間奏曲 1―EPISODE Rin―
1
白石凛の父一ノ瀬達也は不動産会社の社長で幼少期の凛は人より裕福で恵まれた生活を送っていた。母朱里は結婚してからは専業主婦となっていたが結婚する以前はクラシックピアニストとして活躍していた。その事から母は凛が物心つく前から知人のピアノ教室に凛を通わせていた。そしてピアノ教室から凛が帰ると今度は母が凛にピアノを教えた。
凛はピアノの音が大好きだった。しかし、ある時、自分には人には聴こえない音が聴こえて来る事に気が付いた。
それは音と言うより音の中に入っている演奏者の感情だったり気持ちだった。
CDやラジオから流れる曲からはそういった感情は凛の耳には届かない。しかし、生の演奏からは人の感情が届いてくる。
その事を父や母に伝えても信じてくれなかった。
『演奏者から感情が伝わる?そんな事あるわけないじゃない!おかしな事を言うのはやめなさいっ!』
母は凛をキツく叱った。父も似た様な感じだったがただ1人ピアノの先生である服部紗季だけは凛のその特殊な耳を信じてくれた。
『人の気持ちが音に入って来るの?面白いね。先生は凛ちゃんが言ってる事を信じるよ。』
凛にとっては人の感情が入って来る事は全然面白くはなかったが信じてくれる人がいる。ただそれだけで良かったし嬉しかった。
凛にとってピアノの発表会は辛い場面だった。いろんな子からいろんな感情が入って来る。凛にとって発表会の場は演奏する場というより無断で人の心に入って来る他人の感情から耐え抜く場だった。だから凛は出来るだけ他人の演奏は聴かないようにしていた。不思議と自分の演奏では自分の感情が入って来ない事だけは救いだった。
ピアノコンサート等にもよく両親に誘われたが凛は泣きわめいて「行かない。」と断り続けていた。しかし、ある時、両親に無理矢理コンサートに連れて行かれた事があった。その時はコンサート本番中にも関わらず凛は「演奏者から感情が聴こえるの。」と泣きわめき沢山の人に迷惑を掛けた。それ以来両親は凛をコンサートに連れて行く事をやめた。
他人の演奏を全く聴こうとしない凛だったがコンクールに出れば必ず1位だった。そんな凛を周りは変わり者の神童と呼んだ。
2
凛が小学4年生になった時、紗季の勧めで初めて大人達も参加するコンクールに出場する事になった。
『凛ちゃん。今日のコンクールには先生も出場するからね。』
『先生のちゃんとした演奏聴くの初めてだから楽しみ。』
『そう言ってもらえて嬉しい。』
『でも、今日は先生とは敵だね。』
『そっかー。そうなるねぇ。でも、このコンクールで優勝する事が昔っからの先生の夢なんだ。だから相手が凛ちゃんでも容赦しないからね。』
『うん。凛もヨーシャしないよ。』
『ま、日本中からピアニストが集まるコンクールだから優勝するのは夢のまた夢だけどね。あ、そうだ!凛ちゃんより3つ年上だけど中学1年生で凄い子がいるのよ。長谷川雪乃って名前の子なんだけど、その子去年のコンクールで大人達を押しのけて優勝したの。小学6年生でこのコンクール優勝は最年少記録なの。今年もその子出場するみたい。』
『凄いね。凛も優勝したいな〜。』
このコンクールで優勝する事が昔からの夢だったと言っていた紗季よりも先に凛はこのコンクールであっさりと優勝し、歴代最年少記録を更新した。
表彰式で去年優勝した長谷川雪乃がわんわん泣いていたのが印象的だった。
『やっぱり凛ちゃんは凄いね。どんなに努力しても先生は優勝出来なかったのに凛ちゃんは初めての出場であっさり優勝しちゃうんだから…去年優勝した天才や大人達を押しのけてだもん凄いよ。みんなが言うように凛ちゃんは神童だ。』
紗季は自分が優勝したかのように嬉しそうだったが凛の一言で先生の表情は凍りついた。
『先生は子供がいる男の人と付き合っているの?』
生の演奏を聴けば人の感情が入って来る凛を面白いと言ってくれた紗季だからこそ凛は無邪気に何の悪気もなく先生の演奏から入って来た感情を伝えてしまった。
コンクールを見に来ていた父と紗季が凛と距離をとって会話をしている。その間、母が凛の相手をしていた。普通なら父と紗季の会話の内容を聞く事は出来ない距離だが耳の良い凛には2人の会話が聞こえていた。
『気持ち悪い子。』と紗季が凛の事をそう言っていたのが聞こえて凛は泣き出した。
『どうしたの凛?』
急に泣き出した凛を心配して母が聞いてくる。凛は泣きながら紗季の方を指差し言った。
『今、先生が私を気持ち悪い子だって言った。』
離れた所にいる紗季を見つめながら母が言った。
『この距離で先生とお父さんの会話が聞こえたって言うの?』
『うんっ!聞こえる。今だって聞こえる。』
『もういいかげんにしてっ!この距離で人の声が聞こえるわけないじゃないっ!』
『ホントだもんっ!ウソじゃないもんっ!今、お父さんと先生は明日凛達に内緒で会う約束をしてる!お父さんと先生は今まで何回も凛達に内緒で2人で会ってる!』
紗季は不倫をしていた。その相手は凛の父、達也だった。
不倫の意味も知らなかったこの時の凛は父が母や自分よりも紗季と仲良くしている事をやめさせたかった。ただ、母と自分を先生よりも愛して欲しい。そう思って伝えたつもりだった。
『どうして凛はそう思うの?』
泣きながら話す凛に目線を合わせてしゃがみ込み母は聞いた。
『先生の演奏を聴いてたら伝わって来たの。大好きな人がいるけどその人は結婚していて子供もいるって。』
『そんな気持ちが伝わるはずがないでしょ。』
『本当だもん。本当に伝わってきたんだもんっ!』
『それが本当だとして、どうして相手がお父さんだって思ったの?』
『だから今2人で話してる会話が聞こえて来たの。今度いつ家に来てくれるのって先生がさっき言ってた。お父さんは明日行くよって言ってたもん。』
母は少し距離のある場所にいる父と紗季を見つめながらため息をついた。きっとこの時の母は、この距離で声が聞こえるわけがない。とさっき言葉にした事を頭に思い浮かべていたのだろう。そして、凛の言葉も信じていなかったはずだ。しかし、この凛の言葉で母は父と紗季の関係に疑いを持ち始めた事も事実だった。
3
コンクールで優勝してからすぐ凛は別のピアノ教室に通った。今まで通っていたピアノ教室を辞めた理由はただ一つ。紗季と顔を合わせたくなかったからだ。
ピアノ教室を辞めたいと凛が伝えた時、母はピアノコンクールで優勝したのだから今のまま継続して続けるべきだと猛反対をした。しかし、父がもっと優秀な先生がいる教室に通った方が凛の為だと言って母をなんとか説得してくれた。
ピアノ教室を辞める時、紗季は笑顔で凛に言った。
「今度通う教室にはコンクールで賞を取った人達ばかりいる大きな教室なんだよね?先生もっと凛ちゃんと一緒にいたかったなぁ。でも、私みたいな人に教わるより優秀な先生方に教わった方が凛ちゃんの為だもんね。」
凛は紗季の言葉を無視した。凛は紗季ともっと一緒にいたかったとは思わなかったし紗季もそうは思っていない事がわかったからだ。その笑顔の裏にある本当の紗季の姿を凛はもう既に知っている。
(この人の笑顔と言葉は全部ウソだ。この人はウソで出来てるんだ。)
凛は紗季の事をもう信頼出来なくなっていた。しかし、紗季が優秀な先生ではなかったかと言うと決してそうではない。今回凛が優勝したピアノコンクールは年齢層も幅広い全国大会だった。おまけに地区予選もあってその予選を通過すること自体が難しいと言われていた。そのコンクールの本選に何度も出場出来るだけの実力が紗季にはあった。
紗季はこのコンクールで優勝する事が昔からの夢だと言っていた。その昔からの夢を教え子に簡単に叶えられて言葉には出さないが相当悔しかったに違いない。凛の前では感情をあらわにする事はなかったが影では凛の悪口を言っているのだろうと容易に想像をする事が出来た。もしかすると父はその悪口を紗季から直接聞いていて、これ以上娘と会わせれば紗季が何を仕出かすかわからないという不安があって別のピアノ教室に通う事をすすめたのかもしれない。あるいは父はただ不倫している相手とそれに何故か気付いた凛をこれ以上会わせられないと考えただけだったのかもしれない。その両方を父は考えていたのかもしれないが、それは凛の勝手な想像で実際は父がどう考えていたのかは知る由もない。
*
演奏者の感情が入って来るという凛の言葉を信じていなかった母は凛が小学5年生になった時、一つの実験をした。
その実験とは母が自分の演奏を凛に聴かせてどんな感情が伝わったのかを当てるという内容だった。
母の演奏を聴き、凛がその演奏から伝わって来た感情を伝えた時、母は驚きの表情を凛に見せた。元々ピアノを弾いていなかった母だが、この日以来母は凛の前ではピアノどころか鼻歌すら一切歌わなくなった。凛の特殊な能力を信じた瞬間であり、父が不倫をしている事を確信した瞬間でもあり、凛に恐怖を覚えた瞬間でもあったのかもしれない。
『凛?本当に今の演奏でお母さんの感情が入って来たの?』
『うん。入って来たよ。』
『お母さん。どんな事を思ってピアノを演奏してたか教えてくれる?』
『お母さん…お父さんの会社潰れちゃうの?』
母が目を見開いて驚いた表情を見せた。
この時、凛には聞かされていなかった事だったが父の会社の経営は傾いていた。
そして、凛が小学6年生になった頃、父の会社は倒産した。裕福だった生活も一変し、凛が小学校を卒業と同時に母は借金を抱え不倫までしていた父と離婚をした。離婚してから凛は父とは一度も会っておらず、今どこで何をしているのかも知らない。
父と母が離婚してからの凛は小学4年生の時のピアノコンクールの事をよく思い出す。
(あの時、紗季先生の演奏を聴かなければよかった。そうしたらお父さんと不倫している事も私は知らずにお母さんに伝える事もなかった。そして、もしかしたらお母さんとお父さんは今でも離婚していなかったかもしれない…)
小学4年生のコンクールの地区予選。凛は他の人が演奏する時、感情が入って来る事に耐えられなくて自分の演奏時間ぎりぎりまで会場の外にいて自分の演奏が終るとまた会場を出た。だから、地区予選の時に紗季の演奏は聴いておらず感情を知る事はなかった。それなのに凛は全国大会本選になって出来るだけ多くの出場者の演奏を聴こうと思ってしまった。全員の演奏を聴けなかったとしても紗季の演奏だけは聴いておきたい。そう思ってしまった。
(予選の時のように自分の演奏時間以外は会場を出れば良かったんだ……だけど、それをしていたらあの長谷川雪乃の演奏を聴く事はなかったのか…
どっちみち…お父さんと先生の会話を聞いて2人の関係を知っていたのかな?)
4
中学生となった凛は名字をどうするか母と相談した結果、一ノ瀬のまま変更しない事に決めた。名字を変えない事で母は気持ちのリセットがしにくいのではないかと心配したが、おそらく母は凛の学生生活で少しでも支障がでないようにする為に名字の変更をしない事を決めたのだろうと凛は思っている。
そして、凛と母はおんぼろのアパートに引っ越した。ピアノ教室に習いに行くお金の余裕などなく凛はピアノを辞めた。母は昼も夜も働きに出て凛は狭いアパートの一室でいつも一人ぼっちだった。父と離婚してから母の凛に対する態度は少しずつ変わっていった。顔を合わせても母から凛に話し掛けて来る事はなくなり凛から話し掛けてやっと一言二言会話をしてくれるくらいだった。そして、何より母からは笑顔が消えた。
母との関係がどうしてこうなってしまったのか?きっかけはなんだったのか?凛にはわからない。ただ、母のピアノ演奏を聴いたあの日から少しずつ母の様子は変わっていった気がする。
あの時、凛が正直に母から伝わった感情を言ってしまったのが悪かったのだと凛は後悔している。
気持ち悪い子――母も紗季と同じ様に凛の事をそう思っている。
(いや、それどころかお母さんはきっと私に恐怖を抱いている。もしかしたら、話し声ですら感情を読み取れるんじゃないかと思っているのかもしれない。だから…私と話しをしてくれないのかもしれない……)
5
2012年11月25日(日)
この日は凛が小学4年生から去年の6年生までの3年連続で優勝したコンクールの開催日だった。今年は出場できないそのコンクールに足を運んだのには理由があった。
(あの人の演奏をもう一度聴きたい。)
凛は雪乃の演奏が忘れられなかった。凛が出場した過去3大会全てで雪乃は2位だった。表彰式に上がる度、毎年雪乃は2位という結果が悔しくてわんわんと泣いていた。去年、彼女はもう中学3年生だったというのに人目も気にせずわんわんと泣く姿が凛には滑稽に見えた。
コンクールで人の演奏を聴かなかった凛が小学4年生の時に聴いた雪乃の演奏に感動を覚えて雪乃の演奏だけはその後の大会でも聴くようにしていた。
雪乃の演奏は他の誰とも違ったし聴いていて気持ちが楽しくなれた。そして、何よりこの長谷川雪乃という人から伝わる感情はピアノの音色そのままだった事に凛は一番の驚いていた。つまり、凛は雪乃の演奏から感情が伝わって来なかったのだ。ただただ純粋に雪乃が奏でる音色だけが耳に聴こえた。
(長谷川雪乃の演奏は純粋で無垢だ。そして、この人の演奏には何かがある。私にはない何かが。
長谷川雪乃がコンクールで私に勝てなかった理由はただ一つ。楽譜通りに演奏しなかったからだ。実力や才能だけなら私は長谷川雪乃の足元にも及ばない)
雪乃の演奏が忘れられなくて去年も雪乃の演奏を聴き、そして、大会に出場しない今年もまた凛は雪乃の演奏を聴きに来た。
雪乃以外のコンクール出場者の演奏を聴くのは凛にとって本当に辛いものだったが雪乃の登場でその辛さも吹き飛んだ。しかし、今回の雪乃の演奏は今まで聴いた演奏とは少し違った。と言っても演奏自体には問題は全くなかった。それどころか何かに取り憑かれたかのような鬼気迫る演奏でピアノの腕を上げている印象を受けた。
(凄い…だけど、今までと少し違う…感情が…伝わって来る…あの人は悔しがっている?どうして?)
雪乃は凛のいないコンクールで4年振りの優勝を果たした。表彰式で見せた雪乃の表情は笑顔ではなくまた涙だった。
(嬉し涙??私には悲し涙のように見える…)
コンクール終了後、凛は思い切って雪乃の元へと向かった。初対面ではないが話した事がない。表彰式にいなかった自分を雪乃が覚えているかもわからなかったが凛は雪乃と話がしたくて楽屋に向かった。
楽屋の前に着くとわんわんと泣く雪乃の声が聞こえて来た。
「どうして?どうして小学生は今年来なかったの?」
雪乃はテーブルに顔を伏せながら両親にそう何度も聞いていた。そして、雪乃は近くにいる両親にも聞こえない程の小声で「連覇しすぎてこのコンクールに飽きちゃったのかなぁ…」とぼそりと言ったが少し離れた所にいる凛にはその言葉が聞こえていた。
「もしかして…私の事を言ってるの?」
凛は小声で言った。もしかしたら雪乃も耳が良くてこの距離でもこの小声が聞こえるかもしれないと思ったからだ。
凛が雪乃を見つめていると雪乃はテーブルに伏せていた顔を急にむくっと起き上がらせて凛のいる方を見た。そして、凛の顔を確認すると満面の笑みを浮かべて言った。
「小学生!来てたの?」
「えっ?あ、あの…私…今年から中学生です…」
「そう?名前、凛ちゃんだよね。一ノ瀬凛ちゃん。そうだよね?」
「はい。長谷川雪乃さんですよね?」
「そうだよ。雪乃。」
ここでようやく雪乃は立ち上がり凛がいる方へ歩いて来た。雪乃の両親には凛の声は届いていなかったが雪乃には凛の声がちゃんと届いていた。
(私わざと小声で話してたのにちゃんと聞こえてた。やっぱりこの人も耳が良いんだ。)
「凛ちゃん。どうして今日コンクールに参加しなかったの!?」
「私…家の事情でピアノ続けられなくなったんです…」
「え?そう…詳しく聞きたいな。そうだ。近くにオシャレなカフェがあったからそこに行こう。時間大丈夫?」
「あ、時間は大丈夫です。」
「じゃ、行こう!行こう!」
雪乃が言うようにオシャレなカフェはすぐ近くにあった。凛と雪乃はその店に入りホットココアを注文した。雪乃はふぅふぅと声に出してホットココアを冷ましひと口啜ったがどうやら熱かったらしく、ひっ。と声を上げた。その様子を見て凛はころころと笑った。
「家の事情って?」
雪乃は直球で質問をしてきたが凛にとってはその方が答えやすかった。
「お父さんの会社が倒産したり両親が離婚したりで習いに行くお金もないしピアノ続けられなくなっちゃって…それで今日のコンクールにも参加出来なかったんです。人が演奏しているのを聴くのは本当は嫌いなんですけど雪乃さんの演奏が忘れられなくて今日は雪乃さんの演奏を聴くのが目的で来たんです。」
「雪乃っ!」
「えっ?」
「雪乃さんじゃなくて雪乃っ!」
「雪乃!?」
「そう。」と言って雪乃は笑顔になった。凛は首を捻って「雪乃さんじゃなくって雪乃って呼べって事ですか?」と聞いた。すると雪乃はニコニコと微笑みながら「そだよ。」と答えた。
「このままピアノを辞めるのはもったいないなぁ。凛ちゃんすっごいピアノ上手だし。」
「私は雪乃さん程上手じゃないです。」
雪乃は頬を膨らませて「雪乃!」と言った。
「あ、雪乃。」と凛が言い直すと雪乃は「そう!」と言ってまたニコニコ微笑んだ。
(少し話してわかったけど…この人…変わり者なんだ…)
「でも私は凛ちゃんに1度も勝てなかった。凛ちゃんの方が凄い証拠だよ。」
「それは…雪乃さんが楽譜通り演奏してなかったからですよ。楽譜通り演奏すれば私はコンクールで勝てなかった。」
「もうっ!雪乃っ!」
「あ…雪乃。」
「そう!雪乃!」
なぜだか凛は、すみません。と謝った。
「もうピアノは辞めちゃうの?」
「…はい。仕方ないです。それに…私、コンクールは苦手で…」
「コンクール苦手なの?どうして?緊張するの?それなら私もそうだよ。だから演奏前はいつも魔法の言葉を唱えてるよ。魔法の言葉教えてあげよっか?」
「…いや、いいです。私がコンクール苦手なのは人の演奏を聴くと感情が入って来るからなんです…」
「そっかぁ〜。感情入って来るかぁ〜。今日の私の演奏はどんな感情が入って来たの?」
「えっ?」
凛はこの時、大層驚いていた。今まで演奏を聴いたら感情が入って来ると伝えてこんなにあっさりとその言葉を信じてくれる人に出会った事がなかったからだ。
「だからぁ。私の感情。」
「演奏を聴いたら感情が伝わる事、信じてくれるんですか?」
「だってぇ〜。今凛ちゃんがそう言ったから。」
「もしかして…雪乃さんも演奏を聴いたら感情が伝わって来るんですか?」
「雪乃っ!」
「雪乃。」
「私は音は音として聴こえるよ。感情までは全然伝わんない。」
「そっか…雪乃さんも感情が伝わる人かと思っちゃいました…」
「雪乃っ!!」
「雪乃。」
「で?私の感情は何て言ってたの?」
「去年まで雪乃さ…」
雪乃は肘を付き凛を睨んでいるが、3つも年上の人の名前を呼び捨てにする事は凛には抵抗があったので早口で話した。
「去年まで雪乃さんの演奏を聴いても何の感情も伝わって来ませんでした。ただ純粋に雪乃さんの音色は音として聴こえて来てた。それが普通の人なら当たり前の事なんだけど。私が生の演奏を聴いて音と認識したのは雪乃さんの演奏が初めてで驚きました。」
「もぉぉぉぉ〜!!!雪乃!雪乃!!雪乃ぉ!!!」
雪乃はテーブルに手を置き立ち上がりながら叫んだ。周りのお客さん達が驚いてこちらを見てくるので凛が代わりに謝った。そして、凛は雪乃が呼び捨てに呼ばせようとする言葉を無視する事に決めた。
「だけど、今日の雪乃さんからは感情が伝わって来ました。」
「雪乃。」
雪乃はもう冷め始めたホットココアを飲んだ。
「雪乃さんは演奏中何故か悔しがっていました。」
と凛が言うと雪乃は大変驚いて飲んでいたホットココアを全部カップに戻した。
「すっごぉーい!当たってる!凛ちゃんすっごいね!そう!私悔しかったの!3連覇してる小学生が今年はコンクールに出場してなくてほんっっっと悔しかったの!でも、雪乃にさんはいらないよ。」
「え?私が出場しなかったから悔しがってたんですか!?」
「そうだよ。でも、小学生…じゃない凛ちゃんがピアノを辞めるのはもっと悔しい。もったいないよ。」
「…そう言ってもらえて光栄です。でも…仕方ないので…」
「そんな特別な耳を持っているのにね。」
「耳?」
「そう。人より耳がいいから感情が伝わって来るんだよ。」
「耳がいいからなら雪乃さんも。」
「雪乃。」
「…そう。雪乃さんも感情が伝わってくるはずですよね?」
「雪乃っ。凛ちゃんは私なんかよりもっと耳が良いんだよ。だから。」
「本当に耳がいいからなんですかね…」
「耳だよ。耳。絶対耳がいいから人の感情まで聞こえてくるんだよ。でも、どうしたらピアノ続けられるんだろう?」
雪乃は腕を組んだので目だけを上に上げた。そしてすぐに答えを出した。
「あ、こうしよう!ピアノを続けたいんなら私の家に来たらいいよ。私がピアノを教えてあげる。もちろんお金はいらない。全くピアノを触らなくなるよりいいでしょ。」
(今本当に考えてた?)
凛は余りにも早い答えに驚いた。
「そ、そんな。私にピアノを教える暇なんてないでしょ。人にピアノを教えている暇があるなら雪乃さんは練習したいはずです。私が雪乃さんの立場なら人にピアノなんて教えずに夢を追いかける為に時間を使います。」
「雪乃。雪乃。」
「…そう。雪乃。雪乃。」
「凛ちゃん?私の夢はピアノの先生になる事なんだよ。」
凛はその言葉にどうしてこんなに才能がある人がピアノの先生が夢なんだろうと驚いた。
「どうして?雪乃さんなら有名なピアニストになれるはず。なのにどうしてピアノの先生になる事が夢なんですか?」
「う〜ん。わかんない。」
(まったく…この人は何を考えてるんだろう…)
「あ、雪乃っ!」
「……そう。雪乃…」
「どうする?私にピアノ教わりたい?」
雪乃のその質問に凛は何の迷いもなく、教わりたいです。と答えた。
「よしっ!わかった。じゃ、今日から凛は私の弟子ね。」
「…弟子…??」
「そう。私は凛の師匠だからどんな時も師匠って呼んでよ。呼び捨てで呼んだら承知しないんだからね。」
(…今までさんざん呼び捨てで呼ばそうとしていたのは何だったの…?)
6
2013年9月29日(日)
雪乃に弟子入りしてから1年以上が過ぎた。最初は雪乃の事を先生と呼んでいた凛だが雪乃は先生と呼ばれるのが嫌だったらしく「先生はやめて、私の事は師匠と呼んで。」と何度も言われた結果、凛は雪乃の事を師匠と呼ぶ様になった。この1年の間に凛と雪乃は本当の姉妹のような関係になった。
(きっと私の方が師匠よりしっかりしていると思うから私の方が姉だと思う)
凛は雪乃にピアノを教わり始めてから雪乃の弾き方を真似た。しかし、その弾き方を見た雪乃は、
「凛ちゃん!そんな弾き方してたらコンクールで賞なんて取れないよっ!もっとちゃんと弾かなきゃ!」
とびっくりするような事を言った。
「私、コンクールにはもう出る気はないんです。それにこの弾き方の方がピアノを弾いてて楽しいし。」
と凛は告げ本当はピアノよりシンセサザーをやりたかったのだと言った。すると次の日には雪乃の家には真新しいシンセサイザーが置かれていた。他にも雪乃が絶対使う事のない高級なDJセット一式を買い揃えていた。
未だに雪乃がそれらを使っている姿を見た事がない。きっと雪乃は凛の為に買い揃えてくれたのだ。
凛は毎日の様に雪乃の家に入り浸っていたが雪乃の父友一も母蘭も嫌な顔一つする事なく凛を可愛がってくれた。しかし、凛には一つだけ雪乃の両親に困っている事がある。
凛は無類のチョコレート好きで昼食はいつもチョコレートを食べている。それが凛にとっては当たり前の事だったのだが友一も蘭もそれをやめるように言って来る。凛は、子供の頃からそうだったから良いの。と言い続けているがそれでも2人は体に悪いからとやめる様に言ってくる。昼飯としてではなく普通にチョコレートを手に持っているだけで取り上げようとするから凛は雪乃の家ではお昼以外はチョコレートを食べない様にしている。
毎週日曜日は朝から晩まで母は働いていた為、凛の食事代として1000円だけを置いて出て行く。出来るだけ凛はそのお金を使わずに貯めていた。と言っても凛は食には無頓着なので昼食は板チョコ2つ。夕食もおにぎり2個で満足していたので無理してお金を使わなかったわけではない。お金を貯めていたその理由は凛が大好きなバンド、エルヴァンのライブを見に行く為だった。物心ついた時からステキな音楽を作るエルヴァンが凛は好きだった。しかし、一度もライブに足を運んだ事がなかった。エルヴァンはどんな事を思って演奏しているのか凛はずっと昔から気になっていた。
(きっと素晴らしい音楽を作り出す人達だからファンを楽しませようと考えているはず。あの人達はどんなステキな事を考えて演奏するのだろう?生の演奏を聴けばきっともっと好きになる。)
凛はそう思っていた。そして、凛は少しずつお金を貯めてエルヴァンのドームツアーのチケットをなんとか手に入れた。
エルヴァンのライブ当日、凛は朝からそわそわドキドキしていた。
(あ〜。楽しみだなぁ。)
期待が大きかった分、エルヴァンの生の演奏を聴いた時、凛はショックが大きかった。
エルヴァンの演奏自体は素晴らしかった。だけど、演奏から届いて来るエルヴァンの4人の感情はお金や女の子の事ばかりでファンを楽しませようなんて感情は一切なかった。さっさと終って女性と遊びたい。早く飲みに行きたい。そんな感情ばかりが伝わって来て凛は幻滅した。
(うるさい!うるさい!)
ライブ中、凛は容赦なく入って来る4人の獣達の感情を聞き続け気分が悪くなってその場から逃げ出した。この日から凛は大好きだったエルヴァンを大嫌いになった。
(生の演奏を聴くなんてやめとけばよかった…私のこの耳は人の悪い所を知ってしまう最悪な能力だ…こんな能力…いらないよ…私は……普通がいいよ…)
7
2014年4月21日(月)
朝から中学校ではQueenという名の動画配信者の話題で持ち切りだった。凛はスマホを持っていないので実際その動画を見た事がなかったし興味もなかった。しかし、Queenの新曲がどうだとか2ヶ月振りの動画配信だとか同級生達は朝からQueenの話題で持ち切りだった。話題に付いていけない凛は結衣に頼んでQueenの動画を見せてもらう事にした。
動画の中に映し出された人物は首から上が映っていない。男性か女性か性別もわからないし日本人かどうかもわからない。服装もダボダボとしたものを着ている為体格すらわからない。全身黒ずくめで胡座をかいてギターを弾くその人物の曲を聴いて凛は食い入るように動画を見た。
「凛ちゃん今までQueenの動画見た事ないの?」
「…うん。」
動画の曲に夢中で凛は結衣の言葉はあまり入ってこなかった。
「動画からは感情入ってこないのよね?」
「……うん。」
親友の結衣だけは凛の特殊な能力の事を知っている。同級生で結衣以外にこの能力の事を話そうと考えたことはない。気持ち悪がられるのは目に見えてわかるからだ。
「あ、動画終ったよ結衣。次の動画見せて。」
凛は結衣のスマホを振りながらお願いをした。
「ちょっと凛。スマホの操作もできないのぉ。」
「いいから。早く。」
結衣が次の動画の再生を押すと「叫び」という名のタイトルが現れた。
「あ、日本語だ。この人日本人なの?」
「かもね。でも違うかも知んない。外国の人が日本語タイトルを付けた可能性もあるし。それに今までずっと英語のタイトルばかりだったし。」
「そっかぁ〜。日本人だったら良いのになぁ。」
「日本人だったら凛はどうするつもりよ。」
「こんなに良い曲作る人なら聴きに行きたいと思っただけだよ。私はギターの事はよくわかんないけど上手だってのはわかる。でも、何より曲がいいね。綺麗な曲もあるしカッコいい曲もある。私好きだなぁ。」
「エヴァより?」
結衣にエルヴァンの名前を出されて凛は去年行ったエルヴァンのライブを思い出し現実に引き戻された。
(どんなに良い曲を聴いても私にはその人達の曲より感情が伝わって来る…実際にこのQueenの演奏を生で聴けば幻滅するような感情が入って来るかもしれない…)
「エルヴァンは…」
「凛エヴァ大好きだったからそれより好きって事はないかー。てかさ、次の日曜日ライブ見に行くの付き合ってくれない?」
ライブと聞いて凛は嫌だなと思った。
「2つ年上のバイトのサクラちゃんも誘ってるんだけど凛にも付き合ってほしいの。あと一人くらいテキトーに誘おうとは思ってるんだけど。」
「それだけいれば別に私が行かなくても…」
「龍ちゃんのバンドのライブなの。出来るだけ人を集めてあげたいのっ!だからお願い。ね?」
「結衣の憧れの先輩?」
「そう!だからお願い!」
「…しょうがない。わかったよ。」
「やっりぃ〜!あ、新治郎にライブ代は出してもらうから凛はその日お金持って来なくていいからね。」
結衣は凛の家庭の事情を知っているしお金がない事も知っている。だからおそらく結衣自身がその日の凛のライブ代を出してくれるのだろうが凛に気を使わせない為に新治郎の名前を出したのだろう。
「…助かるよ。ありがと結衣ちゃん。」
「こちらこそ。助かるよぉ〜。」
8
2014年4月27日(日)
BAD BOYという名のこのバンドのライブはヒドいものだった。練習がされていないせいか3人の演奏はバラバラでごちゃごちゃしていた。
(あのボーカルの人はギターからも歌声からも怒りしか伝わって来ない…)
45分間のファーストステージがやっと終った。この45分間は長く退屈な時間で何時間にも感じた。凛が一人で見に来ているならライブ開始5分くらいで帰っていた所だ。しかし、結衣の事を思うと帰りたいと言い出せなかった。
(はぁ…まだこの演奏を聴き続けないといけないのか…結衣の憧れの先輩も来ていないみたいだし…ここにいる意味あるのかな…)
そんな事を思っている間にセカンドステージが始まった。凛は大きなため息をついた。
(何時間にも感じるであろう45分間が始まっちゃった…)
ボーカルの赤木圭祐の感情は凄まじい。
(何をそんなに怒っているのだろう?上手く行かない人生?この世界?まるでこの人は世界の全てに怒り狂っている)
凛には赤木の怒りの感情は理解出来ないものだったが、そんな事はお構いなしに赤木の激しい感情は容赦なく凛に届いて来る。
(もうこんな場所にいたくない…)
そう思った時、赤木は歌うのを止めた。赤木の視線を追うといつからそこいたのか金髪の男の姿が結衣達の席のすぐ近くにあった。不穏な空気を察知して次々とお客さんが店を出て行く中、結衣がその男を龍ちゃんと呼び声を掛けている。龍ちゃんと結衣に呼ばれた男は赤木を睨みつけ結衣の言葉には全く反応しなかった。
(この人が結衣が恋する神崎龍司さんか)
龍司の前に結衣が立ちはだかり暴れ出そうとしているのを止めているが、この調子では収まりそうもない。凛も席を立とうとしたその時、先ほど少し話したこの店でバイトをしている拓也がステージに上がり素早くマイクを2本取り両手でマイクを持ちながらステージの真ん中で仁王立ちになり俯いた。そして、一本のマイクを龍司に放り渡し2人はラップを始めた。
拓也の声は低音の効いた激しく攻撃的な声だった。その声はまるで悪魔の声だと凛は感じた。
拓也の感情は龍司と共にバンドを結成したい想いで溢れていた。そして、龍司の感情も迷いがありながらも拓也と共にバンドを結成したいという感情が溢れていた。
しばらく2人のラップが続いた後、拓也はとても美しい女性の声を出した。その女性の声は無理矢理裏声を使って出すような感じでは全くなく女性の声そのものだった。凛はその声を聞いた途端、体がゾクゾクと震え出した。
(なんだかわかんないけど…私はステキなバンドがこの世に誕生する貴重な瞬間を見た気がする…)
9
2014年5月18日(日)
今年に入ってから母はおんぼろのアパートだというのに白石という人をよく家に連れて来るようになった。そして、月に1度は3人で食事を食べに出掛けるようになった。食べに行く場所はいつも高級店で申し訳ないと断っているが白石は、独り身が長いからお金には困ってないんだ。と言って支払いをしてくれる。
普段、母は凛に話し掛けても来ないのに白石と会う時だけは機嫌良く凛に話掛けて来る。
(どうしてあの人に会う時だけ話し掛けてくるの?)
疑問を覚えながらも凛は母が話掛けて来てくれる事が嬉しかった。
この日も3人でホテルのランチを食べに行く予定だった。朝から母は機嫌が良い。家を出る前に「この服似合ってる?」「忘れ物はない?」「ハンカチは持った?」と他愛もない会話をして来る。普段ではあり得ない事だ。母は白石と会う日以外はそんな言葉を凛には掛けて来ないのだから。それでも凛は母に話し掛けてもらえる事が嬉しかった。白石と会う日だけは母は元の母に戻ってくれた。
食事中、白石は母より凛ばかりを見ているような気がする。なんとなく凛は母がこの人と再婚を考えているのだろうと思った。そして、白石が母より凛を見て来る理由は凛に気に入られようとしているからだと思った。
案の定、白石は食事をする手を止めナイフとフォークを置いて改まった様子で言った。
「凛ちゃん?朱里さんと結婚しようと思ってるんだ。」
(再婚するんだろうなって思った瞬間に言われてしまった…)
「凛。白石さんがお父さんになるのよ。凛ちゃんお父さんがいないから寂しかったよね?お母さんと2人きりじゃ大好きなピアノも習いに行けないし、あなたの好きなお洋服も買えなかったよね。寂しい思い、辛い思い、一杯させちゃってごめんね。白石さんも凛には好きな事が出来る環境を作るって仰って下さっているのよ。」
「おじさんもギターをやっているからね。大きな家に引っ越してピアノを買って、それで今度一緒にセッションしよう。」
「あらまぁ。良かったわね。凛。」
2人が笑顔で勝手な事ばかり言う言葉を聞きながら凛はスカートを両手で握りしめた。
(白石さんは悪い人には思えない…だけど、正直、私は白石さんが苦手だ。だけど、白石さんと会う日だけはお母さんは元のお母さんに戻る…だけど…出来る事ならお母さんと2人で過ごしたい…本当は再婚なんてしてほしくない…だけど……)
「凛ちゃん?おじさんとお母さんの結婚。承知してくれるかな?」
凛は先ほどより強くスカートを握りしめ俯いた。そして、ゆっくりと頷いた。白石は凛が頷く姿を確認して、ありがとう。と礼を述べた。
「あら、凛ったら嬉しくって泣いているわ…」
「もうこれからは寂しくないからね。家族3人で力を合わせていこうね。」
(…本当は嫌だけど…お母さんが再婚をして元のお話好きのお母さんに戻るのなら…私はその方がいい…)
昼食後、凛は寄る所があると言って2人と別れた。寄る所など本当はなかったが凛は嘘を付いた。白石と母を2人っきりにさせてあげたかったのもあったし凛が2人と一緒にいるのが辛かったという理由もあった。行く宛のない凛は前に結衣達と一緒に行ったライブハウス『ブラー』に行こうと思った。
(誰でもいい。誰かの演奏を聴けば今の気持ちも少しは楽になるかもしれない…もし、その反対に嫌な感情が入って来たとしても、それはそれで別にいい…お母さんやあの人の事を考える時間が少しでも減って少しの間でも忘れられるならそっちの方がいい)
ブラーが開店するまでまだ時間があった。とりあえず時間を潰す為に凛はルナに向かった。ルナでは結衣がバイトをしていて凛が座ったカウンター席の横にはこの前ブラーのライブで会ったみなみが母親と仲良さそうに座っていた。買い物帰りに2人で寄ったらしい。
(いいなぁ。私もお母さんと2人っきりでまた買い物とか行きたいな…)
午後6時になった頃、ルナで唯一窓があるテーブル席で凄く大きな音が鳴った。びっくりして凛がテーブル席の方を見ると、拓也が足を擦っていた。どうやらテーブル席に足をぶつけたらしい。凛はその音が鳴るまで気付いていなかったが凛が店に入るよりも先に拓也と龍司はずっとそこにいて眠っていたようだ。痛そうにしている拓也の表情を見て凛だけではなく、みなみやみなみのお母さんまで拓也の方を見てクスクスと笑っていた。
(あの人の歌声…私、好きだなぁ)
その後、しばらくしてから凛もルナを出てブラーに向かった。
今日のライブは田丸という人でウッドベースを弾きながら歌うソロライブだった。
田丸のライブは落ち着いた雰囲気で歌う曲は優しかった。
(この人の曲も私好きだなぁ。でも、何がそんなに悲しいんだろう?何がそんなに不安で恐いのだろう?)
田丸からは悲しみや不安や恐怖という感情が入って来る。気が付けばその事を凛は拓也に話していた。限られた人にしか言った事がない凛の能力を簡単に拓也に話したのは拓也なら田丸の悲しみや不安や恐怖を取り除いてあげられるような気がしたからだ。
(どうかあの田丸という人を救ってあげてほしい)
10
2014年7月11日(金)
7月11日。凛の母親と白石は婚姻届を出して夫婦となった。
母が再婚した事で凛の生活は変わった。まず、一ノ瀬から白石へと名字が変わり、おんぼろアパートを出て白石が住む高級タワーマンションに引っ越した。その高級タワーマンションからも1年後か2年後には引っ越す予定だ。白石は一軒家を購入しようと考えているらしく、このタワーマンションに住む期間は短いだろうと聞かされている。そして、凛は持っていた方が何かと便利だからと言われ今まで持たなかったスマホを白石から渡された。
最近の母はよく凛に話し掛けて来てくれるようになったし笑顔も増えた。白石との再婚がきっかけで昔のように親子の会話が復活した事は凛には嬉しい事だったが、凛と白石の関係にはまだ壁がある。壁を作っているのは凛の方で、それは凛自身もわかっているがそう簡単に白石の事を父親だと切り替える事はわかっていてもなかなか出来ないものだった。
きっと時間を掛ければ自然と親子になれるはずだ、と凛は思っている。
11
2014年8月10日(日)
「凛ちゃん。何か演奏してくれないかな?」
時々雪乃は凛にそう言って来る。そして、そう言って来る時は必ず演奏後に何か凛に秘密にしている事を体をもじもじさせながら言って来る。シンセサイザー等を買った時もそうだったし、DJセットを買い揃えた時もそうだった。
「そうだ!凛ちゃんのオリジナル曲が聴きたいなぁ。」
凛は曲作りをするのが好きでオリジナル曲をよく作っていた。
「恥ずかしいから嫌です。」
「恥ずかしいと思うのは本人だけだよ。聴いてる方はそうは思わないから。だから、ねっ。お願い1曲だけ聴かせて。」
凛はため息をついた。
「じゃあ、部屋で眠っているエレクトーン使っても良いですか?」
「シンセサイザーが良かったなぁ。ま、エレクトーンも使ってあげなきゃ可哀想だし。うん。いいよ。」
凛と雪乃はグランドピアノがあるリビングから2階に上がり雪乃が物置部屋と呼んでいる部屋に入った。この部屋には普段雪乃が使わないエレクトーンやアコーディオンなど鍵盤楽器の他にも胡弓など様々な楽器が置かれている。その部屋で凛がエレクトーンを弾き始めようとしたところ雪乃が「タイトルわぁ?」と聞いてきたので凛は演奏しようとした手を止めた。
「タイトルは…鏡の世界、です。」
「いいねぇ〜。」
■■■■■
鏡の世界
自分で決めた事ではないから 理想とはかけ離れちゃって
ぼくが決めれる事など多くはないから従う事しか出来なかった
自然の流れに身を任せていたら いつかぼくはぼくじゃなくなっちゃう
どうすればいい? どう行動すればいい?それすら全然わかんないよ
☆鏡の世界があるのなら ぼくは迷わず飛び込むのに
きっとそこには全く正反対の世界が待っている
今のぼくとは全く正反対の世界だ
喜び溢れ 笑顔溢れ 友達溢れ
他人が決めた事ばかりだから 思い通りに行かなくて
ぼくが何かを決めるにしても ぼくはあまりにもちっぽけで
自分で変えるしかないとわかってはいるけど
ぼくにはどうすればいいのかわからないんだ
どうすればよかった?いつなら変えられた?過去を振り返ってもわかんないよ
☆ repeat
喜び溢れ 笑顔溢れ 友達溢れてステキな世界
lutulululutu lutulululutu lutulululutu lutulululutu
特別な力など必要ない ぼくはただ普通でありたいだけなんだ
☆ repeat
悲しみなどない 涙を流すことなどない ひとりぼっちの世界じゃ決してない
そんな世界のはずなんだ だから…
■■■■■
「凛の声は可愛くていいねぇ。私もそんなに歌が上手かったら自分で作った曲で歌えるのになぁ…」
「私、歌上手くないですよ。」
雪乃は俯いて「でも音痴じゃない。むしろ上手い方だ。」と言った。雪乃は音痴らしい。実際歌声を聴いたわけではないから本当のところはわからないが雪乃本人がそう言っていた。歌がヘタなせいでいじめられたとも言っていた。
「ここには私と師匠しかいないから歌ってみます?」
「ううん。いい。それより凛ちゃん?どうして、私じゃなくてぼくなの?」
「ぼく?」
「ほら、今の鏡の世界の歌詞。」
「あ、ああ…特に意味はないです。」
「凛ちゃんの事を歌ってる。なのに、ぼくっていう表現は何故なんだろう?」
「そ、そんなに深い意味はないです。」
「そうかなぁ?凛ちゃんは誰かに歌ってもらう事をイメージしてその歌詞を書いたんじゃないのかなぁ?」
「そんな事ないですよ。」
凛は笑顔を見せて言った。だが自分でも意識していたわけではないが少し心当たりがあった。
(この曲を橘さんが歌ったらどうなるんだろうとイメージして歌詞を書いてたんだと思う。だから無意識だったけど、わたしではなく、ぼくにしたんだと思う。)
「あのさ、凛ちゃん?」
雪乃は体をもじもじとさせた。
(ほらきた。師匠はどんな秘密を打ち明けるのだろう?)
「来週の日曜日にライブをする事になったんだ。凛ちゃん見に来てくれないかな?」
雪乃のその言葉に凛は違和感を感じた。
(コンサートじゃなくってライブ?)
12
2014年8月17日(日)
凛は雪乃がゲストで参加しているバンドの演奏を楽しみながら聴いていた。
(こんなに純粋にライブを楽しめる日が来るなんて想像もしていなかった。)
演奏者の感情は伝わって来るが彼らの感情は純粋に音楽を楽しんでいた。
(そっか…純粋に音楽を楽しんでいる人達の演奏を今まで私は聴いてこなかっただけなんだ。純粋に音楽をしている人達の演奏ならこんな私でも純粋にライブを楽しめるんだ。)
凛は彼ら5人の様子を順番に見た。腕が痛そうな神崎龍司、眼鏡を落としてその事ばかり考えている結城春人、楽譜通りには演奏しない長谷川雪乃、彼らに振り回されながらも緊張と戦い歌う橘拓也、そして、秘密を隠したまま打ち明けられずに罪悪感を持ったまま演奏する姫川真希。
(姫川真希…間違いない…左利きなのには驚いたけど、あの人のあのクセのあるギター。師匠はあの人が秘密にしている事にもう気付いているのだろうか?)
13
2014年8月18日(月)
凛が雪乃の家を訪れると玄関先で雪乃は開口一番に「昨日のライブはどうだった?」と聞いて来た。
「昨日弟子からライブの感想聞くの忘れたなぁ〜と思って。」
「昨日のライブ。ほっんとうに最高でした!」
「ホントに?私達の感情が伝わって来てしんどくならなかった?」
「ぜっんぜん。感情は伝わってきましたけど、みんな純粋に音楽を楽しんでいて、こんな私でもライブを楽しめました。」
「ホントっ!それなら良かった。凛ちゃんは人の感情が出やすいコンクールとかで演奏を聴くのが一番辛いのかもねぇ。」
「人が大勢で演奏するオケのコンサートも結構辛いです。だけど、今回みたいに楽しんで演奏するバンドなら私でも楽しめるってわかった事は本当に大発見です。師匠ライブに誘ってくれてありがとう。」
「そう言ってもらえて良かった。本当は凛ちゃんを誘うかどうかで悩んだんだ。でも、弟子には見てほしかったし。わがまま言ってゴメンね。」
「私も本当は行きたくないなって思ってましたけどね。でも、行って良かった。」
「凛ちゃん。バンドは楽しいよ。」
そう言って雪乃は凛を家に招き入れた。
(バンドが楽しいって気持ち。ライブ中に伝わってきてたよ。だけど、このまま師匠はバンドに加わるのだろうか?ピアノの先生になる夢はどうするのだろう?いや、それよりも私は師匠にはピアニストとして歩んでいってほしいけどな…素晴らしい人達の素晴らしいバンドだとは思う。だけど、師匠はそこで終るような人じゃない。彼らはその事をわかっているのだろうか?)
いつも綺麗に片付けられているリビングが今日は散らかっていて凛は驚いた。
「な、なんですか?どうしてこんなに散らかってるんですか!?」
「あ、ごめん。ごめん。曲作りしてたんだ。」
「曲作り?」
確かにリビングの床には丸められた五線紙で埋め尽くされていた。
「曲作り上手くいってないんですか?」
「うん。作曲したけど和音並べすぎて指が12本ないと弾けないなぁ〜。」
(ど、どんな曲を作っているんだ……)
「……じゃあ、ちょっと休憩しますか?」
「うん。あっ、じゃあ先に凛のレッスン始める?」
「それじゃあ、師匠休憩出来ないでしょ?」
「そっか。」
「じゃあ、動画サイトでも一緒に見ましょう。」
雪乃は首を捻った。
「動画サイトぉ?」
「師匠Queen知ってますか?」
「Queen?うん。知ってるよ。」
「そうなんだ。意外ですけど、それなら話が早いです。」
「うん。トランプの12の事でしょ。」
「違いますよっ!」
「え?違うくないよっ!合ってるよぉー!」
「私が言ってるQueenはトランプの事じゃなくて今人気の動画配信者Queenの事なんですっ!」
「ふーん。それがどうしたの?」
「わざと知らないフリしてるんですか?」
「知らないフリなんてしてどうするの?」
「…ですよね。」
「そうだよ。知ってるフリする人ならいるけど知らないフリする人なんてこの世にいないよっ!」
「いますよっ!」
「いないよっ!」
「います!」
「もぉ〜。いるよっ!」
「もう、話が進まない…そう。います!います!」
「じゃ、凛ちゃんのレッスン始めよっか!」
「その前にその動画一緒に見ましょうよ!」
「え〜!つまんない。見たくない。興味がない。」
「きっと興味出るからそう駄々こねないで。」
「もう!」
「もうじゃないのっ!」
凛は急いでスマホを取り出しQueenの動画を再生させて雪乃に見せた。
「これがQueen?」
「はい。本当に見た事なかったんですね。」
「うん。でも、ふふっ。笑っちゃう。」
「どうして笑っちゃうんですか?」
「だって、これQueenじゃないよ。名前どうしちゃったの?それに。ふふふっ。わざとヘタに弾いちゃってどうしたの?」
「どうしてそう思うんですか?」
「だって、これ真希ちゃんじゃん。」
(やっぱり…師匠もすぐに気が付いた。師匠の耳も私の耳もこのギターの音は姫川真希だと言っている)
その後、雪乃はこの動画を見て疑問に思った事を次々と凛に質問した。
「どうして右利き用のギターで弾いてるの?」
「どうして顔映ってないの?」
「どうして姫川真希じゃなくてQueenって名乗ってるの?」
「どうしてPrincessじゃなくてQueenなの?」
質問をされる度に凛は「さあ?」と返事を返していた。
「とにかく真希さんは正体を隠してこの動画を配信してるみたいです。」
「どうして私に内緒で動画配信を始めたの?」
「初めての動画投稿は師匠達とバンドを組む1年程前ですから別に師匠達に内緒で動画を配信したわけじゃないでしょうけどね。」
「この動画を見る人達全員に自分の正体を明かさずに内緒にしてるってこと?」
「そうですね。」
「どーして?」
「さあ?そこまでは。」
「じゃあ、直接聞いちゃう?」
「うーん。本人が秘密にしている以上聞かない方がいいんじゃないかなぁ?」
「そっか。そうだね。じゃ、私曲作りするね。」
「レッスンは?」
「今、秘密っていうタイトルの曲が浮かんじゃったからちょっと待って。」
「あ、はい。あっ。今晩橘さん達路上ライブやってますよね?一度路上ライブの方も見てみたいんですけど。」
雪乃は作曲を始めながら、「うん。今日一緒に行こう。」と言った。
14
2014年9月6日(土)
母が白石と再婚して2ヶ月が経とうとしていた。この約2ヶ月間、白石と凛との関係はあまり進歩がない。
どういう訳か結婚してからの白石は母にあまり話し掛けなくなっていた。母に話し掛けたとしても凛の話題が中心で、それに気付き始めた母は少しずつではあるがまた凛に話し掛けてこなくなっていた。凛が母に話し掛けても3回に1度の割合で無視をされる。
(どうして白石さんはお母さんと何気ない会話をしようとしないのだろう?どうして私の話題ばかりを母に聞こうとするのだろう?)
凛は白石を不審に抱き始めていた。
今日はブラーで雪乃達のライブがある為、凛は髪を梳かそうと思って洗面所に向かうとそこには白石の姿があった。
(なに?なになに?今のは一体なんなの!?)
凛が洗面所に入って来た事に驚き白石は何もなかったかの様に平然と洗面所を出て行った。
(なに?なに?なに?)
凛の頭は混乱していた。
今、確実に白石は凛が使っているブラシを手に持ち匂いを嗅いでいた。
この2ヶ月余りの白石の不審な行動が凛の脳裏に一気に蘇る。
(あの人の不審な点は今まで沢山あった…あの人は必ずと言ってもいい程、私の後にお風呂に入った。私がトイレに行けばすぐ後に入ろうとする。私が寝間着のボタンを上まで止めていなければ、ちゃんとボタンを留めなきゃと言ってあいつにボタンを留められた事もあった。
私の制服姿を見る時、いつも足下から上へと視線を上げ膝元で一度目が止まり、また胸元で目が止まった…そして、私が家を出る時はいつも後ろから視線を感じた。振り向くと目線を上げて微笑むあいつがいた…私が振り向くまであいつは目線を下げたまま?私の下半身ばかりを見ていた?
そして…結婚してから白石はお母さんの事をあまり相手をしていない…いつも白石がお母さんと話す内容は私の事ばかり……)
2ヶ月一緒に生活を共にして凛は白石の異常とも呼べる行動に今更ながらに気が付いた。
15
2014年11月1日(日)
凛は母や白石の事を誰にも相談する事が出来なかった。雪乃は凛の家庭に問題がある事には薄々気が付いている様子だった。何度か雪乃に相談しようと迷った事はあったが、雪乃には大きなピアノコンクールが一ヶ月後と迫って来ていたので、それが終るまでは自分の事を話して余計な心配を掛けたくなかった。
16
2014年12月7日(日)
雪乃のピアノコンクールの全国大会当日となった。凛は拓也、龍司、真希、春人、みなみ、結衣の7人で会場に向かった。凛は心の中では不安で一杯だった。だが、その不安は雪乃の心配をしての不安ではない。凛は自分自身の心配をしていた。
(師匠は私が心配しなくても結果を出す人だ。師匠は必ず3連覇を果たす。師匠を超えるピアニストはこの日本にいるはずがないのだから。問題は私自身…このコンクールの出場者はきっと全員が凄い感情を放って来る。コンクールは演奏者の感情が特に出やすい。ましてや今日は全国大会だ。沢山の演奏者が次々と登場する…そして、凄まじい感情が私に容赦なく襲いかかって来る事が予想出来る…)
それでも凛がこの全国大会を見に来た理由は雪乃の演奏が聴きたかったからだ。
コンクール本番が始まると凛の予想した通り演奏者の凄まじい程の感情が次々と襲いかかって来た。凛は途中でしんどくなってきて何度もトイレに逃げ出した。それでも雪乃の演奏を聴きたい一心で出来るだけ席に座り我慢をしていた。
雪乃がステージに登場した時は何故だかそれだけで凛は嬉しかったしほっとした。雪乃の演奏は凛が知るどの演奏よりも凄かった。そして、雪乃からは感情が入って来なかった。
(久しぶりだなぁ…師匠から何の感情も伝わってこない。何の感情も伝わらないと人に伝えれば演奏者としてダメな様に聞こえるかもしれない。だけど、私に何の感情も伝えずに演奏をした人は師匠しかいない。やっぱり師匠は特別なピアニストだ。師匠の感情自体が音楽なんだ)
私もこういう演奏者になりたい――凛は心からそう思った。
雪乃は沢山の人が参加したこの全国大会で見事3連覇を果たした。
この日集まった7人は夜遅くまで雪乃を祝った。凛もふらふらになりながらも祝いの場に残っていた。
「凛ちゃんが今日のコンクール出場してたら私きっとグランプリ取ってなかっただろうね。」
2人での帰り道、雪乃は凛にそう言った。
「私は予選落ちですよ。今日のコンクールまで辿り着いてなかったと思います。」
「凛ちゃん。凛ちゃんは自分が思っている程ダメじゃないよ。私を越えるのは凛ちゃんの他にいない。ううん。逆か。私は凛ちゃんを越えていない。」
「そんなはずは…」
「あるよ!」
そう言った雪乃の目は真剣だった。そして、最近になって雪乃がよく言うセリフを言った。
「私の後継者は凛ちゃんだけだからね。」
凛にはその後継者の意味がいまいちわかっていなかった。
17
2014年12月22日(月)
(昨日のエンジェルでのライブはまた良かったなぁ〜。ホント楽しかった)
凛は拓也達のライブを見る事が一つの楽しみになっていた。
(師匠も高校を卒業したらバンド活動を辞めるみたいだけどライブする事を楽しんでるみたいだし良かった。でも、昨日は一人で無事帰ったのかな?)
この日の学校帰り凛はいつもの様に雪乃の家に向かいインターフォンを鳴らした。
いつもなら雪乃が出て来て笑顔を見せてくれるのだが何度インターフォンを鳴らしても今日は誰も出て来なかった。凛が雪乃の携帯に連絡を入れても出てくれない。メールを送っても返信がない。日も暮れ凛は雪乃の豪邸を見上げ、部屋の明かりが点かないかと確認をしたが真っ暗なままだった。夜の11時を過ぎるまで雪乃の家の前で凛はずっと座り込んだまま雪乃達の帰りを待ち続けていたが結局誰も帰って来なかった。
(今日はどこか出掛けるって言ってたかな?しょうがない…今日はもう家に帰ろうかなぁ…)
そう思った時だった。「凛?」と声が聞こえた。凛は俯いていた顔をはっと上げた。
「凛、心配したよ。どうしてこんな所に?」
(ど、どうして?どうしてここに?)
白石には今日雪乃の家に行く事を伝えていない。それなのに白石がここにいる。その事に凛は驚きというより恐怖を抱いた。
(どうして?お母さんにも今日ここへ来る事は言っていない。そもそも、お母さんは師匠の家の場所を知らない。なのにどうしてこの人がここに?白石は師匠の家も知らなければ師匠の事も知らないはずだ。なのに…なぜ?)
「ど、どうして?ここが?」
「帰りが遅いから必死で探したんだよ。」
白石は笑顔で凛に近寄って来る。凛の体は震え出した。
(どうしてここがわかったの…必死に探してここに辿り着けるはずがない…)
白石は優しく笑い強張る凛の体を触り立ち上がらせた。
(だってここは…門を潜らないと辿り着けない敷地内なのだから…)
白石は優しい言葉を掛けて凛の肩に手を回して来た。
(門の外からここが見えるはずがないし探し当てられるはずがない…)
凛は抵抗する事も出来ずに固まったまま白石と共に家路に着いた。
(GPS…)
凛の体の震えはピークに達し寒さすら感じ始めた。玄関に入ると白石はやっと肩に回していた手を離して凛の方を見つめ、にこりと微笑んだ。
(間違いない。私にこのスマホを渡したのは居場所を確認する為だったんだ…)
母は凛の心配するどころかもう既に就寝中だった。その事を確認してリビングへ向かう白石の後ろ姿を凛は玄関先で佇みながら睨みつけていた。白石は凛が玄関先から入って来ない事に気付き振り返った。
「凛ちゃん。そんな恐い顔してどうしたの?さあ、入って来なさい。」
(私に見せるその笑顔には恐ろしい程の悪意を感じる。)
凛は震える体を両手で擦り暖めた。
(私…この人が…恐い……)
「さあ、早くこっちにおいで。」
凛は震えながら「もう今日は休む」と告げて部屋に逃げ込み鍵を閉めた。と同時に白石のチッという舌打ちが凛の耳には届いていた。
(誰か…助けて…)
18
2014年12月23日(火)
学校に体調が悪いから休む事を告げ凛は朝早くから雪乃の家に向かった。白石に持たされたスマホはあえて電源を切らずに部屋に置いて来た。
相変わらずインターフォンを鳴らしても雪乃の家からは誰も出て来なかった。
(ホントにどうしたんだろう?おじさんもおばさんも帰ってないなんて…)
凛はこの日もまた家の前で雪乃達の帰りを待つ事にした。
凛はただじっと雪乃の家の前に座り込んで帰りを待っている。
日も暮れ辺りが真っ暗になった。
(どうして誰も帰って来ないの…?)
午後7時を過ぎた頃、「凛ちゃん?」という声が聞こえて凛はびくりと体を震わせた。昨日の事を思い出したからだ。
(この声は…おじさん…)
友一の優しい声を聞いた途端、凛は安心したのか涙が勝手に溢れた。
「凛ちゃん。まさか君…ずっとここで待っていたのか?」
凛は友一に抱きついた。
「おじさん今までずっとどこに行ってたの?おばさんは?師匠は?」
「雪乃は……」
そう言って友一は言葉を続けなかった。ただ友一は抱きついた凛の肩を強く握りしめた。
「どうしたの?おじさん?師匠に何かあった?」
「雪乃は……事故に遭ったんだ…」
「え?」
凛は友一の顔を見上げた。
「いつ?」
「一昨日の夜……」
「一昨日?一昨日って師匠はライブをしてたんだよ。」
「……」
「そ、そんな…まさかライブの後に?」
「…そうだ。」
「だから昨日も帰って来なかったの?師匠は入院してるの?師匠は無事なの?」
凛の肩を持つ友一の手に力が入った。友一は悲しそうな表情を浮かべ凛の顔を見つめる。
「雪乃は…命には別状はなかったよ…今日は雪乃の着替えを取りに一回帰って来たんだ。」
「良かった…それなら良かった。」
凛はそう言ったが友一は涙を流しながら凛に告げた。
「でもね凛ちゃん。雪乃はもうピアノを弾くどころか歩けない体になってしまったんだよ。」
凛は友一が何を言っているのかさっぱりわからなかった。
「ウソ。そんなわけない。だってあんなに元気だったのに。」
「……凛ちゃん落ち着いて。さっきも言ったように雪乃は事故にあったんだよ。」
「…ウソ…ウソだ…ウソでしょ?おじさんウソだよね?そんなわけないよね?ねぇ!おじさんっ!」
友一は本当に辛そうな表情を浮かべて「本当なんだ。本当なんだよ。」と涙した。
「連れてって。私、師匠に会いたい。」
友一は首を縦には振らなかった。
「着替え…取りに行かないと…」
そう言って友一は家に入って行った。凛は俯き拳を握りしめた。
(私は…師匠の顔を見たい!師匠が入院しているなら場所は結城総合病院で間違いない!)
そう思った瞬間に凛は病院目掛けて走り出していた。
(ウソだ…ウソだ…師匠がピアノを弾けないなんて、そんな事あるはずがない!絶対ウソだっ!)
凛は息も絶え絶えに受付けで長谷川雪乃の見舞いに来たと告げ病室を教えてもらい雪乃の病室前まで辿りつた。病室をノックしたその手は震えていた。返事もなく病室からは蘭が顔を出した。
「凛ちゃん!?どうして?」
「師匠に…雪乃さんに会わせて下さいっ!」
息を切らしながら訴える凛の願いを蘭は断った。
「ごめんね。凛ちゃん。今の雪乃には会わせられないよ。」
蘭は病室を出て凛の肩を持ち雪乃の病室から凛を遠ざけた。
「今、雪乃は現実を受け入れられなくて混乱しているの。だから、わかってほしい。ごめんね。」
「おじさんが言ってた。本当に師匠はもうピアノを弾けない体になったの?」
その凛の問いに蘭は崩れ落ちる様にその場に座り込み泣き出した。蘭の崩れ落ちる姿を見て凛はただ呆然と蘭を見つめる事しか出来なかった。
19
2014年12月24日(水)
昨日に引き続き凛は朝から病院に訪れた。いつも出掛ける時は髪を整え三つ編みをしているが今日はそれをする余裕もなく家を出た。
雪乃の病室の前に着きドアをノックしようとした手を凛は止めた。中から雪乃と蘭が激しい口調で言い争っているのが聞こえたからだ。廊下まで聞こえる程の声ではないが凛の耳にはその声が届いて来てしまう。一向に2人の言い争いは終りそうもない。凛は一呼吸おいてからドアをノックした。蘭の声はそのノックで止まったが雪乃の声は止まらない。
本当だったら今晩雪乃は柴咲市民ホールで行われるクリスマス・イヴコンサートに出演する予定だった。1年近く前から街のあちこちにポスターが貼られ街ぐるみで力を注いでいたコンサートだ。ポスターには柴咲高校の茶色の制服を着た雪乃の姿が大きく載っていて凛はそのポスターを見る度に誇らしく思った。そのコンサートに雪乃は行くと言って効かない。早く柴咲市民ホールに連れて行け。そう言っていた。
凛がノックしてから少しの間を置いて友一が病室から顔を出した。最初友一は凛の姿を見ても誰だかわかっていなかった様子だった。三つ編みをしていない凛の姿を見るのは今日が初めてだったからだろう。
「凛ちゃん?こんな朝早くから来たのか…」
友一は病室から出てドアを閉めた。
「おじさん。私…」
雪乃に会いたいと伝える前に友一は首を振り、ごめんね。と言った。
「今、雪乃は混乱しているんだ。会わせるわけにはいかないよ。」
「…でも…」
「…ごめんね。君にも辛く当たるかもしれないから…」
そう言って友一は病室に入って行った。凛は病室のドアから少し離れて壁際にもたれ掛かった。
(師匠と会いたい。顔を見たい。話がしたい。)
廊下をじっと見つめていた凛は、はっと顔を上げた。
(そうだ!私には病室の中にいる師匠とおばさんの声が聞こえていた。なら、耳のいい師匠もここから話す声が聞こえるはず!)
「師匠?師匠?聞こえてる?」
凛は病室のドアを見ながら問いかけた。しばらく雪乃から返事がくるかと思い耳を済ませたが雪乃と蘭はまた言い争いを再開させていた。友一が時々間に入って口論をやめさせようとしているが2人の口論は止まらない。次第に声は激しさを増し、凛ではなくとも聞こえるくらい大声になっていった。
(ダメだ…私の声を聞く程の余裕が今の師匠にはない…)
随分と時間が経った。何時間もの間、雪乃と蘭は言い争っている。雪乃は小さな声で拓也達バンドメンバーの悪口を言ったかと思えば次には大声を出して事故に遭わせたトラックの運転手を連れて来いと叫び出す。そしてまた柴咲市民ホールに連れて行けと叫び出す。今日一日で雪乃はこれらの会話をずっと繰り返している。
凛は朝食も昼食もとる事なく雪乃の病室の前から動かなかった。じっと同じ場所にいる凛を心配して何人かの看護師に声を掛けられたがその度に凛は面会が出来るまで待っていると告げた。
(おじさんとおばさんは病室から出て来ない。今日は師匠に会わせてもらえそうにないな…)
18時を過ぎ、そろそろ病院を出ようと思った矢先に真希が現れた。凛は雪乃が真希達を罵倒する声を既に聞いていた。それもあってか真希の姿を見た途端、憎しみや怒りの感情が出てしまっていた。
真希は病室に入ると入れ替わるように友一が病室を出て来た。
「どうして真希さんは師匠に会えるのに私は会えないんですかっ!」
「ごめんね。彼女は罪を償おうとしている。本当は彼女のせいではないんだけどね…」
「私は……」
「わかってくれ。妻も私も君を傷つけたくないんだよ。今の雪乃は妹のように可愛がっていた君にすら傷つくような事を言う可能性があるんだ。そんな娘の姿を私も妻も見たくないんだよ…だから…わかってほしい。君は私達にとっても雪乃にとっても大切なかけがえのない存在なんだよ。」
それでも凛は自分は病室に入れないのに真希が入れるのには納得がいかなかった。しかし、蘭が涙を流しながら病室を出て来た姿を見て凛は何も言えなくなってしまった。
拓也達と一緒にバンド活動をする事が本当に楽しそうだった雪乃が泣き叫び真希を罵る声が病室から聞こえて来た。
(私が今、病室に入っても師匠は私を罵倒するのかもしれない…そうなれば私は耐えられないかもしれない…)
病室から泣きながら出て来た真希に凛は冷たい言葉を言ってしまってから後悔をした。
真希はどんなに雪乃から罵られようとまた来る事を蘭に告げ帰って行った。
(私も耐えなきゃ。どんなに罵倒されようが師匠と向き合いたい)
凛は友一に言ったように蘭にも雪乃に会いたい事を告げた。しかし、蘭の答えも友一と同じだった。
また廊下に一人きりとなった凛は俯きながら誰に問う訳でもなく独り言を言った。
「…どうして真希さんは病室に入れるんですか?」
その問いに答える者は誰もいない。
「聞こえてるんでしょ?師匠…」
と今度は雪乃に対して言った。
「どうして私の声が聞こえているのに返事してくれないの?」
雪乃の病室からは声一つない。本来の雪乃なら今の凛の声は聞こえているはずだ。
「病室の師匠の声…私全部聞こえてたよ…だから、師匠もこの声が聞こえているはずだよね?」
凛は俯いた顔を病室のドアに向け言った。
「ねぇ?ねぇってば!聞こえているなら返事してよっ!」
何の返事もない事に悲しくなり凛は涙を流した。
「この声…師匠には聞こえているはずなのに……どうして何も返事してくれないの……?」
20
2014年12月26日(金)
昨日も今日も朝早くから凛は病院に訪れた。そして、雪乃の病室の前に行き、雪乃と会う事を断られる。そして、ただ何もする事なく廊下にずっと立っている。
昨日も今日も凛は廊下から壁を隔てた雪乃へ向かって声を掛けているが雪乃の返事はない。
最初は心配して声を掛けて来てくれていた看護師達も一人でブツブツ話している凛を不気味に思ったのか声を掛けて来なくなった。
(お腹減ったなぁ…)
病院に通う様になった凛は朝食と昼食を抜いて夜遅くに夕食を食べるという健康に悪い食生活を送っている。
(今日は早めに夜ご飯を食べていつもより長くここにいてみよう)
面会時間が過ぎていると言われようがここに少しでも長くいようと凛は心に決め夕食を食べる為に食堂へ向かった。早めの夕食を終えると凛は鞄から紙とペンを取り出した。そして、何かに取り憑かれたかのように一気に歌詞を書き始めた。
(タイトルは……うん。笑顔。)
自ら書いた歌詞を読み返し一人称を私から僕に変えた。
(どうしてだろう。最近歌詞を書いても想像で歌っているのは自分ではない。いつもそこには橘さんの声が聴こえてくる…)
凛はペンと紙を鞄の中に片付けた。
(この歌詞は歌う為じゃなくって師匠に読む為のものだから私だろうが僕だろうがどっちでも関係ない。読んだ後は捨ててしまおう。)
食堂から雪乃の病室の前に戻って来ると、病室の中から雪乃と真希が話す声が聞こえた。
(真希さんは毎日この病室から出てくる時泣いている。きっと今日だって…)
扉が開き凛が思った通り涙を流しながら真希が出て来た。一昨日に真希に対して冷たい言葉を言ってしまった事を凛は後悔していた。だから凛は真希が無言で立ち去ろうとしたのを止めて雪乃が事故に遭う前にコンサートやコンクールよりもバンド活動を本当に楽しそうにしていた事や真希達とずっとバンド活動をしたがっていた事を教えた。
(真希さん達は明日の柴咲音楽祭に出演する事をやめた…明日そこでグランプリを獲れればプロになれるのに…あの人達ならきっとグランプリを獲れるのに…)
真希が去ったというのに蘭は病室に戻って来なかった。蘭が何処に行ったのかが気になって凛は病院内を探しまわった。すると蘭は一人待合室で泣いていた。
蘭にはまだ雪乃と会って話す事を許されていないが今なら病室に入る事が出来る。そう思った時には凛の体は雪乃の病室に向かっていた。
真希の様に凛も雪乃からヒドい言葉を浴びせられると覚悟していた。しかし、病室に入ってみると雪乃は凛に対しては今まで通りの口調だった。師匠として弟子を不安にさせてはいけないと雪乃なりに考えたのだろう。この日は長く雪乃と話をする事が出来なかったが、明日からは病室に入ってもいいと雪乃に言ってもらえた。
凛が病室を出るとその途端、雪乃が泣き出す声が聞こえた。
(師匠。私が病室を出るまで泣くのを我慢してたんだね…)
凛はそのまま病院を出ようと歩き出したが急に立ち止まり雪乃の病室のドアを振り返った。
「まさか…私が毎日話し掛けていた声…師匠には聞こえてなかったの?」
21
2014年12月27日(土)
雪乃が初めてリハビリを開始した日であり柴咲音楽祭当日でもあったこの日の夕方、凛は作詞した歌詞を読ませて欲しいと雪乃に言った。雪乃は、手紙じゃなくて歌詞ってところが凛ちゃんらしいね。と言ってくれた。
凛が歌詞を読んでいる間、雪乃は笑顔で何度も頷いてくれた。
歌詞を読み終えて凛がその歌詞の書かれた紙を捨てようとした時、雪乃は慌てて凛を呼び止めた。
「捨てるぐらいなら頂戴よ。」
読み終えたら捨てるつもりでいたが、その言葉を聞いて凛は嬉しかった。
「ありがとう。師匠。」
「ううん。こちらこそありがとう。凛。」
そして雪乃は、少しだけだけど真希ちゃんと話をしたよ。と言った。凛がどんな事を話したのかと聞くと雪乃は、柴咲音楽祭でどんなバンドが優勝したのか教えてって聞いた。と答えた。
凛は嬉しくなって、良かったね。と笑顔で言った。雪乃ははにかむように、うん。と答えた。
22
2015年1月27日(火)
新しい年も1ヶ月が過ぎようとしていた。去年の年末から今日まで凛は毎日雪乃に会いに行った。
病室に入る前に凛はいつも、「師匠。病室に入ってもいい?」と声を出すが雪乃の返事はない。
(事故に遭うまでの師匠ならこのくらいの距離でも聞こえていたはずだ。だって私はこの距離でも病室の声が聞こえるのだから…師匠の耳は…事故に遭うまでの耳ではなくなってる…その事に師匠はもう気付いてしまっているのだろうか?もし、気付いていないのなら…それを知った時、師匠はどうなってしまうのだろう…)
雪乃は凛と会うと普通に話してくれるのに凛と同様毎日病院に来ていた真希が来ると急に無口になる。凛は真希が来ると気を使って席を立ち雪乃と真希の2人きりにしてあげるのだが凛が廊下に出ても耳に入って来る声は真希の声ばかりだった。雪乃は今までのように真希を罵ったりはしないがそのかわり話そうともしない。黙って真希の話を聞いているだけだった。今年に入って凛はこっそりと会話を聞く事に罪悪感を感じて会話が聞こえない距離にまで移動するようになっていた。
真希に雪乃と何を話したのか毎回聞く様にしているが今日もまた真希が一方的に話しただけだったようだ。
「師匠は真希さんと話したいと思っていますよ。だけど、なかなか素直になれないんだと思います。」
凛がそう告げると真希は、うん。とだけ答えた。
(師匠が素直に真希さん達と話せる日が来ればいいのにな…)
凛がそう思った次の日、雪乃が嬉しそうに笑顔を見せて凛に言った。
「今日ね。真希ちゃんに謝る事がやっと出来たんだ。」
その言葉、その笑顔を見て凛も嬉しくなった。
「良かった。本当に良かった。師匠の心から喜んだ笑顔…事故以来初めて見る事が出来たよ。本当に良かった。」
凛がそう言うと雪乃は目をうるうるさせた。
「私…一杯一杯真希ちゃんにイジワルしてた…」
「うん。」
「本当は真希ちゃん達が悪いわけじゃないのに真希ちゃん達のせいにしてた。」
「うん。」
「私自身楽しんでバンド活動をしてたのに…バンド活動なんかしてなかったらこんな体にはならなかったのにって思っちゃってた…」
「うん。」
「真希ちゃんはずっと私と向き合おうとしてくれてたのに私はヒドい事ばかり言ってた…」
「…うん。」
「なのに真希ちゃんは私を見捨てなかった…」
「……うん。」
「本当に…本当に嬉しかったよぉ…」
「……う、ん。良かったね。良かったね。師匠。」
「……うん。良かった。今度、拓也君達を連れて来てくれるって。みんな…わがままばかり言ってた私を怒ってないかなぁ?」
「大丈夫。大丈夫だよ。だってあの人達は師匠の仲間だもん。」
凛は自分で言った仲間というその言葉が羨ましかった。
23
2015年2月1日(日)
「雪、綺麗だね。」
ベッドから顔だけを窓の方に向けて夕方の雪降る景色を見ながら雪乃が言った。凛は立ち上がり雪を見ながら、うん。と答えてから思った。雪の降る日に事故に遭ったのに雪を嫌いにならなかったのだろうか。と。
その凛の考えを見透かしたように雪乃が言う。
「事故に遭った日も雪が降ってて…雪さえ降ってなかったら事故に遭う事なんてなかったのにって恨んだ日もあったけど、こうやって雪を眺めているとやっぱり綺麗。私、雪好きなんだぁ。」
さっきまで拓也達が病室を訪れていたが凛はあえて時間をずらして病室に入った。今は病室に凛と雪乃の2人だけがいる。
「みんなお見舞いに来てくれたんだ。真希ちゃんに拓也君に龍司君に春人君。それにみなみちゃんと結衣ちゃんまで。」
「良かったね。」
「うん。それでさ、凛ちゃんには内緒であの手紙渡しちゃったんだ。」
「手紙ってまさかあの歌詞を書いた手紙?」
「そう。」
「どうして?」
「あの歌詞に曲を付けてもらおうと思って。それで拓也君達にここで歌ってもらうんだ。」
「橘さん達了解してくれたんですか?」
「うん。真希ちゃんが作曲してくるって。凛ちゃん嬉しい?」
「私の歌詞を真希さんが曲を付けてくれるなんて嬉しいです。それに橘さんがそれを歌ってくれるなんて光栄です。」
「拓也君が歌う姿を想像してあの歌詞を書いたの?」
「…最近歌詞を書いても自分で歌ってる想像が出来なくて…いつも橘さんが歌っている姿が出てくるんです。」
その言葉を聞いた雪乃は「凛ちゃん。」と真剣な眼差しを向けて名前を呼んで来た。凛はその真剣な眼差しから目をそらせなくなって黙って雪乃を見つめた。
「私の後継者は凛ちゃんだけだよ。凛ちゃんが私の代わりに彼らのバンドに入ってくれれば良いなって思ってた。凛ちゃんもそうだよね?彼らと一緒に音楽がやりたいって思ってたよね?」
「私は…師匠の代わりにはなれません。」
「わかってるよそんな事。代わりになれって言ってるわけじゃないよ。凛ちゃんは私の後継者だって言ってるの。」
「一緒ですよ。」
「一緒じゃないよ!代わりと後継者は違うよっ!」
「違うくないですよっ!大体一緒ですよ。」
「大体はやめてよ。ぜっんぜん違うもん。」
「……なんか…こういう会話久しぶりですね。」
「フフっ。そうだね。なんだか懐かしいね。」
24
2015年2月15日(日)
凛が書いた歌詞に真希が曲を付け拓也達4人が雪乃の病室で歌を歌った。
4人は楽器を使わず声だけで『笑顔』を歌った。
凛は4人の素晴らしい歌声を聴いてタイトル通りの笑顔を見せながら涙を流した。
私も彼らの中に入って一緒に歌いたいな――凛はそう思った。




