『さよならを言う前に』9
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五月も半ばになり、中間試験が徐々に迫ってきている。
放課後、私はいつも通り、部室へと向かった。それが部長の務めだ。面倒さを感じなくもないが、行かなければならない。
遠間レイジからの相談以来、新たな相談者は来ていない。
まあ、それでいい。今は試験前だし、仮に来るとしたら、試験対策の相談かもしれない。乗れるかどうかは微妙なところだ。案外、奥鐘さん辺りはやる気を出すかもしれない。
扉に手をかける。職員室に鍵はなかったから、すでに誰かが来ているのは承知の上だ。
「こんにちは」
そう言いながら、部室に入る。
コの字型に並べられた机の片隅で、女の子が一人、勉強をしていた。私が入って来た事に気付く様子はない。
「奥鐘さん」
そこでようやく私に気付いたかのように、奥鐘さんは顔を上げる。
「……ああ、部長。お疲れ様です」
「お疲れ様。紅茶でも淹れましょうか」
「あ、はい。ありがとうございます」
私は頷き、鞄を置いて準備を始める。
ポットに水を入れて、湯を沸かし始めた時だった。
「……そういえば、部長。今日なんですが、小紋さんはお休みだそうです」
奥鐘さんが、ふとそんな事を言った。
「わかった。どうしてか、理由は聞いてる?」
「ナユタ高に行くそうです」
ほんの一瞬だが、その名前を聞いた途端、心臓が軽く揺らいだかのようだった。
「……例の、市役所に飾られていた絵。あれが今はナユタ高の美術室に飾られているそうです。もう一度、見ておきたいと」
我が兄春治が評価した絵。
中学生だった山祢カオルが描いた絵。
タイトルは『ともだち』
「ナユタ高には、いつまで展示されているの?」
気になって、私は聞いた。お湯が沸くまで、もう少しかかる。
「さあ、そこまでは。まあ、栄誉ある賞を受賞していますから、長く置いておくとは思います」
「そう」
それなら、まあいい。見に行く機会は、まだありそうだ。
そう思った時だった。
コン、コンと、廊下のほうから扉を叩く音がした。
思わず、私達は目を見合わせる。
部員ならば、ノックなどしない。教師ならば、ノックの後に何か言うだろう。
となれば……。
コン、コンと、再びノックの音がした。
「はい。今開けまーす」
奥鐘さんが席を立ち、ドアのほうへと向かう。
水はポットにたっぷりと入っている。足りないという事はないだろう。
※
「――なるほど。それであの時、村木さんはわたしにフュージョナーって言ったんですね」
街灯が照らす夜の比良野の道を歩きながら、わたしは納得します。
「ええ。山祢さんが手袋で特徴を隠していたから、村木エイリはたぶん、眼帯を見て同じように隠していると思ったんでしょう」
わたしの少し後に続いて歩いている、忍冬さんがそう言いました。
「なるほど、なるほど。ところで忍冬さん、どうしてここまで一緒に来てくれたんです?」
振り返って、わたしは彼女に訊きます。
すでに他の人達はそれぞれ帰路についたのですが、忍冬さんだけがどうしてもついて行くと言って聞かなかったのです。
彼女は、ちょっとの間だけ黙っていましたが、やがて言いました。
「理由は二つあるわ」
「二つ、ですか?」
ええ、と彼女は頷きます。
「まず一つ目は、これ」
そう言って、彼女はポケットから何かを取り出しました。
「ああ、家の鍵!」
そういえば、濡れた服を預けた時に貰い忘れていた気がします。
「ごめんなさい。洗濯物から取り忘れていたみたいで」
「ああ、いえ。別にいいんですけど。でも、これなら北駅を出る時に渡してくれれば……」
「聞きたい事があったの」
神妙な面持ちで、彼女は言いました。
「……ねえ、咲分さん。どうしてあの時、自分から海に落ちたの?」
街灯の下、湖水のような瞳が、わたしをしっかりと見つめています。
まるで、答えを聞くまでは逃がさないとでも言うかのように。
――――――――――――――――――――――――――――――――…………ボッチャン。
あの時の水音が、耳に蘇ります。
……どうやら、見られていたようです。
わたしは、鍵を受け取りました。彼女もそれには抵抗せずに、黙っています。
どうして自分から落ちたのか、ですか。
「鍵、ありがとうございました。今日はこの辺で失礼します」
そう言って、わたしは背を向けます。
怒られるかもしれませんが、それならそれで構いません。
「咲分さん」
後ろのほうで、忍冬さんが言いました。
「また学校で会いましょう」
ええ、そうですね。
わたしは、振り返って言いました。
「次は学校でお会いしましょう」
第一話 「さよならを言う前に」 了




