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The Voice  作者: 幸-sachi-
The Voice‬ vol.1
9/59

間奏曲 3 ーEPISODE Makiー


2014年5月3日(土)   柴咲市民ホール


市民ホールの薄明かりの廊下を姫川真希は楽団員の高瀬詩織(たかせしおり)と肩を並べて歩いていた。

壁に貼られたA3サイズのポスターを見て高瀬が立ち止まった。

ポスターにはたくさんの楽団員が演奏をしている写真が使われているのだが、それとは別に一人の女性が大きく写っている。その女性は茶色いブレザーの制服を着ていて、前髪を真っすぐ綺麗に揃えているのだが前髪以外はボサボサのおかっぱ頭で寝癖までがついている。

(どうして前髪をちゃんと揃えているのに寝癖を直していないんだろう…)

この写真を見る度真希はそう思う。この少女の名前は長谷川雪乃(はせがわゆきの)。真希とは違う学校に通う高校3年生。真希より一つ年上の先輩にあたる。

「今話題の現役女子高生ピアニストと感動の共演を。柴咲交響楽団 聖なる夜のコンサートか…

2年間楽団を辞めていなかったらこの大きな写真の所には自分の写真が入っていたんだろうなとか思わない?」

真希はため息混じりに同じ交響楽団に所属する10歳以上も年の離れた高瀬に対して冷たく答えた。

「思わないです。」

「やっぱり2年のブランクって大きかった?」

また真希はため息を吐いて答える。

「…大きかったです…」

「やっぱりそうだよね〜。あのブランクがなかったらこの大きな写真の所にはきっと…」

とまたポスターを見て高瀬は同じ事を言い出そうとしたので真希は続きを聞きたくなくて先に歩き始めた。高瀬はその様子を見てちょっと待ってと言いながら、真希の元に駆け寄った。

「そう言えば今日からよね?新しい指揮者。どんな人だろ?」

「さあ?」

「お父様にどんな人なのか聞いてないの?」

「聞いてません。興味ないんで。」

「そう。コンサートは明日なのに急に指揮者代わるなんてね…まあ、しょうがないか。でも、指揮者が本番までになんとか間に合って良かったわ。」

二人がホール内に入ると楽団員はほぼ全員揃っていて皆それぞれ音出しをしていた。

二人は定められている自分の席に座った。高瀬の席は真希の隣で同じバイオリンを弾いている。

真希がバイオリンを取り出しているとコンサートマスターである真希の父が楽団員達の前に立ち演奏をやめるように言った。

「みんなご存知の様に今日から新しい指揮者に代わる。彼は私の古い友人で信頼を置いている。

無理を言って急遽柴咲交響楽団の指揮者になってもらう事となった。では紹介しよう。指揮者の芦名充さんです。」

タクトを持った芦名が舞台袖からゆっくりと歩いて来た。

そして、演壇の上に立った。

「みなさん初めまして芦名充です。

前任の指揮者の遠藤さんがご病気で倒れた事をコンサートマスターの姫川君に聞きました。姫川君とは古くからの友人でもあり彼の為ならばと思い今回急遽私が指揮者をやる事になりました。どうぞよろしくお願いします。」

横に立っていた浩一が話し出す。

「彼は遠藤さんとも知り合いでね。柴咲交響楽団の指揮者になる為にわざわざベルギーでの指揮者を辞めてここに来てくれた。皆、指揮者芦名充さんに拍手を。」

楽団員達は一斉に拍手をした。しかし、真希だけは拍手をせずに靴と靴下を脱ぎ出した。

「帰国するのに遅れてしまって申し訳ない。明日からゴールデンウィーク後半の3日間はコンサートという事なので早速練習へと移りたいと思う。」

芦名がそう言うと浩一は自分の席へと向かった。浩一が席に座るのを見届けて芦名がタクトをトントンと叩いた。

「では始めましょう。」

演奏を始めて5分ほどで芦名はタクトを振り演奏を止めるように指示した。そして、タクトを真希に向けた。

「キミ、どうして裸足なんだ?どうして靴を脱いでイスの下に置いている?」

楽団員全員の視線が真希に注がれた。

「履物を履いていると集中できないんです。」

「そうか。わかった。では、今すぐ靴と靴下を履きなさい。」

(何がわかったんだ?何もわかってないじゃない。)

横に座る高瀬は真希の腕を引っ張り小声で真希に言った。

「真希ちゃん落ち着いて。今日の所は指揮者に従っておこうよ。ね?」

真希は指揮者を睨みつけながら言った。

「集中できないので嫌です。前の指揮者はこのスタイルでの演奏を許してくれました。」

「私は前の指揮者とは違う。規律を第一に考えている。全員が美しく統一された世界を目指している。それは服装も含まれる。一人だけ裸足になって少しでも目立ちたいのかな?それともまだ若い女の子が水虫か?」

クスクスと笑い声が聞こえる。冷めた口調で真希は言った。

「水虫でも目立ちたいわけでもない。私は集中して演奏をしたいだけ。」

「なんのこだわりだか知らんがキミの足が私は気になって集中できない。靴を履けないと言うのなら今すぐここから出て行きなさい。」

真希は芦名が言う通り靴下と靴を履いた。その様子を見届けてから芦名は演奏を始めようとした。しかし、真希はバイオリンを無造作に片付けて急に立ち上がった。横に座っていた高瀬が「真希ちゃん。」と言って止めようとする腕を振り払いその場から立ち去って行く。浩一が真希を睨みつける。真希も浩一を睨み返しながら去って行った。

(私は好きでバイオリンをしているわけじゃない。こんな気持ちのままで楽団に戻ったのは間違いだった。今すぐにでもこんな堅苦しい場所から逃げ去りたい…だけど……)

その晩、練習から帰ってきた浩一は真希の部屋に怒鳴り込んで来た。

「お前っ!どういうつもりだっ!どうして芦名の言う事を聞けなかった?」

「私はちゃんと言う事を聞いたわ。靴を履きたくなかったから出て行っただけよ。」

「…お前…くだらん言い訳ばっかしやがってっ!お前が楽団に戻りたいと言うから俺は皆に頭を下げたんだっ!こんなくだらん事でお前は俺のメンツを潰す気かっ!」

1階にいた母が急いで3階にある真希の部屋までやって来た。浩一の大声が1階まで届いていたのだろう。

「どうしたんです?大声なんか出して。」

礼子(れいこ)。こいつに言っとけ。明日からのコンサートにお前の居場所はないから来るなとっ!」

浩一は大声でそう言って階段を下りて行った。その様子を見届けてから母礼子は言った。

「真希…お父さんね。去年真希が家に帰って来た時本当に嬉しそうだったのよ。それに楽団にも戻りたいって言ってくれて…本当に嬉しそうだった。だけど…真希?あなたは一体何をしたいの?」

母の問いに真希は何も答えなかった。いや、答えられなかったと言った方が正しいのかもしれない。

(私は…一体何をしたいんだろう…?自分でも何をしたいのかわからなくなってきた…)


真希は子供の頃からバイオリンとサックスを習っていた。習っていたと言っても物心つく前から習わされていたので自分の意志ではなかった。父浩一がバイオリンの演奏者で母礼子がサックス演奏者。いつか父の様にオーケストラに入りバイオリンを弾いてもらう為に。いつか母の様にジャズでサックスを演奏してもらう為に。両親は自分がやっている楽器を娘にも演奏してほしいという思いで真希に英才教育を施していた。しかし、小学校4年生の頃に真希は母の弟である叔父さん白石辰巳(しらいしたつみ)が弾くギターに衝撃を受けた。それからは両親には内緒で白石からギターを習った。

両親に内緒でギターを習っていたのは叔父さんがそうするように言ったからだ。

「君の両親は君にバイオリンとサックス以外を習わす気はないようだ。ギターを習いたいのならお父さんとお母さんには内緒で私の家に来なさい。いいね?」

真希は叔父さんの言葉に従った。しかし、真希が中学に入った時、両親に内緒で白石からギターを習っていた事がバレてしまった。白石が真希に「ちゃんとギターの練習はしているのか?」とつい口走ってしまった言葉を父が聞いていたからだ。それから白石は真希の家に出入りしなくなった。父が白石に二度と来るなと告げたからだ。白石が家に来なくなって一番意外な対応をしたのが母だった。母は実の弟である白石の話を一切しなくなったし、連絡も取っていない。母も父と一緒に白石との縁を切ったのだ。白石からギターを習っていた事がバレてから真希は家の中でも堂々とギターの練習をした。しかし、その度に父はバイオリンに集中しろとうるさく言って来た。そのうちギターを見るだけでも父は怒り出すようになった。真希がギタリストになりたいと父に告げた時は家ごと破壊してしまうのではないかと思うくらい父は怒り狂って真希を叱った。父も母も真希がバイオリンとサックス以外の楽器を演奏するのを頑に嫌った。

真希には将来音大に通わせて大学在学中に海外留学をさせるといったプランまで両親にはあり、それを真希も子供の頃から聞かされていた。だけど、それは両親の勝手な希望で真希には関係のない事だ。

父にも母にも大好きなギターを反対され続けた真希は父とは顔を合わす度に大げんかをしたし、母とは口を効かない日々が続いた。ギターを辞めさせたい父とギターを辞めたくない真希。家に帰るといつもその事で父と言い争う事に疲れた真希は中学2年に上がるのをきっかけに一つの決断をした。両親の住む家を出て祖母の家に住むという決断だ。この時通っていた中学も転校をしたし、中1の時に所属した柴咲交響楽団も1年足らずで辞めた。家を出る時、真希は両親に言った。

「もう二度と一緒に暮らさない!バイオリンもサックスももう二度としない。じゃあね。」



2014年5月3日(土)


(両親とは二度と一緒に暮らさないとあの時決めたのに…私は今、こうしてこの家にいて両親と一緒に暮らしている…結局…バイオリンもサックスも続けている…楽団にも戻った…)

女の子の部屋とは思えないダークグレイの殺風景な部屋の中で真希はベッドの上に寝転がり真っ暗な部屋の中で左手の甲を自分の額に当てながらぼーっとしていた。

(あの2年間はなんだったのだろう?中学2年から中学を卒業するまでのあの2年間は一体なんの意味があったのだろう?今となってはあの2年間はおばあちゃんの家に住んで、2年間楽団を休んだだけだった事になる…中3になってバンドを結成したけれど、それも1年で脱退…一体…なんだったのだろう…あの2年間は私にとって意味のあるものだったのだろうか…)

真希は何度も寝返りをうった。

(何もかも中途半端だ!今だってそう…)

真希は中途半端なままの自分が許せなかった。部屋の電気を点けてベッドにあぐらをかいて座った。そして、右足に無造作に今も残る消えない傷跡を見て深くため息をついた。真希は1年前のエンジェルでのライブを思い出す。


あの日||2013年3月31日。龍司が割れたワインのボトルを投げて真希の右足に突き刺さったあの時。真希は怒りと痛みとがごちゃまぜになっていた。龍司はワインのボトルが足に突き刺さった事を必死に謝っていた。だけど、真希はそんな事を謝ってほしいわけじゃなかった。どうして龍司達は暴れたのか?どうして龍司達は我慢出来なかったのか?それが真希には理解出来なかった。もちろん真希達が演奏していた時にあの人達がヤジを飛ばしていたのは真希も知っていた。だけど、ヤジを飛ばされようが何をされようが仕返しをしたりするのは間違っている…それにあの人達はあの日とても大事な1日だった。プロになれるかどうかの大切な日だった。

(人の夢の邪魔をするなんて最低だ…)

あの時の真希が謝ってほしかったのは、あの人達の夢を壊す様な真似をした龍司達の行動だった。

(だけど…アイツらもアイツらだ…プロデビューがかかった大事な日なのに…それをアイツらが一番わかってたはずなのに…どうして私達なんかを相手にしたんだ?ヤジを飛ばしてきたのはアイツらが先だったし、ライブ中に演奏を止めて暴れ始めたのもアイツらだった…私がアイツらの立場なら他のバンドの相手なんかしないし、演奏だけに集中したはずだ。一体アイツらあの時何を考えてたんだ?)

真希はまた右足の傷跡を見て2度目のため息をついた。

あの後||ワインのボトルが右足に刺さった後の事を思い出す。

真希は救急車に乗りすぐ近くの結城総合病院に救急車で運ばれた。道中真希は右足に突き刺さったまんまのボトルを自分で引き抜こうとしたが、救急隊員に強い口調でやめなさいと叱られた。どうして痛い目にあっているのに叱られるのか意味がわからなくて真希はその救急隊員を睨み倒していた。救急隊員は真希の鋭い眼光に驚いたようで、すぐに謝った。病院に着いてすぐに手術室に運ばれ奥深く突き刺さったボトルを抜いた。その後、真希は車イスに乗せられてなぜか立派な個室へと運ばれた。病室のベッドの上で真希は右足の包帯を見ながら、この包帯の下はどうなっているのだろうか?傷は残るのだろうか?そんな事を考えていた。そして、どうして個室を用意されているのか不思議に思っていた。すると病室をノックする音が聞こえ40代後半から50代前半くらいの銀縁眼鏡をかけた医師が数名の看護師と若い医者達を連れて大勢でずらずらとやって来た。何事かと真希が思っているとその銀縁眼鏡の医師は真希の事をじっと見てから、

「姫川真希さんだね?大人になって。こんな形で再会するとは思わなかったよ。」

と言った。真希は再会という言葉を聞いて混乱した。真希にはこの医師の顔を見ても誰だかさっぱりわからなかったからだ。不思議そうな顔をしている真希に医師は言葉を続けた。

「ああ。そうだ。自己紹介が遅れた。結城(ただし)。この病院の院長です。大勢人を連れて来たが、ただ君に挨拶をしておこうと思っただけなので気にしなくていいから。」

笑顔で医院長と名乗った銀縁眼鏡の男を見て真希はますます混乱した。

「…どうして医院長先生がわざわざ挨拶に?それにどうしてこんなに立派な個室に?」

「ああ。エンジェルのオーナーから真希さんが大怪我をしたと姫川に連絡を入れたらしくてね。それで姫川は君がここに運ばれた事を知って私に直接連絡してきたのだよ。姫川…ああ。君の父親とは同級生でね。中学時代からの友人なんだ。それで、姫川の娘を預かるなら個室だろう。と考えた訳だ。まあ、今日一日はこの部屋で入院して下さい。」

(父と同級生という事は今年でまだ44歳か…若い医院長だな…)

結城正医院長は父とは違い常にニコニコしていてとても優しそうな印象を受けたが眼鏡の奥の目は鋭く顔は笑っていても目は笑っていない事に真希は気付いた。結城医院長は少し上を向いて懐かしむように言った。

「君は小さかったから覚えていないかもしれないが、昔よく姫川の家には息子達を連れて遊びに行ったものだよ。姫川も君を連れてよく私の家にも来たものだ。」

「そうだったんですね…」

真希は全然覚えていない事だった。

「やはり覚えていないか。」

結城医院長はそう言ってから突然後ろを振り向いて一人の若い医師に声を掛けた。

正吾(しょうご)お前は覚えてるよな?」

「はい。もちろん。」

「お前最後に姫川さんの家に行ったのいくつくらいだったか覚えてるか?」

「確か姫川さんの家に最後に伺ったのは15歳くらいの時だったかな。高校に入ってからは一度も伺ってないから。」

「と、いう事は正吾と春人とは9歳離れてるから真希さんも春人もあの頃6歳か。覚えてなくても無理もないか。」

正吾と呼ばれたこの若い医師は何者なのか?春人とは一体誰なのか?と真希はわからないでいたが、

「この研修医は私の息子の正吾だ。春人というのは君と同い年の次男でね。」

と結城医院長は説明をした。真希は正吾の方を見て会釈した。

「9歳も年上だから俺は真希さんの事はよく覚えてるよ。弟と仲良く遊んでいたんだよ。もしかしたら春人は真希さんの事覚えているかもしれないね。」

真希はその頃の記憶を思い出そうとしても全然思い出せないでいると結城医院長はベッドの横に置かれたギターケースを見て、

「しかし、姫川の娘がバンドをしているとはね…正直驚いたよ。姫川は熱心にバイオリンを娘にやらせていたと思っていたが…」

と言った。真希が少し俯いたのを見て結城医院長はしまったという顔をして、

「実は私の息子達2人もベースをやっててね。長男はこの通り今は研修医として働いているが少し前までは革ジャンを着てロックバンドを組んでいた。」

真希が意外そうな顔をして正吾の顔を見た。

「医者の息子でもロックバンドを組んでたんだ。姫川の娘がバンドをしたって何も驚く事はなかったな…」

結城医院長はさっきの言葉のフォローをした。

「医院長そろそろ。」

この病室にいつまでいるのかと告げる様な口調で結城医院長の隣に立っていた年配の女性看護士が言った。結城医院長は「ああ。」と答えてから真希に言った。

「確か今日のエンジェルのライブを見に下の息子も行ってたはずだが…まあ、今会っても君もうちの子もお互い顔を覚えてなんかいないか…まあ、そんな事より今日はここでゆっくりしていきなさい。では、私はこれで。長々とすまなかったね。」

そう言って結城医院長は大勢の人を連れて病室を出て行こうとしたが真希は包帯でぐるぐるに巻かれた右足を見つめ医院長が出て行こうとするのを引き止めた。

「あの…先生…この足の傷って残るんですか?」

結城医院長はさっきまで楽しそうに話していた表情を固くして答えた。

「残念だけど傷跡は残ってしまうだろうね。」

真希は小さく何度も頷いてから、「そうですか。わかりました。」と小さく答えた。

「執刀した医師が後で尋ねると思う。傷跡が痛むようなら伝えて下さい。」

結城医院長は真希にそう告げて病室を出て行った。結城医院長が出て行ってからすぐに母が病室にやって来た。続いて祖母が真希の着替えを持ってやって来る。母は父から真希が怪我をしたと連絡を受けて祖母に連絡を入れた。母は本当は祖母に心配を掛けたくはなかったみたいで祖母に連絡するかどうか悩んだそうだが、真希の服などは全て祖母の家に置いてあった為、仕方なく連絡をしたと言っていた。真希は母の言葉を聞いて、ただ単に母は祖母と連絡を取り合うのが嫌だっただけじゃないのかと思った。その後、母はどうしてこんな事になったのか執拗に聞いて来た。転校するまでの中学のお友達なら喧嘩をするような子達はいなかっただの育ちが悪いだのおまけにバンドなんて不良がやる事だと言い出した。

(バンドは不良がやる事って…それは母の世代よりもっと上の世代が言っていた言葉だろ)

と真希は心の中でツッコミを入れていた。その後、母はさんざん龍司達の事を罵った後、夜からジャズのライブがあるとかで夕方には病室を出て行った。母は現役のジャズのサックスプレイヤーだ。真希は龍司達の悪口をずっと言う母とは一緒に病室にいたくはなかったので仕事で出て行ってくれてせいせいした。

(お母さんはいちいちうるさいんだよ)

母が出て行ってから真希はイスに座っている祖母に言った。

「そうだ。ここの医院長がさっき来てた。お父さんとは中学からの同級生だって言ってた。」

祖母は目を細めて懐かしむように言った。

「正君ね。そうだね。中学時代からよく家に遊びに来てたよ。浩一は中学の時から悪さばかりしてたけど、結城の坊ちゃんも一緒になって悪さしてた。これで病院を継げるのかって心配してたのに。立派になったよ。本当に。

昔から結城家はここで病院をやっていてね。ここまで大きくなったのは正君が医院長になってからだよ。病院経営の才能もあったんだろうね。」

「44歳で医院長って凄くない?」

「30代の後半で医院長になったはずだよ。正君の父親は今、会長先生になってるんじゃないかしら?まだ現役のはずだけどね。」

祖母と話しているとコンコンとドアをノックする音が聞こえた。結城医院長が言っていた通り執刀した医師が足の状況を説明しにやって来たのだ。医師は奥深くまでボトルの瓶が刺さっていた事と刺さった際に無数のガラスが膚内に入ってしまっていて小切開した事を説明した。祖母もさっき真希が医院長に聞いた様に傷跡が残るかどうかを聞いていた。執刀した医師の答えも医院長と同じ答えだった。その後、祖母は何も話さなくなった。よっぽど傷跡が残るという言葉がショックだったのであろう。まるで自分の事の様にその事実を受け止めていた。医師が病室から出て行って祖母は黙ってお見舞いとして買って来たリンゴを剥き始めた。真希は何も言わない祖母に極力明るい声で話した。

「傷跡は残っても仕方がないよ。いつか私の武勇伝として話す日がきっと来るからさ。だから、おばあちゃんが気にする事なんてないよ。」

祖母は明るく話す真希とは対照的に静かに真希に言った。

「真希。もうすぐ高校の入学式だね。」

「え?うん。」

「制服だろ?スカートだろ?その傷の場所は膝より下じゃないか。スカートでは隠せないないねぇ…」

真希は少し考えてから笑顔で言う。

「スカート長くするよ。昔のスケバンみたいにさっ。」

祖母は真希の笑顔とは裏腹にずっと悲しそうな顔をしていて弱々しい口調で言った。

「しかし、高校にはおばあちゃんの家から通うのは少し遠いね。」

「バスに乗ればすぐだよ。」

真希がまた明るく笑顔でそう答えると祖母は、「はい。」と言ってリンゴを真希に手渡した。

「実家からならすぐでしょ。栄真女学院は。」

祖母が真希に何を言おうとしているのか薄々気が付いていたが、

「おばあちゃん?何が言いたいの?」

と笑顔をなくした真希はあえてそう聞いた。祖母は悲しそうな顔をしながら言う。

「真希がウチに来てからもう2年経ったね…そろそろ…自分の家に帰る事を考えてみたらどうだい?きっと礼子さんも浩一も真希の事が心配なんだと思うよ。」

「おばあちゃん?お母さんから何か電話で言われたの?」

祖母はさっきまでの暗い表情から一転して笑いながら、「いいや。」と答えた。今度は真希が悲しい表情を浮かべ、祖母は極力笑顔でいる事を決めた様だ。

(ウソだ。おばあちゃんが急にそんな事言うはずない!お母さんは電話で私が家に戻って来るようにおばあちゃんから伝えてほしいと頼んだに違いない。)

「おばあちゃん。私はもう二度とバイオリンもサックスもやらないと決めたの。バイオリンもサックスもやらないと決めた私にあの家にいる資格なんてないよ。」

「何を言ってるんだい。親と子が一緒に暮らすのに資格なんかいるわけないじゃないか。」

しばらくの沈黙の後、真希はぼそりと言った。

「お父さんもお母さんも昔っからバイオリンやサックスを演奏している私にしか興味がない。あの2人は自分達がやってきた楽器を私に押し付けてるだけなんだよ。」

「そんな事はないよ。浩一も礼子さんも話せばわかってくれるよ。だって親子なんだから。それにこのまま離れて暮らしていたらいつまで経っても2人は真希の事をわかってくれないままだよ。そんなのは悲しいよね。」

真希が何も言わないとわかると祖母は、「真希。考えといておくれよ。」と言ってイスから立ち上がった。

「ちょっと飲み物買って来るよ。」

真希はずっと祖母が病室から出て行く後ろ姿を見届けていた。そして、祖母がいなくなるとベッドの上で両膝を抱えて俯いた。

(私はどうすればいいの…?)

しばらくして、病室のドアが開いた。真希は祖母がもう戻って来たのかと思って俯いていた顔を上げたがドアから入って来たのは祖母ではなく険しい顔をした父だった。父は険しい顔のまま黙ってさっきまで祖母が座っていたイスに座った。しばらくの沈黙の後、父は低い声で言った。

「傷は?どんな感じだ?痛むか?」

真希もしばらくの沈黙の後、

「…少し痛みはある、かな。包帯してあるからどんな感じかはわからないけど、傷跡は残るって。」

と答えた。続けて真希は父に聞いた。

「今日のエンジェルのライブなんだけど…どうして私達にライブの誘いがオーナーからきたんだろうってずっと考えてた。本来なら私達なんかが出演出来る様なライブハウスじゃないし、あのイベントに出演出来るのはプロかプロに近いバンドだけなのは知ってたし…」

父は何も言わずに真希の話を聞いていた。

「お父さん。あのエンジェルのオーナーと知り合いだよね?お父さんが私の為にあのオーナーに口を利いてくれたんだよね?」

「エンジェルのオーナーがしつこく食い下がってきたからな。娘がバンドをしているなら一度ライブに呼んでみたいと。」

(つまり…お父さんはエンジェルのオーナーに私がバンド活動をしている事を話したのか…お父さんがバイオリンでもサックスでもなくギターを弾く私の話をするなんて想像がつかないな…)

またしばらくの沈黙の後、父は祖母と同じ様な事を言った。

「お前、いつまであの家にいるつもりだ?」

「………」

「家を出て行ったと思ったら、今度は野蛮な連中とつるみやがって。神崎龍司だったか?あの金髪…あいつにやられたそうじゃないか。」

「違う。これは事故で…故意にやられたわけじゃ…」

「あの金髪にやられたんだろうがっ!」

父は突然大声を出した。真希も大声を出して反論をした。

「だから、違うって言ってんでしょ!」

「そんな言葉信じられるかっ!」

「どうしてよ?娘の言葉が信じられないの?」

「神崎には父親がいないらしいじゃないか?蒸発したらしいな。」

「それが龍司と何か関係ある?」

「そんな片親しかいない奴。ろくな人間なわけがない。」

「それはお父さんの勝手な偏見でしょっ!」

「他の2人からも良い評判なんて聞かない。あんな野蛮な連中とつるむのはもうよせ。」

「龍司達は野蛮な連中なんかじゃないっ!」

母が龍司達を罵倒した時真希は何も言わずに我慢をしたが、父にまで龍司達の事を悪く言われて我慢が出来なかった。思いっきり父と母の悪口を言ってやろうとと思った瞬間祖母が病室に入って来て、

「どうしたんだいお前達?大きな声なんか出して。ここは病院だよ。」

と温和な口調で言った。祖母が入って来た事によって父は病室を出て行った。病室を出る前に父は、

「晩にまた来る。」

と告げた。父が出て行った後、真希は祖母と2人きりになったが、特に何も話さずに時間だけが過ぎて行った。18時前には夕食が病室に運ばれ、それをきっかけに真希は祖母にもう帰る様に告げた。真希はとにかく早く一人になりたかったからそう告げたのだが、祖母は悲しそうな顔をして、

「わかったよ。」

と答えた。病室を出て行く祖母に真希は言った。

「明日はタクシーで帰るから。帰ったら話し合おう。」

祖母は振り返って真希に言う。

「わかった。気を付けて帰って来るんだよ。」

一人になった真希はこれから自分がどうするべきなのかを考えていた。

(私はバンドを続けたい…だけど…もう、龍司達とは続けられない…人の夢を壊すような連中とは一緒にバンドを続けてはいけない…)

真希はバンドを抜ける事をこの時決めた。

(バンドを抜けて…実家に帰ろっかな…)

真希は布団をかぶってそんな事を考えているといつの間にか眠ってしまった。真希が次に起きたのは荒々しく病室のドアを開けて父が入って来た時だった。

「今、何時?」

真希は今が何時なのか気になり寝ぼけながら父に聞いていた。

「19時30分だ。」

「…そう。」

と真希は布団に顔を隠しながら答えた。

「夕方の続きだがな…」

父はそう前置きをしてから、

「もうバンドは辞めろ。あんな連中とつるむのももうよせ。」

と言った。

「お父さん夕方に龍司に父親がいない事を話したよね。その後、他の2人からも良い評判を聞かないって言ったよね?それって私に内緒で3人の事を調べてたって事だよね?一体どういうつもりなの?」

「調べたつもりはない。ただ、知り合いからアイツら3人の悪い噂が入ってきただけだ。」

真希は布団からバッと顔を出して大声で叫んだ。

「ウソばっか!調べたくせにっ!3人の悪い噂を集めていつか私に言ってやろうって考えてたんでしょ!」

「そんな事して何の意味がある?」

「私と3人の仲を壊そうとでも考えたんでしょ!昔っからそう。私が白石の叔父さんにギターを習っているのを知った時もお父さんはお母さんと一緒になって叔父さんの悪い噂を私に言って叔父さんを私に近づけない様にした。そうやっていつもお父さんとお母さんは私を自分達の思い通りになるようにしてきたんだっ!私がやりたい事は私自身で決める。2人にとにかく言われる筋合いはないし邪魔をされる筋合いもないっ!」

「全く…勘違いしやがって…」

「何が勘違いよっ!」

父も真希につられて大声を出した。

「勘違いだから勘違いだと言ったんだっ!」

父が叫んだ後、病室のドアをノックして一人の若い女性看護士が恐る恐る部屋に入って来た。

「あの…言い争う声が聞こえたので…その…様子を見に来たのですが…大丈夫でしょうか?」

「すまん。ただの親子喧嘩だ。」

父は若い看護士を睨みつけながら言った。父に睨まれた看護師は怯えながら、

「あの…病院ですので、大声は出さない様にお願いします。」

と言った。その言葉に父はチッと舌打ちをしてから、

「ああ。すまん。」

とまるで謝る気がないくせにすまんと言っていた。ずっと父から鋭い目で睨まれていた看護師は父の迫力に負けて病室から出て行った。ドアが閉まってまた父はチッと舌打ちをした。

「ジュースでも買って来る。何かいるか?」

「いらない。」

「まあ、そう言うな。コーヒーでいいな?」

「……」

父は頭を掻きながら病室を出て行ったが、なかなか戻っては来なかった。静寂の中、真希はまた布団に顔を隠した。夜の病院のこの静寂が真希にはとても恐ろしいものに感じた。


「遅くなった。」

と言って父がまた病室に入って来た。

「ここに置いておくぞ。」

缶コーヒーをテーブルに置く音が聞こえた。

「下で神崎と会った。」

真希は布団から顔を出さずに今にも泣き出しそうな声で聞いた。

「どうして龍司はここに来ないの?また叔父さんの時みたいに私に近づかないように龍司に言ったの?」

父は何も答えようとしなかった。

「ねえ答えてよ。」

「…そうだ。」

真希は布団の中で泣き始めた。

「お前に二度と近づかないように言った。」

「なんで…なんでよ…なんでお父さんが私の友達にそんな事勝手に言うのよ…」

真希の声はとても弱々しかった。

「アイツはお前の友達なんかじゃないだろ?」

「友達だよ…龍司は私の友達だよ…」

「お前を傷つける奴を友達と呼んでどうするんだ。目を覚ませ真希。」

「だから、勘違いなんだって。この傷は事故なんだって…どうして信じてくれないの?」

「事故だろうが故意だろうがそんなものはどうでもいい。神崎がお前に怪我を負わした事に変わりはないんだろ。」

「……」

「明日の晩迎えに行く。出掛ける支度をして待ってろ。」

「……」

「いいな?」

「……」

父はそう言って病室を出ようとしたその時、真希は涙声のまま弱々しく言った。

「…バンドは辞める。」

父は真希の言葉に驚いたらしく黙っていた。

「だけど勘違いしないで。私はお父さんに言われたからバンドを辞める訳じゃない。自分で決めたの。」

「そうか…わかった。」

父が去ってからも真希はしばらくの間涙が止まらなかった。



真希はあの日の事を思い出すと今でも憂鬱な気分になる。

(あの日…柔らかい生地のパンツじゃなくジーンズを履いていたならあんなに上手くワインのボトルは足に刺さらなかったのかな?)

右足の傷を手で触ってからベッドを降りて部屋の隅に置いてあるギターを取りに行った。真希の部屋には今4本のギターが置かれている。その中からフォークギターを一本選び手に取ってからまたベッドに戻ってあぐらをかいて座った。それから真希は少し目を閉じてからギターを弾き始めた。ギターを弾き始めれば、いつもその瞬間だけは何もかも忘れる事が出来た。なのに今日は違った。ギターを弾いても頭の中に浮かぶのは怪我をした次の日の出来事だった。

(長谷川雪乃…)

真希は前髪だけは真っすぐ揃えているがボサボサのおかっぱ頭の雪乃の顔を思い浮かべた。

(それから…もう一人…遠藤昭一(しょういち)…)

真希が子供の頃から楽団の指揮をしていて、おじいちゃん指揮者とあだ名を付けて呼んでいた白い髭が特徴の遠藤の顔を思い浮かべた。

(あの日…あの時…あの場所にもし私が行かなかったら…そして、長谷川雪乃という人に出会っていなかったら…遠藤昭一と再会していなければ…私はきっと交響楽団に戻る事はなかっただろう…そして、バイオリンやサックスをもう一度やろうだなんて思わなかっただろう…

全ては長谷川雪乃という天才と遠藤昭一という良き理解者の二人に出会ってしまった事によって私の考えは変わってしまった…)



2013年4月1日。真希は1日だけお世話になった病院を退院してタクシーで祖母の家に帰った。

祖母は優しく声を掛けて来てくれたが、真希は昨日の父の事もあり朝から機嫌が悪かった。祖母は自分のせいで機嫌が悪くなったと勘違いしていたので全部父親のせいだという事を説明した。そして、シャワーを浴びる為バスルームに向かった。真希は自分の足に巻かれた包帯を外して、そこで初めて怪我の具合を確認した。真希の膝下には無数の傷跡があり、しかも傷跡はまばらに点々とあった。怪我の様子を見て真希は泣きそうになった。

(今は赤いけど、この赤みが消えたら少しはマシになるかな?)

シャワーを浴びながら真希は何度も足の怪我を確認した。さっきよりマシになったかな?傷跡は一つでも消えたかな?目を閉じ開ける度にそう確認してしまう自分が悲しくて真希は涙を流した。シャワーを浴び終わってすぐに真希は高校の制服のスカートの丈を変えてもらう為に家を出た。

歩くとまだズキズキと傷跡が痛む。それを我慢して真希は店へと向かった。スカートの丈を直す時、店の人からはズボンを脱ぐ様に言われたが、真希はズボンをはいたままでとお願いした。しかし、真希がスカートの丈をあまりにも長くするように伝えたので店員は、

「栄真女学院は身だしなみに厳しい学校ですので、この長さはちょっと…」

と言った。真希は仕方なく店員に自分の足を見せ、傷跡を隠す為にもスカートの丈を長くしてほしいと頼んだ。傷跡を見た店員はとても驚いた顔をした。言葉にはしなかったが、この店員は『かわいそうに』と心の中で言っていたのが真希には伝わった。スカートの丈を直した後、真希は昼食をとる為ファーストフード店に入った。真希はスマホを鞄から取り出し画面を見ると龍司の着信が残っていた。しかし、真希は折り返し電話を掛けようとは思わなかった。向かいのテーブル席では今4人の若い女の子達が一列に座って何かを見ながら楽しそうに話をしていた。真希の視線は自然と4人の足元へと移る。4人が4人とも可愛いスカートを履いていた。真希は普段から制服以外でスカートは履かない。だから、どんなに可愛いスカートを履いた女性の姿を見ても自分も同じ様にスカートを履きたいと思った事はなかった。今だってそうだ。真希が今見ているのは4人のスカートの下からのぞく膝下だった。ちょうど真希が怪我をした辺り。一人一人の膝下を真希は順番に見て行く。みんな傷一つない綺麗な足をしている。それを見て真希はとても悲しい気持ちになった。

(私の右足は傷だらけだ…)

この時、真希は初めて自分がコンプレックスを持った事に気付いた。昼食を食べて真希は祖母の家の前まで来たところで母の車が止まっている事に気付いた。ドアを開けると祖母が玄関まで出て来た。

「真希が出て行った後、龍司君が来たよ。連絡してほしいって。」

「そう。で、お母さん来てるの?」

「礼子さんはさっき来たところだよ。」

「一人で?」

「そうだよ。」

「珍し。」

母は祖母の家には滅多に来なかった。それは真希が祖母の家でお世話になる前からの事だ。父と一緒に来る事はあっても一人で祖母の家に来るなんて事は真希が知る限り今まで一度もなかった。その母がリビングの扉を開けて顔だけを出した。

「真希。お帰り。」

母はそう言ってすぐに顔を引っ込めた。祖母は小声で真希に聞いた。

「夜に浩一も来るからそれまで真希と一緒に待ってるって言ってたけど、浩一とそんな約束してたのかい?」

「確かに迎えに来るから出掛ける支度をして待ってろとは言われたけど、了解はしてないよ。」

昨日の晩、父が病室を出て行く前に、明日の晩迎えに行く。出掛ける支度をして待ってろと言った時、真希は正直誰が待つかと思っていた。そして、父が来ても一緒に出掛ける気はないと突き放してやろうとも思っていた。だけど、まさか母を送り込んで来るとは想像もしていなかった。

(お母さんは私が今晩何処へも行かない様に監視しに来たんだ…夜までどこかで時間を潰しておけばよかった…)

リビングを通り抜け部屋に向かおうとした時、また母はリビングの扉を開けて真希に言った。

「夕食作るから真希も手伝って。」

(今晩は逃げ切れそうもないな……)

ふぅ〜っと真希は大きくため息をついて今晩は母の料理と父に付き合う事にした。母の隣に立ち真希は黙々と母が作る夕食の手伝いをした。

「真希がお母さんの手料理を食べるなんて、まるまる2年振りじゃない?」

「…そうね。」

母の手料理は正直言ってマズい。母は料理が苦手なのだ。料理のレパートリーも少ない。今晩は数少ない母のレパートリーの中からカレーを選んだらしい。それに比べて祖母が作る料理はいつも美味しかったし、今まで数多くの料理を作ってくれた。

「おばあちゃんの家にお世話になってるんだから、真希もちゃんと料理ぐらい手伝わなきゃダメよ。」

「…手伝ってるし、料理も教わってる。」

「あら?ホント?」

「作れる時は私が夕飯を作ってる。」

真希はずっと母の顔を見ずに手元ばかりを見て話していた。しかし、母は声を出すごとに手を止め真希の顔を見て話した。

「それじゃあ、お母さんより真希の方が料理上手いかもね。」

この言葉を聞いた時だけは真希は母の顔をまじまじと見た。そして、真希は心の中で母に毒突いた。『当たり前だ!』と。子供の頃から母の様に料理がヘタな女性にはなりたくないと常々真希は思っていた。だから、祖母の家にお世話になっている間に出来る限り祖母から料理を学ぼうと思って祖母が料理をする時はよく横で手伝っていた。今では母よりも美味しい料理が作れる自信が真希にはあった。祖母は母の料理がヒドい事を未だに知らない。だから真希は今母が作る不味いカレーを出来るだけ美味しくするのが私の使命なのだと自分に言い聞かせた。これは母の為ではなく、祖母に不味い物を食べさせるわけにはいかないからだ。なんとか母が作るカレーをまともな味に仕上げた真希は祖母と母と3人で夕食を食べ始めた。

「礼子さんの手料理を食べるのは初めてだねぇ。」

嬉しそうに祖母が母に言った。

「お口に合いますか?」

母はよっぽど料理に自信がないのだろう。恐る恐るそう聞いていた。しかし、祖母は笑顔で言った。

「とっても美味しいよ。」

「はぁ〜。良かった。料理には自信ないんですが、今日は真希が手伝ってくれたから美味しく出来たのかな?ありがとね。真希。」

母にありがとうという言葉を言われても真希は全然嬉しくなかった。

「で、今晩お父さんは私を迎えに来て何処へ連れて行くつもり?どこに行くのか全く言わなかったんだけど。」

「あら。そうなの?柴咲市民ホールよ。」

「柴咲交響楽団の練習風景をまた見せようって言うの?」

父は真希がまだ子供の頃から楽団の練習風景を見せる為によく市民ホールに小さな真希を連れて行った。子供の頃は父が演奏する姿や楽団の迫力に無邪気に喜んでいたが、ギターを初めてからは練習風景を見に連れられても嬉しくはなかった。

「今更練習風景を見せられてもな…」

真希が小さくそう言うと母は、

「まあ、今晩くらい付き合ってあげなさいよ。凄いピアニストがいるらしいよ。」

と言った。真希は首を傾けて聞いた。

「ピアニスト?オケにピアニストはいないでしょ?」

「なんでも今年の12月にピアニストと柴咲合唱団とお父さん達の柴咲交響楽団とでコンサートをするらしいのよ。で、今日はその合同練習の日らしいわよ。」

「12月なのにもう練習?早いね。」

「そうでもないみたいよ。大人数になるから全員が揃って練習出来る日は少ないみたいだしね。」

「ふ〜ん。で、そのピアニストは有名な人なの?」

「まだ高校生らしいわ。今年2年生になるみたいだから真希の一つ上ね。」

「ふ〜ん。」

「お父さんね。その高校生ピアニストの演奏を聴いた日は凄く興奮して家に帰って来たのよ。凄いピアニストがこの街にいたって。あんなピアニストに今まで出会った事ないって絶賛してたわ。」

その母の言葉に真希はたいへん驚いた。なぜなら父はずっとバイオリン一筋でやってきた音楽家だ。今まで沢山の音楽家達と出会い、有名な音楽家とも数々の共演をしてきた人だ。そんな人が有名でもない、しかも高校生の弾くピアノを聴いて今まで出会った事がないピアニストだと評価するという事はとんでもない事だったからだ。真希は音楽家としての父は本物だと思っているし、バイオリニストとしては尊敬してもいる。その父が絶賛したという高校生ピアニストと会えるのならば今晩父に付いて行ってみようと思った。少し早い夕食を食べ終わった頃、「真希はいるか?」と言いながら父が祖母の家にやって来た。父は真希がいる事を確認すると、

「今晩はお前をオケの練習に連れて行く。別に楽団に戻らせる為に連れて行くわけではないから勘違いするなよ。」

と言った。真希は素直に、「わかった。」と答えた。真希のあまりにも素直すぎる回答に父は少しためらっていた。

「凄いピアニストがいるんでしょ。さっきお母さんから聞いた。」

「ああ。そうか。」

「練習は何時から?」

父は腕時計を確認しながら答えた。

「7時だ。」

真希も家の時計を見た。

「今6時30分だから、もう出なきゃダメなんじゃないの?」

「そうだな。用意は出来ているのか?」

「昼出掛けてたからこのままの格好で大丈夫。」

「そうか。なら行こう。」

祖母は心配そうに父に言った。

「浩一。夕飯は?礼子さんと真希が作ったカレーならあるよ。」

「いや、食事は済ませて来た。礼子。お前はどうする?」

「そうね。一緒に出るわ。でも、私はそのまま家に帰るけど。」

「わかった。母さん邪魔したな。」

真希は久しぶりに父の車の助手席に座った。祖母は玄関先まで出て真希達が出て行く姿を見送ってくれた。父の車の後ろに母が運転する車が付いて来る。15分くらい走ったところで、真希の実家の前の道に付いた。父は後ろにいる母に向かって車のハザードを出した。母は小さくクラクションを鳴らして家に帰って行った。車内では全く会話がなかった。ただジャズのCDだけがスピーカーから流れていた。父はクラシックをやっているくせに車の中では昔からクラシック音楽を流さない。車の中で鳴らす音楽はジャズと決めているようだ。柴咲交響楽団がいつも練習をしている柴咲ホールに着いたのは6時50分頃だった。車を降りた真希は父の後を少し離れて付いて行った。

「私はステージにこのまま上がるが、お前は好きな観覧席に座って練習を見ていればいい。」

「わかった。」

「見るのに飽きたら先に一人で帰ってもいい。」

「わかった。」

父は家を出る時真希に『別に楽団に戻らせる為に連れて行くわけではないから勘違いするなよ。』と言った。そして、今も『見るのに飽きたら先に一人で帰ってもいい』とも告げた。真希には父が何故今日の練習を真希に見せようとしているのかこの段階で大方の予測は出来ていた。

(お父さんの魂胆はお見通しだ。今日、高校生ピアニストの演奏を聴かせて、もう一度私にバイオリンをやりたいと思わせようとしている。口では楽団に戻らせる為に連れて行くわけではないとか見るのに飽きたら先に一人で帰ってもいいとか言っていたがそんなのは嘘だ。

お父さんは私を楽団に戻らせる為に今日ここに連れて来た。そして、よっぽどの自信があるのだろう。高校生ピアニストの演奏を見せれば私は先に家に帰る事は絶対にないとも思っているようだ。

そう簡単にいくかっ!私はもうバイオリンをやろうとは思ってない…だけど、お父さんが絶賛するくらいのピアニストだ…覚悟して聴く準備をしといた方がいいのだろう。)

真希はどの席に座ろうかと悩んだがステージ中央に置かれているグランドピアノの正面の席に座る事に決め、前列から2、3列だけ空けて席に座った。

(どんな凄いピアニストか知らないが臨む所だ!)

真希はどんなピアニストの演奏を聴いても心が揺るがない様に強い思いを持って席に座った。父は真希がどの席に座るのか気になっていたらしくて真希の方をずっと目で追っていた。続々と交響楽団のメンバーが舞台に集まり出した。真希は団員全員と面識がある。何人かは真希が練習を見に来ているのに気が付いて手を振って来たり、軽く頭を下げてくれたりしていた。中でも仲が良かった高瀬詩織は「真希ちゃーん。久しぶり〜っ。」と言って真希が座っている所までわざわざ駆け寄って来てくれた。

「ホント久しぶりだよね〜。今年から高校生だっけ?」

「はいそうです。」

「大人になったね〜。前から美少女だったけど、磨きがかかったね。」

今年28歳になる高瀬は2年前と変わらず綺麗だった。その綺麗な高瀬に笑顔でそう言われた真希は素直に喜んだ。それから高瀬は周りの様子を見て人が随分と集まっているのを確認してから、

「じゃあ、私準備しなきゃ。また後でね〜。」

と言ってステージに上がって行った。そのステージには今、柴咲合唱団の面々なのだろう真希の知らない人達も沢山いた。そして、茶色の制服を着たおかっぱ頭の女性がスタスタと駆け足でグランドピアノの前に座った。

(あの茶色の制服は柴校。あの人がお父さんが絶賛したっていう高校生ピアニストか…)

真希は高校生ピアニストが現れてから自然と体に力が入っていた。ステージ上ではそれぞれが音出しをしたり楽譜のチェックをしている中、その高校生ピアニストはピアノ椅子に座って足をバタバタと上下に動かしながらずっと顔を上に上げていた。その様子を見て真希はまるで小さな子が待ち合わせ場所に母親が来るのを一人で待っているかのように落ち着きがなく子供っぽい行動だと思った。しばらくして70代の年配の指揮者がゆっくりとステージ中央に歩いて来た。名前は遠藤昭一。遠藤の登場に真希は『おじいちゃん指揮者だっ!』と心の中で叫び思わず拍手をしそうになった。真希はこの優しい〔おじいちゃん指揮者〕が昔から大好きだった。子供の頃よく父に楽団の練習を見に連れて来られた時、遠藤は練習をする前に必ずステージの上から真希しか座っていない観客席に向かってタクトを大きく上下に3回振ってくれていた。そのタクトを振る姿が大好きで、子供の真希はそれが見たくてここに来ていたと言っても過言ではなかった。

―ねぇ?おじいちゃんシキシャ?

―おっ。なんだい?まきちゃん。

―いつも、まきにそのぼうをこう大きく3回ふってくれてるんだけど、アレってどういういみがあるの?

―あれはね。心の中でコン・ニチ・ワと言っているんだよ。

(その意味を知った時、私は何故だか嬉しくなって何度も腕を3回大きく振りながらコン・ニチ・ワって繰り返してたなぁ)

遠藤は演壇の上に立ち全員の準備が整った事を確認してから真希が座る観客席の方を向いた。そして、真希の顔を見ながら優しそうな笑顔でタクトを大きく3回振った。

(コン・ニチ・ワ)

真希はその行動が嬉しくて思わず目が潤んだ。

(おじいちゃん指揮者…さっきステージに来たばっかなのに…私が来てるのいつから気付いてたんだろう?)

遠藤は観客席に背を向けてタクトを上に上げた。そして、最初の一曲目が始まった。

(マーラーの交響曲第4番)

この曲は声楽が使われているのだが、その声楽の部分では合唱団全員が歌い始めて凄い迫力だった。

本番は今年の冬だというのに今日のこの練習は本番さながらの練習だった。

(まだ4月に入ったばかりなのに、もうここまで完成された演奏をしているなんて…)

次にヴェルディのディエス・イエレが演奏された。ピアノの登場はまだだった。この2曲の間、高校生ピアニストは楽しそうに交響楽団と合唱団の演奏をニコニコしながら頭を上下にゆらして聴いていた。2曲目の演奏が終わった所でやっと高校生ピアニストに動きがあった。高校生ピアニストは椅子に座り直し鍵盤に顔を近すぎるだろうと言いたくなる程近づけピアノを弾く準備をした。そして、3曲目チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番変口短調の演奏が始まった。

高校生ピアニストの演奏は真希の想像を越えていた。どんなピアニストの演奏を聴いても心が揺るがない様に強い思いを持っていたはずなのに真希は口を開けて驚いていた。高校生ピアニストのピアノを弾く姿は独特でまるで飛び跳ねているように全身を動かして鍵盤を叩いていた。無駄な動きが多い様にも思えたが何故か真希は彼女のピアノを弾く姿に魅了されていた。チャイコフスキーの曲が終わると続いて次の曲が始まる。この4曲目は真希の知らない楽しい楽曲だった。ピアノソロから始まる曲で高校生ピアニストはさっきまでの飛び跳ねる様な動きではなく頭を横に振りながら楽しそうにピアノを弾いるが、その人間離れした指さばきに真希は愕然とした。その後も練習とは思えない本番さながらの演奏が続いた。真希はその間ピアニストから目が離せずにずっと彼女の動きに見入っていた。全部で8曲程連続で演奏を終えた頃、

「少し休憩しましょう。」

と遠藤が全員に伝えた。休憩に入ると真っ先に高瀬が真希の元へ寄って来た。

「真希ちゃんどうだった?」

「相変わらず素晴らしい演奏でしたよ。合唱団の人達も迫力あった。それに、あのピアニストの人…凄かった…」

「ホント?嬉しい。あ。ちょっと待ってて。」

高瀬はそう言って高校生ピアニストの側に駆け寄って何かを伝えた。そして、高瀬はピアニストを連れて一緒に真希の元へと戻って来た。

「紹介するね。ピアニストの長谷川雪乃ちゃん。柴咲高校の1年生…あ、今年から2年生なの。」

近くで見る雪乃はあどけなく幼さが残る顔をしている。前髪をきちんと真っすぐ揃えているわりには髪はボサボサのおかっぱ頭だった。160cmの真希の身長より雪乃は5cm程高かった。決して美少女とは言えないがその雰囲気のせいか女性から見ても可愛らしい人だと思えた。続けて高瀬は真希の事も軽く雪乃に紹介した。

「で、こちらはコンサートマスターの姫川さんの娘さんの真希ちゃん。中学の一年生の時に1年間だけだけど、うちの楽団員だったのよ。」

「はじめまして。雪乃ちゃんです。」

雪乃はニコニコしながら自分の名前にちゃんを付けて挨拶をした。真希は少しためらった後、

「…はじめまして。真希です。今年から栄真女学院の1年になります。」

と挨拶をした。雪乃はもじもじしながら真希の顔をほとんど見ずに、

「楽器はなんなの?」

と聞いてきた。その質問には高瀬が答えた。

「私と同じバイオリンよ。だけど、サックスも吹けるしギターも弾けるのよ。凄いでしょう。」

「すごーいっ!」

雪乃はパチパチと手を叩きまるで子供のようにはしゃいだ。そして、また真希を見ずに質問をしてくる。

「どうして楽団辞めたの?」

「う〜ん。私、ギターが好きで…それで辞めたんです。」

「ふ〜ん。ギター…かっこいいもんね。」

「雪乃さんは誰かにピアノ習ってたんですか?それとも独学ですか?」

「雪乃でいい。」

「えっ?」

「雪乃さんじゃなくて、雪乃でいいよ。」

雪乃は相変わらず目を合わせずにそう言った。

「じゃあ、雪乃は誰かにピアノ習ってたんですか?それとも独学ですか?なんとなく独学なのかなーって思って。その、演奏スタイルとか弾き方とか独特な感じだったし。」

「小ちゃい時ね。習ってたんだけど…先生にその弾き方は辞めなさいって言われちゃって…直そうと頑張ったんだけど、どうしても普通の弾き方が出来なくて…それから習わなくなっちゃった。」

「雪乃ちゃんは昔からあの弾き方だったのね。でも、凄くいいと思うよ。ね?」

高瀬がそう言って真希に同意を求めた。真希もあの独特な弾き方は好きだと思った。

「私も凄くいいと思う。他にはいないと思うし。」

真希が素直に思った事を言うと雪乃は、

「ありがとう。真希ちゃん。」

と嬉しそうにニコニコと笑った。この時やっと真希は雪乃と視線が合った。

「真希でいいですよ。」

真希がそう言うと雪乃はう〜んと顔を傾け何かを考えてから、

「ありがとう。真希ちゃん。」

とまた同じ言葉を繰り返した。雪乃は真希に呼び捨てで呼ばせたにも関わらず自分は真希の事をちゃん付けで呼んだ。その事が面白くて真希は笑ってしまった。

「変わった人ですね。雪乃さん。」

雪乃は真希がさん付けで呼んだ事に引っかかった様でまた、

「雪乃。」

と真っすぐ真希の顔を見て言った。

「……雪乃……」

真希が呼び捨てで呼び直すと、

「私、やっぱり変わってるのかな?変なのかな?」

と悲しそうな顔になって言った。

「…変わってるとは思いますけど、変ではないですよ。私は変わってる人好きですよ。」

真希は正直にそう答えると雪乃はまたパチパチと手を叩き子供のようにはしゃいで、「やったー。」と言った。そして、またもじもじとしながら、また悲しそうな顔になって言った。

「私、変な子らしいから、学校で友達できないんだよね。真希ちゃんと同じ学校なら友達になれたのにね…」

するとそれを聞いた高瀬が真希に言った。

「LINE交換すればいいじゃない。真希ちゃんいいよね?」

「はい。ぜひ。」

真希はポケットからスマホを取り出しIDを交換しようとしたのだが雪乃は、

「私LINEやってないからメールでもいーい?」

と言ってスマホではなくガラケーを取り出して言った。

「いいですよ。」

真希は雪乃に言われた通りメールアドレスの交換をした。雪乃は嬉しそうに体を左右に揺らしながら携帯を見つめていた。アドレスを交換している間、高瀬が雪乃に聞いた。

「雪乃ちゃんスマホに変えないの?」

「1度変えたけど、またコレに戻しちゃった。だって難しいんだもん。」

「………」

「………」

真希達3人が話しをしていると今度は遠藤が近寄ってきた。

「久しぶりだね。真希ちゃん。」

「おじ……」

真希はおじいちゃん指揮者と呼びそうになったのを止めて、「お久しぶりです。」と他人行儀に挨拶をしてしまった。

「どうだい?一曲何か弾いてみないか?」

その言葉に雪乃が無邪気に飛び跳ねながらながら言った。

「聴きたい。聴きたい。私も聴いてみたい。」

ここで演奏すれば父の思うツボだと真希は思っていた。だけど、今日の演奏を聴いて自分もこの曲を一度演奏してみたいと思う曲があった。

「あの…4曲目に演奏した曲はなんですか?私初めて聴いた曲だったんですけど。」

「だって。雪乃ちゃん良かったね。」

何故か高瀬が雪乃にそう言った。真希は何の事だかわからずに2人の顔を交互に見ると、

「実はあの曲、雪乃ちゃんが作った曲なのよ。凄いでしょ?」

と高瀬は真希に説明をした。

(そんなまさか…あの曲を…この人が…?言っちゃ悪いがあんなちゃんとした曲を作曲できるような人には見えない…私と一つしか年が変わらないというのに、この人はあれ程の曲を完成させる事が出来るなんて…信じられない…)

雪乃は嬉しそうに頭を左右に振って喜んでいる。

「楽譜あるよ。私も一緒にピアノ弾くからバイオリン弾いてみて。ね?ね?お願い真希ちゃん。」

雪乃は手と手を合わせながら無邪気に真希に頼んできた。

(休憩時間に入ればお父さんがやって来てバイオリンを弾いてみるか?って聞きに来ると思ってた…だから、休憩時間になる前にここを出るかバイオリンは弾かないと断固拒否するかどちらかにしようと思ってたのに…曲が始まると雪乃の演奏に見入ってしまっていた…それに、まさかおじいちゃん指揮者に一曲弾いてみないかと言われるとは想像してなかった…)

真希は父が今どこにいるかを探した。何故真希が父を探しているかというと、父が遠藤に頼んで真希にバイオリンを弾くよう勧めてくれと伝えたのではないだろうかと思ったからだった。それならどこかでこの状況を見ているに違いないと思って父を捜したのだった。だが真希の父は合唱団のメンバーと楽譜を見ながら真剣に話をしていてこちらに一切目を向けなかった。

「では、私が指揮をしよう。」

遠藤はそう言ってステージに向かった。雪乃も遠藤の後をぴょんぴょんと跳ねるように付いて行く。高瀬が真希の後ろに周り真希の両肩に両手を置いてそっと押した。

「よしっ!行こう。行こう。」

「あの…私まだ演奏するとは言ってないんですけど…」

「いいから。いいから。」

真希は高瀬が座っていた席に座らされ雪乃が作曲をしたという曲の楽譜を渡された。

「バイオリンは私のを使ってね。じゃ、私はさっき真希ちゃんが座ってた席で見てるから。」

高瀬がウィンクをして去って行った。真希は楽譜に目を通してあまりの複雑さに驚いた。そして、ピアノ椅子に座る雪乃と楽譜を交互に見た。

(この人が…この複雑な曲を…?凄い…凄すぎる…)

雪乃は嬉しそうに体を左右に揺らしながら真希が楽譜に目を通す姿を見ていた。

(お父さんが絶賛した理由も今ならわかる…この人はピアノの演奏だけではなく作曲家としての才能もある。そして、この人はきっと………天才だ……)

真希はふと曲のタイトルが気になったが、楽譜には曲名が書かれていない。一通り楽譜に目を通した真希は靴と靴下を脱いで裸足となった。その様子を遠藤が懐かしそうに見つめていた。遠藤の視線を感じた真希は遠藤の方を見て演奏する準備が出来た事を伝える為にゆっくりと頷いた。遠藤は優しそうに微笑んでからタクトを上に上げた。その様子を見て真希はバイオリンを構えた。そして、勢いよくタクトを振り下げた時、真希はバイオリンを弾き始めた。真希と雪乃が演奏を始めた事によって、それまで思い思いに休憩していた楽団員や合唱団の面々は一斉に2人の方を見た。そして、楽団員達は一人また一人と自分の席に戻り始めて真希と雪乃の演奏に加わり始めた。真希と雪乃の2人だけで演奏をするつもりが、声楽がない合唱団とバイオリンを真希に貸してくれた高瀬。そして、真希の父親以外の全員が演奏に参加した。演奏中、真希は何度も何度も間違った。楽譜を見た段階では自分にも演奏出来る曲だと思った。しかし、それは間違いだった。2年のブランクは真希が思っていた以上に大きかった。

(2年前までの私ならもっとちゃんと弾けたのに…)

そう思うと真希はちゃんと演奏出来ない自分が情けなくて悔しかった。演奏が終わると団員達の全員が真希の方を向いて拍手をしてくれた。高瀬は客席で立ち上がり、「ブラボー!」と叫んでいる。合唱団や遠藤も拍手を送ってくれる中、父だけは腕を組み真希の方を見ていた。真希は立ち上がり演奏に参加してくれた楽団員に向かって心の中でありがとうと言いながらお辞儀をした。そして、次に指揮をしてくれた遠藤やピアノを弾いてくれた雪乃や拍手をくれた合唱団と高瀬にも次々とお辞儀をした。みんなの温かさを感じて真希はこの時凄く嬉しかった。真希が高瀬のバイオリンを持って観客席に戻ろうとした時、遠藤が言った。

「楽団に戻って来ないかい?」

真希は遠藤にそう言われて、ただただ嬉しかった。父に言われたら断るつもりだったその言葉に真希は無意識に「戻りたいです。」と答えていた。

(今日どんなピアニストの演奏を聴いても私は楽団に戻るつもりはなかったのに…

お父さんにバイオリンを弾いてみるかと聞かれたら断ってやろうと思ってたのに…

私はまた楽団に戻りたいと思ってしまった…)

真希は遠藤に近寄り小さな声で遠藤にだけ聞こえる様に言った。

「私は…おじいちゃん指揮者と…一緒に演奏がしたい。」

遠藤は小さな真希の声を聞き逃さない様に片耳を真希の方に向けてうんうんと頷きながら聞いていた。

「ありがとね。真希ちゃん。」

遠藤も真希にだけ聞こえるようにそう囁いてから、今度はここにいる全員に聞こえる様に大きな声で言った。

「では、姫川真希さん。柴咲交響楽団へ…おかえり。」

続いて観客席にいる高瀬が大声で言った。

「おかえりー!真希ちゃんっ!」

次々と楽団員の人達が真希に「おかえり真希ちゃん。」と言ってくれた。今日初めて会ったばかりの合唱団の人達も真希に拍手をしてくれて雪乃はその様子を本当に楽しそうにニコニコと見ていた。真希が父の方を見ると父は相変わらず腕を組んでこちらを見ていたがステージの真ん中へと歩いて行き遠藤の横に立った。そして、全員の前で父は深々と頭を下げた。

「姫川君。なんのつもりだい?」

遠藤が驚いて父に聞いた。父は頭を上げてステージにいる全員に聞こえるように大きな声で言った。

「うちの娘がお騒がせ致しました。これから柴咲交響楽団の一員としてまたお世話になります。どうぞ宜しくお願い致します。」

父はそう言ってまた深々と頭を下げた。頭を下げる父に代わって遠藤が話し出した。

「本来、柴咲交響楽団に入団するには厳しいオーディションがあります。しかし、真希さんは2年前にその入団オーディションに合格して一度は入団をしています。皆さん。今回の真希さんの入団は復帰という事で宜しいかな?」

「もちろんっ!」

なぜか交響楽団に関係のない雪乃がそう叫んで笑いをとった。そして、もう一度大きな拍手が真希に送られた。父は真希の近くに寄ってきて小声で言った。

「では、今日の所は観客席に戻って練習を見ていなさい。」

父の言葉通り真希は観客席に戻り手に持っていたままのバイオリンを「ありがとうございました。」と言って高瀬に返した。高瀬は「凄かったよ〜。」と笑顔で言ってから真希に聞いた。

「あの曲演奏してみてどうだった?」

「難しかったです。ミスばかりしました。」

「2年のブランクあるからね。でも、楽譜に一度目を通しただけであれ程の演奏が出来るんだから真希ちゃんはやっぱり凄いよ。」

「…そんな事ないです。でも、あの楽譜にタイトルが書かれてなかったんですけど、あの曲のタイトルってなんですか?」

「ああ。タイトルなしだって。だから、私達は名前のない曲って呼んでる。」

真希はピアノの前に座る雪乃を見ながら言った。

「変わった人ですよね。」

「そうね。でも、天才よ。」

全ての練習が終わった後、真希は父と一緒に久しぶりに実家に帰った。母は真希が今日家に来るとは思っていなかったらしく、真希が家に帰ってきた事に大変驚いていた。母が父のワインと真希と自分用に紅茶を用意して2年振りに家族3人でリビングのテーブルを囲んだ。真希はふぅーと息を吐いてから、父と母に柴咲交響楽団に戻る事とバンドを辞める事そしてギターは続けるという事を伝えた。父は「わかった」とだけ答えて母は「良かった。良かった。」と何度も嬉しそうに言っていた。

「今日はもう遅いからおばあさんの家には明日の朝にでも行きなさい。おばあさんには私から連絡入れとくから。」

その母の言葉に真希は少しためらってから言った。

「明日さ。荷物を持って帰りたいんだけど、車出してくれないかな?」

母は真希の言っている言葉の意味が理解出来なかったようで、「はい?」と聞き返してきた。真希は大きく深呼吸をしてから言った。

「もう二度と一緒に暮らさないって言ったのに今更許してもらえるとは思ってないんだけどさ…おばあちゃんの家にお邪魔するのはもうやめようと思って。ここに帰ってきてもいいかな?」

母は大げさな程涙を流しながら言った。

「いいに決まってるでしょ。ここは真希が帰ってくる場所よ。ここが真希の家なの。いいに決まってるでしょ。ね?お父さん?」

父は黙々と一人でワインを飲みながら、「ああ。構わん。」とそっけなく言った。母は真希のカップに紅茶がもうない事に気付いて紅茶を注ぎながら言った。

「それに…ここからなら高校に通うのも楽団に通うのも近いし便利よ。」

「…ありがとう。」

「明後日から正式に楽団の練習に参加してもらう。準備をしておいてくれ。」

とここでやっと父が真希に話しかけてきた。

「わかった。」

真希は父の思い通りの結末になってしまった事が嫌でたまらなかったが、温かく迎え入れてくれた楽団員達に囲まれて嬉しかった。この日、真希は中学1年生の終わりに両親に告げた『もう二度と一緒に暮らさない!バイオリンもサックスももう二度としない』という言葉を全て撤回した。家に帰る決断をしたのは、ただ、祖母の家で生活をしていると龍司達と出会う確率が高いと思ったのと祖母の家なら簡単に龍司は尋ねて来るだろうが父がいるこの家に尋ねて来る心配はないだろうと思ったからだった。

(これで明日ちゃんと龍司達にバンドを脱退する事を伝えれば、もう龍司達と会う事はないだろう…)

この日、真希は2年振りに自分の本当の部屋のベッドで眠った。



真希はギターをベッドに置いて壁にもたれかかった。

(あの雪乃の曲を演奏した時は本当に楽しかったな…だけど、あの日…楽団に戻る決断をしたのは間違いだったのかもしれない……

でも、あの時…私はバンドを辞める事を決めていたし…何もしないより楽団に入ってバイオリンを再開して良かったとも思う………思うのだけど……私はただ単に……本当にやりたい事から逃げ出したんだ……ただ……あの日……私には柴咲交響楽団という帰れる場所があって居心地の良い場所だと感じた。だから、あの場所に私は逃げたんだ……)

そして、真希は去年の4月2日の事を思い出した。



2013年4月2日。朝起きると龍司から電話が掛かってきた。電話に出るかスマホを見つめながら真希が悩んでいる間に着信は鳴り止んでしまった。折り返し連絡するのは止めて真希は母の車に乗り祖母の家に向かった。祖母の家に着くと真っ先に祖母は、

「家に帰る事に決めたんだね。」

と少し寂しそうな表情ではあったが嬉しそうな声で言った。

「うん。昨日急にそうしようと思っちゃって。ごめんね。おばあちゃん。」

「謝る事はないでしょ。両親と一緒に暮らすのが一番に決まってるでしょ。」

「荷物を全部運び終えたらまた戻って来るから一緒にお昼食べない?」

「そうだね。そうしよう。」

真希は祖母の家に置いていた衣服や本・ギター等を2階の部屋から次々と母の車に運んだ。家具等は元々祖母の物で、あまり真希の持ち物は多くはなかった。だから母の車で祖母の家から実家までは1往復だけで荷物は全部運ぶ事が出来た。真希が荷物を車に運んでいる間、母は車から降りずにずっと運転席で待っていた。母は祖母と顔を合わせる事も挨拶をする事もしなかった。

(普通娘が2年間お世話になりましたとか言うだろ…てか、ちょっとくらい荷物を運ぶのを手伝え!)

心の中でそう思いつつも家を出て祖母の家で暮らす事を勝手に決めた真希には母を責める事は出来なかった。祖母の家から運んだ荷物を実家の玄関先に大雑把に置いてから真希は母に言った。

「荷物はこのままここに置いといて。晩に自分の部屋に持ってくから。」

「晩?まだお昼前よ。どこかに行くの?」

「もう一度おばあちゃんの家に送ってくれない?お昼はおばあちゃんと一緒に食べたいから。それと、晩にバンドの練習が入ってるから、そこに顔を出しに行く。ちゃんと会ってバンドを辞める事を伝えたいから。」

「わかったわ。でも、夜は私仕事だし、お父さんも仕事があるだろうし迎えには行けないよ。」

「うん。大丈夫。夜はバスで帰るつもりだから。」

「わかったわ。気を付けて帰ってらっしゃいね。じゃあ、もう行こうか?」

「うん。お母さんはお昼どうする?おばあちゃんの家で一緒に食べる?」

「私はいいわ。帰ってサックスの練習しなきゃ。」

「そう…わかった。」

母は祖母の家の前に車を止めて真希が降りるとさっさと車を出した。

(おばあちゃんに挨拶ぐらいしたらいいのに…)

母は昔から祖母の事が苦手なようだった。それは別に嫌っているという感じではない。しかし、母は一方的に祖母を避けている。

(おばあちゃんはお母さんに何かをうるさく言うような人ではないのにな…嫁と姑との間には色々とあるんだろうな…)

真希は車が見えなくなるまで母を見送り玄関の扉を開けた。

「おばあちゃん?」

祖母の姿はリビングにはなかった。真希は2階に上がった。すると祖母は真希が2年間使っていた部屋の中で一人ベッドに座っていた。

「おばあちゃん?ここで何してるの?」

「おや。真希早かったね。」

「まあね。荷物は玄関に置いてすぐにこっち戻って来たから。」

「そうだったのかい。てっきりもう少し時間が掛かるものだと思ってたよ。まだお昼の準備何もしてないよ。」

「大丈夫。私が何か作るよ。そのつもりだったし。」

「あら。嬉しい。」

真希は先に1階に降りて冷蔵庫にある物を確認した。真希が料理を始めると祖母も2階から降りて来て真希が料理をする後ろ姿を見ていた。

「オムライスでもいい?ってもう作り始めてるけど。」

「真希が作る物なら何でもいいよ。しかし、2年前とは比べ物にならないくらい料理上手くなったね。

「そう?なら、おばあちゃんのおかげだよ。」

「それは…そうかもね。」

「うん。」

真希は楽しそうに料理を作り、その姿を祖母は嬉しそうにを見ていた。そして、他愛もない話をしながら2人で昼食をとった。昼食を終えて真希は祖母に聞いた。

「ねえ?おばあちゃん?」

「なんだい?」

「おばあちゃんさ。一昨日病室で私に家に帰る事を考える様に言ったじゃない?」

「そうだね。」

「本当にお母さんから電話で何も言われなかった?本当は私が家に戻って来るようにおばあちゃんから伝えてほしいって言ったんじゃないの?」

「違うよ真希。礼子さんには本当に何も言われていないよ。」

「本当に?」

「本当に。」

真希は一昨日と今日の2度の同じ質問で祖母は母からは何も言われてなかったのだと思った。

(おばあちゃんはお母さんから何も言われてなかった……じゃあ、どうしておばあちゃんは家に帰る事を考える様に言ったのだろう…)

「じゃあ…おばあちゃんは私がここに住むの…本当は迷惑だった?」

「真希。それも違うよ。真希がいて迷惑だなんて思った事は一度もない。一度もないよ。むしろここにいてくれて助かったよ。楽しかったよ。」

真希は質問をする度にどんどんと前かがみになっていった。祖母はずっと真剣な眼差しを真希に向け嘘のない言葉で答えてくれていた。

「じゃあ、どうして?どうして急に家に帰る事を考えるようにって言い出したの?」

「急なんかじゃなかったよ。おばあちゃんはね。真希が自分の家に戻った方がいいとずっと思っていたんだよ。浩一は時々しかここには顔を出さなかったし、真希と会っても会話なんてほとんどしやしなかったろ?礼子さんは礼子さんで真希に会いに来たのは2年間で昨日が初めてだったし…このままここで真希が生活を続ければ両親との溝は深まるばかりだと思ってた。だから、自分の家に戻った方がいいと思ってた。ちゃんと話し合えば解決する事あるんだからさ。」

「……」

真希は前かがみになっていた姿勢を戻して祖母から目線をそらした。

「でも、どうしても両親とうまくいかないと思う時は我慢しないでいつでもここにおいで。おばあちゃんはいつだって真希の味方だから。」

その言葉が真希には嬉しかった。真希はそらした目をまた祖母に向けた。

「うんっ!あっ。そうだおばあちゃん。パジャマだけまだ持って帰ってないんだけどさ。ここに置いといてくれないかな?」

「パジャマ?」

「うん。特に用事とかなくてもまた遊びに来たり泊まりに来たりしていい?」

「もちろんだよ。またいつでもおいで。」

「ありがとう。おばあちゃん。」

「いいえ。」

「じゃあ、早速今日泊まっていこうかな?」

真希がおどけてそう言うと祖母はおかしそうに笑った。

「ふふふ。それは面白いね。」

祖母はニコニコと笑みを浮かべながらテーブルの上に置かれたお皿を片付け始めた。真希も食べ終わったお皿を祖母と一緒に台所に運んだ。真希がお皿を洗い、祖母が洗い終わったお皿をタオルで拭いた。

「そうだおばあちゃん。私これからスマホを買い替えに行こうと思ってるの。おばあちゃんは今日これから出掛けたりする?」

「スマホ?使えなくなったのかい?」

「いや、高校入学と一緒にスマホも新しくしようと思って。」

「番号は一緒なんだろ?」

「ううん。今使ってるのは一度解約して新しいの持とうと思ってるから番号は変わるわ。」

祖母は少し考えてから言った。

「高校入学と一緒にスマホも新しくしようだなんて嘘なんだろう?龍司君達ともう連絡とらないつもりなのかい?」

「……」

「龍司君。真希に謝りたがってたよ。」

「…謝ってなんかいらないよ。」

「…真希…」

「だってこの怪我は龍司のせいなんかじゃない。ただの事故よ。」

「じゃあ、それをちゃんと龍司君に言ってあげなさい。真希のダメな所はそういうとこだよ。両親もそうだけど、友達ともちゃんと話し合えばもっとわかり合えるはずなのにそれをちゃんとしないところがあるよ。」

「…わかってる…でも、バンドはもう辞める事に決めたから…だから、龍司達から連絡きても迷惑なの…今晩龍司達に会いに行ってそれを伝えるつもり。」

「…そうなのかい…で、どうしておばあちゃんが出掛けるか気にしたんだい?」

「私この家のスペアキーずっと持ってたけど、もう返そうと思って…それで。」

「そう…おばあちゃんはこれから買い物に出掛けるよ。だけど、その鍵は真希が持ってて。そうじゃないといつでも帰って来れないだろう?」

「…そだね…ありがとう。」

午後4時。真希と祖母は一緒に家を出た。そして、徒歩5分程で最寄り駅の西宮駅に着いた。

「じゃあ真希。おばあちゃんは商店街に行くからまたね。」

「うん。今晩新しい番号で連絡するから登録よろしくね。」

「わかった。」

祖母は西宮商店街へと向かい真希は電車に乗って2駅の柴咲駅で降りて携帯ショップへと向かった。携帯ショップは混雑していて真希が思ってた以上に時間が掛かってしまった。真希は真新しいスマホの画面を見て時刻を確認した。

(6時か…2時間も掛かるとは思ってなかったな…でも、バンドの練習時間は7時からだからまだ一時間ある…)

真希はバンドの練習場所M Studioに向かう前に喫茶ルナへと向かった。ルナではマスターの新治郎がお客さんのいない店内で一人パイプを銜えて新聞を読んでいた。

「おっ。いらっしゃい。今日は真希一人かい?」

「…うん。」

「真希が一人でここに来るなんて初めてじゃないか?」

「そうだっけ?」

「ああ。そうさ。嬉しいねぇ。まあ、座りな。」

「はい。」

真希はカウンターの席に座った。新治郎は新聞を片付けてカウンターの中へ向かいながら真希に聞いた。

「何にする?」

「…じゃあ、ホットで。」

「あいよ。」

新治郎はお水を真希に出してホットコーヒーを淹れ始めた。真希はそのホットコーヒーが運ばれて来るまでずっと新治郎の姿を見ていた。ホットコーヒーをひと口飲んで真希は、「美味しい。」と呟いた。新治郎はコーヒーを飲む真希の姿をじっと見つめていたが真希に話しかける事はしなかった。

時間を掛けてコーヒーを飲み終わった時、真希は新治郎に言った。

「…私ね。これからバンドを辞める事を龍司達に伝えに行くの。」

「…そう…なのか…」

「…うん。」

「……」

「…本当はね…私あいつらとバンド続けたいんだよ…一緒に演奏してて本当に楽しかったし…でも…私はあいつらと一緒にバンドを続ける事はこれ以上出来ないと思ったの…」

「…そうか…」

「…だから、これから私は龍司達と一緒にココに来る事はなくなると思う。」

「…そうか…寂しくなるな…だが、一人でも来てくれよ……ってここに来ると龍司達と顔を合わせるかもしれねぇか…」

「……」

真希は店内の古時計を確認した。午後6時40分。

「じゃあ、マスター。私行くね。」

「もう少ししたら結衣が来るから会ってやってくれ。」

「…ごめん…もう行かなきゃ。」

「…そうか…わかった。」

「それと…今晩龍司が来ても私がここに来た事は言わないで。」

「ああ。わかった。」

新治郎は本当に残念そうな顔を浮かべて真希を店から送り出した。新治郎はどうして真希がバンドを辞めるのか今の会話の話だけではわからなかっただろう。だから、どうして真希がバンドを辞めるのか気になっているに違いない。なのに新治郎は真希に質問をする事なく真希が話す事をただ聞いていてくれていた。それが真希には嬉しかった。

(いつか…また普通にこのお店に来れる様になりたいな…)

真希はルナからM Studioへと向かった。普通なら5〜6分で着く距離を真希はどこをどう歩いたのか辿り着くまでに30分以上もかかってしまっていた。龍司達のいるスタジオの一室に入る前に真希は深呼吸をしてからドアを開けた。

この日、真希は嘘ばかりを並べて龍司達にバンドを辞める事を伝えた。

赤木と西澤は真希がバンドを抜けると言っても引き止めようとはしなかった。それは止めても無駄だと判断したのかそれとも去る者を追うつもりが2人にはなかったのかは真希にはわからなかったが2人のその冷めた態度は真希にはありがたかった。その一方で龍司はしつこく真希を止めようとした。龍司は真希がバンドを辞めるきっかけを作ったのは真希に怪我をさせた自分のせいだと言った。そして、父親にバンドを辞めろと言われたから真希がバンドを辞める決断をしたのだと勘違いしていた。バンドを辞める事は自分で決めた。それだけは本当だった。だけど、それを言っても龍司は信じてくれなかった。本当の理由を龍司は知りたがっている。

真希がバンドを辞める本当の理由は他人の夢を壊す連中と一緒にバンドは続けられないと思ったからだ。だけど、それを正直に龍司に言った所で今の龍司には理解されないと真希は思った。そして、理解された所で龍司達が暴れた事が真希にはもう許せなくなっていた。だから、真希はバンドを辞める本当の理由を龍司には伝えなかった。

「と、言うわけで今までありがとうございましたっ!お世話になりました。」

真希は数秒間頭を深く下げた。そして、頭を上げた真希は笑顔で言った。

「じゃあね。元気でね。」

真希はドアの方へと向かって歩き出した。それを止めるように龍司は声を掛けてくる。

「お前本当はバンド辞めたくなんてないんだろ?続けたいんだろ?」

(辞めたくないよ。続けたいよ。だけど、私は他人の夢を潰す連中とは続けられない…)

真希が部屋を出て行くまで龍司は声を掛け続けていた。

「お前。本当は今すっげー辛いんだろ?笑顔なんか作りたくねーんだろ?泣き出したいんだろ?」

(そうだよ。辛いよ。笑顔なんか作りたくない。泣き出したいよ。)

真希はドアを開ける直前一瞬だけ下を向いて立ち止まったがすぐにドアノブを回し部屋を出た。部屋を出た瞬間真希の目からは涙が溢れた。ドアの向こう側から龍司の声が聞こえてきた。

「クソっ!なんでだよっ!なんでなんだよっ!本当の事言えよっ!なんで俺らにウソつくんだよっ!」

(どうしてだろう?どうして私は本当の事言わなかったのだろう…正直に私の夢は世界一のギタリストになる事だと言っていれば龍司達もプロを目指してバンド活動を一緒にしてくれたのかもしれない…そうしたらあの時、龍司達はライブハウスで挑発されようが何をされようが暴れる事はしなかったのかもしれない…もしくは…正直に他人の夢を潰す連中とはバンドを続けられないと言っていれば龍司達は…いや、龍司だけはちゃんと心を入れ替えてくれていたと思う…なのに…どうして私は素直に言えなかったのだろう…本当の理由を伝えなかったせいで龍司は私がバンドを辞めたのは自分のせいだと勘違いしたままずっと自分を責め続けるかもしれない…いつか…いつか龍司にバンドを辞めた本当の理由を伝えてあげなきゃ………でも、そっか…もう私は龍司と会う事はないだろうから伝えられないのか…)



(きっとあの時私が本当の事を言わなかったのは自分を守る為だったのだと思う。あの時、龍司達に本当の事を話して理解されなかった時の事を想像すると恐かったのだ。だから、私は嘘を並べて本当の事は言わなかった。結局私は龍司達を信用していなかったという事なのだろう)

月の明かりが部屋の窓から射し込む。真希はその綺麗な月を見上げて、ただじっと見つめた。



真希は実家に戻り柴咲交響楽団にも戻り2年前と同じ生活を始めた。変わった事といえば高校生になったぐらいだった。そして、祖母の家には定期的に寄っている。顔を出すだけの日もあれば泊まって帰る時もある。ある日、祖母は「はい。これ。」と言って真希に紙袋を手渡した。紙袋に何が入っているのか確認するとそれは黒いタイツだった。

「おばあちゃん…なに…コレ?」

「タイツだよ。」

「それはわかるんだけど…」

「高校の制服。これから夏になるのに長いスカートのままじゃ暑いだろう?これを履けば傷はわからないしちょうどいいと思ってね。」

「いや、おばあちゃんコレも暑いよ…それに真夏にコレ履いてるのもおかしいんじゃないかな?」

「そうかい?残念だね…」

祖母は凄く残念そうな顔をした。あまりにも祖母が悲しそうな顔をしたので真希は極力嬉しそうに、

「…まあ、冬場に使う機会があるかもしれないから貰っとくよ。」

と言った。祖母はその言葉に、「よかったー。」と嬉しそうに言った。

(私、制服以外でスカート履かないから使う機会なさそうだけど…)

真希が入学した栄真女学院は地元の子はほとんど入学しない。様々な都道府県から生徒が集まり親元を離れて寮生活を送っているのが大半だ。だから、この学校には真希の事を知る生徒はほぼいないし、真希以外の生徒達も姉妹がいない限り栄真女学院には友達が一人もいない状況で入学して来る。真希は中学時代、友達からよく話しかけづらい雰囲気があると言われていた。知り合いがいない高校に入学してもそういう印象を相手に与えてしまってはいけないと思い自分から積極的に話し掛けていくつもりだった。しかし、真希は学校で一人だけスカートの丈が長かったせいで真希から話しかけなくてもどうしてスカートの丈を長くしているのかを入学当初よく質問された。気が付けば入学から何日間かに渡ってクラスメイト全員にその質問をされていた。質問をされる度に真希は足の傷を見せて、

「入学前に怪我をしてそれを隠す為にスカートの丈を長くしてるの。傷跡は残るだろうから高校3年間は夏でもスカートはこのままだと思う。」

とありのままの事を一人一人に説明した。皮肉にも真希は怪我をした事によってすぐにクラスメイト達とは仲良くなる事ができた。しかし、真希とは接点のない上級生や他のクラスの子からはどうしてスカートの丈を長くしているのだという白い目で見らた。上級生からすれば調子にのった新入生が入学して来たといった感じだったのだろう。上級生の中には真希にわかりやすくスカートを見ながらスカートの丈がどうのとわざと聞こえる様に話す連中もいた。しかしそれは最初の1、2週間だけだった。クラスメイト達がクラブ活動を始めると白い目で見られる事は徐々になくなっていった。きっとクラスメイト達がスカートの丈を長くしている理由を上級生達に説明してくれたのだと真希は思った。

肝心のギターの方はあまり練習する暇がなくなっていた。想像以上にバイオリンの2年のブランクというのは大きくそれを埋めるのが精一杯だった。毎朝必ずバイオリンの練習を一時間練習してから学校に登校した。そして、交響楽団の練習がない日は学校から帰宅すると最低でも5時間は練習をした。しかし、それでも2年のブランクは埋まらなかった。

柴咲交響楽団はほぼ毎日コンサートを行っている。練習の方もほぼ毎日午前中からありコンサートがない日は午後まで練習がある。高校生の真希はほとんど週末にしか練習に参加出来ない。その週末もコンサートがあれば真希は午前中の練習にしか参加できないでいた。真希はコンサートに参加するどころか練習にすらちゃんと参加できていない自分がもどかしかった。柴咲交響楽団と柴咲合唱団そして長谷川雪乃との合同練習は月に一度だけあった。それにも真希は実力的な面で練習には参加できず皆が練習をしている間一人別メニューの練習をさせられた。

そして、10月に入った頃、真希は遠藤に呼び出された。日頃忙しいのだろうか遠藤は4月に真希と再会した頃より顔がやつれているように思えた。

「どうしたの?おじいちゃん指揮者が喫茶店に呼び出すなんて珍しい。」

「ルナだったか?駅近くの。あそこまで行こうと思ったんだけど、こっちの店の方が家から近くてな。」

「いいよ。ルナはもう半年行ってないから行きにくくなっちゃってるし。で、どうしたの?」

真希がそう聞くと遠藤は喫茶店のテーブルに頭を付けてから12月の合同コンサートに真希は出演出来ない事を告げた。疲れた声で本当に申し訳なさそうに遠藤は謝っていた。真希はどうしても合同コンサートにだけは出演したいと食い下がったが遠藤はそれを認めてくれなかった。

(情けない…私はこの半年間合同コンサートに参加したくて楽団に戻ったようなものだったのに…実力のない自分が本当に情けない…)

その月の合同練習の日。真希が合同コンサートに出演出来ない事を知った雪乃はまるで幼稚園児が欲しい物を買って買ってと母親にだだをこねる様に床の上を転がりまわりながら泣きわめき遠藤を困らせた。その女子高生とは思えない雪乃の異常な様子に周りの団員達は唖然としていて結果的に遠藤だけではなく団員達までも巻き込んで迷惑を掛けていた。1ヶ月に一度全員が揃う貴重な合同練習の1時間を雪乃の説得だけで消費した。真希と高瀬がなんとか雪乃を鎮めてその場は落ち着いたが雪乃はこの日合同練習には参加せずに真希と別メニューの練習をすると言い出した。雪乃は何故かこの日持って来ていたピアニカを鞄から取り出し2人で市民ホールの隅の方で練習をした。

「真希ちゃんが参加しないなら私も12月のコンサートには参加しない。」

雪乃のその言葉にこれはマズいと思った真希はなんとか雪乃を説得しようと必死になったが雪乃は全然納得してくれなかった。真希が何を言っても雪乃は、「私は真希ちゃんと一緒にコンサートしたいの。」の一点張りだった。困り果てた真希は、

「必ず今度一緒にコンサートしよう。だから今回は私の分まで雪乃がコンサートに参加して。」

と頼み込んだ。するとそれを聞いた雪乃は嬉しそうに手を叩きながら飛び跳ねた。

「ホント?ホントに今度一緒にコンサートしてくれる?絶対だからね?」

「うん。約束する。」

約束を守れるか不安だったが真希は雪乃と約束をした。

「あ、そうだ。忘れるとこだったけど私スマホ変えたんだ。それで番号とアドレスも変わったの。メール送るから変更しといて。」

「うーん。真希ちゃんがして。」

真希は雪乃に携帯を手渡されて雪乃の携帯に登録されている自分の番号とアドレスを変更した。

真希はこの日、12月のコンサートに出演出来ない事がショックではあったが、「真希ちゃんが参加しないなら私も12月のコンサートには参加しない。」と言ってくれた雪乃の言葉が本当に嬉しかった。雪乃はピアニストとしては本当に凄い人だ。その人が自分を必要としてくれているのが嬉しかった。だけど、雪乃は真希の実力を見てそう言ってくれたのではない事は真希自身わかっている。

(雪乃はただ私を友達として必要としてくれているだけ…)

そう思うと真希はやっぱり自分の実力や才能のなさを感じて自分が情けなく思えた。

この半年間真希はバイオリンの練習をしてきて感じた事があった。それは2年前までは普通に出来ていた事がたった2年で出来なくなっているという事。それに気付いた真希は大好きなギターの練習よりも今はバイオリンの練習を優先させる事にした。2年前の自分の方がバイオリンが上手いと思うと真希は今の自分が許せなかったからだ。バイオリンが嫌いで辞めたのに出来なかったら出来なかったで悔しかった。真希は負けん気の強さで必死にバイオリンと向き合っていた。バイオリンの練習を優先させていたといっても真希はそれなりにちゃんとギターの練習は行っていた。そもそも今はギターの練習をやめてバイオリンだけに集中するべきだと心の中ではわかってはいたが、どうしてもギターの練習だけはやめられなかった。

ギターを見るだけで怒っていた父が真希が家に帰ってからは真希がギターの練習をしていても何も言わなくなった。中学一年生までの真希も今と同じくバイオリンの練習もきちんとしてギターの練習をしていた。なのに父はギターの練習をするのをやめさせてバイオリンの練習に集中しろとうるさく言っていた。それなのに今は何も言わない。それが真希には不思議でたまらなかった。

そして、2014年12月22日。午後12時に柴咲交響楽団と柴咲合唱団と長谷川雪乃の合同コンサートが開催された。

真希はこの日観客として柴咲市民ホールにいた。すぐ目の前にある舞台に自分が立てなかった事が悔しくて苛立っていたのだが、そんな事はお構いなしに隣に座る母が市民ホール一杯になった客席を見て嬉しそうにはしゃいでいた。その姿を見て真希はまた苛立ちを覚えていた。しかし、コンサートが始まるとそういう苛立ちは消え演奏される曲の迫力に圧倒された。曲順は練習通りの順番で最初の3曲のうちは雪乃の姿はなかった。3曲の演奏が終わると指揮者の遠藤はステージ脇に左手を向けた。観客の視線が遠藤の向けた先に集まる中、横に座る母が真希に顔を寄せて言った。

「遠藤さん痩せたわね。体調大丈夫なのかしら?」

遠藤は日を追うごとに痩せていた。観客席から見る遠藤の姿はまた一段と小さくなったように真希の目には映った。どんどんとやつれていく遠藤が心配で真希はこれまで何度か病院に行くように勧めたが遠藤が病院に行った気配はない。

ステージ脇に観客の目が集まる中、雪乃が登場した。その瞬間盛大な拍手が鳴った。雪乃はコンサート用の真っ赤な衣装を着て精一杯オシャレをしているが髪型はいつも通りボサボサだった。それなのになぜか今日も前髪だけはきちんと揃えられている。

(いつも通りアンバランスな髪型だ…今日くらいちゃんと髪型セットしたらいいのに…)

雪乃は盛大な拍手に驚いたようで数歩歩いただけで立ち止まってしまっていた。遠藤がおいでおいでと小さな子供を手招きするような仕草をすると雪乃はニコニコしながらスタスタと遠藤の元へと歩いて行き遠藤と握手を交わした。それから雪乃はまたスタスタとピアノの元へと行ってちょこんとピアノ椅子に座った。雪乃が登場した時からピアノ椅子に座るまで拍手は鳴り止まなかった。真希はこの時初めて雪乃は人気のあるピアニストだったのだと知った。そして、雪乃が作曲した名前のない曲の演奏が始まった。最初のピアノの音を聴いた瞬間真希は戸惑いそして驚愕した。

雪乃はコンサート本番になって急にアドリブを入れてきたのだ。しかも最初の一音から全く違う。

練習ではちゃんと楽譜通り演奏していたのにも関わらず雪乃は自由に演奏を始めた。柴咲交響楽団も柴咲合唱団もステージにいる全員が雪乃のアドリブに驚いたはずだが動揺する事なくちゃんと対応して演奏していたのはさすがだった。その演奏に真希は体全体が震え出し感動をして気が付けば涙を流して聴いていた。そして、まるで飛び跳ねるように演奏する雪乃の姿を見て改めて思った。

(やっぱりこの人は天才だ)

結局雪乃はこのコンサートで楽譜通りに弾く事はほとんどなかった。全ての演奏が終わった時、真希にはまた悔しさが込み上げて来ていた。しかしそれはコンサートが始まる前のような苛立ったものではなく今の自分の実力のなさを痛感し、この舞台に立てなくて当然だったと諦めてしまった自分がいた事に気付いての悔しさだった。母が楽屋に一緒に行こうと真希を誘ったが真希は楽屋に顔を出す事なく真冬の寒さの中一人歩いて家に帰った。

その日はバイオリンの練習はおろかギターの練習もしなかった。何もしないでただ部屋から見える景色をぼーっとベッドの上に座り見つめた。スマホの音が鳴っている。しかしその音に真希は全然気が付かなかった。真希がぼーっとした状態から正常に戻ったのは夜の8時頃だった。

(あー。お腹空いた)

真希が一番に思ったのはそれだった。真希は時刻を確認すると声を出して驚いた。

「えっ!?もう8時?」

外はもう暗い。それを認識していたはずなのに時刻を確認して驚いている自分にまた驚いた。3階の自分の部屋から1階に降りたが父と母が家に帰って来た形跡はまだない。軽く自分一人分の食事を用意してそれを食べた。食事を終えるとまたすぐに自分の部屋へと戻った。スマホを確認すると雪乃からのメールが届いていた。

(今時LINEじゃなくてメールだもんな…)

–今日真希ちゃんのおばさんと初めて会ったよ。真希ちゃんどうして楽屋に顔を出してくれなかったの?会いたかったのに〜–

(会えないよ。あんな凄い演奏されたら恥ずかしくて会えないよ…みんな練習の時と今日の本番ではまるで別人だった…練習だけで精一杯な私が今日の本番に出てたら演奏の途中で逃げ出してたかもしれない…それ程私とあのステージに立った人達とは実力の…いや、才能の差がある…きっとおじいちゃん指揮者もそれに気付いていたから今回のコンサートの出演を認めてくれなかったんだろうな…)

真希は雪乃にメールを返した。

–ごめんね。みんなの演奏を聴いたら興奮し過ぎて疲れちゃったから先に帰ったの。今日のコンサート本当に凄かった!やっぱり本番は違うね。みんな凄かったけど雪乃は飛び抜けて凄かったよ。–

少し早いが今日は眠ってしまおうと思った時、また雪乃からメールが届いた。

–今打ち上げ中だよ。真希ちゃんも早くおいでよ。–

4月に雪乃と出会ってから雪乃はずっと真希の事を真希ちゃんと呼ぶ。そのくせ真希が雪乃さんや雪乃ちゃんと呼ぶと「雪乃」とすこし膨れて呼び捨てにするように言ってくる。真希も呼び捨てで良いと何度も雪乃に言ったのだが結局この半年ちょっとで雪乃が真希の事を呼び捨てにした事はない。

–ごめんね。もう眠たいから打ち上げには行けないよ。–

(一応、柴咲交響楽団の団員だけど…一度もコンサートに参加した事がない私が今日のコンサートの打ち上げに参加するなんておこがましいよ。)

–わかったー。おやすみー。また連絡するねー。–

雪乃のメールを確認してから真希は眠りについた。


そして、年が明けた今年の2014年1月1日。お昼前に家の電話が鳴った。この時、真希は1階のリビングで届いた年賀状の確認をしていて母は昼食の準備をしていた。テレビを見てのんびりしていた父が立ち上がり受話器を取って電話の相手と神妙な面持ちで話をしていた。

昼食の準備をしていた母がテーブルに陣取って年賀状を確認する真希の元に寄って来て不安そうな面持ちで言った。

「正月早々に電話が鳴るなんて珍しいわね。何かあったのかしら?」

(確かに。1日の昼間に家の電話が鳴るなんてうちでは本当に珍しい。)

真希は年賀状の確認をする手を止めて父の顔を見た。

(お父さんの顔はどこか険しい。電話の相手は誰だろう?そもそもお父さんに用事があるなら家の電話ではなくてどうしてお父さんの携帯にかけなかったのだろう?)

父が電話相手に言った言葉は真希が聞いた限り「はい。」「そうですか。」「わかりました。」の3つの言葉しか使っていなかった。電話を切る直前に父は、

「で、容態は?」

と言った。

(容態…)

真希はその言葉を聞いて嫌な予感がした。

(まさか…おじいちゃん指揮者…?)

真希はゆっくりと椅子から立ち上がり父の側に近づいた。父は真希がちょうど横に立った時、受話器を置いた。

「誰からの電話?」

真希が不安そうな面持ちで父に聞いた。父は受話器を置いた手を離さずにその場に立ち尽くしたまま言う。

「遠藤さんの奥様からだ。遠藤さんが今朝倒れて結城総合病院に運ばれたそうだ。」

真希の嫌な予感は的中した。

「これから病院に行く。礼子。支度をしろ。」

「ええ。はい。」

「私も行く。用意するからちょっと待って。」

「ああ。早くしろ。」

「わかってる。」

母はうろたえながら父に聞いた。

「遠藤さんの容態は?」

「…どうやら重症らしい。だが、奥さんも取り乱していたからはっきりした容態までは聞いていない。」

「…そう。心配ね…」

「とにかく急ごう。」

真希は父と母と3人で急いで結城総合病院へと向かった。遠藤の病室は去年の春に真希が1日だけ入院した病室と同じ病室だった。病室のドアを父が開けた時、真希は遠藤が今どんな状態なのかを見るのが急に恐くなった。そんな真希の恐怖心も知らない父は病室へと入って行った。続いて母が中に入り真希がその後に続いた。ベッドに横たわる遠藤は12月の合同コンサートの時よりも更に痩せているように真希には見えたが、しっかりと意識はあり真希達3人が病室に入って来るのを見ていた。

「おや?姫川家の皆さんお揃いでお見舞いに来て下さったのか?正月早々すまないねぇ。」

遠藤自身は精一杯元気な声を出してそう言ったつもりなのだろうが、実際の遠藤の声は今にも消えそうなくらい小さな声だった。

「体の具合は?」

父がそう聞くと遠藤は精一杯声を絞り出して言った。

「少し無理がたたったみたいだね…真希ちゃんの忠告をちゃんと聞いて病院に行っていれば倒れなかったのかもしれないな…いや、お恥ずかしい。」

「でも、元気そうで良かったわ。」

母は全く元気そうには見えない遠藤に対して気を使ってそう言った。その母の言葉に遠藤は無理矢理笑顔を作って言った。

「元気。元気。こんな立派な個室に入れてもらってなんだか申し訳ないよ。」

「きっと遠藤さんは無理し過ぎたんだわ。良い機会だからゆっくりと休養とって下さいね。」

「そうだね。そうさせてもらうよ。」

「あっ。そうだ。電話があって急いで来たから何も持って来てないわ。今度何か持って来ますね。」

「いやいや。お構いなく。」

「そう言わずに。何か食べたい物とかありますか?」

「礼子さん本当にお構いなく。」

遠藤はそう言って頭をゆっくりと下げた。なんだか重い空気だと真希は思った。父と母は遠藤に気を使い。遠藤も真希達3人に気を使っているのがひしひしと伝わって来る。遠藤の様子は一目見て尋常ではない事がわかる。きっと何か大きな病気にかかっているのだろう。その事は遠藤本人も含めここにいる4人が気付いている。

真希は遠藤に何と声を掛けたらいいのかわからなくて黙り込んでいた。父のように具合が悪そうな遠藤に「体の具合は?」などと聞けないし、母のように元気そうでもない遠藤に「元気そうで良かった」などとも言えない。

(何か声を掛けよう。でもなんて声を掛ければいいのだろう?)

そう考えれば考える程真希は言葉を失っていった。父はベッドの横に置かれている椅子に腰掛けて言った。

「遠藤さんにも連絡があったと思うが合唱団と雪乃との合同コンサートを今年もやってくれと連絡が入った。去年のコンサートが終わってすぐだ。」

「ああ。私にも連絡があったよどうやら好評だったみたいだね。。楽しみが一つ出来た。」

遠藤は嬉しそうに笑った。この時の笑顔は無理矢理嬉しそうな表情を作ったものではなく心から嬉しくて表情に現れたものだった。

「ところで奥様の姿が見えないが奥様は?」

「談話室で知人に電話でもしてまわっているんだろう。私は大丈夫だと言っているのにあいつは私が急に倒れたものだから恐ろしくなったのだろうね。混乱して取り乱しているみたいだ。浩一君達にも私が今にも死にそうな重症患者のように言って連絡したのだろう。すまなかったね。」

「じゃあ、私達は奥様に挨拶でもして来ようかな。真希行くわよ。」

「え?うん。」

真希は結局まだ遠藤に話しかけてもいない。

(何か話さなきゃ)

そう思った時、遠藤が先に真希に話しかけた。

「真希ちゃん。髪が伸びたね。大人っぽくなってきたよ。」

遠藤はまた心から嬉しそうに笑顔になった。

確かに去年の4月に遠藤と再会した時はショートカットだったしその頃からしたら今は肩の辺りまで髪は伸びた。しかし、遠藤とは去年の12月の合同コンサート前の練習でも顔は合わせている。今更髪が伸びたと言われてもなんと答えたらいいか真希にはわからなかった。もしかしたらこれは遠藤の精一杯ふざけた言葉だったのかもしれない。真希が遠藤にどう声を掛けたらいいのか迷っているのが遠藤に伝わってしまっていたのかもしれない。真希が前から髪は伸ばしてたよと言おうとした時母が真希に代わって先に言った。

「あらやだ。遠藤さん。真希は前から髪を伸ばしてたわよ。今更気が付くなんて失礼ね。」

茶目っ気たっぷりの母の言葉に遠藤は頭を掻きながら、

「こりゃ年頃の女の子に失礼だったね。」

と笑顔で言うと母も父も笑った。少し和やかになったところでやっと真希は遠藤に話しかける事が出来た。

「この病室って去年私が足を怪我した時に入院した病室と一緒だよ。」

「そうなのかい?確か1日だけ入院したんだったね。そうか。真希ちゃんもこの病室だったのか。奇遇だね。」

遠藤は真希に話しかけられた事がよほど嬉しかったのか今日一番の笑顔になった。

「ここの病院のご飯が病院食とは思えない程美味しかったよ。」

真希はそう言ってしまってから『しまった』と思った。遠藤の痩せた姿を見る限りちゃんと食事をとっているようには思えないからだ。それなのに食事の話題を出してしまった事を後悔した。しかし遠藤は笑顔のまま表情を変える事なく、

「そうなのかい?そりゃ楽しみだ。」

と言った。真希は遠藤の言葉に笑顔で答える事が出来なかった。今にも辛い表情を浮かべて俯きそうになった時、母が真希を救ってくれた。

「さあ、真希。私達は奥様に挨拶をしに行くわよ。」

「うん。そうだね。」

真希は遠藤の前でなんとか辛い表情を浮かべずに済んだ。病室を出た真希は前を歩く母に言った。

「ごめんなさい……私…さっき食事の話題出しちゃった…きっと何も食べれてないよね?」

「それならお母さんだって何か今度買って来るって言っちゃったわよ。」

母は泣いていた。先を歩いているから気が付かなかったが病室を出てからよく鼻を啜っていた。きっと病室を出るまで泣くのを我慢していたのだろう。

「遠藤さん。もう長くないのかもしれないわ。素人の私が見ても容態が悪いのがわかる。いい真希?何かマズい事を言ってしまったと思ってもさっきみたいに暗い表情を浮かべそうになってはダメ。わかった?」

「……わかってる…気を付ける。」

もう長くないのかもしれないわ。と母は言った。真希も病室に入った時からそれを思った。きっと父も同じ事を思っているのだろう。

母と父は結婚前から遠藤とは付き合いがあった。真希以上に父と母には遠藤との思い出がある。二人は今、不安や恐怖と戦っているのだろう。そして、今から遠藤の奥さんに母は病状を聞きに行こうとしている。真希には今の父や母の心境は計り知れないものがった。

談話室に入ると一番奥の席でテーブルに両手と顔をつけて一人で泣いている人物がいた。遠藤の奥さん(たえ)だった。その妙の姿を見て真希はますます嫌な予感が膨れ上がる。きっと母も真希と同じような気持ちなのだろう。

「妙さん?大丈夫ですか?」

母は平常心を装ってさっきまで涙を流して泣いていたと妙に悟られない様に声を掛けた。妙は母の言葉に反応してゆっくりと顔を上げてこちらを見た。真希は何度か妙とは会った事はあったがちゃんと話をした事はなかった。真希が知っている妙はいつもニコニコしていて会う時はいつだって着物姿で小綺麗にしているイメージだった。しかし、今の妙は真希の知っている妙とは別人のように見えた。妙は化粧っけもなくやつれた顔をし目は真っ赤で腫れ上がっていた。もちろん着物姿ではなく急いで近くにある洋服を着たといった感じの服装だった。

「…ああ。礼子さんお見舞いに来て下さったのですね。それに真希ちゃんも。」

「病室には旦那も来ていて今遠藤さん…昭一さんとお話しています…隣いいですか?」

「…はい。どうぞ。」

母は妙の隣の席に座り真希は妙の正面の席に座った。母は席に座って遠藤の病名を聞こうと考えたのだろうが、真希と母が席に付いた途端、妙は苦しそうな声を出して泣き始めてしまった。しばらくの間母は妙の背中を何も言わずに優しく摩った。

「うちの旦那ね…」

泣きながら妙がそう切り出した。

「はい。」

「…あと半年もたないんだって。」

真希の嫌な予感は的中した。しかし、半年もたないというのは真希が思っていた以上に悪い知らせだった。

「…そう…ですか……」

母は一度泣き止んだ涙を再び流し始めた。その様子を見て妙もまた泣き始めた。真希は頭の中が真っ白になった。

(おじいちゃん指揮者が…半年ももたない…?…嘘…でしょ……)

母は妙に何かを話している。真希の目の前にいて妙に話しているはずなのに真希の耳には母の声も妙の声もその他の音も何も入ってこなかった。

(半年後にはおじいちゃん指揮者はいなくなってるの?)

(そんな…そんなはずあるわけないじゃん)

(そんなわけ…)

この日もう一度遠藤に会いに病室に戻ったのかそのまま会わずに帰ったのか真希は覚えていない。

ただ覚えているのは帰りの車の中から見えた綺麗な月の姿だけだった。


     *


真希と礼子が病室を出て行ったのを見届けてから遠藤は言った。

「礼子さんはいい人だな。気を使って出て行ってくれた。」

さっき礼子と真希がいた時より遠藤の声はあからさまに小さかった。

「真希ちゃんも素直でいい子だ。」

「……」

姫川浩一は病室のドアをじっと見つめたまま話す遠藤を見ていた。

「浩一君。真希ちゃんは素直でいい子だよ。」

と遠藤はもう一度同じ言葉をしんどそうな声を出して言った

「……はい。」

浩一が返事をすると遠藤は浩一の方を向いた。

「真希ちゃんは素直だ。それはバイオリンにも出ている。」

「……」

「退屈だ。窮屈だ。面白くも楽しくもない。こんな堅苦しいな場所からは逃げ出したいってね。」

「……」

「本当に真希ちゃんは素直な子だよ。素直すぎてそれが彼女の音として出てしまっている。」

「……」

「去年の4月に真希ちゃんはうちの楽団に戻ってきたけど、最初から真希ちゃんはバイオリンを楽しく弾いてなかったな。そのうち心から楽しんで弾いてくれる日が来る事を願ったが…今も尚楽しそうには演奏しない。真希ちゃんは雪乃君のおかげで合同コンサートだけは出たがっていたが、バイオリンを嫌いなままの真希ちゃんをコンサートに出演させるわけにはいかなかった。すまないが今度真希ちゃんに浩一君から伝えておいてくれるかな?真希ちゃんの実力がなかったからコンサートに出演させなかったわけではなかった。ただ、バイオリンを愛していない真希ちゃんを本番に出す事はどうしても出来なかったんだと。」

「…それは…ご自分で伝えて下さい。」

「…ふふふ。頼んだよ。浩一君。それと、私はいつ楽団に戻れるかわからないから新しい指揮者を探してもらえると嬉しい。」

「なにを言ってるんですかっ。」

「もしかしたら…もう、このままタクトは振れないのかもしれないな…」

「治ったら振れるでしょうに。おかしな事は言わないでもらいたい。」

「私は治らないよ。妙の様子を見ていたらわかる。あいつは昔から嘘をつくのがヘタなんだ。とにかく、今月もコンサートはある。急いで代わりの指揮者を。頼んだよ。」

「……遠藤さん…」

「少し疲れた。今日はもう眠る事にする。礼子さんと真希ちゃんにもそう伝えておいておくれ。」

浩一は拳を握りしめた。


     *


じっと見つめていた月が雲に隠れてしまった時、姫川真希は夜空を見るのをやめてギターを片付けた。

(明日…暇になっちゃったしおじいちゃん指揮者のお見舞いにでも行こうかな…)

遠藤は未だにあの病室で過ごしている。半年もたないと言われてからもう5ヶ月が経った。その間真希は週に一度は必ず遠藤の見舞いに通っていた。遠藤の様子はこの5ヶ月で随分と悪くなっている。

(お風呂にも入っていないけど今日はもう寝よう。そして、明日お見舞いに行く前にシャワーを浴びよう)

そう思って真希はベッドに寝転んだが、頭が冴えていてなかなか眠りにつけなかった。今年の1月のコンサートから指揮者は代わる代わる応援という形でいろいろな人が来てくれていた。しかし、今日やって来た芦名充という男は正式な柴咲交響楽団の指揮者としてやって来た。

(あいつ…)

真希は芦名の顔を思い出しながら拳を握った。真希は遠藤が入院してからは交響楽団の練習をよくサボるようになった。そのせいで未だに柴咲交響楽団のコンサートには1度も出演出来ていない。しかし、明日からの3日連続あるゴールデンウィークコンサートと名付けられたコンサートで真希は初めて柴咲交響楽団員としてコンサートデビューする予定だった。それなのに今日やって来たばかりの新しい指揮者とモメてしまった。

(せっかく明日コンサートに出演する予定だったのにあいつのせいでまた私は出演できなくなった。)

真希はさっきよりも強く拳を握りしめた。

(またしばらくコンサート出演は出来そうもないな…別に…いいけど…)



2014年5月4日(日)


昨日は頭が冴えてなかなか寝付けないと思っていた矢先に眠りに落ちてしまっていた。真希は左手で目を擦りながら右手だけで目覚まし時計を手に取った。

(もう11時!早く支度なきゃコンサートに間に合わないっ!)

と急いで起き上がってから気が付いた。

(あ、そうか…今日からのゴールデンウィークコンサートには参加出来ないんだった…)

真希はシャワーを浴びる為着替えを用意してから1階に降りた。父と母の姿はもうない。きっと二人して柴咲市民ホールに向かったのだろう。シャワーを浴びる前、真希は必ず自分の右足の傷跡を確認する。そして、その傷跡が今日も残っている事を確認してシャワーを浴びる。

シャワーを浴び終えると真希は結城総合病院へ向かった。家から病院までは上り坂になっている為行きは本来なら15分くらいなのだが、真希の足取りは重く30分程掛かった。遠藤に会いに病院へ行く時はいつもこうだった。

結城総合病院の外観を見上げながら真希は大きくため息をついた。遠藤には会いたい。話をしたい。それは真希の正直な気持ちだ。しかし、遠藤は日に日に弱っている。その姿を見るのが辛くて恐くて遠藤に会いに行く日は憂鬱でもあった。

遠藤の病状はこの5ヶ月で随分と進んでいた。酸素マスクを付け体中チューブだらけで横たわっている。飲食や排泄。一人で寝返りを打つことも困難になってきている。真希は病院近くの花屋さんに寄り花を一輪だけ購入して遠藤のいる病室に向かった。病室に入る前に真希は深呼吸をして出来るだけ笑顔でいるように心がけてから病室のドアを開けた。

「お見舞い来たよ。」

声を掛けても遠藤に反応はない。遠藤に近寄ると遠藤は眠っていた。真希は花瓶の水を新しくしてさっき買ったばかりの花を挿した。しばらくベッドの横に置かれている椅子に座り遠藤の寝顔を見ていると妙が病室に入って来たので真希は立ち上がって挨拶をした。

「こんにちわ。」

「あら。真希ちゃん。来てくれてたの?あ〜。気を使わずに座ってて。」

元気そうな声を出してそう言った妙だが、随分と顔はやつれていて体も少し細くなっていた。

「この人。寝てる時間が多いのよ。今日はもう起きないかもね。」

「そうですか…。」

妙は眠いっている遠藤の顔を覗き込みながら笑顔になって言った。

「真希ちゃんが来てるわよ。若い女の子に寝顔なんて見せちゃって恥ずかしいわよ。」

「体調はどうですか?」

これは遠藤の体調を聞いたのではなく妙の体調について真希は聞いた。

「…大丈夫よ。私まで倒れたら大変だしね。真希ちゃん。プリン食べる?頂き物なんだけど。」

真希はどうしようか悩んだがプリンを頂く事にした。

「あ。座って。座って。」

妙はいつまでも立っている真希にそう言って座らせてから冷蔵庫に入っているプリンを真希の分だけ取り出した。

「いただきます。」

「はいどうぞ。」

妙は真希がプリンを食べる姿をニコニコと見ていた。

「私達ね。子供いないのよ。だから、この人昔から真希ちゃんの事をまるで自分の子供のように話してたのよ。近所の人は私達に真希っていう名前の子供がいるって勘違いしてたんだから。」

妙はニコニコと笑いながらそう言うので真希もつられて笑顔になって答えた。

「そうだったんですね。」

「この人。真希ちゃんと話したがってた。」

妙は真希から遠藤の方に目線を移した。

「話したがってたくせに真希ちゃんが来る時に寝ててどうするの?」

妙はまるで遠藤に聞こえているかのように話している。真希も妙のように遠藤に話しかけた。

「おじいちゃん指揮者?今度来る時はちゃんとお話ししようね。」

真希はあまり長居しても悪いと思い立ち上がった。

「プリンごちそうさまでした。」

「もう帰るの?」

「はい。また来ます。」

「ありがとね。真希ちゃん。今度この人が体調良さそうな時連絡してもいいかな?」

「はい。その時は急いで駆けつけます。」

「ありがとう。面白くない話をするだろうけど、その時は付き合ってあげてね。」

「そんな。楽しみにしてます。」


この日の晩、真希が久しぶりに部屋でサックスの練習をしていると母が部屋にやって来た。

「珍しいわね。サックスの練習をするなんて。」

「たまにしかやってないけどね。」

今の真希はバイオリンの練習だけで精一杯だった。だけど、ギターの練習も出来る時にやっている。サックスの練習の方は本当に久しぶりだ。

「今日。遠藤さんのお見舞いに行ってたの?」

「どうして知ってるの?連絡あった?」

「ええ。さっき妙さんからね。今日ゴールデンウィークコンサートだったのに真希が時間に間に合ったかどうか心配になって連絡くれたみたいね。」

「なんだ…おばさん知ってたんだ…今日のコンサート…」

「去年ぐらいから開催は予定されてたから遠藤さんから聞いてたんじゃない?さすがに真希が参加できなくなったのは知らなかったみたいだけど。」

「…だろうね。で、お母さんは何の用?」

「…別に。ただ、コンサートは明後日まであるから真希も行くのかなぁと思って。」

「…行かないよ。出演できないし。」

「出演する為じゃなくて。楽団に戻りに行かないのかなと思ってさ。」

「楽団に戻る為にあの指揮者に謝れって言いに来たってわけ?」

「…まあ、簡単に言えばそうね。で、どうなの?」

「謝る気はないよ。別に悪い事をしたつもりもないし。てかさ、靴下履いたら私本当に集中できないのお母さんだって知ってるでしょ。」

「ええ。その変なこだわりは知ってるわ。でもそれを直そうとは思わない?」

「変なこだわりじゃない…集中出来ないものは集中出来ないんだからしょうがないでしょ。それに何度も直そうとしたけど無理だったの。」

真希は足下に目を落とした。母もその視線を追って真希の足下を見た。今日も真希は靴下を脱いでサックスを練習している。真希は子供の頃からずっとこうだった。母が言うようなこだわりなんかではない。家でも外でも真希は靴下や靴を履いているとなぜか練習に集中出来なかった。何度か靴下を履いたまま練習をしたが5分と持たなかったし演奏に集中出来ずに初歩的なミスを繰り返した。真希自身もどうしてそうなるのかわかっていないし説明も出来ない。

「せっかく楽団に戻ったのにこのまま顔を出さなかったらまた辞める事になるわよ。」

「…わかってる。」

「わかってるなら…いや、続ける気持ちがあるなら顔を出しなさい。」

「……」

「あなたが自ら戻りたいって言って戻ったんでしょ。」

「…それは…そうだけど…」

(そうだけど…今はおじいちゃん指揮者がいない…)

「じゃあね。お母さんもお父さんも真希が顔を出すの待ってるからね。」

そう言って母は部屋を出ようとしたがすぐに引き返して来て言った。

「だけど…あなたがもう辞めたいと言うなら私達はもう何も言わない。お父さんもそう言ってた。ただ、今度楽団を辞めたらもう二度と戻れない事はわかってるわね?」

真希は母の言葉に驚いた。昔から母も父も真希がバイオリンやサックスを辞めたいと言えば大声で怒り出していた。練習をサボるだけでも怒られた。そんな母や父が辞めたいと言うならもう何も言わないと言った。母からそんな言葉が出てくる日が来るなんて真希は想像もしていなかった。

「…わかってる。」

「そう。じゃあ、ちゃんと考えてね。」

母は今度こそ部屋を出て行った。

(私は……もう辞めたい…おじいちゃん指揮者が指揮をしない楽団なんて私は辞めたいんだ。だけど…このまま辞めるのは中途半端すぎる。私は楽団に戻ってまだ何もやっていない…それが悔しくて情けなくて両親にも悪い…それに…楽団に戻ったのは私の意思だ。自分で決めた事なのに簡単に辞めるなんてダメすぎる…かといって、こんな気持ちのまま続けるのもダメだ…ダメすぎる…だけど、あの指揮者に謝る気もさらさらない。私は謝らなければいけないような事は何もしていない。楽団の規律を乱したとも思っていない。)

真希は部屋の中で立ちすくみ大きくため息をついてから最近ため息つく回数が多くなったと感じた。



2014年5月6日(火)


午後9時。この日も前日も結局真希はゴールデンウィークコンサートには行かなかった。この2日間、真希は自分の部屋に引きこもりバイオリンやギターの練習をしたりテスト勉強をやったりと部屋からほぼ出なかった。だから両親とも顔を合わせていない。楽団を辞めるか続けるかの答えも出していないが、ゴールデンウィークコンサートに顔を出さなかった事によって両親はもう真希が楽団を続ける気はないと思っているだのだろうが直接聞きには来ない。おそらく中間テスト前という事で気を使っているのもあるのだろう。テスト勉強が一段落して次はギターの練習を始めようとした時、雪乃からメールが届いた。

–真希ちゃん体調でも壊したの?私、今日のゴールデンウィークコンサートに行ったんだけど真希ちゃんの姿なかったからどうしたのかと思ってメールしちゃった。あと、遠藤さんの代わりに違う人が指揮してたんだけど…遠藤さんもどうしたの?–

(雪乃はおじいちゃん指揮者が倒れた事を知らなかったのか…)

–雪乃聞いてなかったんだね。遠藤さんは倒れちゃって今、結城総合病院で入院してるの。それで代わりの指揮者がやって来たんだけど、私その人とちょっとモメちゃって今回のコンサートに参加できなくなっちゃった。–

–指揮者とモメたの?せっかく真希ちゃんのコンサートデビューになるはずだったのに!私あの指揮者キライっ!アイツの指揮もキライっ!–

(アイツって…)

真希が笑いながらメールを確認していると雪乃は続けてもう一通メールを送って来た。

–遠藤さんは大丈夫なの?–

真希の笑顔は去り真面目な表情となった。

–大丈夫じゃないかも…今年の1月の段階であと半年もたないって遠藤さんの奥さん言われたみたいだから…–

–もう5ヶ月経ったって事?–

–そう…–

–嘘でしょ。そんな…–

–連絡しなくてごめんね…雪乃知ってると思ってたから。–

–去年の合同コンサート終わってから遠藤さんにピアノのコンクールがあるから半年は練習に専念するって伝えてたの。だから気を使って私に連絡しなかったのかも…–

–そっか。遠藤さんならきっとそうだね。雪乃にはピアノに集中してほしかったんだよ。–

–明日学校帰りにお見舞いに行ってみるよ。–

–そうだね。私も一緒に行くからまた連絡くれない?一昨日病院行ったんだけど、遠藤さん眠ってて話できなかったんだ。–

–わかった。じゃあ、また明日連絡する–



2014年5月7日(水)


(どうしてアイツ学校に来てんのよっ!バカじゃないのっ!)

この日。龍司が赤髪の男を連れて栄女にやって来た。確か赤髪の男の名前を聞いたはずだが真希は覚えていない。二人はバンドを組むとかで真希をギタリストとして誘いにきた。真希はいつか龍司がバンドに戻って来いと言いに来る日がくるじゃないかとそんな予感はしていた。そんな日が来るのを待っていたいたのかもしれない。だけど、それは今じゃない。龍司は変わらないといけない――と真希は思う。

今日の話を聞く限り龍司は変わろうとしている。それは伝わった。だけど、まだ変わってはいない。(それじゃあダメなんだ。あいつは変わらないとダメなんだ。)

今日の龍司との再会は真希にとって嬉しいものだったのか迷惑なものだったのか自分でもよくわからない感情となった。

(私はどうすればいいの?)

(私は今一体何がしたいの?)

真希が学校を出ようとした時、雪乃からメールが届いた。

–結城総合病院の正面入口に今から向かうよ。そこで待ち合わせしよ。–

–わかった。私も今学校を出たところだからすぐに着くと思う。–

学校から遠藤に会いに病院に行くまでの間真希はずっと『私はどうすればいいのか?』『私は一体何がしたいのだろうか?』と繰り返し考えていた。

(答えは簡単だ。私はギターがやりたい…自分でもわかってるんだ…だけどそれは龍司とではない…だから今まで私は龍司と連絡を取らなかったし距離を置いたんだ。)

結城総合病院の正面入口の前には既に茶色い制服を着た雪乃の姿があった。

(病院に行っておじいちゃん指揮者と会うの憂鬱だな…)

遠藤が弱っていく姿をこれ以上見たくないというのが真希の本心だった。ふぅーと真希はため息をついて雪乃に近づいた。真希と会った瞬間から雪乃は今の遠藤の様子を聞いてきた。真希は病院の中に入らずに正面入口の前で雪乃に遠藤の様子を話した。雪乃は真希の話を聞きながら早くも泣き出した。遠藤の病室前に着いた時、真希は雪乃に言った。

「ここにがおじ…じゃなかった。遠藤さんが入院してる病室。」

雪乃は真希に遠藤の様子を聞いた時から今までずっと泣いている。どうやらしばらくは泣き止みそうもない。

「雪乃。遠藤さんの前で泣いてたらダメだよ。」

「ヒック…わ…かってる。」

(本当にわかってる?)

「開けるよ。いい?」

「イッ…いいよ。」

真希は病室のドアを開けそうになったのをやめた。

(全然良くない…)

雪乃は必死に泣くのをこらえている様子だったが目からは涙がこぼれ落ちている。

「先に私が入るから雪乃は涙が止まったら入って来て。」

「ヒック…わかった。」

真希が先に病室に入ると妙が椅子に座ってぼーっと遠藤を見つめていた。遠藤は今日も眠っている。

真希に気が付いた妙は驚いた表情をして真希に言った。

「あら?真希ちゃんどうしたの?この前来たところなのに。」

「今日は雪乃が遠藤さんに会いたいって言って。もうそこにいるんですけど。」

「雪乃…ああ。長谷川雪乃ちゃん?」

「はい。」

「どうして入って来ないの?」

「いや、ちょっと…」

真希が言葉を濁しているとドアが開いて雪乃が涙をポロポロこぼしながら入って来た。真希はその雪乃を見て頭を抱えた。

「ヒック…ごめんなさい。ヒック…私…涙が止まらなくて……ヒック…」

「いいの。いいのよ雪乃ちゃん。さあ、こっちへおいで。」

妙は優しく雪乃にそう言って椅子に座らせた。おじいちゃん指揮者が眠っていて本当に良かった――と真希は思った。

「ごめんなさいね。今日もこの人眠っちゃってて。」

「いいえ。そんな。」

真希が答えると雪乃は遠藤の手を取って話し始めた。

「遠藤さん…ヒック…私に連絡してよ…ヒック…私に気を使って連絡くれなかったんだろうけど…ヒック…寂しかったよ……」

雪乃はこの後もずっと遠藤の手を握りしめたまま泣きながら話し続けていた。雪乃が遠藤に一人で話しかけていると妙が真希が持っていたバイオリンが入ったケースを見つめて言った。

「真希ちゃん。ゴールデンウィークコンサート残念だったね。私てっきり真希ちゃんは出演するものと思ってて、ここにお見舞い来てくれてたでしょ。だからコンサートに間に合ったかどうか心配になっちゃって礼子さんに電話で聞いちゃった。この人が指揮をしてたらもうコンサートデビューはしてるはずなのにね…ごめんなさいね。」

「そんな。謝らないで下さい。私に実力がないだけなので。」

真希がそう答えると妙と同時に雪乃も同じ事を言った。

「そんな事ないわ。」

「そんなことないよっ!」

雪乃の声は妙よりも随分と大声だった。雪乃は真っ赤な目で遠藤の顔を見てまた大声で言った。

「そんなことないよっ。ね?遠藤さんっ…ヒック…」

遠藤の様子に変化はなかったが、

「ほら…ヒック…遠藤さんも真希ちゃんに実力がないわけじゃないって言ってるよ。」

と言った。そして、また雪乃は遠藤の顔を見て話し掛ける。

「あの指揮者がダメなんだよね?…ヒック…ほら…ヒック…あの指揮者がダメなんだって遠藤さんも言ってる。」

(おじいちゃん指揮者はそんな事言わない…)

真希は大声を出す雪乃に、

「雪乃。もう少し小さな声で。ここ病院だから。」

と言うと雪乃は、「…ヒック…ごめん。」と言って大人しくなってまた遠藤に話しかけ始めた。

それから1時間程経った頃真希は雪乃に言った。

「遠藤さんも疲れてるからそろそろ帰ろっか。」

「………うん……ヒック…遠藤さん…また来るね…」

雪乃は病院に入る前から病院を出る時までずっと涙を流し続けていた。


病院で雪乃とは別れて真希は一人家に帰った。自宅の前に着くと真希はドアノブを持ちそのまましばらく動かなかった。

(家に帰るのも憂鬱だ…)

ため息をつきノブを回す。玄関に入ると靴を脱ぐ父の姿があった。ちょうど帰宅したところだったようだ。

(もう少し遅く帰ればよかった…)

父と出くわした真希はそう思った。

「ちゃんと学校で練習して来たのか?」

(おかえりぐらい言えよ。)

父はバイオリンの事しか真希には聞かない。学校はどうだとか勉強の方はどうだとかそんな言葉は一度も父から聞いた事はない。

「ちゃんと練習はしてる。」

「裸足でか?」

「それが子供の頃からの私の演奏の仕方だったのは知ってるでしょ?何回言わせんのよ。今更裸足をやめろと言われても集中できないの。」

「全く…変なこだわりなのか癖なのかは知らんがまずは靴下くらい履いてから練習をしろ。」

真希はリビングには向かわずそのまま三階にある自分の部屋へと向かう。階段を上っている途中父はまた真希に声をかけてきた。

「新しい指揮者なんだが…」

真希は立ち止まり父の顔を見ずに声だけを聞く。

「あいつは優秀な奴なんだ。演奏の技術よりもオーケストラ全員が揃う事を一番に考えている。どれだけ実力のある奴でもあの指揮者はオケを乱す者は嫌う。そういう奴なんだ。」

真希は何も答えずに階段を上がった。

(それなら実力のない私はオケを乱すだけの存在じゃないか)

真希は自分の部屋に入り鞄とバイオリンが入ったケースをベッドに放り投げた。そのまま自分もベッドに倒れ込み天井を見つめてまた同じ考えを繰り返す。

(私はどうすればいいの?)

(私は今一体何がしたいの?)

真希の答えは決まっている。だけど、同じ事ばかり繰り返し考えてしまう。真希はベッドの上に寝転び腕で目を覆い長いため息をついた。



2014年5月8日(木)


(あいつらバカか…)

2日連続龍司と赤髪の男が栄女に侵入して来た。また来るかもしれないなとは思っていたが、まさか2日続けて来るとは思ってもいなかった。

(龍司がバカなのは知ってたけど赤髪もバカだった…)

そして、龍司は真希にBAD BOYを辞めた理由を聞いてきた。

真希はその質問に答える気はなかった。だけど中間テストが終わる来週の日曜日にルナで会う約束を真希から言い出した。もちろんその日にバンドを辞めた理由を伝えるつもりはない。ただ真希は龍司の顔を見ていると久しぶりにルナに行きたいと思った。龍司と一緒だと1年間顔を出していないルナに行きやすくてちょうど良いと思ったし最近は気持ちがふさぎ込んでいる事が多いからたまには誰かと時間を潰すのもいいだろうと真希は考えて龍司と赤髪の男を誘った。

(久しぶりにルナのマスターに会えるのは楽しみだ。)

二人が出て行った後、屋上で一人になった真希はバイオリンをケースから取り出した。靴と靴下を脱いで真希はバイオリンを弾き始めた。



2014年5月18日(日)


中間テストが終わった。朝早くに起きた真希は遠藤の事を思って重いため息をついた。それは清々しい朝には似合わないものだった。雪乃と一緒に遠藤のお見舞いに行ってから真希は病院に顔を出していない。病院に行こうと思えば行けたのだが、真希はどんどん弱っていく遠藤の姿を見るのが恐くて会いに行きたくないと以前より強く思い始めていた。

テストが終わったらお見舞いに行かなければいけない…――この日までそう思いながら日々を送っていた。真希はもう一度清々しい朝には似合わない重いため息をついてから出掛ける支度を始めた。今日は龍司達と会う約束の日だった。

(龍司達と会わないと行けないから病院には行けないな…)

そう思ってから真希は病院に行かない為のいいわけを考えている自分に気が付いてまた重いため息をついた。

拓也と龍司と3人でルナで待ち合わせた。その後、河川敷に行きM Studio前を通りブラーの中にも入った。行く場所。行く店全てが懐かしかった。よくBAD BOYのメンバー4人で行った場所だった。

ブラーではひなという女性と出会い1年振りに赤木とも再会した。去年のエンジェルで龍司達とモメた郷田と西野とも再会した。そして、拓也と龍司と3人でサザンクロスの『声』を演奏した。誰かと一緒にギターを弾くのは1年以上やっていなかった真希は心の底から楽しんでいた。しかし、龍司が言う程拓也の歌声は凄いとは思わなかったし真希の心には響かなかった。

(棒立ちで歌うのは置いといて、確かに橘の歌は上手かった。声に特徴だってある。だけど…正直私は龍司が言ったように橘の歌声を聴いて凄いとは思わなかったし感動もしなかった。この程度のボーカルならそこら辺にいる。いや、むしろ今の橘なら私のボーカルの方がマシだとも思った。ひなって人が橘の歌声を聴いて涙を流しているのが理解出来なかったし橘の声を欲しがっていた意味もわからない。私の耳が悪いのだろうか?橘の声の魅力は私にはわからない。)

演奏後、1年間真希がずっと不思議に思っていた郷田達がなぜプロデビューのかかった大事な日に暴れたのかという真相をやっと知る事ができた。結局は郷田も西野も龍司達もお互いがお互いのバンドを凄いバンドだと思って悔しくなって邪魔をした。ただの嫉妬というくだらない理由だった。


その後、真希は拓也と龍司に路上ライブを見に行く事を告げてから自分の夢を話した。

(私の夢は世界一のギタリストになる事)

バカにされるのが恐くて言えなかった言葉。二人は驚いた顔をしていた。だけど、バカにされる事はなかった。

(最初から言っておけばよかったんだ…)

2人と別れた真希は病院に行こうかと悩みながらバスに乗った。

「花咲坂。次は花咲坂。」

バス停の名前を告げるアナウンスが流れた。ここで降りれば家はすぐそこで結城総合病院へ行くにはまだバスに乗っておかなければいけない。

(どうしよう…お見舞いに行かなくちゃ…)

そう思いつつも真希は花咲坂のバス停でバスを降りた。

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