では、また違う場所でお会いしましょう
レオナールは赤毛の英雄の記憶に干渉し、精霊銀の大剣が魔王の首を切り落とす映像を焼き付ける。
魔力強大な魔王の首は辛うじて切り落とすことができたが、それによって聖剣の力は失われ、聖具は塵となって消滅した。
王子は呪いの地から馬に乗ってハイルデンの城へと帰還し、英雄として後世にその名を刻む事となった。
厄介な客が帰ったその夜、夫婦は寝台の上で向かい合う。
「クリス、人の一生分以上の時間を連れ添ったが、共に生きた事はお前にとって錯覚ではなかったか?」
「どうしたんです急に……今日のお客様と何か関係あるんでしょう? もちろん、錯覚なんかではありませんでした。あなたと共に生きた今までの穏やかな時間の全てが愛しくて、かけがえのないものでしたよ。そして、これからもずっとそうです」
そう言ってクリスはレオナールの瞳を愛しげに覗き込む。
「そうか。では、しばらくお別れだ、クリス」
「しばらくってどれくらいですか?」
「わからない」
「わからない?」
どんな事を話していても、基本的にレオナールの表情はあまり変わらない。
だから表情から心情を読み取る事は出来ないし、その言葉の内容はあまりにも不安を掻き立てる。
クリスはレオナールの体に手を伸ばし、すがりつくようにして抱きしめる。
「嫌です。離れたくない」
腕の中に抱き込んで首裏に顔を埋める。
「残りの二百年を共に生きても、その先には何もない。無から何かを生み出す力を持たない私には何も残らない。お前が愛と呼ぶものさえも、永遠に分からぬままだ」
妻の静かな言葉に、腕の中から引き剥がして再び紅い瞳を覗き込む。
「レオナ……」
「魂は繰り返さないと今日分かった。定められた入れ物が同じでも、魂が違えばそれはもう全くの別者だ。二百年後に別れてもお前とはもう二度と出会えない。だから今度はお前が待っていて欲しい。決して寂しい思いなどさせないから」
「必ず帰って来ると約束してくれますか?」
どんなに時を重ねてお利口になっても、乙女でお人好しな気性は変わらぬままだ。
喘ぐようにそう問うた夫の薄紫の瞳には、涙がせり上がっている。
「約束する、必ず還って来ると。だから私に次元を渡る力をくれないか?」
「いいですよ。ほんと、私の奥さんはかわいいんだから」
――― それを愛と言うんですよ、レオナ。
クリスが瞳を閉じた瞬間、確かな質量を伴って涙が頬を伝い落ちて行った。
レオナールはクリスの首に唇を落とし、口付けるようにして牙を立てた。
黒い柩の中で両手を組み、深い眠りにつく夫を眺める。
命が途切れるそのギリギリの境目まで夫の血を吸った。甘くとろけるような極上の贄。
もう何百年も忘れていた、渇望を満たすほどの充足感と多幸感。身の内の魔気は満ち足りて、力は滾る。日は暮れて今は夜。月が支配する闇が、眷属である自分の力の後を押すだろう。
城内の空気に声を飛ばし、眷属を呼びつける。
黒猫姿で現れたヤヌスは、レオナールの足元にまとわりついた。
レオナールはズラして置いた柩の蓋の上にあった精霊銀の短剣の柄をクリスの組んだ両手に差し込んで胸に抱かせる。
二百年間自分を封印していた聖具だが、まだ多少力は残っている。クリスに残された寿命の残りの二百年程度ならば城に干渉した魔気の影響を受けず命を繋ぐのに役立つだろう。
レオナールは魔気で操って柩に蓋をした。
そうすると、真っ黒な柩に収められた夫の姿が見えなくなった。
意識もなく、このまましばらく安らかに眠り続けるだけだが、寂しいとクリスがキャンキャン言っている姿が脳裏に浮かぶような気がする。
レオナールはパチンと指を鳴らし、黒い柩をガラスの柩に換えた。
「ヤヌス、私が戻るまでの間クリスを頼むぞ。アダム、お前は昼の間を、イブは夜だ」
双子の姿に変わったヤヌスは、二人して楽しそうに笑っている。
「ご主人様任せてー」
低級魔ゆえ力は弱いが、城に封印を掛けて城内限定で循環させるようにすれば、城の作物から僅かばかりのエネルギーを産み出し、極限まで消耗したクリスに少しずつ命を注いでくれる。レオナールが戻るまでの時を掛けて、ヤヌスはクリスの命を繋ぐだろう。
レオナールはクリスの顔を記憶に刻み込むようにして眺めたあと、決意したように顔を上げた。
打たれたばかりで力の強い聖具である精霊銀の大剣を、次元の狭間から取り出す。
必要最低限の贄しか摂取していなかったレオナールでは、直接それに触れるのは危険だった。触れた程度では封印されたりなどしないが、著しく消耗するのは目に見えていた。非効率な事はしない主義だ。
今はもう、触れても問題がない。むしろ今触れる必要があった。
クリスが繰り返さないのなら、自分が繰り返せばいい。
悠久の時を彷徨う旅の果てに、最後まで理解できなかった愛とやらを補完して、この旅を終えるのだ。その相手は、きっとクリスでなくてはならないともう分かっている。
この世界からしばらく自分が消えるなら、クリスにとって魔獣も瘴気も脅威になる。その他大勢の人間などどうなろうとも知らないが、夫を危険に晒す事はできないのだ。
だから、聖剣の浄化の力を使って、瘴気の出る穴を塞ぎ、魔獣もろとも大地から消し去る事に決めた。無から生み出す力はなくとも、無へと消滅させる事はできるのだ。
レオナールは大剣を素手で握り、それに自身の魔気を込める。剣の内側に宿った浄化の力が抵抗して、青白い燐光が周囲に漂う。
だが、今は夜で魔気は充実している。抵抗する力を包み込むようにして、聖剣を腐食させて粉砕した。そのまま細かい粒子へと原素構成まで侵食したのを確認してから、レオナールは自身も黒い霧へと姿を変える。
聖剣だったそれを取り込んで混ざり合いながら、全ての地表を覆うようにして駆け抜ける。
次元を渡って最後のケリをつけると決めた今でなくては、こんなにも面倒で不快な事などやりたくもない。
闇の眷属である自分が猛毒を取り込みながら力を使う事など、正気の沙汰ではない。
酷く消耗する上に、猛毒ゆえ身を蝕んで苦しい。それでもレオナールはどうにか全ての魔獣と瘴気を消し去り、最後の力を振り絞って次元を渡った。
地表を覆った闇の中には、レオナールが駆け抜けて振り撒いて行った聖剣の燐光が、極光となって降り注いでいた。
――― やぁ、お還り、リオノワール・ヴァルキュリア。
何もない真っ白で真っ黒な空間に、人間世界で言うところの神、あるいは創造主と呼ばれる者の声が響く。否、自分の耳、あるいは頭の中、あるいは心に響いているのかも知れない。
――― 旅はどうだった? ここに還って来たと言うことは、君も違う世界に行くのかい?
「別の世界など見たくもない。私は愛を補完してこの旅を終える」
――― ふむ。では、君は闇を棄てて、光を手にしなくてはね。君に新しい名をあげよう。新しい名前は、アレ・ステナ。
「そんな名前いらない。私はレオナ。夫がくれた名前がいい」
――― そうかい? ならば再び帰る時は、その名を抱いて戻ると良いよ。お休みアレ・ステナ。もう二度とあえない私の子。




