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The Voice  作者: 幸-sachi-
The Voice‬ vol.1
20/59

Episode 14 ―Last Live―


2014年9月21日(日)


「おめでとう。」

バイトが終わり2階で着替えを済ませた橘拓也が店のドアを開けた瞬間に真希がそう言った。拓也とみなみが付き合った事を祝っての言葉だった。拓也とみなみが付き合ってもう11日が過ぎた。それなのに真希がお祝いの言葉を贈って来たのは先週拓也と龍司は修学旅行がありバンドの練習がなかった事と今週真希と春人は路上ライブを休んでいた為だ。今週2人が路上ライブを休んだ理由もまた彼らが修学旅行に行っていたからだ。なので11日間拓也は真希と春人と雪乃の3人とは顔を合わせていなかった。続けて春人と雪乃も、おめでとうという言葉を拓也に言ってくれた。龍司にはみなみと付き合う事が決まった次の日に拓也が伝えていたので、その時、龍司からのお祝いの言葉はもらったが、龍司の言葉はおめでとうではなく、あんまのろけ過ぎんなよ。だった。

「じゃあ、俺帰るから。戸締まりヨロシクな。」

そう言って間宮は店を出ようとした足を止めて、

「あ、拓也おめでとう。」

と今、拓也とみなみが付き合っている事を知った間宮が2人の事を祝ってくれた。拓也は照れながら、ありがとうございます。と答えた。バンドの練習をしようと5人がステージに上がった時、そういえばさ。と真希が言った。

「拓也がみなみと付き合った日さ。龍司ライブが決まったって言ってなかった?」

「あ、そうだそうだ。そういや俺、グループLINEで送るつもりだったんだけど寝ちまってそのままだったわ…すまねぇ。」

「そのライブっていつなの?」

雪乃はピアノを適当に弾きながら龍司に聞いた。

「12月の…いつだったかな?ちょっと待ってくれよ。」

そう言って龍司はスマホを取り出し調べ出した。その様子を見て、「ちょっと大事な事なんだからライブの日くらいちゃんと覚えててよね。」と真希が呆れた様子で言った。

「ああ、そうそう。12月21日の日曜。場所は喫茶店暁。時間はえーっと…。」

(12月21日っ!!)

龍司が言った日にちを聞いて拓也は驚いた。雪乃もピアノを弾いていた手を止め、真希も春人も驚いた顔をして龍司を見ている。

「7時から9時だな。んっ?どうしたお前ら?」

数秒の沈黙の後、真希が怒鳴った。

「あんたバカじゃないのっ!?その日エンジェルのライブの日よっ!あんた覚えてなかったの!?」

「えっ?そうだっけ?」

「そうだっけじゃないわよっ!私ちゃんとメモする様に言ったよね?あんたほっんとバッカじゃないのっ!」

「す、すまねぇ。じゃあ、暁のライブは俺から断っとく。」

「ダメよ。ここで断ったら次から呼んでもらえないかもしれない。だからダメ。」

真希が言った言葉に拓也は驚いた。

「ダメって真希。次から呼んでもらえないかもなんてちょっと大げさなんじゃないか?それなら時間を変えてもらおう。」

「これは何も大げさなんかじゃないわ。拓也はライブが重なったからってどちらかのライブハウスに時間を変更してもらった時、相手のライブハウスから信用がなくなるかもしれないって考えないの?自分達のライブスケジュールも把握出来ていないバンドだと思われる。確かにライブスケジュールを把握出来ていないバンドだったんだけど、これは龍司だけの責任ではなくバンドメンバー全員の連帯責任よ。そして、これはリーダーである私への教訓。今後こういう事態は避けなきゃいけない。その為にはどちらのライブにも出演する必要がある。時間は変えてもらわないわ。」

「暁のライブは7時から9時でエンジェルのライブは8時から10時。時間が1時間かぶってる。今回は断るしかないんじゃないか?」

春人はそう言ったが真希は春人の言葉に賛同しなかった。

「2人と3人に分かれて暁のライブをするメンバーとエンジェルでライブをするメンバーの2チームに分けましょう。暁でライブをするメンバーにはライブ終了後はすぐにエンジェルに向かってもらって9時から合流をしてもらう。」

「ちょっと真希。やっぱり5人で一つのバンドなんだから自分達の演奏が出来なくなるくらいなら2人と3人に別れるのはやめないか?龍司が言うように暁のライブは断った方がいいんじゃないのか?」

拓也も真希の意見には反対だった。しかし、真希は拓也の意見も聞かなかった。

「ダメよ。店側が私達を断っても私達が断る事は許されない。」

「わかったよ。私はリーダーの意見に従うよ。もし良かったら私の弟子も助っ人で参加してもらうけど?まだ練習する時間はあるし。」

「ありがとう雪乃。だけど今回は誰の助けもいらないわ。私達5人で乗り切る。」

「ヒメ…それは逆に俺達を苦しめる選択をしているんじゃないのか?」

春人はまだ納得していない。拓也も納得出来ないので春人の後に続いた。

「もしかして真希はライブの日をちゃんと把握してなかった龍司への腹いせでそう言ってるんじゃないのか?」

真希は拓也をきつく睨んだ。

「そんなわけないでしょ。龍司への腹いせなんかじゃない。春人が言うようにバンドを苦しめる選択をしているのもわかる。だけどね、信用を失くす様なバンドに私はしたくないの。」

「…わかったよ。俺もリーダーに従う。」

拓也も真希の意見に賛同する事に決めた。だが、まだ春人は納得していない。

「2人と3人に別れてライブをするとして。エンジェルの方は後半の1時間は5人で演奏するって言ったけど暁の方は最初の1時間を5人でライブして後半の1時間を2人にはしないのか?」

「出来ない事もないけど多分暁からエンジェルまではタクシーで向かってもギリギリ15分は掛かるだろうから、遅刻する可能性があるわ。だから、そこは暁には申し訳ないけど安全策として最初から最後まで2人でライブをした方がいいと思うの。」

「5人いるバンドなのに2人しか来ない暁と遅れて来るメンバーがいるエンジェルの方にも不信感を与えてしまう事になるんじゃないか?」

「そうなるかもね。でもそれはあらかじめ私が連絡をしておく。」

「その決断が信用を失くす様なバンドになるかもしれないとしてもヒメはチームを分けて強引にライブに出演するのか?」

「約束するわ。この決断で信用を失くす様なバンドにはさせない。」

「……そうか…ただ、一つだけ聞かせてくれ。どうしてそこまで頑に両方の店でライブをしようとするんだ?どちらか一方を断れば済む話しだろう?その方が結局は信用を失くさなくて済むんじゃないのかな?」

「私達はプロを目指しているの。せっかくライブをさせてもらえるのに一度決まったライブを断るなんてプロとしては失格よ。私達がプロになる事は絶対条件なの。プロになる前から全員にプロ意識を持ってほしい。私は全員がプロになる覚悟がないなら今すぐバンドを抜けるわ。」

真希の言葉は拓也だけではなく龍司と春人にも強く心に突き刺さった。拓也は、もちろんプロになりたいよ。と真希に伝え、龍司は申し訳なさそうに、本当にすまなかった…これからはプロ意識をちゃんと持つようにする。と全員に頭を下げて謝まり、春人もやっと真希の意見に賛同して、俺もプロ意識なんてなかった…リーダーの判断に俺も従うよ。と言った。

「じゃあ、チーム分けをしましょう。」

真希が笑顔でそう言うと龍司が真っ先に言った。

「俺が両方の店に顔を出せる様に暁のライブに行かせてくれ。」

「龍司はエンジェルの方よ。あと、雪乃も。エンジェルのオーナーはとりあえず、雪乃さえライブしてくれれば文句は言わないだろうし。」

雪乃は、はぁいわかった。と言った。

「どうして俺がエンジェルだけなんだ?俺がライブスケジュールを確認せずに暁のライブを入れちまったんだ。俺に行かせてくれ。直接謝りてぇんだ。」

「謝るのは私の役目よ。あと、暁には私から連絡を入れるから龍司は私に連絡先を教えてくれるだけでいい。」

「それじゃあ、俺が納得出来ねぇ。」

「直接謝るのはその日じゃなくても出来るでしょ。でも、龍司が直接謝るのは私が暁のマスターに連絡を取った後にして。」

「…わかったよ。」

「それから、これはみんなに言っておきたいんだけど、これからライブの依頼があったら私を通してほしい。」

それには全員が了解をした。

「じゃあ、エンジェル班と暁班を決めようよ。」

雪乃がそう言ったのを聞いて拓也は言った。

「雪乃以外はみんな歌えるからボーカルは心配ないけど俺は真希と春人とは別チームの方が良さそうな気もするな。俺がエンジェルに行こうか?」

「そうなると、拓也と龍司と雪乃がエンジェルで俺とヒメが暁か。悪くはないと思うけどヒメはどう思う?」

「そうね。そうすれば暁のボーカルは私でも春人でもどちらでもいける。だけど、エンジェルの前半1時間は曲だけの演奏でもいいと思うの。エンジェルのオーナーを筆頭に雪乃の演奏を聴きたい人がエンジェルには多く来ると思うから。それに後半からは5人全員揃う事が出来るしね。」

「そうなるとタクは暁にいた方がいいか。残りは俺とヒメがどっちのチームに行くかだけど、リーダーのヒメは2つの店に顔を出した方が良さそうだね。」

「そうね。私は拓也と暁に行くわ。」

拓也は2チームに分ける提案をされてから不安で一杯になっていたが雪乃は、「じゃあ、エンジェル班は春人君を入れて3人でジャズでも演奏しちゃう?」と楽しそうに言っていた。

「じゃあ、私と拓也が暁。雪乃と龍司と春人がエンジェル。これでいい?」

不安はあったものの拓也はそのチーム分けでいいと真希に伝えた。龍司と春人と雪乃もそれでいいと言った事によりチーム分けはそれで決定した。

「じゃあ、龍司。暁の連絡先を教えて。明日連絡を入れたらあんたに言うわ。それからあんたが連絡入れるなり直接店に行くなりしてちょうだい。」

「ああ。わかった。」

龍司が真希に暁の連絡先を教え終ると今日からのバンドの練習は拓也と真希の暁チームの2人と龍司達エンジェルチームの3人に分かれて練習をする事に決まった。雪乃はこれからコンクールやコンサートを控えている為、今月はもうあと2回しか一緒に練習は出来ない。もしかすると今年雪乃と一緒に練習する機会も2回だけなのかもしれない。拓也達は12月21日の暁・エンジェルのライブの練習に加えて第一回柴咲音楽祭の練習もしなけらばいけない。もちろんブラーでのライブも今年はあと3回ある。そう考えると5人で練習出来る時間は貴重で雪乃が練習に参加出来なくなる前に少しでもチームの練習と5人の練習をしなけらばいけないと思った。



2014年10月4日(土)


毎月恒例となったブラーでのライブが始まった。相変わらずお店は満員で席に座れず立ったままライブを見ている人達もいる。

ライブに少し遅れた佐倉みなみだが開店前から並んでくれた結衣と凛と太田と五十嵐の4人のおかげでステージ前の席に座る事ができて今みなみは真ん前で拓也達のステージを見る事が出来ている。

本来みなみは毎週土曜日はルナでのバイトだ。しかし、マスターの新治郎に無理言って毎月最初の土曜日だけは休みにしてもらった。結衣も月の最初の土曜日は休む事を決めている為、新治郎は今日一人でルナで働いている。

拓也と付き合い始めたものの拓也は路上ライブやブラーでのバイトやバンド練習で忙しくしていて、付き合って最初のデートはまだ行けていない。拓也もそれを心配していたが、みなみはこうやってライブを見れる事が幸せだと感じている。それに路上ライブが終った後は一緒に帰っている。みなみがバイトに入っている日も路上ライブは見れないが待ち合わせをして一緒に帰っている。それだけでみなみは充分だったし毎日LINEだってしている。

(本当にそれだけで私は幸せだ。ただ、デートをする時に渡そうと思っている修学旅行のハワイのお土産がまだ渡せていないのだけが残念だ。)

今日もブラーに来るまでの間にみなみと拓也はLINEでやり取りをしていた。

-今日、学校が終って結城総合病院の診察に行って来たよ。言ってなかったけど実は私の担当医っていうのが春人君のお父さんなんだ。いろいろと相談にのってもらってる。今日、春人君と知り合いなんだって言ったら院長先生驚いてた。あ、もうすぐバス停に着くよ。今日のライブも楽しみにしてます。-

-今、楽屋で春人と一緒にいる。春人にみなみの担当医が春人のお父さんらしいって言ったら驚いてた。世間て本当に狭いね。もうライブ始まるよ。雪乃に教えてもらった魔法の言葉を唱えてからステージに向かう。気を付けてブラーに来て下さい。待ってます。-

みなみはこれまでこんなにLINEをする事が楽しいと思った事はない。拓也からLINEが来る事が本当に楽しみでLINEを送る事も本当に楽しい。みなみは拓也と付き合い始めて心が満たされていた。

(少し前まで恋に臆病で逃げていたとは思えないくらい私は今恋をしてる。付き合う前よりもっともっと拓也君の事が好きになってる。)

この満たされた心で病気も進行しないようになればいいのにとみなみは願っている。


『院長先生?私、彼氏が出来たの。春人君のバンドのボーカルの人なんだけど。』

『ああ。あの赤髪の彼か。名前はなんと言ったかな?』

『橘拓也君です。』

『ああ。そうそう。橘君ね。そうか。君に彼氏が。おめでとう。』

『私、今までね。自分は好きな人と付き合ってはダメなんだって思ってたの。もしこれから病気が進めば私も付き合ってる人も辛く悲しくなっていくだろうからって。でも、それは間違ってたのかもって思えたの。辛くなる事より幸せになる事考えるようになった。』

『みなみちゃん。君は自分が幸せになる事を一番に考えなさい。』

『うん。そうする事に決めた。』

『よかったね。先生も嬉しいよ。どうりで顔つきも前より明るくなったわけだ。』

『ねぇ?院長先生?』

『何かな?』

『このまま幸せな気持ちのまま生きてたらさ。いつか病気なくなるかな?そんな奇跡起こってくれるかな?』

『…そうだね。人間には不思議な力があるからね。時には想像もできない様な事が起こる。病気と向き合い逃げなければ奇跡も起こるさ。』



(院長先生の言葉…嬉しかったな。そんな奇跡起こるわけないのにね…だけど、私、そんな奇跡を信じてみたくなった。今までダメな方向ばっかり考えて希望のある事なんて考えもしなかったのに…)


『次の診察は来月だったね。ああ、検査が入ってるのか…なら、久しぶりにご両親と一緒に病院にきてくれないかな?』

『え?』

『不安にさせたかな?しばらくご両親とお会いしていないから君が検査をしている間ご挨拶がてら少しお話出来ればと思ってね。大丈夫かな?』

『あ、はい…』

(院長先生は両親に何を話すのだろう?)


「てか長谷川雪乃なかなか出て来ないんだけど、どうなってんの?」

ふとそんな声が聞こえてみなみは我に返った。

「ホントだね。あれ?ちょっと待って。バンドのチラシに長谷川雪乃は10月から12月7日以降までコンクールが控えている為ライブ活動は一時休止します。だって。」

「マジかよ!?いつ出て来るんだろうってずっと待ってたのに。今日ライブ来た意味ないじゃん。ファーストステージ終ったら店出る?」

「それはお金がもったいないよ。ファーストステージで帰ろうがセカンドステージで帰ろうが金額同じなんだし。」

横のテーブル席に座っている人達からそんな会話が聞こえた。

今日から雪乃はバンド活動をしばらくの間休止する事をみなみは拓也から聞いていた。拓也は雪乃がいないせいでお客さんが減るんじゃないかと不安がっていた。そんな拓也の不安を吹き飛ばすくらい店内は満席ではあるのだが、今日この場に来ているお客さんのほとんどが今日のライブに雪乃が参加しない事を知らずに来たのかもしれない。

(雪乃が参加しないってわかった人達は11月のライブには来てくれないのかなぁ…マズいなぁ。今日のライブはお客さん沢山入ってるけど、11月のライブでは大幅にお客さんの数が減るかもしれない…このライブを見て雪乃がいなくてもまたライブに来たいと思ってくれたらいいのにな。)

路上ライブでは沢山の人を集められる様になった拓也達なのにどうしてブラーでやるライブにはその人達が来てくれないのだろうとみなみは不思議でたまらなかった。その事を拓也に言うと拓也は、そんなの簡単だよ。と言って路上ライブはカンパでお金をもらう事はあるけど基本はタダだと言った。そして少し悲しそうな表情を浮かべながら、ライブハウスはお金が掛かるからね。と言った。拓也はきっとお金を払ってまで聴きたいと思ってもらえるバンドにまで自分達はなっていないと思っているのだろう。みなみは、お金だけの問題なのかな?と拓也に聞いた。拓也は、シビアな世の中なんだよ。と答えた。



2014年10月5日(日)12時


姫川真希は12月21日のライブの件でエンジェルと暁の2件に連絡を入れ終わった後、大きくため息をついた。エンジェルのオーナーである小野は雪乃さえ来てくれれば2人ぐらい遅れて来ても問題ないと言った。それはつまり雪乃一人をライブに呼びたいと言っているようなものだ。いや、間違いなくそれだけが目的なのだと思う。

暁のマスター内田は龍司が来れない事を残念がっていたが今年はその日しか空いてなくてごめんねと謝っていた。そして、また来年になったら5人でライブをしてほしいと頼まれた。

どちらか一方のライブを断れば済む話しだった。だけど、真希は一度決まったライブを断る事は考えられなかったし、日にちを変える事も考えなかった。

決定した日時にライブをする。それらを変更する事は今の自分達はしてはいけないと思った。そして、今後も決定した事を曲げる事は真希はしないと決めている。

『私達はプロを目指している。プロになる事は絶対条件なの。プロになる前から全員にプロ意識を持ってほしい。』そう言った真希の言葉はメンバーに一番伝えたい言葉だった。

(だけど…困ったな…昨日のライブは雪乃目当てでライブに来る人がほとんどだった。雪乃が来ないとわかると途中で帰る人もいた。次のライブからは来てくれる人がきっと減るだろう…プロ意識を持つようになってもお客さんを呼べなければダメだ…雪乃の力を借りれるのも雪乃が高校を卒業するまでだろう…1歳年上の雪乃は来年卒業する…私達にはあまり時間が残されていないのかもしれない…12月27日柴咲音楽祭のオーディションで私達は結果を残し絶対にプロにならなければいけない。)



2014年10月5日(日)15時


(今晩のブラーでの練習からは雪乃も来ない。気合い入れて行こう。けど、その前に俺には暁に謝りに行かなきゃならねぇ。)

ベッドに寝転びながらそんな事を考えていると真希から暁とエンジェルに連絡を入れたとのLINEが送られて来て神崎龍司はベッドから起き上がった。すぐに今から暁に謝りに行って来る。と真希に返信をして家を出た。家から暁には10分も掛からない。龍司が暁に入るなり内田が、「あら龍司君。姫川真希さんだっけ?バンドのリーダー?さっき連絡もらったのよ。」と言った。

「ああ。真希から連絡を入れたって聞いてここに来たんだ。」

「そんな。事情は聞いたから別にわざわざ来てくれなくてもいいのに。」

「いや、直接謝りたくってさ。あの時、確認した方がいいって言ってくれたのに俺何も確認せずにライブオッケーしちまって本当にすみません。」

「そんな。謝らなくていいよ。ちゃんとライブはやってくれるんだし。でも、エンジェルとうちで天秤に掛けたら、どう考えたってエンジェルを取るだろうにそれをしなかった事に私感激したよ。是非これからもうちでライブをしてほしいって思ったよ。

しかし、バンドのリーダーさんホントちゃんとしてるよね。関心しちゃった。リーダーさんにも言ったんだけど、来年になったら今度こそ5人でライブして下さいな。」

「…ありがとう。」

「もう。らしくないなぁ。謝るくらいなら何か飲んでってよ。」

「ああ。もちろん。」

「よし!じゃあ、この話しはおしまい。龍司君が直接来てくれた事によって私はまだ見ぬバンドを好きになったよ。」

龍司は深く頭を下げてから席に着いた。



2014年10月6日(月)2時30分


(ふぅ〜。昨日のライブはファーストステージが終ったら帰る人が多かったな…やっぱり雪乃の存在は大きい…)

毎週恒例となった日曜日のブラーでの練習を終えた結城春人は大きなため息を吐いて家に入り玄関の戸を閉めようとした時、

「大きなため息だな。何かあったのか?」

と父正の声が聞こえて春人は驚いた。

「今、帰宅ですか?」

春人は正に聞きながら腕時計の時刻を確認した。もう深夜の2時30分だった。

「お前も今帰ったのか?」

「あ、はい。」

「そうか。」

それだけ言って正は先にリビングへと入って行く。春人も正の後を追いかける様にリビングに入った。正はリビングに入るとすぐにソファに座り新聞に目を通した。

「佐倉みなみさん。」

春人がそう言った瞬間、正が新聞を持つ手に力を入れたのがわかった。

「父さんが担当してたんですね。」

「そうだ。もしかすると姫川の娘とは知り合いかもしれないと思っていたが…まさか春人達の知り合いだったとはな。」

「拘束型心筋症って…」

「患者の事は何も話せないぞ。」

「…いえ。佐倉さんの事じゃなくて病気の事を聞きたいだけです。」

「…そうか。ならいいだろう。」

「その拘束型心筋症って俺初めて聞いたんですけど…一体どんな病気なんですか?」

「専門的に話せばいいのか?」

「…いえ。わかりやすくでいいんです。」

「拘束型心筋症は他の心筋症に比べてまれな疾患だな。今のところ有効な治療法は存在しない。」

「…そんな。」

「軽症の場合は無症状のことがある……」

(みなみはもう軽症ではない。胸の痛みが出て来ている。)

「胸痛と失神はあまりみられない…はずなんだが…あの子は最近胸痛が続いているようだ。」

少しだけ正はみなみの事を教えてくれたのだと春人は思った。もう少し何かを話してくれると思って春人は待ったが正はそれ以上は何も話す事はなかった。春人がリビングを出ようとした時、正が言った。

「春人。コンタクトも買おうとしているみたいだがお金はあるのか?」

「はい。昔からお小遣いを貯めていたので。それにこの新しいメガネフレームもお父さんが買って来てくれたので助かってます。」

「ここにお金を置いておく。コンタクトともう一本眼鏡を買いなさい。」

「でも……」

「いいから取りなさい。」

「…はい。」

(いつまで親にお金を出してもらってるんだ俺は…情けない…)



2014年10月31日(土)17時15分


家のリビングに置かれたグランドピアノを弾きながら長谷川雪乃は、はぁあ。と口に出した。

「どうしたんですか師匠?」

横にいた凛がため息をつたい雪乃に聞いた。雪乃は頭を横に振りながらピアノを弾くのをやめた。

「師匠、コンクールまで約1ヶ月ですよ。最近全然ピアノに集中出来てないですよ。」

「そうなんだよね…なんで集中できないんだろう…?凛ちゃんにはどうして私がピアノに集中できてないのか伝わってるの?」

「え?ま、まあ…。」

「…そうなんだ。私自身気付いてないのに私の気持ちはピアノに入ってるんだ…」

「師匠は…バンド活動が楽しくなってきてるんですよね?」

「え?そうなの?」

「師匠の心はそう言ってますよ。」

「…そうなんだ…気が付かなかったよ…」

「師匠は今、コンクールよりもバンド活動がしたいっていう気持ちで一杯です。みんなはブラーでライブしたり練習したりしているのに参加出来ない自分が悲しいって心の中では言ってます。」

「そっか…」

「12月のコンクールが終れば次はライブでしょ。またバンド活動は出来るんだからそれまでの辛抱と思ってコンクール頑張りましょうよ。」

「コンクールが終ってライブも終ったら次は柴咲交響楽団とのコンサートだよ?なかなかバンド活動は出来ないね…」

「でもそれが終れば柴咲音楽祭が待ってますよ。最優秀賞にはプロ契約ですよ。」

「優秀賞を獲っても獲れなくても私は高校卒業までしかバンド活動できないよ。音大に入ったらバンド活動なんて出来る気がしないし…留学もするだろうし…」

「遊びのバンド活動なら師匠がピアノの先生の夢を叶えた後でも誰かと出来ますよ。」

「う〜ん…」

「あのメンバーでバンド活動したいんですね?」

「…私の夢…変わってきちゃったのかな?」

「…そうかもしれないですね。」



2014年11月1日(日)17時30分


白石凛は昨日に引き続き雪乃の家のリビングにいる。雪乃の家は豪邸と言っても過言ではないくらい大きい。雪乃は今、リビングにあるグランドピアノを弾いている。その音色はとても悲しい。しかし、凛には悲しみの音色以外に雪乃が迷っている気持ちまで一緒に伝わって来る。今まで雪乃がこんなに迷いながらピアノを弾いている姿を見た事がなかった。しばらくピアノを弾いていた雪乃がピアノを弾く手を急に止めた。

「師匠どうしたんですか?」

「わかんないんだ。」

「何が?」

「これから…私が何をしたいのかがわからないんだ。どうしたらいいのか…答えが決まらないんだ。」

「……」

「どうしようかな…」

普段なら雪乃は迷ったとしても、どうしようかなと言った後、あっこうしよう。と言ってすぐに答えを出す。しかし、いくら待っても雪乃は答えを出さなかった。

(いつも変な行動をとって、人と違う考え方の持ち主で、何かに迷っても1秒も掛からないうちに答えを出す師匠がここまで真剣に悩んでいるなんて信じられない。)

「…答え出ないや……練習はここまでにするよ。次は凛ちゃんのレッスンね。」

凛のレッスンをする為、2人は今いるリビングから2階にある雪乃の部屋に移動した。雪乃の部屋へ向かっている途中で雪乃は立ち止まりじっとフローリングを見つめ出した。

(また始まった…)

雪乃は時々動きを止めてじっと何かを見つめる時がある。その時は決まって何かを考えている時だ。きっと何かを考えるあまり他の行動が出来なくなるのだろう。

「師匠?フリーズしてますよ。」

雪乃は凛に声を掛けられて我に戻り歩き出した。雪乃の部屋は2つあり、一つが勉強をしたり寝る為の部屋で、もう一つがオルガンや最近購入したシンセサイザーとアナログターンテーブル2台とDJミキサー等DJセットが置かれた音楽部屋がある。雪乃は認めないがシンセサイザーを購入したのは凛の為だ。

凛は雪乃にピアノより本当はシンセサイザーがやりたかったと話した事があった。すると雪乃はその話しを聞いた翌日には高級なシンセサイザー等を購入していた。なぜDJセットを一緒に購入したのか理由は不明だが、これも一緒に使ってとその時雪乃は言った。DJセットには興味がなかった凛だが、実際触ってみるとその魅力に取り付かれて練習するのが楽しかった。

毎回凛は1時間程雪乃にオルガンでレッスンを受けた後、シンセサイザーとターンテーブルを使って練習をする。今日も同じ様に練習をしていたが、どうして雪乃がシンセサイザーだけではなくDJセットを買ったのかを質問した。雪乃は、私DJやってみたかったの。と答えたがそれは嘘だ。雪乃がシンセサイザーとDJセットを触った痕跡は全くない。

「私の為に買ってくれたのはわかってるの。」

「そ、そそそそんな。いくら弟子の為とはいえ買ってあげたりするわけないよ。」

「師匠嘘つくのヘタだからすぐわかるよ。」

「嘘ヘタじゃないよぉ!めちゃくちゃ嘘つくの上手いんだからっ!」

「いや、そういう話しじゃなくて…とりあえず私に気を使わせない為にそう言ってくれてるのはわかってる。ただ、どうしてシンセサイザーだけじゃなく、DJセットを買ったのかなってずっと疑問だったの。」

「だからぁ。私DJやってみたかったの。」

「その割に触ったとこ見た事ない。」

「あるよ。」

「ないよ。」

「もぉっ!」

「もぉっ!じゃない。教えてよ師匠。どうしてDJセットまで購入したの?」

「いらなかった?」

「触ってたらめちゃくちゃ面白いしハマったよ。」

「そう…良かった。私ね。シンセサイザーとターンテーブルを使って曲を演奏する凛の姿を見たいなって思っただけ。きっとシンセサイザーだけじゃない方がバンドにはいいと思うんだよね。」

「バンド?」

「うん。バンド。」

「どういう事?」

「わかんない。」

「わかんないってどういう事?」

「わかんない事がわかんない。」

凛は首を傾げた。何故か同じ様に雪乃も首を傾げた。

「師匠!私バンドを組みたいなんて言った事ないよね?」

「ないね。それは私の勝手な願い。よぉし!決めた!私やっぱりバンド活動は高校卒業までにするよ。」

「え?どうしたの急に…」

「思い出したの。どうしてシンセサイザーとかを買ったのか。」

「は、はあ…」

「だから。」

「だからって何がだからなの?」

「だからバンド活動は卒業するまで。卒業したら音大行って、留学して、戻って来てピアノの先生になる。よかった大事な事を思い出せて。ありがとね凛ちゃん。私は今まで通りの目標で夢に向かって行くよ。」

「私には師匠が何を言ってるのか全然わかんないんだけど…」

「私バンドを続けたいわけじゃなかったよ…もちろんバンド活動は楽しいし続けたい気持ちもある。だけどそれよりも私、バンドを抜けた後の事を心配する様になっていたのかも。だけど、大丈夫。もう大丈夫。」

「どういう事?」

「凛ちゃん。私の後継者は凛ちゃんだよ。」

「は、はぁ…」

(余計混乱した…)



2014年11月2日(月)17時


橘拓也は一人ルナのカウンター席に座り先にホットコーヒーを飲んでいる。先にと言っても今日の待ち合わせ相手はみなみではなく間宮だ。

昨日のブラーでの練習前に拓也は間宮から明日マスターがいるようならルナに行こうと思うんだけど一緒に付いて来てほしいと頼まれた。その場で拓也は結衣にLINEを送りマスターが仕事に入っている事を確認した。

「トオルさん遅いねぇ。」

結衣が拓也にそう言うと横にいた新治郎が、トオル?と言った。

「まさか間宮の坊主がここに来るのか?」

「そうなんです。5時に待ち合わせって言ったんですけどねぇ…」

「なんだよ。みなみちゃんを待っているもんだと思ってたよ。」

「みなみは路上ライブから来てくれます。」

「トオルさんも今日路上ライブ見て行くのかなぁ?まだ見に来てくれた事ないんだよね?」

「そうなんだよ。一度くらい顔出してくれてもいいのにな…もしかしたら今日見に来てくれるつもりなのかもしれないけど…どうかな?」

「間宮の坊主がここに来るなんて何年振りだ?あいつブラーをオープンした際に一度挨拶に来たっきりここには寄ってないから…かれこれもう13年振りになるのか…

おっと。噂をすればだ。間宮の坊主が来たぞ。」

新治郎がそう言ったので拓也は店のドアの方を見た。間宮の影らしきものが映っている。が、なかなか店内に入ろうとしない。

(まさか…トオルさん…店に入るかどうか悩んでるのか…?)

「結衣。ドア開けてやれ。」

「あいよ。」

結衣がドアを開けると間宮はまるで少年のように頭を掻きながら店内に入り、「お久しぶりです。」と新治郎に言って店内を見回した。

「ここは何も変わってないな…あの時のままだ…マスターも元気そうで。」

「おかげさんで元気だ。何にする?」

「ルナドッグとホットで。」

「あいよ。」

それ以降間宮と新治郎は拓也が路上ライブに行くまでの1時間の間全く会話をしなかった。13年振りで話す事も沢山あるはずなのに2人は話しをしなかった事に拓也は不思議だった。もしかしたら2人は何から話したらいいのかわからないまま1時間が過ぎた可能性がある。話しをしない2人の代わりに拓也と結衣がよく喋っていた。それが余計に2人に会話をさせにくくしていたのかもしれないと後から拓也は後悔した。

路上ライブに間宮が訪れたのは7時をまわった頃だった。間宮が来た事で拓也はかなり緊張しながら歌っていた。それは路上ライブを見に来てくれたみなみや一緒に歌っている龍司達にも伝わっていたし自分自身でもわかっていた。

路上ライブ終了後、間宮は、よかったよ。と路上ライブの感想を一言述べて帰って行った。その一言あるだけで拓也は充分だった。その帰りはいつものようにみなみと2人で歩いて帰った。今日の話題は間宮の事だった。

「でさ。路上ライブが始まるまでの1時間ルナでトオルさんと一緒にいたんだけど。トオルさんもマスターも全然喋らないんだ。俺と結衣ちゃんだけが喋ってたんだよ。トオルさんがルナに行くって決めたのになぁ。」

「それでよかったんじゃない?」

「え?」

「トオルさんは別にルナのマスターと話す為じゃなくてルナに行く事自体が目的だったのよ。それをマスターも気付いてたから何も話しかけなかったんじゃない?それにルナに行くっていうきっかけがほしかったんじゃないかなぁ〜。一度顔を出せば次行きやすくなるでしょ?拓也君は充分トオルさんの役に立てたと思うよ。」

「そっかー。それならいいんだけどさ…そうだ。みなみ体の調子はどう?」

「うん。大丈夫。拓也君の彼女になってから胸が苦しくなったりしてないよ。だけど、今度の診察は検査が入ってる。」

「検査?」

「あ、急に決まったんじゃなくて前から決まってたから心配しないで。」

「それはいつ?」

「今月の24日。」

「そっか。」

「そうだ。雪乃元気かな?もう全国大会まで1ヶ月切ったね。」

「春人が言うにはいつも通り元気みたいだよ。結衣ちゃんの親友の凛も同じ事言ってたらしいし元気なんだろうな。」

「拓也君達は応援に行くの?」

「ああ。全国大会は2日に別れてるけど、雪乃が出るのは大会2日目だけみたいだから2日目だけ行くよ。みなみもどう?」

「2日目と言うと12月7日の日曜か…私も行こうかな?」

「よっしゃ!そうこなきゃ。」

「あ、全国大会の場所ってどこなの?東京?」

「ううん。横浜だからすぐ行けるよ。」

「楽しみだなぁ。3連覇だっけ?かかってるんだよね?」

「うん。雪乃は気にしてないだろうけどね。」

みなみは、「ぽいね。」と言って笑った。

(この笑顔。俺、大好きなんだ。)

「あ、そうだこれ…メチャクチャおそくなっちゃったんだけど修学旅行のお土産。」

みなみが手渡したハワイのお土産はクッキーだった。

「偶然。俺も今日みなみに修学旅行のお土産渡すつもりで持って来てたんだ。」

拓也が鞄から出したお土産は長崎ではなくても買えるような人形だったがみなみは、可愛い。と言って喜んでくれた。帰宅途中にあるバス停の椅子に座ってさっきみなみから貰ったばかりのクッキーを2人で一緒に食べた。みなみは、「腐ってないかなぁ。」と心配しながら匂いを確認してクーキーを食べていた。

「もしかして…デートする時に渡そうと思ってて遅くなったから今日持って来てくれたりした?」

みなみは驚いた表情を浮かべて、「どうしてわかったの?」と聞いた。拓也は、「俺も同じ考えだったから。デートらしいデートも出来ないまま日にちが過ぎてしまってごめん。」

「いいんだよ。私はライブ後にこうやって一緒に帰っているのもデートだと思ってるし。」

そう言ってみなみはニコリと笑った。

(やっぱり大好きだな。その笑顔。)

そして、月日は流れて2014年の12月を迎えた。



2014年12月7日(日)


拓也、龍司、真希、春人、みなみ、結衣、凛の7人が雪乃の全国大会の会場に着いたのは12時を過ぎた頃だった。

「すっごい人。もう始まってるよね?あ、受付けあっちだよ。」

結衣が楽しそうに先頭を歩き、拓也達は結衣に付いて行った。雪乃の出番は15時頃だと聞いている。

「ちょっと早く着いちまったな。どうする?楽屋に挨拶行ってどっかで時間潰すか?」

「龍司なに言ってんの。そのまま会場でコンクール見るに決まってんでしょ!龍司も拓也も前みたいに演奏中に眠ったら今度は叩き起こすからねっ!」

真希がそう言うと結衣は楽しそうに目を細めながらみなみに向かって言った。

「えぇ〜。龍ちゃんが寝るのはわかるけど、拓也くんまで寝たの?これはこれは彼女の教育が足りてませんねぇ。」

「それはみなみと付き合う前だよ。今日は雪乃の大事な日だ。寝るわけないだろう。」

拓也は自信満々にそう言いきった。

少し楽屋で雪乃と会話をした後、7人はすぐに会場に入った。拓也の席の右隣にはみなみが座り左には真希が座っている。拓也は席に着いた途端睡魔が襲って来た。

(…ヤバい…眠い…)

真希の左隣には龍司が座ったが、龍司は席に着いた途端声を出してあくびをした。真希は思いっきり龍司の足を踏みつけた。龍司はなんとか声を出さずに踏ん張ったがかなり痛そうだった。

(ヤバい…隣に真希がいたら眠れない…)

真希が横にいるプレッシャーのせいか拓也は今回は眠る事なくコンクールを鑑賞する事が出来た。龍司はというと何度も眠りに落ちたのだろう1時間に2、3度は隣の席の真希が龍司の頭を叩くパチンという音が聞こえた。そして、随分と時間が経った頃、拓也は普段あまりしない腕時計で時刻を確認した。

(2時45分。雪乃の登場まであと15分か…なんとか耐えられた…)

そして、毎回同じようで少しデザインの違う真っ赤なドレスを身にまとった雪乃がステージに現れた。前髪はいつも通りきちんと揃えられているが今日も後ろ髪等は寝癖だらけだ。今日優勝すれば全国大会3連覇が掛かっているにも関わらず雪乃は楽屋で普通に過ごしていた。

(あんなに緊張している素振りがなかったのに雪乃は魔法の言葉を唱えてから今ステージの上にいるのだろうか?)

雪乃は体全体でピアノを弾き始めた。それが良いのか悪いのか拓也にはわからなかったが雪乃がピアノを弾く姿に圧倒された。

(凄い迫力だ。今までの雪乃の演奏の中で今日が一番凄い。)

眠らずに何人ものピアニストの演奏を聴いていたからなのか個人的なひいき目があるからなのかはわからないが拓也には雪乃の演奏がどの演奏者よりも圧倒的で凄く感じた。雪乃の演奏が終ってから2時間後、表彰式が行われた。

そして、雪乃は3年連続グランプリを受賞した。

この日集まった7人は夜遅くまで雪乃のグランプリ受賞を祝った。


10


2014年12月21日(日)12時


全国ピアノコンクールから2週間が過ぎた。雪乃は3連覇を成し遂げた事によって色々な所から取材を受け、今日を迎えるまでバンドの練習は出来なかった。さすがの雪乃もマズいと思ったのかライブ当日でもいいから少し練習がしたいと言い出した。間宮に無理を言って暁とエンジェルでのライブ当日の今日、お昼から店を開けてもらった。

「みんなごめんね。ライブ前集まってもらって。春人君なんてウッドベースを先にエンジェルに運んでからこっちに来てもらってごめんね。」

「いいよ。俺達も一度全員で練習したかったし。」

「暁班の真希ちゃんと拓也君がライブに向かうまで5時間半はあるよね…充分練習出来そうだね。」

「じゃあ、雪乃早速練習を始めましょう。」

「あ、その前に真希ちゃん。私言っておきたい事があるんだけどいいかな?」

その言葉を聞いて真希の表情は一気に固くなったのが拓也には見て取れた。

「私、本当はみんながプロになるまでバンド活動付き合いたいんだけど、さすがにいつまでもっていうのは無理だと思うんだ…」

「そうだね。私達もいつまでも雪乃にバンド活動に参加してもらうのは悪いと思ってる。」

「私…私ね…」

雪乃は話しにくそうに体を揺らして言葉を止めた。真希はこれから雪乃が何を言うのか覚悟を決めている。もちろん拓也も龍司も春人もだ。

先週のバンド練習の時、真希は拓也達3人に言った。雪乃がバンドを辞めると言い出したら私達にそれを止める権利はない。雪乃はバンドのメンバーではなく、あくまでもゲストなんだ、と。拓也はピアノコンクールでグランプリを獲った有名人に無名のバンドに付き合ってもらうのは悪いしねと真希に言った。すると真希は、『グランプリを獲ったからっていうのは関係ないの。雪乃がグランプリを獲ったのは今回で3回目だし前から有名人だったからね。それでも雪乃は力を貸してくれた。でもいつまでも私達は雪乃に甘えてばかりじゃダメなんだよ。きっと雪乃がバンド活動出来る期間は高校卒業までだと思う。大学に入っても雪乃がバンド活動をしたいと言い出しても私はそれを止めるわ。雪乃が音大に入ったら夢であるピアノの先生になる為に頑張ってほしいしその事だけに集中してほしい。雪乃ならピアノの先生になれるのは間違いないんだろうけど、それでも私は雪乃の夢の邪魔だけはしたくない。だから、雪乃がバンドを辞めると言ったなら止めずに送り出してあげましょう。そして、大学に入ってもバンドを続けたいと言っても…私達は断りましょう。』と言った。真希のその言葉で雪乃と一緒にライブが出来る日は残り少ないのだと拓也達は覚悟を決めた。

「雪乃。迷わずに言ってくれていいのよ。私達みんな覚悟は出来てる。」

雪乃は体を揺らすのをやめて、うん。と答え真希の顔を真っすぐ見た。そして、視線を拓也、龍司、春人とそれぞれに移してから言った。

「私、バンド活動するのは高校を卒業するまでにする。」

「うん。わかったわ。」

「ごめんね。真希ちゃん。」

「どうして謝るのよ。無理を言ったのは私達の方なんだから。それに雪乃がバンドに参加してくれるのは高校卒業までだろうなって前々から私予想してたし。あ、あと、雪乃がいる間に私達プロになるから。オーディションまで1週間をきたったわ。オーディションの練習も今日はするわよ。さあ!みんな準備準備。」

「みんなありがとう。それから…お願いがあるんだけどクリスマス・イヴの柴咲交響楽団とのコンサートも見に来てくれないかな?」

「もちろんよ。それにはみんなで行く予定だし。」

「ありがとう。それから…ありがとう。」

「なんで2回もありがとうを繰り返すんだよっ!」

龍司が突っ込むと雪乃は、テへへと口に出して笑った。

「今までありがとうって意味だよ。本当に楽しかったよ。良い思い出が出来た。この思い出は一生忘れないと思う。」

「待て待て待て待て。辞めるのは高校卒業する時だろ?今お別れの言葉とか言わなくていいだろう?」

「あ、そっか。」

そして雪乃はまたテへへと口に出して笑った。


11


「18時25分か。じゃあ、私達先に出るから。龍司。こっちのギターちゃんとエンジェルに持って行ってよ。」

真希はエレキギターとフォークギターの2本を用意していて暁のライブではフォークギター。エンジェルのライブではエレキギターを使い分ける予定だ。

「ああ。じゃあ、円陣組んどこう。」

龍司がそう言うので拓也達はいつもの様に円陣を組み、龍司がいつもの様に、楽しもう。と言ってそれに4人が答えた。

「真希もタクも頑張って来い。」

「俺達ももうすぐしたらエンジェルに向かうよ。」

「拓也君。魔法の言葉忘れずにね。」

ブラーを出ようと入口付近まで歩いた所で真希は龍司達の元へと足早に戻って行った。

「龍司。もし、エンジェルのオーナーがお前は店に入るなとか演奏させないとか言ったらその時はあんたは黙って店を出てルナに向かいなさい。それとその時は必ず私に連絡を入れる事。いい?」

「…あ、ああ。わかった。そうする。そうするけどルナに向かってどうすんだよ?一人でコーヒーでも飲んでライブ終るの待ってろって言うのかよ?」

「そうよ。」

「マジかよ?」

「だけど、あんた一人じゃないわ。私と拓也と三人で一緒にコーヒーを飲みましょう。」

「それなら俺も付き合うよ。」

と春人が言った。その後、続けて雪乃も、「じゃあ、私も。」と言ったので龍司は困った顔をした。

「それじゃあ、前言ってたプロ意識の話しはどうなるんだよ?」

真希は、う〜ん。と考えてから言った。

「今回は忘れて。」

「なんだよそれっ。ライブボイコットしたらプロ意識云々どころじゃねーだろ。その時は俺一人ライブに参加しなきゃいい話しだしお前らはライブしろよな。」

「断る。もし本当にあのオーナーがあんたに演奏させないようならこっちからライブをするの断ってやるわ。」

「お前…前話してたプロ意識の話しと矛盾してんじゃね?」

「だから、今回は忘れて。」

「…わかったよ…とりあえず、どんな感じかはLINEで送る。」


     *


拓也と真希の2人が暁に着くと店内はお客さんで一杯だった。どうしてこんなに人が集まっているのかと拓也が不思議がっていると相川と太田が店に訪れて、「人一杯集まってるね。ポスター作ったかいがあったよ。」と太田が言った。拓也と真希が、ポスター?と太田に聞くと代わりに相川が答えた。

「俺達もお前らの力になりてぇと思ってさ。悪いとは思ったけど勝手に暁のライブポスター作って店に貼らせてもらったり商店街で配ったりしてたんだ。」

店内を見渡すと太田が作ったと思われるポスターが店内の至る所に貼られていた。そのポスターにはちゃんと2人である事がわかるようにイラストが描かれていた。

「ありがとう太田君。相川。正直、エンジェルの方は放っといても人は集まるだろうけど、こっちの店はもしかしたら人が集まらないかもって思ってたのよ。本当に助かったわ。」

「姫川にそう言われると俺達もテレちまうなぁ。じゃあ、俺バイトあっから急ぐわ。」

「そうだ。念お前バイト遅刻じゃないのか?」

「ああ。でも、トオルさんには少し遅れるって連絡してあるから大丈夫だ。」

「本当にありがとな念。」

「いいって。いいって。」

相川とすれ違う形でみなみが暁に訪れた。

「五十嵐先輩と結衣ちゃんと凛ちゃんの3人はエンジェルの方でライブを見るって言ってたよ。」

「なんか私達みんなに迷惑掛けちゃってるね。」

「そんな事ないよ。みんな楽しんでるし。拓也君も真希も頑張ってね。応援してる。」

ライブ前に拓也は雪乃から教わった魔法の言葉を唱え、真希は靴と靴下を脱いでからステージに向かった。

午後7時。喫茶暁でのライブが始まった。店内はお客さんでぎっしり詰まっている。


     *


結城春人は新しく買った黒縁眼鏡を外してメガネ拭きで拭いた。新しく買ったと言っても前壊してしまった黒縁眼鏡と同じ様な感じなのだが前回の様なスクエアタイプではなく今回の眼鏡は元はサングラスでレンズを変えて眼鏡として使用しているので前のスクエアタイプの眼鏡よりレンズが大きい。春人はこの黒縁眼鏡と丸眼鏡の2本とコンタクトをその時の気分で変えて使用している。今日は黒縁眼鏡の気分だった。その黒縁眼鏡を綺麗に拭いた後、顔に掛けてから時刻を確認した。

「7時か…向こうはライブ始まったな。」

「俺らは1時間前か…そろそろ向かうか?」

「私あと30分はここで練習したい。い〜い?間宮さん?」

「ああ。構わんよ。」

3人の練習を客席からただじっと黙って見つめていた間宮が答えた。

「じゃあ。あと少しだけ練習しよう。とりあえず、30分後にタクシーが来てくれる様に連絡入れておくよ。」

「その必要はない。沙耶がもうすぐここに来るからお前らは沙耶に送ってもらえ。」

「え?黒崎さんが?いいんスか?」

「ああ。連絡はしてあるから大丈夫だ。沙耶もエンジェルでライブを見るって言ってるしちょうどいいだろう。」

「助かります。」


     *


喫茶暁でのライブは拓也のボーカルと真希のフォークギターという事もあってかほのぼのとした感じのライブだった。午後7時45分に拓也と真希の2人のライブはファーストステージを終えた。

「アコースティックライブもいい感じだね。」

と横でビデオカメラの撮影を終えた太田が佐倉みなみに言った。

「うん。おしゃれでいい感じ。同じ曲でも雰囲気変わるものなんだね。」

「ホントそうだよね。僕も原曲と全然違うのに驚いたよ。ところで橘君はこのライブでは地声だけで歌うのかな?」

「そうみたいだよ。エンジェルでは色んな歌声で歌うって言ってたけどね。」

「そっかー。エンジェルのライブも楽しみだなぁ。あ、もうそろそろエンジェルのライブも始まる時間だね。」

「こっちの2人は問題ないけどあっちの3人は大丈夫かな?」


     *


黒崎の車から降りた3人はライブ15分前にエンジェルに到着した。

「雲行きが少し怪しいな。」

「ああ。予報では今晩から結構雪が降るって言ってた。」

「やったー。私、雪大好きぃ〜。」

「しかし、少し遅くなったかな?」

「時間は大丈夫だろう?後は俺がこの店に入れるかどうかだ。」

雪乃は後ろから龍司の肩を両手で叩いた。結城春人を先頭にエンジェルの中へと入って行くとオーナーの小野が入口付近で春人達の到着を待っていた。というより雪乃の到着を待っていた。

「長谷川さん。全国ピアノコンクール3連覇おめでとうございます。」

小野はそう言って横にいたスタッフから花束を受け取り雪乃に渡した。雪乃は照れ臭そうに、ありがとう。と言って花束を受け取った。

「さあ、もうライブ開演時間間近だから楽屋に向かって下さい。」

と言った瞬間小野は龍司の姿を見て驚いた。

「どうして…お前がいる?」

「龍司君も同じバンドなの。」

と雪乃が答えた。小野は大層驚いた表情を浮かべた。

「姫川さんからは何も聞いていないな…悪いが今日のライブに…というかこの店に君は立ち入り禁止だ。帰ってもらえないかな?」

「やっぱそうなるよな。」

「じゃあ、私も今日は帰る。」

と雪乃が言ったので小野はさっき以上に驚いた表情を浮かべた。

「龍司が参加出来ないようでしたら俺達今日ライブをする気はないです。」

小野は鋭い目で春人を睨んでから言った。

「君たち2人は帰っても結構だ。だが長谷川さんだけはライブをしてもらうよ。」

春人達が入口付近で小野と揉めていると、何か問題でもあるのか?と春人の父正がやって来た。

「結城先生??どうしてこちらに?」

とまたまた小野は驚いている。

「息子のライブをたまには見て見ようと思ってね。」

「息子?」

正は春人の肩に手を置いて、1時間だけ見て行く。と言った。

「結城先生の息子さんでしたか…そ、それは失礼致しました。」

「後から姫川も来ると言っていた。娘のライブを楽しみにしている様子だったから長谷川さんの単独ライブだと姫川も納得しないだろうな。まあ、私も同様だがね。」

そう言って正は先に店内へと入って行った。小野は龍司を睨みながら言った。

「…お前がどれだけこの店に迷惑を掛けたか忘れてはいないだろうな?お前を店内に入れるわけには…んっ?黒崎…さん?」

小野は黒崎が店に入って来たのに気が付いた。

「どうして黒崎さん君が?」

「ああ。この子達トオルの愛弟子達なの。だから会社としてもこの子達を無視するわけにはいかなくて偵察がてらに今日見に来たのよ。」

黒崎は実際仕事でスカウトの仕事もしているのだろうが、この時の言葉は龍司をこの店でライブをさせる為についてくれた嘘だ。そして、間宮の愛弟子というのももちろん嘘だ。

「偵察…間宮…トオルの…愛弟子…」

龍司は、小野さん。と大きな声を出した。小野はびくりと驚いた。龍司はその場で膝を着き、土下座をした。

「エンジェルで2度も暴れてしまった事は本当に反省しています。後悔もしています。どうか許して下さい。もう二度と店に迷惑は掛けません。この通りです。」

続いて春人も龍司の横に跪き龍司と同じ様に土下座した。小野は驚き周りを見回していた。

「ちょっ…ちょっと…結城先生の息子さんが土下座なんて…」

「それは龍司君だけなら土下座してもいいって事?」

と言った後、雪乃も花束を廊下に置き跪いて土下座をしようとした時、小野は、

「わかった。わかったから。やめてくれ。土下座なんてしなくていいから。神崎君が反省しているのも伝わった。だからもうやめてくれ。それにもうライブ5分前だ。早く準備をしてライブを始めて下さい。」

と言って春人の腕を持ち立ち上がらせて楽屋に向かう様に告げた。


     *


小野は黒崎沙耶と2人になってから言った。

「長谷川雪乃に姫川さんの娘に結城病院の息子…か。しかも彼らは間宮トオルの愛弟子だったとは…まさかエルヴァンの様に間宮君がプロデュースする様な事があるのか?」

黒崎は、さあ?と楽しそうに微笑んだ。

「黒崎さん。来週の柴咲音楽際だが彼らも参加するのか?」

「参加するみたいよ。まだエントリーシート出してないのかもしれないけど。」

「決してひいきしないようお願いしますよ。」

(人を見て態度を変えるような奴にそう言われるとは思わなかったな…)

「もちろんですよ。」


     *


「じゃあ、とりあえず3人でもう一度円陣組んどくか?」

龍司がそう言ったので結城春人は、そうしよう。と言って3人でもう一度円陣を組んだ。龍司が言う言葉は今回も一緒だった。

「私には出来る。私には出来る。」

と円陣の後、雪乃が小さくそう唱えているのが聞こえた。

(さあ、これからの45分間は俺達3人だけのライブだ。俺と龍司がどこまで雪乃のアドリブに付いて行けるか…が一番の問題だな。)

「あれ?龍司君おでこから血が出てるよ。」

「ん?血?」

龍司はそう言っておでこに手を当てて血が出ている事を確かめた。

「ホントだな。さっきの土下座で地面に擦り過ぎたみたいだ。」

「そんなに地面に押し付けてたの?」

「ああ。でもまあかすり傷だし血はもう止まって…」

はあはあ、とさっきから春人の呼吸が荒く小刻みに体が震えている。その様子に気付いた龍司は春人の顔に自分の顔を寄せながら心配そうに聞いた。

「おいハル。大丈夫か?さっきからお前様子がおかしいぞ。どうしたんだ?」

龍司が顔を寄せて来たせいでおでこから出る血が春人の目に鮮明に映りさっきよりも呼吸が荒くなってきた。

「はっ!ま、まさか…こんな少量のかすり傷の血を見ただけでお前…もしかして呼吸困難を起こしたのか?」

龍司はおでこの血を隠しながらそう言った。春人は龍司が言う通りだと告げる為に頷いた。

「ま、マジかよ…」

「春人君どうしたの?体、震えてるよ。」

「ハルは中学の時のトラウマで少しの血を見ただけで体が震えるって言ってたんだ。ひどい時は呼吸困難になるって…」

「…って事は、今は呼吸困難になってるから…ひどい時って事?」

「そう…みたいだな…おーい。ハル。戻ってこーい。」

龍司は春人の肩を揺すったが春人の体はまだ小刻みに震えている。

「どうする龍司君?もうライブ始まるよ。」

「そうだな。と、とりあえずハル。お前はソファで横になっとけ。な?」

龍司は春人をソファに寝転ばさせて、ハル戻ってこーい。とまた声を掛けた。

「どうする龍司君?あ、こうしよう。春人君が戻って来るまで私と龍司君2人で演奏しよう。」

「あ、ああ。そうしよう。てか、それしかねーもんな。おいハル。聞こえてるか?とりあえず俺と雪乃で先に演奏してるから体調が戻ったらステージに立て。わかったな?」

春人はなんとか龍司の言葉に頷いた。


     *


咲坂結衣は凛と五十嵐と共にエンジェルのライブが始まるのを今か今かと待っていたが開演時間になっても龍司達3人はなかなかステージに現れなかった。開演時刻から5分程が経ち少し会場がざわつき始めた頃、雪乃と龍司の2人がステージに現れた。何故か春人の姿がない事に結衣は違和感を感じたが会場にいる人達は雪乃を目当てに来ている人がほとんどだったので結衣達以外はあまり2人で演奏している事に違和感を感じていない様子だ。それにピアノとドラムだけだというのに凄く早い曲を2人は演奏していてベースの春人がいなくても演奏自体に違和感は全くなかった。

1曲目のピアノとドラムだけの演奏が終ると何故か顔色が悪い春人がステージに入って来た。横にいる凛は首を傾げながら言った。

「師匠が2曲目からステージに立つ方が声援とか凄いと思うんだけど、どうして結城さんが2曲目から出てきたんだろう?」

「だよね?凛演奏聴いて春人くんの気持ちわかる?」

「やってみる。」

しばらく凛は黙って3人の演奏を聴いていた。そして、結衣の耳元で囁いた。

「結城さん。どうやら気分が悪かったみたいだね。」

「へぇ〜。そうだったんだ。それで1曲目は休んでたんだね。てか、やっぱり凛ちゃんは凄いね。」

「気持ち悪いだけだよ…。」

「そんな事ない。普通の人にはない特別な能力だよ。」

「…ありがとう結衣ちゃん。でも…私は普通がいい。」

結衣は凛の特別な能力を羨ましいと思っている。だけど、それを言うと凛はいつも暗い表情になる。

(その能力…いらないなら結衣がほしいよ…)


12


8時45分。無事に暁でのライブを終えた橘拓也と真希は急いで内田と暁に集まったお客さん達にお礼を言って店を出た。内田も一緒に店を出て来てくれて商店街を少し出た所にタクシーがもう待ってくれてるからそれに乗ってエンジェルに向かって。と言ってくれた。拓也と真希はもう一度内田にお礼を言って、みなみと太田と共にそのタクシーに乗り込んだ。

助手席に座る真希は靴下を履いていなかったみたいで靴を一度脱ぎ靴下を履いている。その様子を拓也が見ていると靴を履き終わった真希が急に後ろを振り向きながら拓也に言った。

「そうだ。龍司達は無事エンジェルでライブ出来てるってさ。」

「よかった…」

エンジェルに近づいて来ると真希がスマホを見ながら言った。

「運転手さんやるぅ。15分は掛かると思ってたけど10分で着くよ。」

9時5分前にエンジェルに到着した拓也と真希は急いで楽屋に向かい、みなみと太田は客席にいる結衣達と合流をした。

「はあ。なんとか5分前に到着した。3人とも問題はない?」

真希が急いで楽屋のドアを開け3人に聞いた。

「龍司もなんとか店に入れたし雪乃のアドリブにもなんとか付いて行けた。俺も血を見てしまって呼吸困難を引き起こして最初の曲は参加できなかったけど…まあ、問題はないよ。」

と答えた春人の話しを聞いて拓也はいろいろと問題起こってたのだと感じた。

「じゃあ、改めて円陣組んどくか。」

「またぁ?私と春人君は今日3回目になるよ?」

「何度やったって別にいいだろう?」

「じゃあ、さっさと円陣組みましょう。」

5人は改めて円陣を組んだ。円陣を組みながら春人は真希に言った。

「真希のお父さん来てるぞ。」

「え?そうなの?」

「ハルの親父さんもさっきまで来てくれてた。あと、黒崎さんも来てる。てか、俺ら3人ブラーからここまで黒崎さんの車で送ってもらった。」

「そう。後で私からもお礼を言っておくわ。そうだ春人。私今回のライブに楓呼ぶの忘れたんだけど春人は誘った?」

「ああ。誘ってるよ。貴史のおじさんとおばさんと一緒に来てくれてる。」

「あと、赤木と郷田と西野のLOVELESSの3人も来てるぜ。てか、あのオーナー俺は店に入れようとしなかったくせに赤木達は簡単に店に入れたんだな。」

「龍司は簡単に店に入れなかったのか?」

拓也が聞くと雪乃が、土下座して店に入れてもらったんだよ。と本当か嘘かわからない感じで答えたので拓也は本気にはしなかったが真希は本気で捉えたらしく、よく我慢したわね。と言った。

「てかさ、赤木さん達3人はどうやって今日のライブ知ったのかな?」

拓也が疑問に思った事を質問すると龍司が答えた。

「赤木の奴、学校で相川にポスターを渡されたらしい。」

「え?それって太田のポスター?」

「ああ。」

拓也と顔を見合わせてから真希が言った。

「実は暁のライブのポスターも太田君作ってくれてたのよ。しかも商店街でそのポスター配ってくれてたみたいでお客さん一杯集まってくれてたの。」

「ほら。こんなポスターだよ。」

雪乃が円陣を組むのを辞めて楽屋の机に置かれていたポスターを拓也と真希に見せてくれた。そのポスターは暁のポスターとはまた違いエンジェル専用のポスターだった。

「太田の奴、何も言わずに2種類のポスター作ってくれてたんだな。」

「それに大田君はその2種類のポスターを相川と一緒にいろんな所で配ってくれていたんだね。」

「あの2人には感謝の言葉しかないな。」

「今度フトダと念に何か奢ってやらねーとな。」

「うん。うん。そうしよう。」

「じゃあ、円陣組むぞお前ら。」

「おー!」

円陣を組み直してから、龍司は、「リーダーから何か言いたい事はあるか?」と真希に聞いた。真希は少し考えてから言った。

「私達は5人だけでライブをやってるわけじゃない。いろんな人達が応援してくれてる。その事をみんな忘れないようにね。」

拓也達は、おー!と声を出した。その後、龍司がいつもの様に、「楽しもう。」と言い。拓也達はまた、おー!と声を出して答えた。円陣を組んだ後、真希と龍司と春人と雪乃の4人は先に楽屋を出て行った。もちろん真希は楽屋を出る前に靴と靴下を脱いでステージに向かった。

拓也一人だけが楽屋に残った訳はエンジェルのセカンドステージの1曲目は4人だけのインスト曲「BATTLE」だったからだ。以前この曲を演奏した時は雪乃も拓也と一緒に楽屋で演奏が終るのを待っていたが、今回は雪乃のピアノも含めた新しいバージョンになっている。楽屋に「BATTLE」の演奏が小さく聴こえ始め、拓也のテンションは上がった。そして、今日2回目となる魔法の言葉を唱えた。

「俺には出来る。俺には出来る。」


     *


エンジェルでのセカンドステージが始まった。曲は以前聴いた事のあるBATTLEという曲だったが雪乃のピアノが入った事によって前に聴いた時よりもは佐倉みなみの耳にはより格好良く聴こえた。そのBATTLEの演奏が終ってボーカルの拓也がステージに現れた。拓也はいつもの様に目を閉じ、そしてパッと目を開けた。その瞬間がわかっていたかの様に真希がギターを弾き始めた。

(凄いなぁ真希。タイミングばっちり!それに拓也君…前よりも歌上手くなってる。)

みなみは前よりも上手くなった拓也の歌声に鳥肌がたった。いろんな声を出して歌う拓也に周りのお客さん達は驚いていて店内は、おー。という声や拍手で鳴り響いた。店の店員達も驚いている表情を浮かべている。みなみは拓也の歌声を聴いて驚く人の顔を見るのが好きだった。そして、心の中で呟く。『凄いでしょ。』と。


     *


「驚いたねぇ。」と横にいる小野が呟いた。黒崎沙耶もこのいけ好かないエンジェルオーナーと同じ気持ちだった。真希達の演奏にも驚いたが何よりも今歌っている拓也に黒崎は本当に驚いた。拓也達の路上ライブは今まで何度か見た。だけど、こんなに色々な歌声を出せるなんて知らなかったし間宮も教えてくれなかった。しかし間宮は、アイツの本当の声を知ればお前の事務所はあいつらが欲しいと思うようになるさ。と言っていた。黒崎は間宮の言葉の意味がわかり、「確かにね…」と呟いてスコッチを一口飲んだ。小野は自分の言葉に黒崎が反応したと思ったらしく黒崎の顔を見ながら首を捻っていた。黒崎は小野に説明する様に話した。

「いや、トオルがね。彼らをウチの事務所が欲しがるって言ったのよ。それを思い出してね。」

「…正直、今日のライブは長谷川さんが出てくれるからと思って彼らを呼んだんだよ。」

(そんな事だろうと思ってたけどね。)

「だけど…私は少し彼らを見くびっていたよ…本当に驚いた。」

「柴咲音楽祭が楽しみですねオーナー。」

「ええ。彼らがプロに一番近いバンドかもしれません。」

(そうなったら…トオルは彼らの為にプロデューサーに戻るだろうか?そうなれば最高なのにな。)


13


9時45分にエンジェルのライブが終了した。姫川真希は楽屋に入るなりぐったりとソファに倒れ込む様に深く座った。

(ふぅ〜。終った…。いつものライブより何倍も疲れた…いつもの様に雪乃のアドリブはあったもののそれはそれで楽しかった。それに全員がちゃんと雪乃のアドリブに対応する事が出来るようになっているのはこのバンドの素晴らしいところだ。)

「みんなお疲れ。」

真希がそう言うと拓也は笑顔で、楽しかったなぁ。と言った。その言葉を聞いて龍司と春人は、うんうん。と言って頷いた。雪乃は燃え尽きた様子で一人で、プスプス。と声に出していた。真希は少しだけテーブルに置かれていた水を口に含んでから言った。

「さあ、楽屋を出て今日来てくれた人達に挨拶に行きましょう。」

龍司は両手でパンパンと顔を叩いて気合いを入れてから、「そうだな。」と答えた。春人は拓也の様子を気にして、「今日は喉大丈夫か?」と聞いていた。拓也は春人が何故喉を気にしているのか一瞬わかっていなかった様子だったが、「ああ。喉?大丈夫。大丈夫。歌声変えて歌ったのエンジェルの45分間だけだったし。喉は痛くないし、声も普通に出る。」と答えていて真希も安心した。

「それはよかった。じゃあ、楽屋出て挨拶行こうか。雪乃?行けるか?」

それまでプスプス言っていた雪乃は春人に声を掛けられて、うん行けるよ。と答えた。真希達5人が楽屋を出ると残っていたお客さん達が何故か真希達に拍手を送ってきてくれた。真希達は照れながらその拍手にお辞儀をして応えてからそれぞれ今日足を運んでくれたお客さん達に声を掛けてまわった。真希は沢山のお客さん達と話し終えた後、黒崎の元へと向かった。

「龍司達をここまで送ってもらったみたいでありがとうございました。」

「ああ。いいのよそんな事。」

「龍司達の…彼ら3人の演奏はどうでしたか?」

「凄く良かったわ。ゲーム音楽をジャズ風にしてたりホント楽しませてもらったよ。ところでリーダーさん。柴咲音楽祭のエントリーってちゃんと出した?」

「あ、はい。ちゃんと出してますよ。どうしてですか?」

「さすがリーダー。ちゃんとしてるんだね。イベント来週だからちょっと心配になって聞いただけ。言っとくけど知り合いだからって君達に肩入れしたりしないからね。」

黒崎は酔いが回っているようで怪しい呂律でそう言った。

「はい。わかってますよ。」

「ところでバンド名ってなんだっけ?」

「まだ決まってないんです。」

「そうなのぉ〜?エントリーシートにバンド名書いてないのか…じゃあ、音楽祭までにバンド名ちゃんと決めておいてよ。」

「…はい。わかってます。」

真希はそう答えて場所を移動しようとした時、赤木達の姿を見つけて声を掛けた。

「あ、赤木さん今日は見に来てくれてありがとう。」

「ああ。いい刺激になったよ。少し動画を撮ったから、ひなに送ってもいいか?」

「はい。いいですよ。赤木さん達はひながいない間3人で練習してるの?」

「ああ。今日も練習帰りに3人でここに寄った。」

「そっか。頑張ってるんだね。」

「まあな。」

「ひなはいつこっちに来るの?」

「12月26日だな。柴咲音楽祭の前日。」

「そっか…4人で練習は出来ないんだね。」

「ああ。でも、俺らはそれでやってるから大丈夫だ。そんな事より真希は自分達のバンドの事を心配してろ。」

「え?」

「長谷川雪乃。一応は正式なバンドメンバーじゃなくてゲストメンバーなんだろ?」

「あ、うん。」

「お前ら長谷川雪乃のアドリブに全員楽しんでるところがある。観客もそれを楽しんでるわけだけど、あくまでゲストメンバーだとわかってるのか?」

「あ……」

真希は赤木が言わんとしている事がわかった。

「真希ならそこらへんはきっちり一線を引いてると思ったんだけどな。」

「……」

「お前らのバンドは長谷川雪乃が中心になってるところがある。正式メンバーに迎えるつもりならそれでいい。だけど、違うのならお前らは長谷川雪乃に頼り過ぎだ。」

「……」

(確かに赤木さんの言う通りだ。)

「まあ、今すぐってわけにはいかねーだろうけどな。俺からのアドバイスは以上だ。」

「ありがとう赤木さん。私そんな大事な事に気付いてなかったよ。」

「あと、柴咲音楽祭はオーディションだ。演奏時間も決まってる。アドリブ入れて時間オーバーで失格なんてなるなよ。」

「…わかったよ。それは雪乃に強く言っとくよ。」

「じゃあ、俺らはこれで帰るわ。龍司のバカにまた腕上げたなって伝えといてくれ。」

(自分で伝えればいいのに…)


真希達がもう一度楽屋に戻ったのは11時過ぎだった。

「思ったより挨拶してたら時間掛かったわね。」

「ホントだな。もしかしたら雪積もってっかもな。」

「やったー。雪ぃ〜。私、雪大好きぃ〜。」

5人がエンジェルを出ると龍司が言った通り雪が降り積もっていた。

「ねぇ〜。見て見て。雪結構積もってるよ。」

「ああ。見えてる。」

雪乃は積もった雪を踏みながら楽しそうにはしゃいでいる。

「子供か。」

「雪乃コートも着ずにはしゃいでたら風邪引くよ。あんた水曜にはクリスマス・イヴコンサートでしょ。コートをちゃんと着なさい。」

雪乃は、はぁ〜い。と返事をして真希に言われた通り赤いドレスの上に白いコートを羽織った。店の外では雪が降る中、みなみと結衣と凛の3人が待っていた。

「龍ちゃん。結衣と凛はタクシーで帰ろうと思うんだけど一緒に乗ってくぅ?」

「あー。そーだな。」

龍司は結衣にそう答えてから拓也達を見た。

「お前らはどうすんだ?」

「私は歩いて帰るわ。」

「じゃあ、俺とみなみと一緒に三人で帰ろう。」

「拓也とみなみの邪魔にならないならそうするわ。春人と雪乃も家近いから歩いて帰るよね?」

「そうだね。雪乃もそれでいいよね?」

「うん。せっかく雪が積もってるから歩いて帰るよ。」

「じゃあ、春人、雪乃を送って行ってあげて。」

「ああ。わかった。ただ、コンビニで楓が待っててくれてるからコンビニ寄ってもらっていいかな?」

「春人君。私一人で帰りたい。」

「まさか雪乃気を使ったのか?楓とはそういう関係じゃなくってただの幼なじみだから気を使ってもらわなくていいんだよ。」

「違うの。本当に一人で帰りたいの。だって、せっかく雪が積もってるんだよ?誰かと一緒に帰るなんてもったいないよ。」

雪乃は楽しそうにスキップをしながら一人で帰り始めた。その楽しそうな後ろ姿を見届けながら真希は雪乃に声を掛けた。

「雪乃ぉー。転ばない様にねぇー。」

どんどんと雪乃との距離は離れて行く。楽しそうな後ろ姿が見えるか見えないかの距離になってから、「転ばないもぉ〜ん。」と言う雪乃の声が遠くから聞こえた。


14


2014年12月21日(日)23時30分


橘拓也はみなみと真希と3人で帰っていた。本来ならエンジェルからみなみと真希の家には15分もあれば到着しているはずだが雪が積もっているせいでまだ2人の家に到着していなかった。拓也は真希の高級なギターを一本持っているので足を滑らさないように特に慎重に歩いていた。真希は足下を気にしながら、「あ、そうだ拓也。黒崎さんが柴咲音楽祭までにバンド名を決めといてってさ。」と言った。拓也も転ばないように足下を気にしながら、「あ、そうなんだ…バンド名やっぱ必要なんだね。」と答えた。みなみは歩くのを止めて拓也に言った。

「そう言えば拓也君。拓也君の中ではバンド名決まってるんだよね?」

「あ、ああ。まあね。」

真希も歩くのを止めて、「そうなの?」と聞いた。拓也が、「うん。」と答えた時、遠くの方でパトカーと救急車のサイレンが同時に聞こえた。

パトカーと救急車の姿はここからは見えないのだが拓也は足を止めサイレンが鳴る方を見た。

(この雪の影響で車でも事故ったのかな?)

「事故に遭ったら大変だから道の端っこを歩いて帰ろう。」

拓也は壁に手を付きながら歩き始めた。みなみと真希も、「うん。」と答えて拓也の後を同じ様に壁に手を付きながら再び歩き始めた。


     *


トラックを運転していた若い男が急いでドアを開けてトラックから飛び出した。

トラックは雪の影響でスリップをして壁にぶつかっている。そして、トラックの横には今、白いコートを着た少女がピクリとも動かずに倒れている。

男は震える手でズボンのポケットからスマホを取り出したが上手くスマホを持てずに地面に落としてしまった。

男は焦っていた。震える右手を震える左手で抑えた。落ち着け。落ち着け。と心の中で男は何度も繰り返した。今すぐにでも泣き出しそうになったのをぐっと堪えて男は地面に落としたスマホを手に取った。

そして、倒れている少女の顔を見た。頭からは血を流しているが息はある。倒れている少女はピクリとも動かないがまだ生きているのだと男は思った。震える手で電話を掛けようとするが上手くいかない。落ち着け。落ち着け。と今度は声に出して呟いた。

コートの下に着ている赤いドレスが大量の血に見えて男は、ひっ。と声を漏らした。

事故の音を聞いて住宅から数人の人達が外に出て来た。警察と救急には連絡したのかと誰かが聞いて来るが男はその言葉には答えず、ただ少女に向かって、ごめんなさい。ごめんなさい。と繰り返していた。


     *


「今頃無事あいつらライブを終えたんスかね?」

相川が拓也達を心配してそう呟いたのは午後10時をまわった頃だった。

「お前も行きたかったろうに。」

「いいんスよ俺は。後でフトダに動画見せてもらうんで。そうだ今度一緒にトオルさんも今日のライブの動画見せてもらいます?」

「ああ。そうだな。」

「しかし、もったいないっスよね〜。」

「もったいない?」

「あ…前のエヴァの話しの続きなんスけど。」

間宮は今日の拓也達のライブの話しをしていたつもりでいたがいつの間にか相川は以前話していた話に話題を変えた。

「あのエヴァのプロデューサーを辞めるなんてやっぱもったいないっスよねー。」

その言葉は今までいろんな人から言われてきた言葉だ。エルヴァンに全く興味のなさそうなルナのマスターでさえ、もったいねぇな。と言った。しかし、間宮トオル自身はもったいなかったとは思っていない。

「ずっとプロデューサーの仕事を続ける気はなかったからな。」

「…そう…なんスか……」

相川は納得のいかない顔をしてまた、「もったいないなぁ。」と言った後、「そう言えばひかりさんの日記ってどんな事書いてあったんスか?」と唐突に聞いて来た。

「どんな事って聞かれてもなぁ。俺にとっては特別だけど、他人が読めば普通の日記だよ。」

「例えばお二人が付き合い出した日とかはやっぱり嬉しそうなひかりさんの文字が書かれてたんスよね?」

「俺も付き合い出した日の日記にはひかりの嬉しい気持ちが長々と書かれてるもんだと思ってたよ。だけど、違った。その日の日記にひかりが残した言葉はたった1行だった。俺と付き合い出した日だったのにな。」

「なんて書かれてたんスか?」



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今、想う


9月10日


今日はとてもいい日でした。



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この日の日記はたった1行だった。

しかし、この短い文章の中には不安を吹き飛ばす程の夢や希望や愛が込められている。

その意味がわかった菜々子はたった1行のこの日の日記をただじっと見つめていた。

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