出題編
憲兵というのは、軍の規律を守るためには、上級者にも遠慮する必要はない、というのがタテマエである。だからハンス・カウフマン憲兵軍曹が、士官の軍服を着た人間を誰何するのは、ごく普通のことであった。実際、ドイツの占領地域が急速に広がった1942年初夏の南ウクライナでは、部隊の往来も激しい中、士官の軍服がパルチザンの手に渡らないとも言えなかったから、それは必要なことであった。
しかしその彼にしても、エリッヒ・フォン・マンシュタイン上級大将直々に呼びつけられ、初対面の握手を求められたとあっては、恐懼する他はなかった。
マンシュタイン上級大将は、クリミア半島のセバストーポリ要塞攻略の任を負って、多忙を極めていた。マンシュタインはセバストーポリ攻略のために、ドイツの国力が許す限り、いや許す範囲を超えて、火力の集中を求めた。部隊と弾薬はひっきりなしに増強され、それは際限もなく第11軍司令部と、マンシュタイン司令官の決済事項を増やしたのである。そんな中、一介の憲兵軍曹が親しくマンシュタインに呼ばれたわけを、カウフマンはまだ正確に理解していなかった。
「君は、戦争が始まってから、クリポ(警察)から憲兵に志願したのだったね」
「はい」
従兵が音もなく現れ、ほんのわずかな音をさせただけでカップをふたりの前に置き、すぐに消えた。本物のコーヒーの香りが立ち上った。コーヒー豆の配給など、春の総統誕生日にあったきりである。マンシュタインが無造作にカップを取り上げたので、非礼に取られないことを祈りながら、カウフマンもそうした。
「そのころの君の活躍を、何人かの友人が記憶していてね。どうしても君の力を借りたい事態が生じたのだ」
マンシュタインの物腰は、どこまでも柔らかい。
「朝に届く牛乳のように、死の知らせが誰にも届く今、私のささやかな経験など、お役に立ちますでしょうか、将軍」
カウフマンは言ってしまってから、言い過ぎを後悔した。
「昨日、私の知っている士官が、不自然な死を遂げた」
下士官のわずかな感傷に気を使うほど、マンシュタインは鷹揚ではなかった。
「彼は、軍内部における、ある種の不正を調査中だった」
マンシュタインは封筒に入った書類の束を丁寧に取り出し、順に広げて見せた。
オットー・E・フォン・クネヒト参謀少佐。正式な書類はそうなっていた。陸軍大学校を卒業するか、難関の試験を突破するかして参謀本部スタッフとして認められ、前線司令部と参謀本部を行ったり来たりする出世コースに乗ると、肩書きに参謀の文字が入る。履歴には特筆すべき点はない-それはつまり、エリートに典型的な、「司令部」「課」「長」といった表現が、文字飾りのようにふんだんにちりばめられた履歴だということである。
写真もあった。目から火の出るような眼光。一分の隙もない物腰。優秀な士官であったことがしのばれた。
最後の辞令は、小さな町ダミニスコエに設けられた、物資集積所の司令部付士官としてのものであった。
カウフマンは、書類に走らせていた視線を上げ、マンシュタインをちらりと見た。聡明なマンシュタインは、その意味を正しく理解した。
「彼が手がけていた問題の性質は、明かすわけにはいかん。彼を殺害した人物は、事件とは無関係に特定されねばならないのだ。難しい事件とはわかっている」
「私の担当する地区では、毎日のように、小さないさかいが起こっております、将軍。そのひとつひとつは死に至るものではありませんが、放置すれば……」
「君はこういいたいのかね」
マンシュタインは穏やかに言った。
「高級将校の不可解な殺人事件という、成功の目処も定かでない名目的な捜査の実績を示すために、多忙な憲兵を割くべきではないと」
カウフマンは、答えなかった。
「私は養子だが、実家に兄弟が多い。フォン・クネヒトは、姪のひとりの婿なのだ」
マンシュタインは吐き出すように言った。
「いつから捜査にかかればよろしいですか」
カウフマンは問うた。
「すぐにだ。君の運転手には、すでに地図と食料を渡すようにしておいた」
マンシュタインは立ち上がり、再びカウフマンに握手を求めた。まったく無駄のない動きに、つられてカウフマンも立ち上がった。
「ルイーゼは小さい頃から泣き虫なのだ。君だけが頼りだ」
握手とともにささやいた一言に、わずかにマンシュタインの個人的感懐が感じられた。
「了解いたしました、将軍」
と答えるカウフマンの物腰は、市民の負託に応える有能な警官としてのそれであった。
----
「ゲオルグ、最近どんなうわさを聞いている」
カウフマンの運転手であるゲオルグ・マイネッケ上等兵は、快活に答えた。
「いろいろ聞いてます。軍曹殿。いろいろです」
真夏を迎えようとしている広いウクライナの中で、ふたりの乗ったキューベルワーゲンはごく小さな豆粒に過ぎなかったが、その巻き起こす砂埃はもくもくと広がった。ウクライナの伝統的な国旗は上半分が青で、下半分が黄色である。地平線にまで広がる麦畑を表すというのだが、両軍の車両がひっきりなしに行き来する今年に限って言えば、下半分は砂埃かもしれない。
「ダミニスコエの集積所ってのは、悪い奴がいるのか」
「噂になるほどのことは、聞かないです。軍曹殿。何にもないってことではないです。ご承知だと思いますが」
マイネッケはエンジン音と張り合って、大声で答えた。
物資を市場に委ねず、権限を使って分配するとき、ある程度の横流しは避けられない。兵士による盗難も起こる。
「久しぶりです。じつに久しぶりです、警部殿」
マイネッケは上機嫌に怒鳴った。
「人殺しが悪いことだなんて、すっかり忘れておりました。はっはっはっ」
警部と呼ばれたカウフマンは、むっつりと書類に目を落としていた。
----
ダミニスコエの物資集積所は南方軍集団直轄で、10万人の生活を預かる大規模なものであった。普通なら補給物資はまず軍集団の物資集積所に来て、そこから軍の物資集積所、師団の物資集積所と分配されていく。しかし後方には軍司令部がないので、輸送や治安維持にあたる部隊のために、軍レベルの集積所に当たるものを軍集団司令部が維持しているのである。
集積所を管理しているのは、第794補給大隊である。行き交うトラックの運転手はそれぞれ出先の部隊や、輸送専門の組織に所属しているから、補給大隊の主な仕事は荷物の積み下ろしである。戦闘部隊でもないから細かい戦闘区分や下級指揮官を持つ必要がなく、大隊レベルの組織でも大規模な集積所の管理ができる。
管理中隊先任曹長に着任を報告し、依頼書やら兵士手帳やら命令書やらを差し出したとき、カウフマンは山のような厄介ごとを覚悟していたが、意外なことにすんなりと行って、翌日からの食料供給も宿舎割り当てもすぐに話がついた。マンシュタインの幕僚が南方軍集団司令部に、あらかじめ電話で掛け合っていてくれたせいである。
「将軍のお気遣いは大変なものです。大変なことです、軍曹殿」
中隊本部を出るなり、マイネッケは興奮して言った。
「ゲオルグ、少佐を殺した犯人を、軍曹に見つけられると、将軍が本当に思っていると思うか」
カウフマンは低い声で言った。
「警部殿なら、きっと大丈夫です」
マイネッケは、戦間期にカウフマン警部のもとでしばらく巡査をしていたから、カウフマンの手並みを熟知していた。ドイツの軍備拡張が始まると、マイネッケは自分の警官としての捜査能力に見切りをつけ、憲兵隊を志願して、警察から国防軍にさっさと移ってしまったのであった。
「我々を派手に活動させて、お偉い容疑者殿が尻尾を出すのを待っているのかも知れんぞ。将軍にとって、兵士とは消耗品だ」
マイネッケが押し黙ったのを見て、カウフマンは声を励ました。
「さてワトソン君、現場を見に行くとしようか」
----
「板以外のところを踏まないでください」
現地の警備大隊(Wachbatallion)に属する兵士が鋭く叫んだ。
「ここの地雷原表示は本物です」
確かに、そろそろ暮れようとする夕陽に、「地雷」と書いた四角い看板がまだ見える。
「この板は発見当時あったのか」
「まさか。3個ばかりイワンの地雷を掘り出しました」
兵士は農家のドアを開けた。
「ここはイワンどもが、罠に使ったのです。前哨としても目立ちすぎますから」
その農家は平屋だが、小高い丘の上に立っていた。見晴らしはよいが、集中砲火も浴びやすい。だからソビエト軍は周囲に地雷を埋めて、占領しようとするドイツ兵へのブービートラップとしたのである。
農家の屋根は、入ってみると半分しかなかった。ふたつしかない部屋のうち、人の住む部屋の屋根だけが残っているらしい。屋根のない馬屋の床に、白いチョークで人の形が描かれていた。その天井ももとはあったらしいが、誰かが薪として引き剥がしてしまったのであろう。わずかに屋根板の基部が残っていた。
「その、少佐殿は、すでに埋葬してしまいました。暑い季節ですので」
兵士は申し訳なさそうに言った。ドイツは他のキリスト教国と同様、土葬が原則である。戦地で死ねば、その地に埋められるのである。
「ドクトル・グラーフが検視されましたので、明日ご案内いたします」
「密室殺人か。こいつはマーキス大佐の領分だな」
カウフマンはつぶやいた。
「あいにく大佐は、ドーバー海峡の向こうにおられます、警部殿」
マイネッケは言わずもがなのことを言った。
マーキス大佐は、ディクスン・カーの作品(カーター・ディクスン名義で発表した「第三の銃弾」)に出てくる、ロンドン警視庁の名探偵である。ふたりとも、大戦が始まってからディクスン・カーがイギリスで出版したマーチ大佐のシリーズは、まだ存在すら知らないのであった。
「どうしてここに、その、少佐殿がおられるとわかった」
「通りがかった警備大隊の兵士が、銃声を聞いたのです。パルチザンに利用されているとすると、厄介なことになりますので」
兵士は農家の壁に残る弾痕を示した。
「残っている弾痕は、外側からのものだけか」
カウフマンはつぶやいた。パルチザンも内側から壁を撃ったりはすまい。
戦略的に重要というわけでもない現場である。ふたりに現場を見せると同時に、その兵士もお役御免となるようであった。
「食べ物があるんだが、少々やっていかんか」
その兵士にカウフマンは声をかけた。マイネッケは「またか」という顔をしたが、すぐにその表情を消した。
明日から滞りなく食料が受け取れるようになったので、マンシュタインの幕僚が持たせてくれた食料には少々余裕ができた。それを使って、地元の兵士からいろいろ聞き出そうというのである。
----
マンシュタインの幕僚は、シュトルヴェルク社の軍用チョコレートを気前良く5箱も包んでくれていた。重い荷物を背負って歩くことになるし、移動中に炊事ができなくなることもあるので、部隊が移動する前にはチョコレートの追加配給がある。古参兵になると、チョコレートや煙草の追加配給が来るたび、ああ大移動が近いな、と感じ取るのである。チョコレートといってもカフェインが添加してあって、日本で言う栄養ドリンク剤だと思えばよい。パイのように放射状の刻み目が走り、表面に波紋の模様がついたそのチョコレートは、兵士たちにはおなじみのものである。
手馴れた様子でチョコレートを割ってパイをひとつ手に取った兵士は、カウフマンに箱を返そうとして押し返されると、相好を崩して礼を言った。
兵士は、ハイネマン一等兵と名乗った。
「君の部隊は、このへんには長いのか」
「2ヶ月ほど前からです。その前は、キエフの西を通る線路を守っておりました」
「俺もマイネッケ上等兵もニーダーザクセンだが、君はどこだ」
「キールであります」
「隣だな」
カウフマンはすかさず言った。
「こういう暑い日は、アルスターヴァッサーでも一杯やりたいもんだが」
ハイネマンはうんうんとうなずいた。
キールの属するシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州と、その南のニーダーザクセン州は隣同士になる。地縁にこだわるドイツ人には、この程度の縁でもないよりはずっとましである。北ドイツでよく飲まれるアルスターヴァッサー(ビールのレモネード割り)を持ち出すところが如才ない。カウフマンは誰とでも話が合わせられるよう、酒やソーセージの地方銘柄を無数にそらんじているのだ。
「あの少佐殿は、その……少々、目立つ方でした。いつも質問をしておられました」
果たして、ハイネマンの口は急に軽くなった。
「兵士にもか」
「はい、軍曹殿。前線に向かう列車の行き先を、よく尋ねておられました」
「尋ねて、どうしておられた」
「さあ…我々などに尋ねなくとも、とよく話し合っていたものです。ああ、これは同郷人の間だけの会話に留めて下さい」
ハイネマンはにやりと笑った。
「第一発見者は、誰と誰だったのかな」
「自分と、クランケ一等兵です」
「パトロールはいつも同じ組み合わせで、同じコースをたどるのか」
「直があるのです。お分かりと存じますが。夜の直に当たったときは、自分たちがここを受け持ちます。たいていです」
「銃声の主の姿は、見なかったんだね」
「はい。あの民家に隠れているとなりますと、大勢であることも考えられましたので、車の無線で仲間を呼びました。20分ほどで3人の兵士が着きました」
「そのあと、突入するまでは誰も入っていないのだね」
「はい。夜が明けてからまず数発弾丸を撃ち込みましたが、反応がないので地雷を取り除き、中を慎重に調べて、少佐を発見したのであります」
カウフマンは礼を言うと、マイネッケと現場を後にした。
----
翌朝、パンと代用コーヒーの朝食を済ませたふたりは、大隊長のブロッホ中佐を表敬訪問することにした。
「君たちの事は昨日聞いた。昨日だ。なぜ昨日私に会いに来なかったのかね」
ブロッホの物腰は、人生に絶望した老人のそれに近かった。
「現場を確認する必要がありましたので」カウフマンは表情を崩さず答えた。
「ウクライナでは死人は珍しくあるまい。ドイツ人が銃で死ぬ死に方だけで、何通りもある。ロシア人のための死に方も含めれば、もっとだ。もっと、もっとだ」
明らかにブロッホは返答を期待していなかったので、カウフマンは答えなかった。
「私に聞いても、何も知らんぞ。彼はこの本部にいた。私と顔をつき合わせて食事すらした。それがどうしたというのだ。私は彼の任務について、何も知らされておらん! 何もだ!」
ブロッホの身振りが大きくなった。
「あの、中佐殿、お客人も、大隊長の任務を邪魔されるおつもりはないでしょうから……」
隣の中尉がちらちらとカウフマンの顔を覗き込みつつ、大隊本部とされている学校の校長室の戸口を遠慮がちに指し示した。
「どうも申し訳ありません、憲兵殿」
戸口を一緒に出てくるなり、中尉はカウフマンに言った。
「ハウプト中尉です。本部中隊長を務めています」
そしてあの様子では、事実上の大隊長はこの若い男なのであろうと、カウフマンは見て取った。
「私も、フォン・クネヒト少佐の調査事項を知らされてはいないのです。もちろん憲兵殿は、それを知らされておいでで?」
ほんのわずかの間だったが、その沈黙の間に自分の表情が精査されるのを、カウフマンは感じた。
「いや、お答えいただかなくて結構なのですよ」
ハウプトは失望した様子をまったく見せなかったので、ハウプトが深く失望したことをカウフマンは感じた。
「ここにもいろいろ問題はあります。物資の紛失や仕向け先のミスもありますが、他の集積所に比べて、それほど悪いというわけではありません」
ハウプトは再びカウフマンを精査し、何も得られなかったので、ひとまず興味を失ったようであった。
----
大隊付き軍医のグラーフは、大隊本部ではなく、集積所そのものの中に救護所を構えていた。テントに釣り下がったポスターには、大きな字でこんなことが書いてあった。
「自動車酔いの薬は、在庫がありません」
「予約は?」
カウフマンとマイネッケを見るなり、グラーフは尋ねた。そして細縁眼鏡を下にずらすと、自分自身の面白くもない冗談を嘲笑するようにふふんと笑い、ふたりに椅子を勧めた。
「フォン・クネヒト少佐のことだな」
憲兵は大きなペンダントのような胸章をぶらさげて歩いているから、名乗らなくともそれとわかる。
「お知り合いですか」
「遺産の分配を受けられるほどではなかったがな。彼はこんなところで、知り合いを作りたがるような男じゃなかった。もっと重要なところで、重要な人物に大勢会うだろうからな。コーヒーは? アンドレイ、アンドレイ」
アンドレイと呼ばれた男が、のっそりと出てきた。ドイツ軍の軍服を着ているが、階級章も兵科を示すパイピングもつけていない。
「コーヒー」
言いながらグラーフは、自分と客人ふたりを手で示した。アンドレイはうなずくと、またのっそりと姿を消した。医療物資の箱の向こうに、かまどがしつらえてあるらしい。
「捕虜なんだ。ここには、その、いないことになってる。見逃してくれるな」グラーフはにやにやと笑った。
「いつからここに?」
「集積所が出来てからだから、この夏に入ってからだ。パルチザンの指導のために送り込まれてきたらしいが、いやになったんだろうな。こういう部隊だと、救護所の手伝いにはほとんど人手が割けんのだ」
「わかりますよ」
カウフマンは淡々と言った。
東部戦線は第一次大戦のフランスなどとは違って、独ソ両軍が対峙しているといっても、そこにはかなりの隙間があった。兵力不足に悩む両軍は、大部隊の移動が不可能な地域では、ときどき偵察隊を巡回させるに留めることがあったのである。こうした地域から、ソビエト軍の正規兵がドイツ占領地域に侵入し、現地で村人を説得してパルチザン部隊を組織することがあった。
後にはソビエト軍の捕虜が大量に補助員としてドイツ軍部隊に配置されることになるが、1942年にはまだそうした例は少ない。アンドレイは現地部隊がこっそり降伏を受け入れ、手伝いをさせているものであった。
「クネヒト少佐の用件だったな。死因は、背中からの貫通銃創。弾丸は見つかっておらん。たぶん警備大隊の連中は探そうともせんかったろうな。一発だ。見つかったのは8月21日の早朝で、死後硬直の具合からすると、死んだのは前の日の晩のうちか」
「早朝ということは、ないのですね」
「チェスはお好きかな」
グラーフは突然話題を変えた。
「少し」
「では今度手合わせ願いたいな。どうも頭の良い相手がおらんのだ。ハウプト中尉は申し分のないプレイヤーだが、少々多忙だ」
「あの、軍医殿」
「わかっておる。銃声が聞こえた早朝には、すでに少佐はかなり冷たくなっておった。間違いない」
アンドレイがコーヒーを運んできた。もちろん代用コーヒーである。アンドレイを見送ると、再び口を開いたのは、グラーフのほうであった。
「いったい少佐は何を調べに来ておったのだ。いや、わしはそれほど興味はないのだが、ハウプト中尉が気にしておってな。中尉で大隊を切り盛りさせてもらって、まだ出世が気にかかるのかねえ。これ以上出世すれば、間違いなく前線送りだと思うんだが」
「ハウプト中尉は、この部隊には長いのですか」
「わしよりは長いな。去年の冬にはもう中隊長をやっていた。もっともこの大隊はオデッサ(独ソ開戦当時のソビエト国境のすぐ東側にある都市。「機動戦士ガンダム」のオデッサ作戦で知られる)で、そう不愉快でもない冬を過ごしておったはずだ。わしは4月からだ。ブロッホ中佐も3月からだな」
グラーフはため息をついた。
「中佐を見ただろう。彼は最前線で歩兵大隊を率いていたが、冬の間にほとんど全滅した。戦闘で死んだのは半分くらいで、あとは赤痢と凍傷らしいがな」
「銃声が聞こえた時間と、死亡推定時刻がそれだけ離れていて、どうして調査が行われないのです、軍医殿」
カウフマンは静かに尋ねた。
「私が答える質問じゃないが」
グラーフはそういいながら、答えることを明らかに楽しんでいた。
「忙しいのだろう。パルチザン、食料を巡るトラブル、それに交通整理だ。君のところも同じだろう」
戦場では状態の良い道路は限られているから、そこでの交通整理は憲兵の重要な仕事であり、通行の優先権はしばしば司令部と司令部の激しいやり取りの種になった。
「治安を巡る指揮権の統一など、とても出来んのだよ、憲兵殿。みんなそれぞれに頭の上のハエを追っているだけだ。どの師団の戦区でもないこんなところで、よそ者の軍人がひとり不可解に死んだところで、誰も自分の責任とは思わんのさ。不可解な死などは、いくらでも転がっているからな」
グラーフは冷めかけたコーヒーを飲み干した。
あたりはそれほど静かではない。トラックが入ってきては出て行き、それに軍馬のいななきが混じる。そんな中で、密集した小走りの男たちが立てる足音が近づいてきたので、カウフマンとマイネッケは思わず辺りを見回しつつ腰を浮かせた。
「私から紹介をしたほうがよろしいかな」
グラーフは悠然と立ち上がった。
「こちらがフォン・クネヒト少佐の件で今度来られた憲兵殿だ」
カウフマンとマイネッケは姓名と所属を名乗った。
「こちらが、第729警備大隊の、ディーター少尉」
「会えてうれしい」
無精ひげのがっちりした中年男は、短く自己紹介を切り上げると、言った。
「俺たちに聞きたいこともあるんだろう。質問は車の中で受ける。手を貸せ」
カウフマンは目を丸くした。下級者とはいえ、任務中の憲兵を有無を言わせず自分の指揮下に入れるなど、常軌を逸した話である。
「治安警察の装甲車中隊が近くにいる。今日までだ。鉄道の近くにパルチザンアジトが見つかったから、今日のうちに排除する。君たちには拒否する権利があるが、放棄してくれるな」
ディーターは言った。
「マイネッケ、お前の判断はどうだ」
カウフマンは短く言った。犯罪を扱うことは手馴れていても、軍人としての勘が新兵にも劣ることを、カウフマンは自覚していたのである。
「ええと、自分は、その、協力したほうがいいと思います。軍曹殿」
マイネッケはおどおどと、しかしはっきりと言った。
「そう感じます、軍曹殿」
マイネッケは兵士の感覚で、この士官が信頼できそうかを婉曲に答えたのであり、カウフマンが尋ねたのもそうした面の判断であった。
「わかりました、少尉殿」
カウフマンは続けた。
「感謝する」
ディーターは初めて微笑した。
「いい下士官だ。大事にしろ」
その言葉はマイネッケに向けられていて、微笑を添えた一瞥だけが、カウフマンへの挨拶であった。
----
「俺は中隊長だ。ここにいる連中が、部下の半分ほどだ」
30人ほどの人数が、2台のトラックと1台のキューベルワーゲンに分乗していた。その集団に先行して、2台のサイドカーが走っている。普通の歩兵中隊には200人近い人間がいるはずだから、ひどい充足率である。
「これで20キロの鉄道と、集積所ひとつを守ってる」
「クネヒト少佐とは?」
「質問されたことはある。このあたりのパルチザンの組織構成と拠点について、事細かに聞かれたが、誰かの行動について問われたことはない」
「どの程度のことをお答えに?」
「たいしたことは話していない。たいしたことは知らないからだ。我々は2ヵ月前に展開したばかりだからな。ハイネマンにはもう質問したのだったな」
「はい」
「俺もチョコレートを分けてもらった」
ディーターは苦笑しながら言った。
やがて4両のシュタイヤー装甲車を中心とする、別の部隊が合流した。オーストリアを併合したとき手に入れたもので、二線級兵器として警察部隊によく使われている。停車していた時間はほとんどなかった。すべて入念な打ち合わせが済んでいるようであった。
「クネヒト少佐は、他にどんな方に質問されていたのですか」
「手当たり次第だな。ブロッホ中佐はほとんど質問されないのが不満そうだったが、中佐はいろいろなものに対してご不満があるからな」
ディーターの運転手は、ディーターの顔をちらと見たが、何も言わなかった。
「あの廃屋の地雷は、以前からあのままなのですね」
「そう聞いている。我々が着任したときには、もう地雷注意の看板が立っていた」
「ばかげた質問に聞こえるでしょうが」
カウフマンは予防線を張った。
「クレーントラックはこの近くにいますか」
「少佐を…吊り上げて…中へ?」
「そうです。迅速に作業にかかるには、ハーフトラックに備え付けられたクレーンでないとだめでしょう」
言われたディーターは絶句した。
「心当たりはない。この話は後にしよう」
あまりにも物思わせる質問が多いので、ディーターは目の前の作戦から目をそらせたくないと考えたようであった。それきりディーターは押し黙ってしまい、カウフマンも礼儀正しく沈黙した。何と言ってもディーターは、装甲車と共にやってきた兵士たちを含め、100人近くの命を預かる立場なのだ。
「ところで、君たちへの説明をする暇がなかったな」
ディーターが意地悪く微笑するのが合図のように、自動車は指示もなく一斉に止まった。兵士が金具をがちゃつかせながら一斉に下車する。
「この機関銃を下ろして、あっちを警戒できる場所に据えろ」
ディーターはマイネッケに、重いチェコスロバキア製機関銃をキューベルワーゲンの後ろから取り出させ、大雑把に警戒すべき方向を示した。
「我々が作戦を行う間、このトラックとキューベルワーゲンを見張っていて欲しいのだ、軍曹」
ディーターは言った。どうやら、いきなり死地に送り込まれるというわけではないらしい。もちろん、パルチザンが先手を打って脱出のために襲い掛かってくるかもしれず、どちらが危険かは神だけが知っている。
「あの、少尉殿」
マイネッケはおずおずと言った。
「その機関銃は動かないから、弾は要らん」
ディーターは短く言った。こけおどしというわけである。別の下士官が、ポーランド製の小銃と弾薬箱を持ってきて、無言でカウフマンに差し出した。
「襲われて、手に負えなければ逃げてもかまわんが、逃げないことを勧める。我々にも、君たちがどこに行ったのかわからなくなるからな」
ディーターは軽く、しかし真剣に言った。地元のパルチザンと追いかけっこをして勝てるはずもない。カウフマンは無言でうなずいた。
----
「警部殿、密室のことを考えておられるのでありますか」
周囲に油断なく目を配りながら、マイネッケは低い声で尋ねた。
「確かに密室の謎は解けたわけではないし、クネヒト少佐の調査内容もさっぱりわからない。だが、それだけではない」
カウフマンの見張りには、明らかに熱が入っていなかった。カウフマンはこうした、兵士としての基本動作が、どうも苦手なのである。
「この事件の最大の疑問は、なぜこれが事件なのかということなのだ」
「事故だとおっしゃるので」
マイネッケは首をかしげた。
「ブラウン神父(チェスタートンの作品に登場する、イギリスの名探偵)のいうように、木の枝を隠すなら森の中がいい。ここには死はあふれている。ブロッホ中佐のいう通りなのだ。単に転がしておけばパルチザンの仕業で済むものを、どうして複雑な状況を作って、事件と認識させるようなことをするのか」
「とりあえず、我々が転がされないようにしないといけません、軍曹殿」
マイネッケはもう一度、何も動くものがないように見える草原に、目を凝らした。
----
遠雷のように射撃音と爆発音が続き、やがて静かになった。日がとっぷりと暮れようとする頃、ディーターたちは戻ってきた。パルチザンらしいロシア人がふたり、乱暴に包帯を巻かれた姿で引き立てられている。疲れ果てていたが、重傷者や戦死者はいないようであった。
「お駄賃だ、軍曹殿」
ディーターはカウフマンに、ドイツのMP40短機関銃を差し出した。パルチザンは現地住民の協力で、戦場に遺棄された兵器を拾って使っていることも多いので、両軍の兵器を使っている。
「初期型だ。安全装置が外れやすいから注意しろ。落としたりしたら自分が蜂の巣になるぞ」
その銃はパルチザンが捕獲して使っていたものらしい。細長い弾倉もひとつ余分にくれたが、弾が入っている弾倉はひとつだけだった。カウフマンは肩をすくめて礼を言った。
結局のところ、帰路のディーターは見るからに疲れていたので、カウフマンは質問をあきらめた。
車を降りると、宿舎に宛がわれた農家の扉に封筒がはさんであった。ハウプト中尉からの夕食の招待状であった。
カウフマンにとって、食事はしばしば捜査の舞台であり、被疑者や証人の言葉だけでなく、しぐさ、視線、癖、ありとあらゆるものが判断の材料として貴重である。
しかし今宵、カウフマンは捜査官であることを忘れた。
こんなにがつがつと夢中になって食事をしたのはいつ以来であったか、カウフマンは思い出せなかった。
特別なメニューが出たわけではない。ソーセージ。パン。油で揚げたじゃがいもと玉ねぎ。しかし、すべてが新鮮だった。じゃがいもなどは、たっぷりの油で二度揚げされていた。糧食基準に「野菜」と書いてあれば、水で戻した乾燥レンズ豆のスープでも、じゃがいもでも、規定的には何でも許されるのである。噛んだ瞬間ばりばりと音を立てるフライドポテトを供すべし、とは書かれていない。カウフマンの五感は、その音と色と匂いと味を総合的に楽しむために、最後の一細胞まで動員された。
特別なメニューもいくつかあった。まず卵。ただの、しかし新鮮な半熟の目玉焼き。そして代用コーヒーの代わりに、ワインがあった。
「実家の蔵から送らせたものです」
遠慮がちにハウプト中尉は1935と年号が入ったワインのラベルを示した。
「その、長時間輸送に適さなくなったストックが、若干生じることがあるのです。卵などは特に」
ハウプトは愛想笑いを絶やさない。
「ご実家は、ワインを作っておられるのですか、中尉殿」
カウフマンはようやく夢幻の境地を振り払って、ビジネス世界に戻ってきた。
「いや、主に乳牛ですね。シュレスヴィヒ・ホルシュタインなもので」
シュレスヴィヒ=ホルシュタインはデンマーク国境の地方で、牧畜が盛んである。
「軍人一家ってわけじゃないんです」
ハウプトの言葉に、カウフマンはうなずいた。
「奇遇ですな。我々はニーダーザクセンです、中尉殿」
「それはそれは」
ハウプトも愛想良く笑った。
プロイセンのユンカー貴族は、ドイツ将校団の中で大きな比重を占めているが、彼らの保有する農園はドイツ騎士団の故地であるエルベ川以東に集中していて、北西の端っこであるシュレスヴィヒ・ホルシュタインでは、地主であってもユンカーではない。もっとも、軍人一家として何百年か前に完全に分家してしまい、土地を持たないユンカー貴族は多いのだが。
「こういうご時世だから、親が戦闘兵科を嫌がりまして」
ハウプトは問わず語りに語った。
「わかりますよ」
カウフマンは如才なく言った。最前線に送られないことを期待して、秩序警察(刑事警察のうち制服で勤務するもので、日本で言うと機動隊のようなものも含まれ、ヴェルサイユ条約が厳格に守られていた時代には国境警備の一翼を担った)など警察系の部隊を志願する者は少なくなかった。
「うちにも、ダイムラーの自動車があったものですから」
「ほう」
カウフマンは正直にうらやみの視線を送った。
1930年代には、自動車の普及率ではアメリカが群を抜いていて、ドイツで自動車を持っているのは金持ちだけであった。だから国民車計画が政府の民生政策として立派に意味を持ったし、関心も集めたのである。
補給科というのはライトブルーの兵科色を持つ独立兵科だが、その専門技能はといえば、挽馬の世話と自動車の運転であった。歩兵科などで運転手が必要になったときも、補給科の訓練部隊や学校に人を送って訓練してもらう。
「ところが、どうしても士官候補生に志願しないといけない成り行きになってしまいましてね。まあ、幸運といいますか、こういう後方部隊におります」
ハウプトはざんげするように一気に話した。実際に幸運があったのか、名家ゆえにしかるべき知り合いがしかるべき要路に口を利いたのか、そこのところはわからない。一切を親が差配し、本人は薄々しか知らないのかもしれない、とカウフマンは思った。
ハウプトが目が覚めたようにカウフマンを見たので、カウフマンは質問をするころあいだと感じた。
「クネヒト少佐は、あなたには何をお尋ねでしたか」
「主に、輸送列車のスケジュールでした。ここから先の目的地、積荷、時刻、そういったものです」
ハウプトは心細げに尋ねた。
「本当のところ、少佐は何をお探しだったのです」
「私にも、知らされていないのです」
「知らされていない?」
ハウプトは疑い深げであった。
「私はマンシュタイン将軍の命令によって派遣されてきたことはご存知でしょう」
カウフマンは言った。実際、ふたりには正式な転属手続きが取られていて、正式な所属も第11軍司令部付になっている。そうしないとマンシュタインから正式な命令が出せないからである。
「私たちには何も先入観を持たせず、少佐の死の真相を探らせるのが、将軍の意向なのです」
「少佐の死」
ハウプトはその言葉を思わず口に出し、それを後悔したような表情になった。取り繕おうとするハウプトにかまわず、カウフマンは次の質問をした。
「ブロッホ中佐には、少佐はどのような質問をされましたか」
「そう…何もありませんでした。事実上、挨拶だけです」
ハウプトは慎重に言葉を選んで言った。
短い沈黙を破ったのはカウフマンであった。
「優秀な方だが、つらい目に遭われたそうですな」
「そうなのです。憲兵殿。本当にそうなのです」
ハウプトは悲しげに言った。
「前線で十分に能力を発揮できる方なのですが」
そして、また沈黙が戻ってきた。わが身と引き比べて、何か気恥ずかしくなったらしい。
「今日はどうもありがとうございました」
カウフマンはちゃっかりとワインを最後の一滴まで飲み干すと、席を立った。
----
夏夜の風は涼しく、心地よい。カウフマンとマイネッケは、宿舎まで歩いて戻るところであった。
「今日は、玉子焼きが出たそうですね、警部殿」
マイネッケが言うので、カウフマンはもごもごと言葉に窮した。士官との会食に兵を連れてゆくわけにも行かず、マイネッケは大隊本部の別室で規定通りの夕食を供されたはずである。
「割れて玉子焼きに適さなくなった卵を炒り卵にした奴を、自分もご相伴しました」
マイネッケがまじめくさって言うので、ふたりは大笑いした。大隊本部の兵士たちも勝手にご相伴に与ってしまったらしい。
「ハウプトの評判はどうなんだ」
「悪くありません。警部殿。まったく悪くありません。まともな士官だと、みんな言っております」
「何か不自然なそぶりに気がついたかね、ワトソン君」
「我々が殺人事件の捜査をしているとは、誰も思っていないのであります、警部殿」
カウフマンは途方に暮れたように両手を挙げた。
「じゃあ何なんだ」
「クネヒト少佐の調査を、我々が引き継いでいると、みんな思っているのであります。少佐が何を調査していたのか、みんな知りたがっております、警部殿」
カウフマンは黙った。こういうとき邪魔をしてはいけないのを、マイネッケはすっかり心得ていた。
「現場に戻ってみよう」
カウフマンは自分に言い聞かせるように言った。
「少佐が殺されたのはおそらく夜だ。夜の現場をまだ見ていない」
マイネッケは何も言わずに、すたすたとキューベルワーゲンを停めてあるところに歩き出した。憲兵が飲酒運転をしていれば世話はない。
----
現場には、先客がいた。ホルヒ社の中型乗用車が廃墟の近くに停まっているのが、ヘッドライトに照らされた長い影でわかる。
「憲兵だ。所属と姓名を」
カウフマンはそう言いながら車に近づいた。憲兵は相手が士官でも誰何していいことになっている。
「コンラート・ハインツ上等兵、ブロッホ中佐の運転手です」
「うかつ者め、灯火を消さんか。パルチザンの手は長いぞ」
ブロッホの叱咤が聞こえた。昼間のブロッホとはうって変わって、きびきびとした口調である。
「ちょうどよい。手間が省けた。ついてこい」
ほとんど漆黒に近い闇の中を、ブロッホは懐中電灯すらつけようとしない。そのブロッホについて、カウフマンとマイネッケはとぼとぼと歩いた。
ほんのわずかな星明りに、廃屋の影がうっすらと見える。
「あれが密室に見えておるのではないか、憲兵」
ブロッホは言った。
「そうではないとおっしゃるのですか」
ブロッホはカウフマンに取り合わず、無造作に廃屋に歩み寄った。警備大隊が渡した板はもう取り外されている。止める間もなく、ブロッホはあっさりと廃屋の戸口にたどり着いてしまった。
「わしが石の上を歩いてきたことに気づいたか」
ブロッホは言い、再びふたりのもとへ歩いてきた。確かによく見ると、ブロッホは夜目にも色の違う、石の目印の上を選んで歩いている。
「周到な準備があれば、一人前の歩兵ならできて当たり前だ」
ブロッホの言葉に、カウフマンは少ししょげた。
「事件のあった日は、もっと月が明るかった。夜更け前ならば、月明かりで目印をたどることも簡単だったろう」
ブロッホの説明は意外に明晰である。
「さて、そろそろ寝る時間だと思わんかね」
すっかり主導権を取られて、カウフマンは曖昧に同意する他はない。ブロッホはさっさと車に向かっている。
「クネヒトが何を調べていたのかは知らんが、クネヒトを殺害した者どもは、殺害したということを知らせたかったようだな」
「誰に知らせるのでしょう、中佐」
カウフマンはかろうじてブロッホのメッセージをレシーブした。
「そして、君が来た」
ブロッホは言うと、乗用車のドアを開けた。
「おやすみ、諸君」
----
朝の代用コーヒーは、とりたてて上等というものではなかった。昨日のうちに配られていた朝食用パンを焼くために、気兼ねなく火が起こせるのが後方のありがたいところである。
「今日はとりあえず、警備大隊のディーター少尉に会うとするか」
カウフマンは面倒くさげに言った。
「昼のパンを、もらってきましょう」
マイネッケは答えた。どうやら出先で昼食を取ることになりそうだ。何しろ20キロになる鉄道のどこにいるのか、わからないときているのだから。
ディーターは結局、10キロばかり先の小集落にいるところを見つけることができた。パトロールの最中らしく、所在を野戦電話でさんざん聞き回って、昼食休憩しているところにようやく車で追いついたのである。
「クネヒト少佐を見つけたパトロールですが、毎日行っているものですか」
「毎日だが、時刻は一定しない。結果的に行けないこともある」
ディーターは相変わらず簡潔に言った。
「他が忙しいこともあるからな」
「それを判断するのは、どなたですか」
「パトロールの順路を変えるほどの大事となると、結局俺のところに来るな。無線でだが。そう珍しいことじゃないが、あの日はそういうことはなかった」
話の合間を見つけて、ディーターは堅いパンをむしゃむしゃ口に入れた。
「それを知るには、どうすればいいですか。ああ、ええと」
カウフマンは言葉遣いを選んだ。
「あなたの部下があそこを通る正確なタイミングを測るには、どうしたらいいですか」
「パルチザンに尋ねる」
ディーターは面白くもない冗談を言った。
「いや、知っているんじゃないかと思うことも時々あるな。実際、30分程度の誤差は報告するほどのことでもない。目で見ないとわからんだろうよ」
遠くで、銃声がした。
「しくじったな」
ディーターはつぶやくように言って、パンを置いて立ち上がった。
「すまん探偵殿。俺の持ち時間はおしまいだ」
----
「マンシュタイン将軍にお会いになった? それはすごい」
ダミニスコエ駅長のブレネケは、愛想の良い中年男だった。薄くなり始めた頭髪は、都合よくドイツ国有鉄道の制帽に隠されている。
「キエフ駅におりましたときに、ルントシュテット元帥をお迎えする栄に与ったことがありました。もっとも私は列の後ろのほうにおったので、元帥の頭を少々見るのがやっとでしたが。大変寒い日でした。いやまったく寒い日でしたとも」
カウフマンも愛想よくうなずいた。ルントシュテットがヒトラーに解任され、いまだに復職できずにいる事情は下々には知られていなかったので、ふたりとも遠慮する理由はない。
「初歩的な質問をお許しいただきたいのですが、駅長。ここのダイヤは、どのように決まっているのです」
「さよう、ポルタヴァ(ハリコフの近くにある地方都市)のHBD(Haupteisenbahndirektion、当時ソビエト領内に4つあり、付近の列車運行をコントロールしていた鉄道管理局)で決めております。いまダイヤとおっしゃいましたな」
ブレネケ駅長は笑った。
「ダイヤはダイヤとして、どの列車を通せるかは最寄りの駅とHBDの間で決めておるのが実情です。もっとも私共としては、走ってきた列車を通すしかないのです。いろいろありますからな。ご承知と存じますが。国軍さんはいろいろと臨時列車の御用がおありですから」
ブレネケは、商店主が最も古い上得意のことを呼ぶように、国防軍を呼んだ。ドイツ国有鉄道にとっての国防軍は、実際そうなのだが。
ブレネケ駅長は傍らのポットから代用コーヒーをカップに注いだ。香草入りの麦茶に近いもので、決してうまいものとはドイツ人たちも思っていないが、水が手に入りにくいヨーロッパでは、質の悪い水のにおいや味をごまかすために何か混ぜないわけにも行かないのである。
「人手はぎりぎりまで荷役業務に割いておりますから、こんなことも私がやらねばならんのです。軍のほうでは、その、何と言いましたかな。将校の義務とか」
湯気を立てる代用コーヒーは、クッションの悪い小型軍用車で長いドライブをしたあとでは、ご馳走の部類に数えて良いであろう。カウフマンとマイネッケはそのご馳走を感謝して受けた。
駅長室といっても壁は間仕切りに近く、そのすぐ外側では駅員がごろごろと仮眠を取っている。次の貨物列車が到着すれば、彼らはたたき起こされるのであろう。代用コーヒーをすすりながら、カウフマンはそのことを思った。
「クネヒト少佐は、ここにもおいでになったのでしょうね」
「いえ?」
何気ないブレネケ駅長の否定に、カウフマンは目を見開いた。
「少佐は、ここで質問をしておられないのですか」
「ああ、何の質問をですかな、憲兵さん」
「輸送列車のスケジュールとか」
「記憶にありませんな。その少佐はどのようなご難に遭われたのです」
ブレネケ駅長は怪訝な顔をした。
「だいいち、輸送列車のダイヤでしたら、ポルタヴァに問い合わせたほうがよほど正確です。全体のことはここではわかりませんのでな。ここでわかるのは、近くの、今のことだけです。それも怪しいものですが」
ブレネケ駅長は大げさに肩をすくめた。
電話がかかってきた。それを取ったブレネケは、いちいち復唱しながら猛然と数字や記号をメモに書き写し始めた。ダイヤの変更連絡らしい。カウフマンが気を利かせて席を立つと、ブレネケは目だけで挨拶をした。
----
「今日は無駄骨でしたね、警部殿」
帰りのキューベルワーゲンの中で、マイネッケは声を掛けた。もう日は傾き始めている。
「まるっきり無駄骨というわけでもない。クネヒト少佐が何のためにここにいたかが事件の鍵だ。それがわかった」
「その答えもお分かりですか」
「正しい問いと、正しい答えは、同時に見つけるものさ」
カウフマンは言った。
「憲兵殿」
大声で呼ばれて、カウフマンは前方を見た。路肩に1台の装甲車が止まっている。確かフランスから捕獲したパナール装甲車で、きのうディーターたちと一緒にいた装甲車より近代的なデザインである。
停車したカウフマンたちに、下士官が話しかけた。
「第333装甲列車の、グランツ軍曹だ。ここを警備している警備大隊と連絡が取れんか」
カウフマンはキューベルワーゲンの無線機でディーター少尉の無線手に連絡を取り、グランツに話させた。親切心からではない。相手がドイツ軍服を着たパルチザンで、周波数を知りたがっているだけかもしれないからである。幸いそうではなく、装甲列車と警備大隊が落ち合う地点の打ち合わせは、すぐに済んだ。
「助かったよ。ローカルな周波数がわからなくていつも難渋するんだ」
グランツは気さくに言った。
「特に部隊がたくさん集まるときはいつもひと騒動でね」
「部隊がたくさん集まるのですか」
「ああ、大規模な作戦がね。おっと、もちろん秘密だよ憲兵殿」
グランツは笑った。
装甲列車は、200人くらいの小部隊を乗せた移動基地のようなものである。ドイツ軍では装甲列車自身が輸送任務に就くことはほとんどなく、パトロールや急場の応援を主な仕事とする。装甲した客車に75ミリ砲や105ミリ砲を据えつけてあるが、うっかり敵に近づいて機関車を破壊されたら立ち往生してしまうので、搭載した軽戦車や歩兵に前進させ、自分は数キロ向こうから砲で支援するのが普通である。鉄道線路近くのパルチザン拠点を攻撃するのであろうとカウフマンは思った。
装甲列車部隊のパナール装甲車は線路上を走れる改造型だが、装甲列車にはタイヤが積まれていて、タイヤをつけて路上も走れるようになっている。その装甲車が本来の居場所を指してそそくさと行ってしまうと、カウフマンたちも帰路についた。
----
「何日くらいかかりそうかね」
第11軍参謀長・シュルツ大佐は、電話口でカウフマンに尋ねた。
「事件の全容が明らかになるまで。戦局が動きそうなのだ。セバストーポリ要塞が片付いたら、マンシュタイン将軍はもっと重要な戦場に異動されるかもしれん」
「それは、私が提供して頂く情報の質によります」
カウフマンは言った。
「クネヒト少佐の調査内容がすべての鍵を握っていると思います」
声を低めながら、思わず周囲に目が行った。大隊本部の電話を借りているので、いくら周囲が気を遣ってくれていても、周囲から完全に人を追い払うことができない。あちらこちらの折り畳みテーブルから、ちらちらと好奇の目がこちらに向けられるのを、カウフマンはこそばゆく感じていた。
「それはできんと将軍が説明されたはずだ」
シュルツはにべもなく言った。
「進展はあるのだな」
「はい、しかし」
「引き続きお願いする。直ちに調査を打ち切るような状況ではない。将軍は君に期待しておられるのだ、軍曹」
最後の口調が、さらなるカウフマンの質問を希望しない意向をはっきり示していたので、カウフマンは上級者の-とんでもなく上級の-意向に従うことにした。
電話は、切れた。
座っていたカウフマンがむっくりと身を起こすと、周囲の頭が一斉に揺れるのが見えた。今までどこを向いていたかを隠そうとするかのようであった。
大隊本部から宿舎まではそう遠くない。宿舎のドアを開けて、用心深く中を覗き込んだマイネッケが驚きに身を固くするのを見て、カウフマンは思わず身をかがめてホルスターに手をやった。撃ったところで当たらないことは自分でもわかっているのだが。
「シーツが、替えてあります、警部殿」
マイネッケは振り絞るような声で言った。カウフマンはマイネッケに続いて、そろそろと部屋に入った。
真っ白いシーツが、家主のソビエト人から取り上げたベッドにぴっちりと敷いてある。シーツを毎日交換するなど、東部戦線では王侯へのもてなしに近い。虱を嫌って、夏には民家があってもテントで寝たがる兵士もいるほどなのに、この宿舎に入ってからはそういうことがなかった。惜しげもなく薬剤をまいたらしい。ハウプト中尉の気弱な笑顔がカウフマンの脳裏に浮かんだ。ハウプト中尉が何を隠したがっていたとしても、カウフマンはそれを許してもいいと思っていた。
「お荷物は大丈夫でありますか」
マイネッケに言われて、カウフマンは我に返った。シーツが替えてあるということは、室内に誰か入ったということなのだ。
「大丈夫だ、ゲオルグ。重要なものは持ち歩いている」
言いながらカウフマンは荷物を開けた形跡を捜し求めた。
確かに、荷物が動かされている。そのことは、床に置いた荷物の周りに積もった土ぼこりの乱れでわかった。いかなハウプトの真心も、ウクライナの土ぼこりには通じないのだ。カウフマンがマイネッケに目線でそのことを告げたとき、ドアがノックされた。
「憲兵殿、サモワールにお入りになりますか」
「サモワール?!」
カウフマンは思わず声を上げた。サモワールはソビエトの伝統的なスチームバスで、村の共同浴場のことが多い。ドイツ軍が拝借して、つかの間だけほこりと虱から開放されるのは、しかしこれも後方の特権である。
----
薄暗い室内には、湯気がもうもうとたちこめている。もともと村の浴場なのだから、村人も入ってきて当然である。実際、数人の村人らしき影が見える。女性が混浴していることすらあるのだが、今はそれらしき人影はなかった。
コンコン、と壁を叩く音がした。誰かが入ってきた、という合図である。カウフマンは数を数え始めた。ゆっくりと。ゆっくりと。100数え終わったカウフマンは、コンコンと内側から壁を叩き返すと、サモワールの入口に近づいた。
「ゲオルグ! ゲオルグ! 俺の新しいシャツはどこだ」
平静を装ったカウフマンは、いまにもサモワールから出るという素振りをした。わざとゆっくり開けた戸から、湯気の向こうに、あわてて戸口をくぐってゆく人影が見えた。
カウフマンはさっと荷物を眺めた。いつも手帳の入っているポケットのボタンがはずれている。手をやると、手帳の手触りがない。カウフマンは満足して、さっさと服を着始めた。急いでマイネッケを追いかけなければ。
着替え終わらないうちに「止まれ! 警察だ」というマイネッケの声が聞こえてきた。今回は尾行という悠長な手は取れない。手帳を盗んで持っているところを現行犯で押さえる必要があるからである。もちろん奪われるのを見越して、手帳の中身は人畜無害なものとすりかえてある。
地面で取っ組み合いをしている男とマイネッケを見下ろし、拳銃を構えて「手を上げろ」と叫んだカウフマンは、自分の行ったことか通じたかどうか、実際に相手が手を上げるまで不安だった。
ドクトル・グラーフのところにいたソビエト捕虜、アンドレイがそこにいた。
----
アンドレイが押し黙っているのを見ても、カウフマンは職業的な慣れによって、不快の念を覚えなかった。容疑者とはそういうものだ。
アンドレイがソビエトの密命を受けてわざと投降し、ドイツ軍の情報をソビエト、あるいはパルチザンに流していた可能性は、ないわけではなかった。当のドイツ軍の真っ只中でそれをしていたとしたら、よほど志操の固い戦士に違いない。話さないのが当然なのだ。
クネヒト少佐がパルチザン組織への機密漏洩に気づき、発信源と思われるこの基地に様子を探りに来ていたとしたら、すべて辻褄が合う。クネヒトがでたらめで意味のない質問を誰彼なく浴びせていたことも、内通者を警戒させないカモフラージュであったに違いない。有力な仮説が浮かんで、カウフマンは実のところ、ほっとしていた。
もう日はとっぷりと暮れている。逮捕されると気が動転して自供に及ぶ容疑者もいれば、逮捕直後は気が張り詰めていて黙秘を守り、次第に耐え切れなくなってくる容疑者もいる。どうやらアンドレイは-おそらく本名ではなかろうが-動転してくれそうもないと見て取ったカウフマンは、尋問を切り上げて外に出た。臨時に看守を務めることになった管理中隊本部の歩哨が型通りの敬礼をした。
お客さんらしく丁寧に答礼したカウフマンを出迎えるように、ふたり分の飯ごうを下げたマイネッケがやってきた。飯ごうの中には夕食のスープが入っている。カウフマンの分を差し出すと、マイネッケは上官にかまわずスープを口に運び始めた。兵士は元来早めしなものだが、冬の東部戦線で、飯ごうに移されたスープが数十秒で凍る経験をしている兵士たちは、熱い物を熱いうちに食べることには遠慮しなかった。
つられてついカウフマンも立ったまま、パンをかじりつつスープをかき込んだのだが、それは無駄ではなかった。食べ終わるが早いか、管理中隊本部から呼び声がしたからである。
----
「彼は国防軍の捕虜であると思いますが」
カウフマンはいちおう抵抗した。
「彼はソビエト軍の軍服を着ていない状態で捕まったのだから、捕虜ではない。広域的なパルチザン対策のため、至急に彼の身柄を確保する必要があるのだ。近日中に、大規模な対パルチザン作戦が発動される。彼がそれを誰かに漏らしていないか、詳しく取り調べる必要がある」
秩序警察の少佐は居丈高に言ったあと、意地悪く言い添えた。
「あの制服はもちろん盗まれたものであろうな」
戸口に近いところに立ったままのハウプト中尉が弱弱しい微笑を浮かべてうなずいた。
意外なゲームセットだ。カウフマンは内心の失望を隠せているか自信がなかった。しかし少佐の言い分も、もっともであった。きょうたまたま会った装甲列車部隊の軍曹が言っていたように、大規模なパルチザンの狩り出しが行われるのは事実であろう。もし計画が漏れているとしたら、計画地域はもぬけの殻で、ドイツ兵を待っているのはトラップだけである。
ディーター少尉の属している警備大隊は国防軍の後方用部隊だが、後方地域にはこの他に秩序警察、保安警察、鉄道警察が入り乱れ、普段はてんでにパルチザン対策を行っているのが実情であった。国防軍を除けばどれも親衛隊長官の指揮下にあり、広い意味での親衛隊であったから、国防軍まで対パルチザン戦では親衛隊の指揮下に入れよう、とする動きは目新しいものではない。指揮を秩序警察が執るとすれば、アンドレイの身柄を火急に欲しがったとしても不自然ではない。対パルチザン作戦のため、たまたま少佐が補給大隊本部に寄ったことが、何としても不運であった。
結局少佐は、アンドレイを強引に引き立てて行った。
----
翌朝、シュルツ参謀長に短い報告の電話をしたあと、カウフマンたちはハウプトのもとに出頭した。重要参考人が手の届かないところに行ったとはいえ、彼らの離任命令は今日中にはまだ出せない。対パルチザン作戦が行われる間、補給大隊も戦闘班を編成して集落の防御を厳にすべし、という命令が出て、カウフマンたちもこれに巻き込まれてしまったのであった。
普段は荷役をやっている兵士が多いが、帳簿や書類しか扱っていない兵士も少なくない。不安と緊張が戦闘班にただよっていることを、カウフマンは感じた。
戦闘班長を務めるのは、管理中隊の先任曹長(兵士の生活や補給など後方一切を取り仕切る立場で、副中隊長に近い)である。先任曹長は申し訳なさそうに、カウフマンとマイネッケ、そしてアイケと呼ばれた兵士に、道路脇の丘に定めた前哨地点の確保を命じた。憲兵は基本的に下士官だし、責任感が強く信頼が置けるので、使う側としてはつい偵察役に使いたくなるのである。丘と言っても起伏はわずかで、戦火の中で手入れの悪い麦畑が広がっていた。
アイケはもう30歳になろうかという古兵であった。下士官ひとりに兵ふたり。自然と、双眼鏡を持って警戒に当たるのはカウフマンで、スコップを振るって塹壕を掘るのは残りふたりになる。マイネッケは不安そうな表情を隠そうともしなかった。突然考え込んでしまうカウフマンの癖は、見張りとしては命取りになりかねない。そこへ持ってきて、アイケはカウフマンの気の散るようなことをのべつ幕なしに語りかけ続けるのである。
「憲兵殿は、ハイネマンとクランケの見つけたって言う、士官殿のことで来てなさるんで?」
「君は、士官殿の名前を知らないんだね」
「たいそう偉い方だったと思いますが、すいやせん憲兵殿」
「そういえば、ハイネマンには会ったが、クランケにはまだ会っていない」
「クランケは、くたばりやした」
思わずカウフマンが見張りを忘れてアイケのほうを向いたので、マイネッケも顔を上げてカウフマンに目配せした。前哨地点の様子を、双眼鏡で戦闘班長が見ていないとも限らないのだ。見張りを怠ったとなれば、待っているのは懲罰大隊である。懲罰大隊はいくつもあって、第999という番号がついているものが多い(原隊の一員としての資格を奪う、という意味もある)が、北極圏のラップランドには第999沿岸砲兵大隊がいるはずである。
「きのう、パルチザンに撃たれちまいやした。いいやつでした」
アイケは淡々と言った。カウフマンはため息をついた。証人がランダムに戦死していく事件など聞いたことがない。
「どういう状況だったのか、知っているか」
「狙撃です。兵舎の明かりに、影が映ったのを狙われたでやす」
カウフマンは肝を冷やした。薪があっても、夜中に室内を明るくするのは危ないのだ。
「クランケだと知って狙ったわけではないのだな」
アイケは不思議そうに黙り込み、数秒後に肯定した。戦場ではそれが当たり前である。他にどうだというのか。
----
装甲列車は中隊規模なので、その長は普通大尉である。指揮車のライデン大尉は窓の外をちらりと見ただけで、あとは腕時計と相談し、75ミリ榴弾砲を備え付けた戦闘車に電話で射撃を許可した。
たちまち轟音と振動が戦闘車から伝わってくる。ライデンはヘッドホンをつけると、気ぜわしく修正諸元を伝えてくる弾着観測班の声に耳を傾けた。
今回のパルチザン掃討作戦は、およそ5個大隊、4000人ほどで取り掛かることになっていた。もっともそのほとんどは後方警備用の部隊で砲兵を欠いている。だから第333装甲列車は、突撃部隊として期待を受けていた。この装甲列車に取り付けられた2門の75ミリ榴弾砲は、フランスやポーランドから分捕った第1次大戦の遺物だが、少々照準が怪しくてもよければ10キロほどの射程はある。軽武装のパルチザンを一方的に打ち据える武器として、装甲列車は馬鹿にならない存在なのである。そして旧式化した38(t)戦車が2両、無蓋車に載せられて付き従っている。。
砲声はきっかり5分で止んだ。無線手が指揮卓のマーカーをわずかに前進させて、50人ほどの降車戦闘班が戦車と共に動き出したことを知らせたので、ライデンは小さくうなずいた。無線手のヘッドホンは降車班との通信を受けている。ライデンはヘッドホンをはずした。いつもの通り、戦闘室から電話がかかってくる。榴弾砲班から残弾の数を細かく知らせてきたのだ。電話を受けながら、ライデンは指揮卓の地図に目を落とした。敵の位置をプロットできるほどの情報はまだ流れてこない。降車戦闘班の攻勢軸は、街道に沿ってまっすぐに鉄道から遠ざかっている。それは、最も敵のいそうなところを降車戦闘班が担当していることを意味していた。
電話が終わると、ライデンは残弾数を書いたメモを無線手に示した。無線手はヘッドホンをはずし、確認を求めた。
「ランデスシュッツェンに報告ですか、大尉」
「そうだ」
ライデンは自分の目の前にある、もうひとつのヘッドホンに聞き耳を立てた。無線手が今までモニターしていた、降車戦闘班との無線がこのヘッドホンに通じている。まだまだ予断は許さなかった。
----
ランデスシュッツェンは後方用の警備連隊で、国防軍所属である。連隊単位であちらこちらと転戦し、そのつど一時的に保安師団司令部などの指揮下に入る。いくらか榴弾砲などの砲も持っていて、今回はひとつだけ、それも連隊の半分だけ参加しているランデスシュッツェンの司令部が、参加する砲兵の統一指揮を執ることになっていた。とにかく統一指揮というやつは、連絡の必要が次から次へ生じるので、人手と通信器材に余裕がないとできないのである。ドイツ軍は有線電話を多用するが、最前線では交換機でつながっているとは限らず、相手の数だけ野戦電話機が並ぶことも珍しくない。
「敵の位置と規模が確認できたら、あらためて砲撃を要請してくれたまえ」
連隊長は根気よく、丁寧に砲撃支援要請を断った。戦いに慣れていない下級指揮官が、効果の不確かな砲撃要請をしてくるのは致し方のないところで、だから限りある弾薬を有効に使うため、高級指揮官によるコーディネーションが必要なのであった。
参謀がいるのは師団司令部から上で、連隊本部には連隊長以外の将校というと、せいぜい副官と無線士官くらいしかいない。その副官と無線士官には作戦地図上のマーカー更新を任せ、連隊長は砲撃支援要請を一手にさばいていた。配下の大隊は、秩序警察の地区司令部が統一指揮しているから、そちら方面の仕事はない。
何かびっしりと書き込んだ紙を副官が作戦地図に貼り付けた。対戦車砲? 厄介なものを持っているパルチザンがいる。榴弾を持っていたら、歩兵にとっても侮れないのだ。その存在を報告してきた中隊からは、砲撃支援要請がない。しっかりした指揮官がいるのだろう。位置を暴露しさえすれば、対戦車砲を孤立させてたたくこともできようが。パルチザンが人力で運用しているとすれば、おそらく45ミリ対戦車砲のはずだ。
順調に包囲の輪は狭まっている。この大規模な巻き狩りはしかし、1日で終わらないものと予想されていた。その場合に最も警戒すべきは、破れかぶれの夜襲による包囲突破の試みである。
そのことを連隊長が思っていると、また電話が鳴った。
----
ほとんど素通しの地形を任されたディーター少尉の中隊は、慎重にそろそろと麦畑を前進していた。茂みの向こうにソビエト軍が機関銃を構えていたら、数十人がなぎ倒されてしまう。日没時に野原の真ん中で静止する事態を心配して、大隊本部がいくら前進をせっついても、ディーターは取り合わなかった。敵は土の中にもいる。地雷を見逃せば、パルチザンの死出の旅路に付き合わされることも十分ありうる。数個の地雷が連動して破裂する仕掛けもあるし、あるいは信管でなくリモコンで発火するようにしておいて、近くに隠れて爆破のタイミングをうかがっていることも考えられた。
ディーターは5名の兵士と共に、中隊全体が見える丘の尾根で身を低くしていた。一緒に進む兵士は3名になったり、6名になったりした。ひっきりなしに伝令を走らせているからである。深刻な定数不足のためディーターの中隊本部には本部班長も衛生下士官もおらず、臨時に配属された無線手だけが常にディーターと行動していた。数メートル向こうでは、軍曹が低い声で、しかしがみがみと叱咤して、重機関銃を前進させている。ドイツ軍のMG34も軽機関銃として使えるとは言いながらずっしりと重いが、ディーターたちは二線級の部隊であるゆえに、さらに重いチェコスロバキア製重機関銃をあてがわれていた。先だってカウフマンたちがあてがわれたのと同型だが、ちゃんと撃てるものである。これを持ち上げて、教典通りに歩兵の前進に追随するのはつらい。ようやく新しい位置についたのを見届けて、ディーターが別の小隊に前進を命じようとした、そのときであった。不快な風切り音を感じ取って、ディーターたちは身を伏せた。
迫撃砲である。どうやらパルチザンからの攻撃らしい。あわてて位置を暴露すれば、パルチザンの思う壺である。じっと伏せる。臆病な兵士がひとり立ち上がって走り出し、至近で爆発した迫撃砲弾の断片を浴びて倒れる。
攻撃は唐突に止んだ。砲弾が十分でないのであろう。パルチザンはこっそり補給を受けるほかに、戦場から回収した遺棄兵器を使うが、火器と弾薬のバランスが取れているとは限らなかった。
何事もなかったように、ドイツ軍の隊列はひたひたと前進を開始した。弓なりに弾を飛ばす迫撃砲は2、3キロ向こうの物陰から撃つこともできるから、すぐには反撃することができない。弾の飛んできた方向を無線で詳細に報告しながら、ディーターは夜の間、重機関銃をどこに配置したものか、そろそろ考え始めていた。すでに日は傾き始めている。
----
もともと念のための警戒だから、補給大隊戦闘班の面々に弛緩が現れたのはやむをえない。その空気に変化が現れ、ひそやかな緊張の波が戦闘班に漂い広がっていることに最初に気づいたのは、やはりマイネッケであった。ちらちらと見えている他の兵士のしぐさから、リラックスした様子が消えている。その原因は、すぐにわかった。原因となったその人が、まっすぐこちらへ歩いてきたからである。
ブロッホ中佐であった。カウフマンもアイケも、塹壕の中で敬礼する。ブロッホは濠の形を見て顔をしかめた。
「入営はいつだ、軍曹」
「は、1940年であります」
「兵士としての入営のことだ」
「は…ありません。自分は1909年生まれであります、中佐」
カウフマンの世代は、ドイツがヴェルサイユ条約で徴兵制を禁じられていたので、義務兵役についていない。
「フライコーア(義勇軍)は?」
「1927年から警察におりました」
ブロッホ中佐は沈黙したままだったが、回答に不満を持っていることは明らかだった。アイケは彫像のふりをしていたし、マイネッケはわざと双眼鏡で視界を狭くして、一心に周辺警戒を続けていた。
「退避用の濠ならこれでも良いが」
ブロッホはひざまづくと、警戒する方向に向いた濠の端をとんとんと叩いた。
「射撃する気があるなら、ひじを置くところを浅くくぼめておくものだ。これでは体を露出しないと撃てんぞ」
ブロッホの口調に怒気はなく、冷徹さがあった。
「軍曹、少し話せるか。戦闘班長の許可は取っている」
カウフマンがふたりに断りを入れようと振り向くと、魔法からさめたようにふたりがきびきびと別れの敬礼をしていた。カウフマンは無表情をつくろって、薄情な部下たちに答礼した。
「密室の謎は、解けたかね」
中腰で歩きながら、ブロッホは言った。
「しかし、それは中佐殿が」
言いかけるカウフマンを、ブロッホがさえぎった。
「わしが言っておるのは、犯人はなぜ密室に見せかける必要があったか、ということだ」
カウフマンは思わず立ち止まった。そう。アンドレイの行動だけでは、その点がまったく説明できない。何か見落としているものがあるのだ。
「何かお気づきなのですか、中佐殿」
思い切ってカウフマンは口に出した。
「目的があれば、それは結果に現れる。そう思わんかね、探偵殿」
言われたカウフマンは思わず顔を上げたが、ブロッホの表情からは何も読み取ることができなかった。
不意に、カウフマンにひらめくものがあった。
「今回の戦闘記録全体は、この大隊にも写しが回ってくるのでありますか」
「戦闘記録か」
ブロッホの表情に一瞬、今までになかった生気が浮かんだ。いや、あの夜に出会ったとき、暗闇の中でほとんど声だけのやり取りに終わったあの日、それに似たものは感じたような気がする。
「写しは回ってこないが、警備大隊本部で見せてもらえるよう計らおう」
「ありがとうございます、中佐殿」
そういいつつ考え込んだカウフマンの眼中には、もうブロッホはない。その様子をブロッホは無言で見詰めていた。ブロッホ自身の態度の変化もまた、慎重な取り扱いを要するデータであったことにカウフマンが気づいたときには、すでにブロッホは悠然と歩み去っていた。
----
秩序警察に属する歩兵大隊は、前進速度ではむしろ他の国防軍部隊に勝っていた。国防軍があてがってきた部隊構成を見た親衛隊は、国防軍と手柄を競って勝てるだけの軽火器を持ち込んできていた。そしてそれらの迫撃砲や重機関銃は、ランデスシュッツェンの統一指揮に組み込まず、大隊本部レベルで采配できるようにしたのである。この時期には戦闘親衛隊の主要部隊もそれほど良い武器をあてがってもらっていない。親衛隊の戦闘部隊はせめて国防軍と同等の評価を受けるため、あの手この手で印象的な戦果をアピールしてゆく必要があった。
そしてこのために、包囲に気づいたパルチザンが活路を開く方向は、比較的弾幕の薄い第794警備大隊の受け持ち区域になったのである。
タタン。タタン。重機関銃は撃ったり休んだりを繰り返している。夜間に優勢な敵に襲われたときの、これは定石であった。灯火をつけるなど思いもよらない状況だから、当たるあてがあるわけではない。機関銃の音が聞こえてこないと、まず味方の士気がくじけるのである。
星明りはあるが、月はすでに沈んでいる。ディーターは夕方のうちに掘って置いた浅い塹壕の中で、じっと戦況を感じ取ろうとしていた。
視界の隅に閃光を感じて、ディーターはすんでのところで身を伏せた。手榴弾の爆発はこれで何発目だろう。今のは敵のものだが、味方が投げたものもあった。どちらも、あてずっぽうに投げているのに近い。そして、最初の一発が破裂した瞬間から、ディーターは当てにしているものがあった。
来た! 小さく、貧弱とすら言える風切り音である。弾着があったのは、ディーターたちが伏せる濠の50メートルばかり先、攻撃するパルチザンがいるかもしれないし、いないかもしれない辺りである。ディーターはあらかじめ、中隊に2門しかない迫撃砲を野営地の向こうに照準して待機させ、野営地で戦闘の起こっている物音がしたら、あてずっぽうに撃つように命じてあったのである。夜間には伝令を出しても、後方の味方を見つけられるとは限らないし、伝令自身が味方だと気づいてもらえるとも限らない。
この阻塞攻撃はわずか10発で終わったが、密集して突撃をかけようとしていたパルチザンには致命的だった。いったん逃げ散ってしまうと、夜ゆえに再結集が難しい。火力と火力がぶつかり合う戦闘はパルチザンにはあまり縁がないから、パニック自体も激しかった。今夜突破しなければ明日はない。それが理屈ではわかっていながら、組織としてのパルチザンは組織としての実体を失った。
ディーターの緊張がほぐれなかったといえばうそになる。そこを見透かしたように、濠にどさりと入り込んできたパルチザンがいた。ディーターにつかみかかろうともせず、倒れこんでうずくまったまま動かないパルチザンを見てとっさに濠を飛び出したのは、何の導きであったのかディーターにもわからない。ディーターはそのままふわりと体が宙に浮く感覚を味わい、数分の一秒後、それは体の前半分全体へのひりつく痛みに変わった。倒れこんだパルチザンは、投げ返されないよう手榴弾を抱え込んでいて、爆発によって土と小石と弾片がディーターに浴びせられたのである。すぐに後送してもらえたのは、まだしも幸運であったというしかない。
夜が明けてから包囲網の中で行われたことは、単なる作業に過ぎなかった。すべては夕刻までに終わり、兵士たちはちゃんとした夕食を取ることができたが、食欲をなくしている兵士も多かった。指揮官たちは、兵士に飲酒を許可した。
----
「お役に立ちましたでしょうか」
礼儀正しく、第794警備大隊の本部班長はカウフマンに尋ねた。無数の傷を作り、金属片もいくつか食い込ませたディーターはキエフ近くの兵站病院に後送され、回復を待っている。
戦闘報告を読み終えたカウフマンは、快活に礼を言った。
「わかりました。すっかりわかりましたよ」
読者はここで、自分なりの解決を組み立てることを試みられるかもしれない。もちろん作者はオリジナルな結末のために、日本語文献ではほとんど触れられることのない歴史的事実を援用するから、エラリー・クイーンが読者に提供したような、作者の先を越す機会がここで提供されているわけではない。