは水面を見つめます。深く、青黒い海。ゴミや、海藻ともつかない何かが、波間にゆらゆらと揺れています。

 そう、傷ついた人は死んではいけません。

 幸せにならなければいけません。

 では、もしそうであるなら――……

 過去の記憶が、唐突にわたしの目の前を過っていきます。わたしを見つめる怒りの目。わたしを見つめる悲しみの目。わたしを、わたしの事を……。





 ――――――――――――――――――――――――――――――――…………ボッチャン。


 冷たい、冷たい海の中。わたしはどこまでも沈んでいきます。体に力は入らなくて、ただ、どんどん落ちていくのがわかります。

 ああ、実はわたし、泳ぎ下手なんだよなー。島育ちだけど、海、ほとんど入った事ないし。

 ああ、どんどん冷たくなっていくなあ。服なんかもうずぶ濡れだし、これじゃ、たぶん泳げても溺れちゃうなあ。

 視界はどんどん閉じていきます。わたしは普段から左目を眼帯で覆っているので、たぶん普通の人よりも見えなくなっているのでしょう。

 …………死んじゃうなあ。

 死んじゃ――……

 赤い夕焼けの海から、誰かがこちらへ泳いできます。人魚かな、と思ったけど、その人魚には大きな耳と犬みたいな尻尾が生えていて……。

 人魚、初めて見たな――……


 さっきまでは随分冷たかったのに、気が付くと何だか暖かいです。

 まるで自分の布団で起きたみたいに、わたしはそっと目を覚ましました。最初に色気のないクリーム色の天井が目に入り、次に自分が横になっている事、家で使っていた布団より、はるかにふかふかな物に包まれて寝ている事がわかりました。

 ベッドです。しかも、かなり上等な。身を起こして見回せば、どうやら今しがた天井だと思ったのは、ベッドの天蓋の裏側であるようでした。

「貴族が寝ているやつだ」

 やばいです。本物です。いやテレビで見た事はあるけど、まさか自分が寝るなんて。テンション上がってきましたけど、喜んでいいんですかね、これ?

「――……貴族?」

「うっひゃああああああッ!?」

 自分の物じゃないような声というのは出る時には出るもので、わたしはこの時最大限、お腹の底から叫び声を上げました。

 目の前にいた白い髪の女の子が、うるさそうに顔の両側を押さえ、その時同時に彼女の髪の毛の間から生えている、もう一組の耳が小さく揺れました。

 犬の耳、です。黒くて、垂れているタイプの。

「……あの、あんまり大きな声を出さないでくれるかしら?」

「わわわ、ごめんなさい!」

 反射的にわたしは布団に埋まるくらいに頭を下げました。こういう時、他に何か考えるのは、ちょっと無理です。

「いえ……まあいいから、頭を上げてもらえる?」

 女の子は何だか面倒そうな感じで、そう言いました。

「す、すみません」

 恐る恐る顔を上げると、女の子の顔がはっきりと目に入りました。

 とても綺麗な目をしています。黒い、真珠みたいな瞳。小さく程良く整った顔に、先のほうがややカールした、花のように真っ白な髪。ミストレスブラウスに、控えめにあしらわれたブローチ。まるで本物のお嬢様みたい……。

 それに、可愛らしい犬の耳。

「あの」

「は、はい!」

 いけない、いけない。つい見惚れてしまった。

「気分はどう? 水は吐いていたし、お祖父様の主治医は心配いらないって言っていたけど」

 主治医! それにそんな言葉遣い、やっぱりお嬢様なんだ!

「……大丈夫?」

「え……ええ、もうとっても! 悪いところなんて全然ないです!」

「……ならいいんだけど」

 そう言って、お嬢様は傍に置いてあったカートの上の、ティーポットに目をやりました。

「紅茶を淹れたんだけど、飲める?」

「え、あ、はい! 頂きたいです」

 お嬢様は頷いて椅子から立ち上がると、磁器らしいカップに丁寧にお茶を注いでくれました。綺麗な色の紅茶が入ったカップをソーサーに載せると、わたしに差し出してくれます。

「どうぞ」

「ありがとう、ございます」

 ソーサーからそっとカップを持ち上げて、わたしは慎重に紅茶に口をつけました。こういう飲み方は慣れていないのです。

「美味しい……」

 お祖母ちゃんが淹れてくれるほうじ茶とは、また違った味わいです。ああいえ、勿論お茶の種類の話ではなく、美味しさの違いという意味で。

「そう。良かった」

 お嬢様はそう言うと、自分用に注いだ紅茶を持って椅子に戻りました。

「私は忍冬忍(しのぶ)。あなた、お名前は?」

「わたしは……咲分(さきわけ)、咲分花桃です」

 咲分、という言葉をお嬢様は二度ほど小さく繰り返しました。

「どういう字を書くの?」

「花が咲いて分かれる。分数の分です。それに花に桃で花桃」

「素敵なお名前ね」

「ニンドウさんって、どういう字なんですか?」

「スイカズラ。忍ぶ冬って書く花なんだけど、それにまた忍よ」

 忍ぶ冬を忍ぶ。わたしは雪景色を想像しました。わたしのイメージでは猛吹雪ではなく、真っ青な空の下にある雪原です。

「変な名前でしょう?」

「いいえ! そんな変だなんて! とっても綺麗です」

「……ありがとう」

 言って、忍冬さんは紅茶を口に運びます。わざとらしさのない、身に付いた優雅な仕草です。

「それで咲分さん、一体どうして海に落ちてしまったの?」

「え?」

 その質問に、わたしの心臓は一瞬跳ね上がります。

「私がたまたま近くにいたから良かったけど、あのままだったら間違いなく溺れていたわ。……何があったの?」

「え、えーと……」

 わたしは必死に頭を回転させました。

「……実は、海を眺めていたらちょっと身を乗り出し過ぎて。滑って落ちちゃったんですよ。わたし、昔からそういうドジなところがあって」

「そう……」

 少し紅茶に目を落として、忍冬さんは呟きます。落ち着くために、わたしは紅茶を口運び、それから言いました。

「忍冬さんが助けてくれたの、覚えています。本当に、ありがとうございます」

 忍冬さんの犬耳がぴくりと動き、それから彼女は顔を上げました。

「いえ……そんな。当然の事をしただけよ。でも、あなたはもう少し気を付けて。今回はたまたま、運が良かっただけなんだから」

「……そうですね。すみません、気を付けます」

 しばらく、海には近付くまい。しばらくは。

 ちょっとだけ沈黙がありました。わたしは紅茶をまた飲み、何かを言おうとしました。ですが、先に口を開いたのは忍冬さんでした。

「ごめんなさい。初めて会ったのに説教めいた事を言ってしまって……。そういえば、咲分さん、どうしてナユタに? 荷物を見ると旅行みたいだけど」

「ああ、いえ。旅行じゃなくて、引っ越してきたんです。他の荷物はもう送ってあって」

「引っ越し?」

「ええ。ちょっと変な時期なんですけど、今度からナユタの高校に通うんです。ええっと、三ツ花学園ってとこに……」

「三ツ花学園?」

 忍冬さんが驚いたような声を上げました。

「咲分さん、歳は?」

「十六歳……ですけど」

「じゃあ、同じ学年か」

何か、得心がいったような言い方です。

「えっと……どういう……」

「同じ学校よ。私も」

 紅茶を一口飲み、忍冬さんはソーサーごとカップをカートの上に置きました。

「三ツ花学園一年C組。こんな偶然ってあるのね」

 そう言って、忍冬さんは微笑みました。

 同じ学校。そうか。本当に、こんな事ってあるのか。

「すごい……ですね。本当に」

 どきどきする。怖いくらいに。

「じゃあ、また学校で会えますね。忍冬さん」

「ええ。これからよろしくね、咲分さん」

 そう言って、忍冬さんは右手を差し出しました。

 紅茶を零さないように飲み干してから、わたしはその手を握り返します。ちょっと冷たくて柔らかい、不思議な感触でした。

「――さて、もう遅いけれど、咲分さん、ご自宅は? 出来れば泊めてあげたいんだけど、あまり勝手をすると親がうるさくて」

「いえ、大丈夫です。一人で帰れますから」

「……でも、あなたナユタは初めてでしょう? 一回は下見に来ているかもしれないけど、夜は物騒だし、さすがにまだ慣れていないんじゃないの?」

「大丈夫です! 駅名はわかりますし、駅からもそんなに遠くないですから」

「どこの駅?」

()()()です。何だっけ、シティライン? の端の駅だったと思うんですけど」

「ええ、そうよ。ここからだとナユタシティラインの終着駅。じゃあ、そこまで送るわ」

「そんな。本当に大丈夫です。うろ覚えですけど、結構遠い駅ですよね?」

 いや、まあ、この家がナユタのどこにあるのかは知らないんですけど……。

「……まあ、ね。じゃあ、せめてここから駅までは送るわ。それくらいはいいでしょう? 道もわからないだろうし」

「ええ、まあ……」

「それとも、まだ気分が悪いなら病院に連れて行くけど」

 わたしは慌てて首を横に振りました。忍冬さんがしてくれた処置が良かったのでしょう。体は本当に良好です。

「そう。なら、準備しましょう。服は貸してあげるから、今度学校で返して。あなたの服もその時返すから」

「あ……」

 そうだ。そういえば服。

わたしは自分の格好を見直します。薄紅色をした、上等そうな寝間着。それを見て、もうひとつ気付いた事があって、わたしは咄嗟に左目に触ります。

眼帯。きっとぐっしょり濡れていたはずなのに。わたしの目には、それがありました。

「新しいのを用意したわ。服もこれから別に用意するわね」

 そう言って忍冬さんは立ち上がり、それからわたしの顔をじっと見ました。

 いいえ、きっとわたしの左目を。

「――綺麗な目ね」

 そう言って、忍冬さんは微笑みました。


 忍冬さんの家は小高い丘の上にありました。大きな敷地にあるお屋敷で、忍冬さんとわたしがいたのは、敷地の中にある離れのような建物でした。

 真っ暗な道の中を忍冬さんはゆっくりと先導してくれました。駅まで、そう時間はかからなかったと思います。

「じゃあ、また学校で。気を付けてね、咲分さん」

「はい。ありがとうございました」

 頭を下げると、忍冬さんは笑って踵を返しました。

 あの暗い道の中を、忍冬さんは一人で帰るのでしょうか。そう考えると、何だかそれはそれで危ないような気もします。でも彼女は慣れた風で、ゆっくりと今下ってきた坂道へと戻っていきます。その後ろ姿をわたしは見送ります。

 彼女のスカートの中から伸びた、白い犬の尻尾が僅かに揺れています。

 やがて彼女の姿が見えなくなると、わたしは改札へと足を向けました。生まれた島には鉄道なんて走っていませんでしたが、小さい頃に何度か本土に遊びに行った経験が役に立ちます。

それなりにお金の入ったウォレットカードをパネルにタッチし、改札を抜けて、比良野へと向かう電車が来るホームに向かいます。

 真新しい車両の電車が、間もなく見えてきました。

比良野まではこの電車で一本ですから、迷う心配はありません。

各駅停車であるらしく、乗客は少なかったので席は空いています。人の座っていないボックス席を選ぶと、わたしは窓へともたれかかれました。

 電車が動き出します。ゆっくりと。知らない街の夜景の中へ、わたしを運んでいきます。

 流れていく夜の街を眺めていると、色んな事が頭をよぎりました。故郷のお祖母ちゃんの事、島の友達の事。船から見た海の景色、夕焼け、山祢さんの事、忍冬さんの事。

それから、昔の事。

「フュージョナー、か……」

 奇妙な縁もあるものです。本当に。

 この左目、見られちゃったかな……。


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