Episode 1 ―龍―
1
ライブハウス BLUR
入口のドアに飾られたアンティーク調の看板を見ながら赤髪の男は立ち尽くす。
一人ではなかなか入りずらい雰囲気だった。
ドアの向こう側からはロックだろうか激しい重低音が漏れてきている。
街灯の明かりに静かに咲き誇る桜とは全く似つかわない音が余計に男の心を緊張させた。
『頑張れ!俺!』と心の中で赤髪の男橘拓也は自分にそう言った。
ドアノブに手をかける。
そして…
拓也は一歩を踏み出した。
2014年3月30日(日曜日)
新しい街に引っ越して来て数日経ったこの日は桜が満開で朝から夜までとても綺麗な1日だった。そんな穏やかな日にライブハウス〈BLUR〉を拓也は知った。いや、最寄り駅の近くにある店だ。そこにライブハウスがある事は知ってはいたのだが間宮トオルその人の店がBLURだという事を知ったのはこの日の事だった。
*
20年前の1994年。拓也が産まれる前の話になるが間宮トオルという名のその男はサザンクロスというバンドでプロデビューをした。
そのバンドはデビュー曲でいきなりオリコン1位を獲るという衝撃的なデビューを果たした。
しかし、俗にいう1発屋だった。サザンクロスは3年で解散。今では誰も覚えていない過去にいたバンドの1つとなった。だけど、拓也はこのバンドが大好きだった。
なぜ自分が産まれる前のしかも今では解散しているバンドを知っているのかというと4年前の中学1年生の時にたまたま入った中古屋のCDショップで手にしたアルバムがサザンクロスの1枚目のアルバムだった。ジャケットに白黒で写る4人の男達が拓也には凄く格好良く映った。いわゆるジャケ買いというやつだった。入っている曲はどんなものか賭けになるが最悪部屋に飾ればいいか。とそんな感じで拓也はCDを買った。
家に帰ってそのCDを聴いた拓也は鳥肌が立ち全曲聴き終わる頃には涙を流していた。人の曲を聴いて泣いたのは人生で初めての事だった。この瞬間からサザンクロスが好きになりファンとなった。いつの頃のCDなのかと気になり裏面を見ると1994年と書かれていた。
「俺が産まれる3年前…」
音楽好きの父ならサザンクロスを知っているかと思いこの時父に尋ねてみたのだが父はサザンクロスの事を全く知らなかった。しかし、その時横にいた母の方がサザンクロスの事を知っていた。
「サザンクロスって1曲しか売れなかったバンドよね。」
母は普段から音楽は聴かないし音楽番組すら見ない人だった。そんな母がサザンクロスの事を知っていたのは拓也からすれば本当に意外な事だった。
「確かあなたが産まれる前にヒットした曲があったわ。衝撃的デビュー曲とか言われてテレビにも毎週のように出てたのを今でも覚えてるわ。でも、あなたがお腹にいる間に私は音楽聴かなくなっちゃって気が付いたらもういなくなっていたわ。んっ?その前からいなかったかな?とにかく売れたのはデビュー曲の1曲だけだったと思うわ。」
母が言う“いなくなった”とはテレビの世界から消えたという意味だ。
「昔はお父さんより私の方がCD聴いたり音楽番組見たりライブに行ったりしてたのよ。」
母はそう言っていた。昔は母の方が音楽好きだったのかと後になって思ったのだが、この時はサザンクロスの事で頭がいっぱいだった。
『サザンクロスの曲を1曲しか知らないなんてもったいない…このアルバム全曲良いのに…むしろ、どの曲が衝撃的デビュー曲なのかがわからないくらいこの中に入っている曲は全て素晴らしいじゃないか』と中学1年の拓也はその時そう思っていた。
*
サザンクロスのギタリスト間宮トオル。このアルバムの曲全てが彼の作詞作曲だった。
拓也はサザンクロスに憧れたというより才能溢れる曲を作った間宮トオルという人に特に憧れを抱いた。
白黒で写る写真の中の間宮はとても悲しそうな顔つきをしているのが印象的だった。
サザンクロスのCDに関してはデビューアルバムに出会った中学1年の時から高校2年の現在まで探していたのだが、いろんな店でいくら探してもサザンクロスのアルバムは見つからなかった。デビューアルバムさえどこにも置いていない状況を考えると中学1年の時にサザンクロスと出会えたのは本当に奇跡と言えるのかもしれない。ネットで買おうとしてもサザンクロスというバンドはヒットすらしなかった。ヒットしたところで廃盤確定だなと拓也はもう諦める事にした。
サザンクロスと出会って間宮トオルに憧れた拓也は歌の勉強もした。勉強と言っても音楽教室に通ったりしたわけではなく一人でメロディーを作って作詞するといったもので勉強と呼べないものなのかもしれない。音楽教室に通ったりバンドを組んだりしたかったのだが、それはしたくても出来なかった。バンドを組むという事が中学1年からの拓也の夢となっていたのだが、その小さくてすぐにでも叶えられそうな夢は拓也にとってはそう簡単には叶えられない遠い夢だった。
その理由は昔から父の仕事は転勤が多くその度に家族3人で引っ越しを繰り返していたからだ。だから、間宮トオルに憧れ始めた中学1年の頃も歌を習いに行きたいとは両親に言えなかった。習いに通ったところでまたすぐに引っ越す事になるのはわかっていたからだ。
2
2014年3月26日(水曜日)
―4日前―
神奈川県にあるこの街に引っ越して来たのは最近の事で高校1年の終業式が終わってすぐの3月26日の事だった。毎回引っ越して来た日に拓也は決まってやっている事があった。それは家からこれから通う事となる学校まで何分かかるのかを実際にその道を辿って計るという事だった。
家から最寄り駅の柴咲駅まで結構な坂となっており行きは徒歩15分。帰りは上り坂になる為おそらく徒歩20分くらいは掛かるだろうがバスに乗れば10分もかからない距離だろう。そこから電車で2駅乗ると西宮駅という駅がある。時間で言うと電車に乗っている時間は6分くらいだ。その駅からこれから通う事となる柴咲西高校までは徒歩5分。家から高校までは約30分あれば間に合う。そんな計算をしてまた最寄り駅の柴咲駅に帰る。転校する度に毎回これを行っている。いつの間にか引っ越して来た初日にするというルールまで作ってしまっていた。そして、その後は街を散策するという事も決まって行っている事だ。気になる店を探し出したり知らない道を歩く事は毎回楽しいものだった。
散策した結果この街は前に住んでいた街より賑わっていて駅前にはいろんな店が並んでいた。どの店もオシャレな佇まいで、特に夜には桜の木がライトアップされていて綺麗でオシャレな印象をより際立たせていた。気になる店も何件かあった。変わった小物を置いていた店。おしゃれな洋服店。木像佇まいの本屋さん。立ち食いの串カツ屋。レトロな雰囲気の喫茶店。小さなコロッケ屋さんという名の見た目通りの店名のコロッケ屋。行列ができるラーメン屋。個性的な外観が際立ったケーキ屋さんに数多くの品を取り揃えた楽器店。その気になる店の中にはもちろんライブハウス〈BLUR〉も入っていた。
駅から少し外れた通りに〈BLUR〉はあった。半地下になっていて短く薄暗い階段を降りると入口がある。短い階段でも降りてみないとそこにライブハウスがあるなんて知っている人以外は全く気付かないだろう。入口のドアに飾られたアンティーク調の看板を見つめて拓也は立ち止まっていた。
(店の名前は…ブラーか。)
拓也が駅から少し外れた通りを歩いたのは偶然で、半地下になった階段を下りてみたのもまた偶然。その偶然が重なり合って発見したのがライブハウスだという事でこの時拓也はテンションが上がってしまい思わず「おっしゃっ!」と声に出してしまっていた。一瞬で恥ずかしくなって周りに人がいないかキョロキョロとしてしまった。キョロキョロと周りを見渡した事で拓也は気が付いたのだが、この短い階段の壁一面に沢山のライブのポスターが貼られていた。薄暗いため拓也は全然気付いていなかったのだ。そのポスターをスマホのライトで当てながら見てみるとブラーでのライブだけではなくいろんな店でのライブのポスターが貼られていた。おそらくブラーでライブをしているバンドが貼っていくのだろう。ほとんどのポスターがA4サイズの大きさなのだが、1枚だけA3サイズの少し大きめの一際目立つポスターが貼られていた。
オーケストラのコンサートのポスターでたくさんの楽団員が演奏をしている写真とは別に一人の女性が別に大きく一人で写っていた。おかっぱ頭で前髪をきちんと揃えているその容姿は幼さが残る顔でその女性の写真の箇所には〔今話題の現役女子高生ピアニストと感動の共演を〕と書かれていた。拓也はいつのコンサートか気になり日付を見たのだが12月24日 柴咲交響楽団 聖なる夜のコンサートと大きく書かれていた。
(12月24日?ああ。去年のオーケストラのコンサートのがまだ貼られていたのか…)
日が近ければ一度見て見たいと思った拓也だったが終わってしまったコンサートなら仕方ないと諦めて近々このブラーという店には絶対に入ろうと思った。
(しかし、一人ではなかなか入りずらい佇まいだ…せめて店内の雰囲気がわかればなぁ…)
3
2014年3月29日(土曜日)
引っ越しの片付けも一段落したこの日は気温も温かく桜の花も既に満開といった土曜日の昼下がりに拓也は一人近くの河川敷に桜を見に行こうと思い河原を歩いた。
良い場所を見つけてそこに座わる。そこから見る桜はとても綺麗だった。
しばらく桜と川の流れを見るだけの静かでゆっくりとした時間を過ごす。
それから、ゆっくりと目をつむり言葉を浮かべる。
そして、目をそっと開き手に持っていたメモ用紙にペンを走らせる。
数分後、書き終えたメモ用紙を見ながら適当なメロディーを口ずさむ。
拓也は作詞をするのが好きだった。よくこうやって散歩をしながら詞を考えてはメロディーに乗せて歌うという事をやっていた。
とても気持ちの良い日だな、なんて思いながら今出来た2分くらいの短い歌を歌い終えた時だった。
「メロディーはともかく良い声だな。」
突然すぐ真後ろから声をかけられた拓也は心臓が飛び出すかと思うくらいびっくりして飛び跳ねた。
「あっ。ごめん。ごめん。すぐ後ろで寝てたの気付いてなかった?
でも、びっくりしたなぁ…女の人が歌ってんのかと思って目開けたら男だもんなっ!
いや、マジびっくりしたわ。」
びっくりしたのはこっちの方だと言いたかったがそれは止めておいた。目つきは鋭くギラギラしているし服装は派手でヤンキー丸出しのこの金髪の男にそんな事言える勇気はなかったからだ。誰もいないと思っていたのにまさかこんなに目立つ金髪の男が寝ていたなんて気付かなかった自分の方が悪い気がして、
「すみません。」
と何故か拓也は誤っていた。歌っていた恥ずかしさもあり、その場からすぐに立ち去ろうとしたのだが短く刈り上げた金髪の男は何故だか急いだ感じで立ち上がり、
「ちょっと待った。」
と言って拓也を引き止めてきた。立ち上がった金髪の男は身長はとても高く180cm以上あるように思えたが、それは拓也の勘違いだった。この時金髪の男は拓也より少し坂の上にいた為、その様に感じたのだ。実際は拓也より2、3センチだけ高いだけの様だった。
(俺の身長が175だからこの人は178くらいかな。)
「あっ。俺。西高の神崎龍司。」
「西高…」
と拓也は首を傾げた。それに気付いたのか金髪の男龍司は言い直した。
「柴咲西高校。俺ロックバンド組んでてドラムやってんだ。だから、もしかしたらあんたもどっかのバンドのボーカルやってんのかなーと思って。」
「柴崎西高って…4月から転校する高校の名前だ…」
「えっ!?転校生?そっか。何年?」
「4月から2年です。」
「マジかよっ!んじゃ、同い年じゃんか!龍司って呼んでくれ。」
(まだ名字すら呼んでいないのにいきなり名前で呼ばないといけないのか?)
「もちろんタメ口でいいから。俺もタメ口でいいよな?」
(お前は最初からタメ口だろ!)
「えっと…名前聞いたっけ?」
(まだだよ。こいつバカか?)
「橘拓也。」
「ふーん。で、タクはバンド組んだりしてんの?」
(いきなりタクって呼ばれた。しかも、自分は名前で呼んでくれって言っといて俺にはあだ名付けて呼ぶのかよっ!)
ツッコミどころが満載すぎて思わず笑顔が溢れたが質問には真面目に答える事にした。
「まだ一度もバンドを組んだ事がなくって…でも、ずっとバンド仲間は欲しいなって思ってて…」
「そっかー。良い声してるし、バンド組んでねーのはもったいねぇよ。うちのボーカルなんてしゃがれ声だよ。良く言えばハスキーボイスって事になるんだけど…多分、俺とタクの方が歌上手いぜ。」
そう言って龍司は笑った。
「おいおい。あんたのバンドのボーカルなのにあんたの方が歌が上手いのか?」
「龍司だ。言ってみ。」
とまた龍司は笑った。
「龍司…は歌の上手いドラムって事なのか?」
「まあ、うちのボーカルよりな。ところで、タクってどんな曲が好きなんだ?」
「うーん。なんでも聴くかな。邦楽も洋楽も。ロックもポップスもジャズもラップも」
「へぇ〜。守備範囲広いんだな。まあ、俺も似た様なもんだけどな。」
(これを守備範囲というのか?)
「ちなみに俺ラップできるんだぜ〜。ドラマーでラッパー的な」
「ドラマーでラッパーってまさかドラム叩きながらラップは出来ないよな?」
龍司は右手を上下に降りYo!Yo!と言いながら軽いラップをした。
「バカにするなYo!俺は出来るYo!だから、ドラマーでラッパーYo!」
最後のYo!で腕組みをした。
拓也は確信した。やっぱこいつバカだと。
そういえばテレビでドラムを叩きながらラップをする人は見た事がある。ドラムが出来ない自分からすればそれはもの凄い事だ。相当なドラムのテクニックが必要なのだと思う。龍司が本当にドラムを叩きながらラップを出来るというならば、こいつは凄いドラマーなのかもしれない。拓也は龍司のバンドを見てみたいと思った。その事を龍司に伝えてどこでライブをしているのかと聞いたのだが龍司は思ったより素っ気なく答えた。
「んっ?すぐそこのライブハウスとか。」
少し話をした龍司のイメージだと、もっと喜んで『ライブ見に来てくれよ』とか言いそうな気がしていたが、あまりライブには来てほしくないのだろうかすぐに違う話題を振ってきた。
「んな事より好きな歌手って誰?」
それは今まで何人もの人に聞かれた事のある質問だった。しかし、それにサザンクロスだと答える度に「サザンクロスって誰だよ」と言われ続けてきた。過去に一人だけサザンクロスを知っていると言った人物もいるにはいたのだが…どうせ今回もサザンクロスって誰だよと言われるのが落ちだろう。そう思いながら拓也は好きなバンド名をサザンクロスだと答えた。その答えに龍司は目をまんまるとして驚いたという表情を浮かべた。
「サザンクロス…知ってんの!?転校して来たばっかなのに?マジかよ!!」
龍司のテンションが上がるのがわかった。それにつられて拓也自身もテンションが上がっていた。
「もしかして龍司もサザンクロスの…」
ファンなのかと聞こうとした時、龍司のスマホが鳴った。
龍司は液晶画面を見ながら急いで言った。
「ファンじゃねぇぞ。この街に住んでるのに曲を聴いた事もねぇよ。でも、その名前は知ってんだよな〜。
たった3年で解散した伝説のバンド。
デビュー曲『声』でオリコン1位の衝撃的デビュー。
まあ、知ってんのそんくらいだけど。」
そう早口で言った後に、
「わりぃ。電話。」
と言って龍司は電話に出た。龍司は拓也から背を向け少し距離をとって電話の相手と話をしている。
「えっ?明日かよ。急だな。」
「今から?」
そんな龍司の声が聞こえる中、拓也は考えていた。曲も聴いた事がないと言った龍司がなぜサザンクロスは3年で解散したという事とデビュー曲は『声』という事を知っているのか?それはどちらも拓也の知らない情報だった。それに何故この街に住んでいるのに曲を聴いた事がないだとか転校して来たばかりでサザンクロスを知っている事に龍司は驚いたのだろうか?その事を聞きたかったが龍司は電話を切ったと思ったら早口で拓也に言った。
「呼び出しかかっちまったわ。んじゃ、俺行くからまたな。春休み終わったら学校で会おうぜ〜。」
龍司は急いで駅の方へ走って行ってしまった。
龍司と別れた後、拓也はすぐに家に帰宅した。サザンクロスの『声』を改めて聴きたかったからだ。
サザンクロスのデビュー曲『声』はアルバムの最後を飾る曲だった。
静かな歌い出しから始まり徐々に激しさを増してく。最後のサビには伴奏がなくなりボーカルの声だけとなり曲は終わっていく。歌詞からは過去に愛する人に伝えられなかった気持ちを今届けたいという思いと過去に気持ちを届けられなかったという後悔とが伝わってくる。そして、歌詞には書かれていないがまるでこの曲は『時よ戻れ』と歌っているように拓也は感じた。
4
2014年3月30日(日曜日)
特にやる事もなかったこの日。昨日いた河川敷にまた拓也は寄ってみた。龍司に会えればサザンクロスの事をもっと聞けるかもしれないと思ったのと昨日河川敷から見た桜がとても綺麗だったのでまた見たいと思ったからだった。予想はしていたが昨日いた場所に龍司の姿はなかった。代わりに数人の子供達が元気に遊んでいる姿や花見を楽しんでいる人達の姿が見えた。やる事がないのがもったいないくらいの絵に描いたような穏やかな昼下がり。『ここの桜はホント綺麗だなぁ』と思いながら穏やかな時間を過ごす。そして、昨日の龍司との会話を思い出す。どこでライブをしているのかと聞いた時『すぐそこのライブハウスとか。』と龍司は答えた。
すぐそこのライブハウス…ライブハウス…と頭の中で繰り返す。ライブハウス…ブラー…?
ブラーならこの河川敷からすぐそこのライブハウスと言っていい距離だ。他にライブハウスが何カ所かあるのかも知れないがいつか行こうと思っていたライブハウスだ。これが良い機会なのかもしれない。そう思ってあの入りずらそうな雰囲気のライブハウスに今夜入ってみようと拓也は決めたのだった。
5
ライブハウス BLUR
入口のドアに飾られたアンティーク調の看板を見ながら拓也は立ち尽くした。
一人ではなかなか入りずらい雰囲気だった。
ドアの向こう側からはロックだろうか激しい重低音が漏れてきている。
街灯の明かりに静かに咲き誇る桜とは全く似つかわない音が余計に心を緊張させた。
『頑張れ!俺!』と心の中で自分にそう言った。
ドアノブに手をかける。そして、拓也は一歩を踏み出した。
漏れてきていた重低音が徐々に大きくなる。
今演奏しているのは龍司なのか?音が大きくなる度にワクワクする気持ちも大きくなった。
店内は縦長になっていて、丁度真ん中辺りに両側から壁があり、扉をくり抜いたような感じになっている。例えるなら店の真ん中に扉のない入り口がもう一つある感じである。
そこを越えれば広々としたステージが広がり、そのステージを左側と正面で取り囲むように4人掛けのーブル席が7席ある。ステージの右側は楽屋とトイレになっている。
手前にはカウンター席があり店内の真ん中の壁から入口近くまで続いている。カウンターの中は突き抜けになっていて店内の中央の壁からステージの方へ店員だけが行き来できるようになっている。
カウンター席のイスは全部で5脚設置されているが今は誰も座っていない。
入口からは想像ができないほど広々とした印象に拓也は驚いた。
そして、カウンターの向かい側には今、店のウエイターの男が立っている。年齢は20代後半から30代前半くらいだろうか。その男の顔を見ているとなぜだか懐かしい感じがした。拓也がじっとその男の顔を見ていてしまったせいでウエイターの男は首を傾げながら拓也の方を見ている。カウンター奥の席に座るとその男がおしぼりとメニュー表を置いた。
「ブラーへようこそ。」
ちょうどステージで演奏をしていたバンドの曲が終わるタイミングでウエイターはそう言った。拓也は少し頭を下げてステージの方に目をやった。ドラムを叩いている男が龍司かどうか確認したかったからだ。しかし、ステージ上で演奏していたのは4人の中年の男達だった。『残念ながら龍司のバンドではないか…』と拓也は思った。
「今ちょうどファーストステージが終わったところでね。15分の休憩を挟んでセカンドステージが始まるよ。」
この店のマスターらしきウエイターが後ろの棚に並ぶ高級そうなお酒の棚を整理しながらそう説明してくれた。この店に初めて入る客だとこの男にはわかったのだろう。
「ご注文は?未成年には酒は出せないが。」
普段から大学生に見られる事が多い拓也なのだが今目の前に立つ男は拓也の事を未成年だとわかったようだ。なぜかこの一言で拓也はこの男がこの店のマスターだと確信した。
「ホットコーヒーを」
と注文したのだがマスターは「フフ」と笑って言った。
「すまないね。うちコーヒーないんだわ。」
顔が赤くなるのが自分でもわかった。急いでメニューを見返す拓也の姿を見ながらまた男は「フフ」と笑って言った。
「ジュースでいいかい?」
「あっ。はあ。」
と曖昧に答えながら拓也はこの店に入った事を後悔していた。
どうせ学校が始まれば龍司には会えただろうに。わざわざ一人でライブハウスなんて慣れない場所入るんじゃなかったな…恥ずかしいだけだ…と。
「どうしてこの店に?」
男はオレンジジュースを用意しながら聞いてきた。拓也は今自分が考えている事がまるでこの人には伝わっているかのように思えてこの人は不思議な人だと感じ始めていた。
「高校の同級生が近くのライブハウスでライブやってるって言ってたんで、もしかしてここかなって思って…」
龍司とは高校の同級生と言っても昨日会ったばかりだけど…まいいかと思いながら拓也は答えていた。
「ふ〜ん。高校生か…」
男はじっと拓也の顔を見ながらそう言うのでやっぱり大学生に見られていたんだなと拓也は感じた。
「高校生バンドってアカギ君?」
「いえ。龍司…」
拓也は龍司の名字は何と言っていたか忘れしてしまっていた。『なんて言ってたっけ?』と考えていると男には龍司で伝わっていた。
「神崎龍司か。そいつはアカギのバンドのドラムだよ。アカギ知らなくて龍司を知ってる奴が店に来たって言ったらアカギの奴怒るだろうな〜。」
と男はまた「フフ」と笑った。何が面白いのか拓也には全然わからなかったが、この人は龍司の事を知っていた。龍司が言っていたすぐそこのライブハウスはここブラーで当たりだったようだ。
「あいつら結構な問題児バンドでな…」
男の笑顔が一瞬で真面目な表情に変わって拓也は思わず息を飲んだ。
「客とモメるわ他のバンドとモメるわ店とモメるわ仲間同士でもモメるわでとうとう出演できる店もうちともう一店舗だけになった。うちもそろそろ断ろうかと思っててな…あいつらライブ当日になって来ないとかよくあるんだよな。その度に俺がお客さんに謝るわけ。」
「そうなんですか…」
オレンジジュースを飲みながらため息をつく。龍司はそんな問題児バンドの一員なのかという思いとヤンチャな龍司の笑顔を思い出すとやっぱりかという思いもあった。
「次の出演は決まってないんですか?それとも、もうここも立ち入り禁止に?」
男は後ろの壁に凭れかかりながらタバコに火をつけてそっと言った。
「4月に一件ライブする日は決まってはいるが…あいつら次第だな。」
少しの沈黙が流れた。そして、いきなりギターの音が店内に響き渡った。セカンドステージのライブの演奏が始まったのだ。
拓也は残りのオレンジジュースを一気に飲み干して店を出る身支度を始めた。
男は「えっ?もう帰るのか?せっかくだからコイツらの演奏聴いてけよ?」とびっくりしている。
「龍司のバンドがどんなバンドか見たかっただけなんで。龍司がいるかどうかは賭けでしたけど…あっ。でも、この店に入ってみたかったってのもありましたよ。またゆっくり来ます。」
「なんだよ…そっか。じゃあ、飲み物代だけにまけとくよ。」
男はタバコを灰皿でもみ消しながらそう言った。拓也はこの時になって『あっ。そうか。飲み物代だけじゃなくて本当はライブ代もいるんだよな』と気が付いた。
なんだか申し訳ない気持ちで会計を済ませている間にもうひとつこの人に聞いてみたいと思った事があった。
「問題児扱いの龍司のバンドってどう思いますか?」
なんとなくだが拓也はこの人には人を見る目があると思った。だから、この人がどう龍司達のバンドの評価をしているのかを聞いてみたかった。
「神崎龍司か…悪くねぇよ。アカギもギターの腕は悪くない。ただ…二人の仲が悪い…これはバンドにとっては致命的だ。もったいねぇよ…」
男は本当に残念だという表情を浮かべながらおつりの小銭と店の名刺を渡してきた。
「また来いよ。龍司にもまたライブ以外にも客として来いと伝えといてくれ。」
「はい。」
そう答えて拓也は店を出た。
家に帰るとリビングでは父と母がテレビを見ながら「おかえり。」と言ってくる。「ただいま。」と答えながらテーブルの上に帰り道の自動販売機で買った缶コーヒーを置く。ふと拓也はあの男が店のマスターだったのかどうかが改めて気になって、さっき貰った名刺をズボンの左ポケットから取り出す。名刺の肩書きの部分にはライブハウス ブラー オーナーと書かれていた。
『そうか。マスターではなくオーナーか』と思って名刺もテーブルの上に置こうとしたその時、拓也の手が止まった。名刺の名前の部分がトオルと書かれていたからだ。名字が書かれている部分は今自分の左手の親指で隠れていて見えていない。『まさか…』と拓也は思った。
少しずつ親指を左にずらしていく。
『まさか…まさか…』
凄く緊張をしていて指が震えている。
ライブハウス ブラー オーナー
間宮トオル
驚いて周りの音という音が消えた。
目の前のテレビの音も。それを見て両親が笑う声も。外で鳴り響くサイレンの音も。
「え?えぇぇぇ〜〜〜〜〜!!」
両親が驚いて拓也の顔を見る。
「ど、どうしたの拓也?」
しかし、母の声は拓也には届かない。全ての音という音が拓也からは消えて『間宮トオル』という自分の心の中の声だけが聞こえる。
(あの人がサザンクロスのギタリスト間宮トオル?ま、まさかな…でも…もしかして俺は何も知らずに中1の頃からずっと憧れていた人と話していたのかもしれない…そういえば、最初あの人の顔を見た時に懐かしいと感じた。それはCDのジャケットの中に映る若かりし日の間宮トオルを見ていたからだったんだ…間違いない。あの人は本物の間宮トオルだったんだ…)
龍司がサザンクロスの曲を聴いた事がなくてもサザンクロスの事を知っていたのは間宮トオルのライブハウスでライブをしているからだった。その理由がわかって拓也は少しすっきりとした気分になった。
6
4月に入り短い春休みが終わった。3月にブラーに行って以来拓也は一度もブラーに顔を出していなかった。何度も店の前まで行っては階段を下りる前に踵を返し家に帰るという事を繰り返していた。ただでさえ入りにくい雰囲気の店である上にあの憧れの間宮トオルがオーナーだったという事で拓也の心は完全にビビってしまっていた。店に入って何を話そうか?何を聞こうか?と考えれば考える程店には入りずらいと勝手に思い込んでしまうようになっていた。こうなれば学校が始まるのを待って龍司と一緒に行くかライブをする日に店に寄ろうという考えになっていた。
真新しい紺色の学ランを着て初登校日を迎えたのだが人生何度目かの転校で慣れているはずのクラスメイトの前での自己紹介で言葉に詰まってしまった。まずはここをちゃんとしようと思って臨んだ自己紹介だったのに躓いてしまった。
こういう所が自分のダメな所なんだと拓也は痛感した。人前で話すのは本当に苦手だと転校する度にそう実感する。バンドを組みたいという思いがあってもいざステージに立つとこういう風に緊張してしまうんだろうと簡単に想像ができる。
「橘の席は一番後ろのドア側の席な。」
なんとか自己紹介を終えた後、担任の小柄で小太りな国語の教師米沢庄治に促された。
ホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴ると物珍しそうにクラスメイト達が拓也の周りに集まり出し質問タイムが始まった。廊下では転校生が来たと隣のクラスの者まで集まっている。転校する度にこの時間は精神的に疲れてしまう。
「どこから来たの?」
「この街をどう思う?」
「どうして引っ越して来たの?」
「趣味は何?」
「前の学校ではなんて呼ばれてた?」
「わからない事はある?」
「家はどの辺り?」
全て質問されるだろうと思っていた事を予想通り聞かれるという退屈な時間。これが初めての転校だったら聞かれるのも嬉しいだろうが、もう何回目かさえも忘れた転校で過去に何度も何度も聞かれてきた質問ばかりだった。だから、拓也には退屈な時間としか思えないようになっていた。淡々と質問に答えていた拓也だったが最後の質問は意表を突かれた。
「今ネットで人気のQueenって知ってる?」
思わずその質問に笑ってしまった。『Queenは昔から人気だろ?なぜ今更Queenなんだ?しかもなぜこのタイミングで?』と心の中で突っ込みが終わったところで始業式を告げるチャイムが鳴った。その質問をした小太りなクラスメイトは拓也の答えを聞く前にさっさと一人で教室を出て行ってしまった。『なんだ?なんだ?』と拓也は一人軽い混乱をしていた。
始業式が行われる体育館に向かいながら拓也は気を取り直して考える。クラスのみんなは自分と仲良くしようと思ってくれているのがこれだけでも伝わってきた。それなのに自分はこの高校に転校する事になった時、残りたった2年間しかないこの高校で友達なんてもういらないと思っていた事を一人恥じていた。
お決まりの校長の長い話が終わり無事に始業式が終わったのだが、肝心の龍司とはこの日会えなかった。
それから数日が経ち数人の気の合う仲間とも出会い楽しい学生生活が始まってはいたのだが、この間も龍司は学校に来ていない様子だった。全8クラスある2年生のクラスは校舎の2階にあり、1年生が1階3年生は3階となっている。
龍司は隣の7組だという事は始業式の日に担任から確認済みだった。拓也は8組で龍司の教室の前の廊下を通らなければ自分の教室には行けないという事もあり、毎日朝と昼と午後の最低でも3回は龍司の教室を覗きながら歩いているのだが金髪の男の姿を発見する事はなかった。一つだけ空いている窓際一番後ろの席が龍司の席だという事もわかった。そこに誰も座っていない様子を見ては『今日もアイツ来てないな…』とタメ息をこぼしていた。
始業式から1週間以上経ったある日。さすがに龍司が登校して来ない事を不審に思い廊下で笑顔で話していた隣のクラスの男子生徒二人に尋ねてみる事にした。
「神崎龍司ってどうして学校に来ないの?」
すると隣のクラスの男子生徒二人は急に話しかけてきた転校生にびっくりしたのか二人の表情がみるみる固くなったように拓也には見えた。
「さ、さあ?神崎君は元々ちゃんと学校に来るタイプじゃなかったしなぁ。お前知ってる?」
「新学期早々停学くらったって担任言ってなかった?」
「それホントなのか?」
「さあ?でも来てないって事はホントじゃね?」
「じゃあ、先生に聞けばわかるって事か?」
とこれは拓也が思っている事を口に出してしまったのだが、その言葉を聞いた男子生徒の一人は不思議そうに聞いてきた。
「どうして学校に一度も来ていない神崎君の事を転校生の君が知ってるの?」
ああ、そういう質問が返ってくるとは思っていなかった。そう言われればそうだなと拓也は思い簡単に答えた。
「たまたま春休みの時に一度会った事があったから気になってさ。」
そう答えるともう一人の男子生徒が下を向きながらぼそぼそっと言った。
「あんな奴と関わらない方が良い。」
「えっ?どうして?」
「いつも問題ばかり起こすから…」
拓也はその言葉を聞いてなるほどなと思った。この二人は龍司の名前を出したからさっきまで二人で笑って話していたのに急に表情が固くなったのだ。
(龍司はバンドでも学校でも問題児ってわけか。まあ、今のところ俺には害はないし、いい奴だったし問題児でも関係ないか。で、ブラーに行くのは龍司が登校してからにしよう。まずは、龍司がいつ登校してくるかだな…あいつ本当に新学期早々停学をくらったのか?龍司の担任に真相を聞くか…)
その日の放課後、拓也は職員室で龍司の担任で英語教師倉本奈々と話していた。その様子をチラチラと見てきている人物がいる。小柄で小太りな拓也の担任の米沢庄治だ。米沢は拓也が隣の教師と話しているのが気になるのかこっちをチラチラと見てくる。そんな事はお構いなしに拓也は龍司の情報を聞き出していた。
「龍司くんね。噂になってるんだ?そうね。噂通り彼は新学期早々停学処分されてるわ。」
「それはどうしてですか?」
「アイツ。春休みにライブハウスで乱闘騒ぎ起こしたらしいのよね。んで、停学。」
軽い話し方で倉本奈々はそう言った。教師のくせにと言うとダメなのかもしれないがこの女は教師のくせに話し方は軽く髪はくるくるに巻き少し染めている。化粧も濃く香水の香りが臭いと感じる程付けている。ここをどこと勘違いしているんだ?ここは学校だぞ。と他の教師も思っているんだろう。でも、拓也の担任の米沢だけはどうやらそんな倉本が気になっている様子でまだチラチラとこちらに視線を送って来る。
最初は拓也が担任の米沢を無視して隣の教師と話しているのが気に入らないのかとも思ったのだが、米沢は拓也の顔は職員室に入る時ぐらいしか見ていない。チラチラとこっちを見てきているのではなく倉本をチラチラと見ているのが途中でわかった。拓也はそんな担任の様子を見て『倉本と話したいのなら今なのにな』と思っていたのだが米沢がこっちにやって来る事はなかった。
拓也同様倉本も米沢の視線には気付いているはずだが倉本は一瞬たりとも米沢の方を見なかった。拓也がこの短い時間で米沢が倉本に気があるのがわかったくらいだから倉本も既にそれは気付いているんだろう。倉本が米沢にどういう接し方をしているのかが簡単に想像ができた。拓也は気を取り直し質問をする。
「停学はいつ終わるんですか?」
「う〜んとね。」
と倉本は気持ちの悪い甘い声を出し髪の先を指で絡めながらピンク色の手帳を自分の机から取り出した。手帳には人気ロックバンドのロゴが印刷されたシールが貼られていた。それを見た拓也は『おいおい。バンドのシールはいいとしてピンクの手帳持ち歩いてんのかよコイツ。なかなかいい歳に見えるけど…』と思ったのと同時にひとつ嫌な予感を感じた。
(コイツまさか俺があんたと話たいが為に龍司の話題を出して職員室まで押し掛けて来た生徒だと思ってんじゃないのか?きっとコイツは自分が男子生徒から人気のある教師だと勘違いしてるに違いない。さっさとここから立ち去ろう。)
「停学は2週間だから来週から登校ね。」
「ありがとうございます。では失礼します。」
「あら。もういいの?他に聞きたい事があったらまた会いに来てね。」
拓也は思う。『やっぱりコイツ勘違いしてるな…』
倉本は思う。『最近の子はおませさんね。私もまだまだイケてるってことか…』
7
2014年4月21日(月曜日)
この日は龍司の登校日のはずだったのだが昼休みに入っても龍司の姿を見なかった。
それはともかく、この日は朝から似たような会話ばかりが耳に入ってきた。
「Queenの新曲聴いた?」
「なんか2ヶ月振りらしいよ」
「凄いテクニックだよな」
「やべっ。俺まだ見てねぇわ」
休み時間に入る度にそういう話題が拓也の耳に入ってきた。しかもそれは同級生だけではなく1年生の生徒と廊下ですれ違った時にもその話題が聞こえた。
(あのイギリスのQueenだろうか?それにしては世代が違いすぎる。いくらあの世界的ロックバンドであろうとも同い年の高校生達が朝からずっと話題にするのはおかしすぎる。一つのグループの会話だけならQueenの話題が出てきてもおかしくはない。けど、学年を問わずQueenの話題が出ているのはおかしい。)
拓也はそのQueenの会話を聞く度にそう思っていた。下校時間になり教室にはまだ数人の生徒が残って会話をしている。拓也は帰り支度を済ませスマートフォンを鞄から取り出す。そして、Queen 新曲と検索をする。やはりあのQueenが出てくる。誰かが「俺まだ見てねぇわ」と言っていたのでQueen 新曲 動画でも検索してみたのだがやはりあのQueenが出てくる。誰かにQueenの事を聞こうと思い教室を見渡すとその中に小太りな生徒が一人机に座りスマートフォンを見ているのが目に入る。彼が始業式の日に「今ネットで人気のQueenって知ってる?」と話しかけてきてくれた事を思い出した。それ以来彼とは全く話した事がない。確か太田という名字だったが彼が他の生徒と話している姿を転校してきてから拓也は一度も見た事がなかった。彼が話しかけてきてくれたのはかなりレアな事だったのだろうと今になってわかった事だ。拓也は太田に話しかけようと鞄を手に持ち立ち上がろうとした時だった。
「おっすー!」
という大声が右斜め後ろから降り注いできた。拓也はあまりの大声にびっくりして右肩が上がりそれと同時に左肩が下がったせいでイスから転げ落ちそうになった。なんとか踏ん張りながら後ろを振り向くとそこには右腕にギプスを付けた神崎龍司が立っていた。
「久しぶりー。まさか隣のクラスだったとはな。1組から順番に探しちまったよ。今日から俺登校なんだわ。まぁ、さっき学校着いてもう帰るんだけどなっ。」
「あ〜びっくりした…てか、今着いたって何しに学校来たんだよ…」
「来るだけマシだろ?じゃあ、帰ろうぜ。」
「そ、その前に一つ聞きたい事が」
「なんだよ?」
「サザンクロスのギタリスト間宮トオルがブラーのオーナーでいいんだよな?」
「ああ。」
「ど、どうしてこの街に間宮トオルが?」
「んなもん決まってんだろ。この街の出身者だからだよ。」
「え?」
「この街は間宮トオル…いや、サザンクロスが生まれた街だ。サザンクロスの全員がこの街の出身者なわけ。」
「えーー!!」
*
校内を二人で歩いているとチラチラと龍司の方を横目で見てくる生徒とすれ違った。やはり龍司はこの学校で有名な問題児なのかとその視線だけで感じる事ができた。そんな目線を気にする気配もなく龍司は気さくに拓也に話しかけて来る。
「なぁ。タクのウチってどこよ?俺んちはここから徒歩5分くらいなんだけどさ。」
5分くらいの場所ならもっと早く学校来れたんじゃないのか?と思いながら龍司の質問に答えた。
「柴咲駅から徒歩20分くらいだよ。」
「柴咲えきぃ?いいとこの坊ちゃんじゃねぇかよっ。」
と龍司は大きな声でそう言った。龍司がいいとこの坊ちゃんと言うのには理由がある。拓也の家がある辺りは大きな一軒家が数多く建っている高級住宅街だからだ。でも、拓也の家は普通の一軒家だ。むしろ拓也の隣の家から立派な家が坂を上るにつれて建っている。その事を龍司に伝えてもあまり信用してはもらえなかった。ただの金持ちの謙遜と思われたのかもしれないが実際家を見れば決していいとこの坊ちゃんでも金持ちでもない事を納得するだろう。
「てか、なんで西高に来るんだよ?普通は柴高校行くだろうがっ!」
龍司が言う柴高とは拓也の家から徒歩5分位の場所にある柴咲高校の事である。龍司は拓也がなぜ近くにある柴咲高校に行かずに柴咲西高校を選んだのかが不思議なようだった。拓也が柴咲西高を選んだ理由は2つある。柴咲高校は進学校で偏差値も高い。そんな高校で他の生徒達に付いていける自信がなかったという事と校則がとても厳しかったという理由だった。それに比べ柴咲西高は偏差値も低く校則もかなり緩い。拓也の赤髪や龍司の金髪でも先生から何も言われる事はない。西高の校則はかなり緩い。絶対柴校では許されない髪色だろう。
「柴校って髪も染められないんだろ?それなら髪色関係ない高校を選ぼうと思ってさ。それで西高。」
そう拓也が答えると龍司はククッと笑った。そして、龍司は校門を出た所で背伸びをしながら叫んだ。
「マジ高校ダルかったー!」
すかさず拓也は突っ込んだ。
「この数分いただけでか!」
龍司はまたククッと笑った。
「さぁて、これからどうすっかなー。俺んち来るか?それとも柴咲駅周辺で気になる店とか入ってみたい店とかあれば寄ってみるか?」
「いいのか?気になる店は何件かあってさ。それと龍司が来たら一緒にブラー行こうって誘おうと思ってたんだよ。」
「ブラー?オッケー。確か7時開店だったからそれまでどっか店寄るか。」
「よしっ。行こう。」
西宮駅から柴咲駅まで電車に乗り、まず二人が向かったのは小さなコロッケ屋さんという名の小さな佇まいのコロッケ屋さんだった。龍司が電車の中で「今日俺何も食ってねーの思い出したわ。」と言ったので拓也が前から気になっていたコロッケ屋に誘ってみたのだった。龍司はそのコロッケの味を知っていたようだが喜んでコロッケを食べる事を承知してくれた。その後も拓也が前から気になっていた店に龍司を連れ回す形で次々と入って行った。気付けばもう午後6時を回っていた。学校を出たのが午後4時過ぎだったからもうかれこれ2時間近く龍司を連れ回していた事になる。その間龍司は何も文句を言わずに付き合ってくれたのが拓也には申し訳なく思えてきた時にこれまた前から気になっていたレトロな雰囲気の喫茶店が目に入った。
「奢るからさ。そこの喫茶店に入らないか?そこも前から気になってたんだよな。」
「喫茶ルナに目を付けてたとはなかなかやるじゃないか。」
龍司はその喫茶店の事を知っている様子で先頭を切ってレトロな雰囲気の喫茶店ルナの扉を開けて入って行った。
8
ドアを開けるとチリンチリンと軽い音が鳴った。
「いらっしゃい。」
店に入るなりカウンターでパイプをくわえながら新聞を読んでいた初老の男が丸メガネを外しながらこちらを見てそうつぶやいた。
店内はジャズが流れている。
(この曲は確かリカード・ボサノバだったか…)
なかなかの重低音が響いていてスピーカーにこだわっているのがわかった。
「紹介するわ。ここのマスター。んで、こっちは転校生のタク。」
龍司がそんな簡単な紹介をすると初老の男が勢いよく龍司にツッコミを入れた。
「なんだその紹介の仕方は!見ればわかるだろっ!」
そのやりとりを見て拓也はフフッと声を出して笑うと初老の男はごほんっと咳を一つして拓也の方を見る。
「マスターの咲坂新治郎だ。よろしくなっ。」
咲坂新治郎は髪をオールバックにし髭を蓄えている。髪も髭も全てが白髪で白くなっている。それに加え体型はふっくらしていて丸メガネにパイプを口にきわえているものだから拓也はよく漫画に出てくる寡黙でおとなしい初老のおじいさんそのものの姿だなと思った。しかし、新治郎は寡黙でおとなしいおじいさんではない様子なのは今の少ない会話でわかったような気がした。おそらく話し好きなおじいさんだ。
「橘拓也です。よろしくです。」
「龍司が友達連れて来るなんて珍しいじゃないか。」
「なんだよ。よく来てるだろ?」
「真希がいた頃だろ?あいつがバンドを抜けてからはお前一人になった。同じ学校に連れがいないもんだと思ってたよ。転校生がやって来て良かったな。」
「んだよ。赤木らがいるだろ?」
「フンっ。友達と呼べんのかよ?まあ、立ち話もなんだし好きな席に座りな。」
新治郎はにっこり笑ってカウンターの中に入って行く。龍司は入口の右側にあるテーブル席に座りメニュー表を見ながらつぶやいた。
「この席から見る外が俺好きなんだよなー。」
確かにここの窓から見る街の景色はさっき歩いて見ていた景色よりも何故だかいい雰囲気の街並に思えた。
「心が落ち着くと見える景色も変わるもんさ。」
水を置きながら新治郎がそう言った。なるほどなと拓也は思いながら店内を見回した。
喫茶ルナは縦長でL字型のカウンターが特徴的なこじんまりとした店内だ。入口から右側に今拓也達が腰を下ろしている4人掛けのテーブル席が1つ。この席には店内で唯一外を眺められる窓がある。入口から真っすぐ進むと6人掛けの木で出来た丸テーブルがあり、L字型のカウンター席にはイスが全部で9脚取り付けられてあり縦長のカウンターの方にはイスが6脚。右側の短い方のカウンター席にはイスが3脚ある。店内の壁は全てレンガで統一されており外から見たお店の佇まいも店内に入ってからの雰囲気もレトロな感じが漂っている。
カウンター席の隅には古そうなランプが光り、入口近くに大きな振り子時計が壁際に置かれていて時を刻んでいる。それらがまた店内をいい雰囲気に見せていた。
カウンターの中へは奥からしか入れないようで、拓也達に水を出した後、新治郎は店内の奥の方からカウンターの中へと入って行った。
「俺。ホットコーヒーにするけどタクは?」
店内を見回していてメニューを見るのを忘れた拓也はメニューを見たい気持ちもあったが龍司と一緒でまずはコーヒーを頂く事に決めた。
「マスター。ホットコーヒー2つね。」
「あいよ。」
そう言ってカウンター越しにコーヒーを作り出す新治郎の姿はとても格好の良い姿に拓也には見えた。新治郎はコーヒーを作りながら龍司の方を見て頭をかしげながら問いかけた。
「お前。その腕どうしたんだ?」
「気付くのおそっ!まぁ…ちょっとモメちまってさ。」
「赤木とか?」
「いや、知らねー奴。ライブ見に来てた。」
「なんだよ全く。また客とモメたのかよ…お前バカなうえに客と揉めるなんて最低だな。」
「うっせーな。」
「ドラム叩けなかったらお前ただのバカじゃないか。」
「片腕ありゃ充分だよ!ってさっきからバカバカってなんだよ!」
「今までさんざん言われてきてただろう?」
「ああ。もう聞き飽きたんだよ。」
「フン。」
「つい頭がカッとなっちまったんだ仕様がないだろ。でも…あいつ誰だったんだ?俺の事知ってる様子だった…」
「たくさんの客や店員達と揉めてきたんだろ?お前の事恨んでる奴の一人や二人いてもおかしくねーだろ?まぁ…これに懲りたらもう喧嘩はやめとけ。ファンが悲しむぞ。」
「わかってるよそんな事。ファンなんていない事もなっ!」
「結衣はお前のファンだぞ。」
「…わかってるよ。」
そんな二人の会話を聞いていると新治郎は龍司にそれなりの愛情を持って接しているのがわかる。きっとその愛情は龍司も感じ取っているのだろう。
「結衣ってのはマスターのお孫さんね。俺達の2コ下だから。もう中3だな。」
と龍司は拓也に説明してくれた。今度は拓也が龍司に聞く。
「真希って?バンドメンバーだったのか?」
「ああ。去年までな。真希はボーカル兼ギターだったんだけど…抜けちまった。今はその代わりにギタリストだった赤木って奴がボーカル兼ギターになった。」
「前に言ってたハスキーボイス?」
「そうそう。ただのしゃがれ声だけどな。」
と龍司は「ハハッ」と笑った。
「ところで今のバンドって何人?」
「ボーカル兼ギターとベースと俺のドラムの3人。」
「ふ〜ん。いいなバンド。羨ましいよ。」
(俺もバンドを組むならこういう龍司みたいな奴と組みたいな。)
拓也のその言葉に龍司は何も答えなかった。
しばらく沈黙が続いた時、ふと拓也は龍司と会う前に気になっていたQueenの事を思い出した。今、目の前にいる龍司なら今日一日噂になっていたQueenの事を聞きやすい。窓の外を見ながらコーヒーが来るのを待っている龍司に聞いてみる。
「Queenって知ってるか?」
「ああ。イギリスの?」
「いや、多分、そっちじゃなくてさ。今日一日Queenの動画がどうのとか新曲がどうのとかってクラス中と言うか学校中その話題でさ。俺もイギリスのロックバンドの事かと最初は思ってたんだけど、どうやらそうじゃないみたいでさ。龍司なら何か知ってるかなって思って。」
「えっ。Queenはイギリスのロックバンドだろ?あとトランプか?おっ。きたきた。」
Queenの事は龍司も知らないみたいだ。今度聞きにくいけど太田にでも聞くかと拓也は思いながら新治郎がホットコーヒーをテーブルの上に置くのを黙って見ていた。
「お待ちどうさん。」
拓也は新治郎に頭を下げカップに手を伸ばした。ふうふうと息を吹きかけながら、ひと口コーヒーを飲んだ。とてもしっかりした味でコクと言うのか深みがあると言うのかはわからないが拓也が好きなコーヒーの味だった。カウンターの中へ戻る新治郎の後ろ姿を見ながらはつぶやいた。
「うまいなぁ。雰囲気も最高だし。」
「だろ?」
その後、拓也はメニュー表を見たり窓からぼーっと景色を見たりしていた。その間に数人のお客さんが店に入って来ていた。店内でゆっくり過ごす人。コーヒーを飲むとすぐに出て行く人。新治郎と話をしている人。
スーツを着たサラリーマン風の男性もいるが入って来るお客さんのほとんどが女性だった。
どうやら女性に人気があるお店のようだ。
拓也は龍司がコーヒーを美味しそうに飲む姿を見る。
『そういえば初めて会った日、龍司は鋭い目つきでギラギラしていたのに今日はずっと優しい目をしてるな』と思った。
また拓也は店内を見回し壁にもたれかかっている大きな振り子時計の時間を確認する。午後6時50分。
「そろそろブラー行ってみないか?」
「んっ?ああ。もうこんな時間か。」
龍司はいっきに残りのコーヒーを飲み干した。ブラーには間宮トオルがいる。そう考えただけで拓也は無性に緊張した。
「よしっ。行くか。」
拓也の緊張が龍司に伝わったのかどうかはわからないが龍司のその声で拓也の緊張は少しほぐれた。
カウンター席に座っている女性客と話していた新治郎に龍司が声を掛けた。
「ごちそうさん。」
「もう行くのか?またちょくちょく顔見せろよな。結衣も会いたがってる。」
「ああ。」
拓也達が会計を済ませているとさっきまで新治郎と話していた女性がじっとこちらを見ているような視線を感じた。拓也がカウンター席に座るその女性の方を見ると女性はさっと目をそらした―様な気がした。
(龍司の知り合いか何かだろうか?でも、俺の方をじっと見ていたような…)
なんとなくその女性客が気になりながらも拓也は店を後にした。
二人は喫茶ルナから徒歩5分もかからない場所にあるライブハウスブラーへと向かった。
入口のドアへと続く短い階段を降りて行く。
一段降りる度に拓也の緊張度はどんどん上がっていったのだが……
月曜定休日 Close
そんな看板がドアに掛けられていた。
「月曜定休日って書いてあるけど…」
「そう…みたいだな…知らなかった…」
「なんで出演してる店の定休日知らないんだよ?」
「知らねーだろフツー。気にしねーだろフツー。」
そう言えば名刺……と拓也はポケットから名刺を取り出す。定休日を見ると英語でMondyと書かれていた。それをちゃんと確認していなかった事は龍司には内緒にしておいた。
「なに見てんだ?」
「あっ…いや、別に」
「まぁ…悪かったよ。また明日寄ろうぜ。」
龍司に謝られて拓也は心の中で『こちらこそ名刺をちゃんと見てなくてすまない。』と謝っていた。
さっきまでの緊張は何だったんだと思いつつ階段を上ろうとした時。B5サイズの紙がドアに貼られている事に拓也は気が付いた。
こんなドアの真ん中に紙が貼られているのに全然気が付かなかった。きっとアンティーク調の立派なブラーの看板が主張しすぎているせいなのだろう。
前に来た時にも貼られていたのか?それとも最近貼られたものなのだろうか?
目立つ場所に貼られているがゆえに気が付かなかった。つまりそういう事なのだろう。
その紙には『バイト募集中 年齢問わず』と書かれていた。
「これだっ!」
拓也は声を上げた。先に階段を上がっていた龍司はびっくりして後ろを振り返った。
「なんだよ?どうした?」
「これだよ!これ!」
そう言って拓也はドアに貼られていた紙を指差した。
9
2014年4月22日(火曜日)
朝、学校に登校すると隣の教室には既に龍司の姿があった。しかし、龍司は机に覆い被さって眠っていた。だけど拓也はあんな身なりの龍司でも1時間目から登校して来た事にこの時は驚いていた。
4時間目の体育の授業が早く終わり教室に戻って拓也は時計を見る。あと5分で昼休みだという頃、これから起こる事に対しての準備として拓也は姿勢を正した。
昼休みのチャイムが鳴りやんだと同時に真後ろから大声が飛んできた。
「おっす!久しぶり!」
「久しぶりじゃねーよっ!何度目だ。」
「今日ずっと同じ事されてて急にやられなくなったら寂しいだろがっ。」
「なんだそりゃ。」
龍司は授業が終わるチャイムが鳴りやんだと同時に拓也に毎回会いに来ては「おっす!久しぶり!」と大声で言ってきた。最初はその大声にびっくりして時が止まってしまった。2時間目が終わる時はまたかっとびっくりしながらも「昨日ずっと一緒だったろ?」と真面目に答えたのだったが3時間目が終わった時も龍司は同じ事を続けた。そして、3回とも拓也は大声に驚いてはビクッと体が飛び跳ねていた。それでこれは4度目もあると拓也は核心して急に大声がきてもびっくりしないように姿勢を正して心の準備をしていたのだった。
「メシ。屋上でいいか?さっきの話の続きも聞きてーし。」
毎回授業が終わる度に龍司が教室にやって来るものだから今日は全く同じクラスの生徒とは話していなかった。龍司と話していると他の連中は全く寄って来なかった。
(しかし…コイツ友達いるのか?いつもは一体誰と一緒にいたんだ…?)
そんな事を考えながら拓也は屋上へと向かう龍司の後に付いて行った。
屋上に付くと何人かの生徒が昼食を食べていた。拓也にはその光景が新鮮だった。というのも今まで何度も転校を繰り返してきていたが自由に屋上に出入りできる学校は今回が初めてだったからだ。
「屋上…いい感じだな。」
「だろ?」
適当な場所に座り拓也はお弁当を出した。龍司はコンビニで買っておいたパンと牛乳をレジ袋から適当に放り出した。そして、左手と口だけで上手にパンの袋を開けた。
「でっ?何の話だったっけ?」
そう聞かれても拓也もぱっとは出て来なかった。短い休み時間で少しずつ話していたものだから何の話の続きだったか、すぐに思い出せない。
まずは、そう。1時間目の授業が終わってチャイムが鳴り止んだ時。
*
「おっす!久しぶり!」
1時間目終了のチャイムが鳴り終わってすぐにその大声が真後ろから飛んできた。俺はびっくりしすぎて上半身がビクッと浮くのが自分でもわかった。そして、数秒間体が止まってしまっていた。そう言えば昨日もこうやって龍司にびっくりさせられたなと思い出しながら振り返えるとそこには満面の笑みを浮かべる龍司の姿があった。
「びっくりしたろ?このドアこっそり開けるの気付かなかったろ?」
龍司は教室の少し開いたドアを指差しながら笑顔で言った。
「今日行くんだろ?ブラーの面接。」
放心状態だった俺は面接と言う言葉で我に戻った。
「ああ。昼には電話してみようと思ってる。」
「うちの高校居酒屋でも何でもバイトオッケーなのは助かるよなー。」
「龍司はよくブラーでライブしてるのか?」
「まあな。本当なら今週の日曜もやるつもりだったけど、この腕だしな…」
隣の席の女子が席を立ち廊下へ出て行ったのを見届けて龍司はその空いたイスに腰掛けた。
「んじゃ。放課後はまたルナに寄って時間潰すか。多分昼に電話掛けてもトオルさんいねぇぞ。」
「そっか。開店時間は…」
と言って俺は間宮トオルから貰った名刺をポケットから取り出す。そこには午後6時30分オープンと書かれていた。昨日龍司が言った7時開店というのは間違いの様だ。
「ところでなんで店の名刺持ってるわけ?」
そう言えばブラーに一人で寄った事をまだ龍司に言っていなかったのを思い出した。
「龍司と初めて会った次の日に俺ブラーに入ってみたんだよ。そこで名刺を貰って家帰って名前を見てびっくり。
本当はサザンクロスの事を龍司からもっと聞こうと思ってブラーに行ったんだけどな。
あっ。ブラーに行けばもしかしたら龍司と会えるかなって思って。
だけどまさか、あの店のオーナーがサザンクロスの間宮トオルだったなんて。ホントびっくりしたよ。」
「なんだよ。その日ブラー行ってたのか…俺はエンジェルっつーライブハウスに出演しててコレだよ。」
龍司はそう言って右腕のギプスを俺に見せた。
「ちなみにエンジェルって拓也が住んでる場所から近いと思うぞ。」
「そうなのか?ところでサザンクロスの事を知ってたのは間宮トオルがブラーのオーナーだったからか?」
そう質問したところで2時間目が始まるチャイムが鳴った。そして、担任の米沢の声がする。
「はーい。チャイム鳴ったぞ。お前ら席に着けー。おい。神崎。お前何やってる?自分の教室に戻れ。」
「はいはい。」
龍司にしてもこの米沢にしても、この学校ではチャイムが鳴り終わるか終わらないかのタイミングで教室に入って来るのが当たり前なのだろうか?とこの時そんなしょうもない事を考えていた。
*
2時間目のチャイムが鳴り終わるか終わらないかというタイミングで斜め右後ろの教室のドアが激しく開き1時間目が終わった時よりも大きな声が降り注いだ。
「おっすー!久しぶり!」
不覚にもまた俺はびっくりしすぎて上半身がビクッと浮くのがわかった。
「…さっきも会ったし…昨日もずっと一緒だったろ…?」
振り返りながらそう言うと龍司はまた満面の笑みで俺を見ていた。
次の授業は体育でこの短い休み時間は体育館に取り付けられている更衣室に向かって体操着に着替えるというために時間を使わなければいけなかった。
「残念だけど3・4時間目の授業は体育なんだ。」
「なんだよ〜。じゃあ、寂しいだろうから付いてってやるよ。」
もしかして…龍司は俺が転校して来たばかりでクラスに友達がいないと思って相手をしてくれているのだろうか?
「タクって何人兄弟?両親は健在?」
廊下を一緒に歩きながらそんな事を聞いて来た。
「兄弟はいないよ。両親共々元気だけど?どうして?」
「いや、俺も一人っ子でさ。親父はガキの頃蒸発して母親に女手一つで育ててもらってる。どーでもいいんだけどさ。まぁ、誰かにアイツのオヤジ蒸発したんだってよって聞かされるより俺から言った方がいじゃん?本人から聞くのと第三者から聞くのとでは随分印象変わってくっからな。どんな話題であっても。」
「確かにそうだな。ところでさっきの続きだけどサザンクロスの事を知ってたのは間宮トオルがブラーのオーナーだったからか?」
「いや。トオルさんがサザンクロスっていうバンドを組んでたって知ったのは2年前でブラーのオーナーだから知ってたって訳じゃないけど。そうだな〜。現役時代がどんなんだったかは噂で知ってるかな。
まっ。今話したみたいに第三者から聞いた噂話でトオルさん本人から聞いた話じゃないから決して良い話は聞いてない。おっ。着いたな体育館。」
どんな話を龍司が聞いたのかが気にはなったが、もう更衣室で着替えなければいけない時間だった。
「どんな噂を聞いたかファンとしては気になんだろ?後でゆっくり聞かせてやるよ。
でも…もう一度言うけど決して良い話の内容じゃない。」
この時の龍司の顔は真剣で初めて会った日のような鋭くギラギラした目をしていた。
*
3時間目の体育が終わって4時間目の体育の授業の続きが始まるまで少し休もうと一人体育館の隅に座っていると
「おっすー!久しぶりー!」
と体育館内に響き渡る程の大声が入口から聞こえた。
これは俺だけじゃなく他の生徒何人かも肩をビクッと動かしてびっくりしているのがわかった。
「来ねーと思ったろ?来るんだよなー。俺。」
ニヤニヤと笑いながら龍司はそう言った。
本当は龍司の方が寂しいんじゃないのか?コイツやっぱり友達いないのか?いつも誰とつるんでたんだよ?と俺は思っていた。
「面接の件だけどさ。多分サザンクロスのファンだって事はトオルさんには言わねぇ方がいいと思うぜ。あの人自分からサザンクロスの事話した事ねーし。俺がサザンクロスの事を聞いてもツラい思い出しか残ってねーって言ってた。俺からすれば栄光を掴んだ男に思えるんだけどなー。本人はそう思ってないっぽいし。」
「栄光?」
「そう。えいこう。俺からすればプロになるって事自体がすっげー事だしさ。オリコン1位なんて夢のまた夢ってやつじゃん。」
「龍司はプロ目指してんのか?」
「まさかー。でも、やるからにはドラムで1番になりてぇっしょ。」
また龍司はギラギラした目をした。その目を見て俺はいい目だなと純粋にそう思った。
龍司はさっきまで授業で使っていたバスケットボールを拾い上げ華麗にドリブルを始めた。そして、ハーフライン辺りから左手だけでシュートを放った。高く上がったボールはまるでゴールに吸い込まれて行くようにスパッと入っていった。
「おっしゃー!」
と龍司は歓喜を上げた。周りからも「おおー」と歓声が上がった。女子からは「カッコいい」と言う声が聞こえた。もしかして龍司の奴、結構人気がある奴なのかもしれない。そういえば昨日一緒に帰っている時もすれ違う何人かの生徒は龍司をチラチラと見てきていた。その生徒達はみんな女子だった。確かに男の俺から見てもイケメンだと思う。問題児として龍司を見ている者ばかりではないようだと俺はこの時気が付いた。
4時間目の体育の授業が早く終わり教室に戻る途中まだ授業中の龍司の教室を見ながら廊下を歩いた。朝見た時と同じ格好で龍司は堂々と机に覆い被さって眠っていた。
そして、あと5分で昼休みだという頃、これから起こる事に対しての準備として俺は姿勢を正した。
10
パン3つをあっという間に食べ終えて龍司は話出した。
「まずはどうして間宮トオルがサザンクロスっていうバンドを組んでいたのを俺が知ったかだけどな。
さっきも言ったけどブラーでライブをやってるから知ってた訳じゃない。
実は昨日行った喫茶ルナのマスターから聞いたんだ。
昔トオルさん達サザンクロスのメンバーはよくルナに通う常連だったらしい。
で、2年前に俺達BAD BOYのメンバーでブラーでライブする前に時間あったからルナに入ったらさマスターが…」
「待て。BAD BOYってのは?」
「んっ?ああ。今俺がやってるバンド名な。俺が中3の時にバンド組んだんだよ。」
その時は4人体制で真希という子もいたんだなと拓也は頭の中で整理した。龍司は話を続ける。
「マスターがバンドでもやってんのかってあの調子で聞いてきたから最近組んだばっかりだけど近くにあるブラーって所で今日これからライブするんだって答えたんだよ。そしたら、間宮の坊主の所かって言うからさ。何か知ってるなら聞いとこうと思ってマスターにどんな人がオーナーなのかを聞いたら昔サザンクロスっつーバンドを組んでたそこそこの有名人だって教えてくれた。
だから、曲とかも聞いた事はねーけど、たった3年で解散した伝説のバンドってのとデビュー曲『声』でオリコン1位の衝撃的デビューをしたって情報はその時マスターから聞いて知ってたんだよ。」
龍司はそこで話を一旦止めて残っていた牛乳をいっきに飲み干してからまた話を続けた。
「んで、ここからが本題。俺が聞いたトオルさんの現役時代の話は決して良い話の内容じゃない。ファンとしてはショックを受けるかもしれないがいいか?」
龍司は今日何度も言った前置きを述べた。そして、拓也が何も答えない事を了解と受け取り龍司は続きを話し出した。
「サザンクロスはデビュー当時たくさんのテレビ番組に出演していた。だけど、半年もしないうちにテレビ出演はしなくなった。人気がなくなったとか出演依頼が来なかったとかじゃない。その反対でオファーは沢山きていたらしい。だけど、バンド側がテレビ出演を断っていた。その理由はバンド仲が最悪で顔を合わすだけで喧嘩する状態だったみたいなんだ。テレビでは仲の良さをアピールしていたらしいけど、実はデビュー前から相当険悪な状態が続いていたらしいんだ。
バンド解散の話が4人の中で出ていた頃にプロデビューの話がきて解散は免れたけど4人の関係はさらに悪化していった。デビュー当時からもうそういう状態だったんだ。
作詞作曲を担当していたトオルさんは毎晩飲み歩いてはどんちゃん騒ぎして、かなり荒れた生活を送っていたみたいだな。曲作りなんてデビューしてからは1度もやらなかったってさ。1枚目のアルバム曲は全てデビュー前に作った曲なんだってよ。で、契約事務所からは次の曲を作れって急かされたらしいけど最後までトオルさんは新曲を作らなかった。トオルさんの代わりにボーカルの人がセカンドシングルを作ったらしいんだけどこの曲は全く売れなかった。ボーカルの人はボーカルの人でこれはショックだっただろうな。自分の曲がトオルさんが作ったファーストシングルの足下にも及ばなかったんだから。仲が悪かったんなら尚更だよ。普通ならセカンドアルバムをって話だけどこの段階で曲作りをするメンバーがいなくなった。事務所側も相当待ってくれていたみたいでセカンドアルバムを出して結果を残せば契約を継続するってなってたみだいだ。けど、誰も新曲を作ろうとはしなかった。待ってくれていた事務所にも見放されてついには解雇された。それと同時にバンドも解散。3年のプロ生活で出したCDはシングル2枚とアルバム1枚。これが俺が聞いた話。
まあ、いきなり売れたせいかトオルさんも他のメンバーも調子こいたんだろうな。どうだ?ショック受けたか?」
「別にショック受ける程の内容じゃないだろ?それより、その話もマスターから聞いたのか?」
「いや、この話はその孫の結衣から聞いた。」
「だけど元々はマスターから聞いたって事か。」
「そーゆー事。マスターならもっと詳しくサザンクロスの事を知ってるかもな。と、なるとやっぱり放課後はルナで面接までの時間を潰すしかねぇな。」
龍司が言うように拓也は面接の電話を掛けるまでルナで時間を潰す事に決めた。あわよくばマスターからサザンクロスの事をもっと聞ければと思った。
11
その日の放課後、拓也と龍司は予定通り喫茶ルナへと向かった。ルナに入る前に拓也はスマホで時間を確認した。時刻は午後3時50分。6時30分になればブラーに連絡しようと時間を見ながら思っていた。
「いらっしゃーい。」
店内から聞こえてきたその声は新治郎の渋い声ではなく、カウンター席に座りながらスマホを片手に座っていた若い少女からだった。その少女はスマホを片手にカウンター席から立ち上がり拓也と龍司の方へ笑顔で近づいて来た。
「久しぶりー。元気してた?昨日1年振りに龍ちゃんが来たって新治郎から聞いたとこなんだよ。」
(1年振り?龍司そんなにここ来てなかったのか…その割にはマスターも龍司も普通だったな…)
「孫の結衣。」
龍司は拓也に耳元でそう教えてくれた。
背は低く髪型はツインテールで服装はほぼ黒一色。長いエプロンだけが白い。メイド服というものを着ているせいで昨日のレトロな雰囲気だった純喫茶ルナは消え去り今日はメイド喫茶ルナが誕生していた。ただ、音楽だけは昨日と同様ジャズが流れている。
(この曲は確かチェット・ベイカーが歌うマイ・ファニー・ヴァレンタインだったか…)
ジャズ以外の曲をチョイスしそうな見た目だが、この少女は店内の雰囲気にはジャズが似合うという事がわかっているという事なのだろうか。そう考えるとこの結衣という子のメイド服もルナの雰囲気に合わせての事なのかもしれないなと拓也は思った。
「今日マスターは?」
「休み。今日は結衣がここのマスターでーす!」
「んだよ。」
龍司の素っ気ない態度に結衣は子供のように頬を膨らませた。
「んだよって何よ!久しぶりに会って大人になったなとかキレイになったなとかないわけ!それに結衣は元気だったかって聞いたのよ?久々の再会でなんで真っ先に新治郎の事聞くのよ!新治郎とは昨日も会ったんでしょ!」
「久しぶりって久しぶりじゃねーだろっ!ちょくちょくライブ見に来てくれてんだろ?」
「そだけど…その時、龍ちゃんとはお話してないもん。話すの1年振りだもん…」
「あれっ?そうだっけ?わりぃわりぃ。」
「フンっ。立ち話もなんだし座ってよ。」
そう言って結衣はカウンターの中へ、拓也と龍司は奥のカウンター席に座った。
「ホットでいいよな?ホット2つな。」
龍司が拓也の分のコーヒーを確認して一緒に頼むと結衣は「あいよ。」と新治郎と同じ返事をしてからまじまじと拓也の顔を見て言った。
「昨日龍ちゃんと一緒にココ来た人ですか?」
「ああ。うん。そうだけど?」
「やっぱりそーだ!イケメン2人で店に来たって新治郎が言ってたんだよ。龍司にもやっと友達が出来たみたいだって喜んでた。」
「イケメンか…てか、やっぱり龍司友達いないのか?」
「いるよっ!やっぱりってなんだよっ!」
「龍ちゃん友達いないのよ。かわいそうだから友達でいてあげて下さいね。」
そう言いながらニコニコとコーヒーを作っている結衣の姿はなかなか様になっている。
「よく店番やってるの?」
拓也は慣れた手つきでコーヒーを淹れる結衣の姿を見ながらそう聞いた。
「あっ。お水。お水。」
結衣は二人に水を出し忘れているのに気が付いて水を出しながら拓也の質問に答えた。
「去年からだけどお店手伝ってるんだよ。水を出すの忘れるぐらいだからまだまだだけどね。そうそう今年入ってから二人と同い年の人がバイト入ってるの。高校は栄女だから二人は知らないだろうけど。今日も7時から入ってくれてるからちゃんと挨拶してあげてね。今日から毎日来る常連ですって。」
「毎日来ねーよっ!」
「エイジョって?」
「ああ。坂の上に建ってるお嬢様学校の栄真女学院。通称が栄女な。」
「なるほど〜。」
「お待たせしました〜。結衣特製ホットコーヒーでーす。」
「ただのホットだろっ!」
「愛情が詰まってんのっ!」
結衣はまた頬を膨らませながら龍司にはコーヒーをバンっと荒々しく置き、拓也にはコーヒーをそっと出した。
「てか、龍ちゃんその腕どーしたの?」
「気付くのおっせーよっ!マスターも遅かったけどお前もおっせーなー!ちょっとモメたんだよ!」
「赤木くんと?」
「ちげーよっ!知らねー奴。ライブ見に来てた奴。マスターと同じ事聞くなよっ!てか、マスターから聞いとけよっ!」
「なによそのキレかた…逆ギレも最低だけど、お客さんとモメたのも最低ね…」
「うっせーな。」
「龍ちゃんがドラム叩けなかったらただのバカじゃん。」
「片腕ありゃ充分だよ!ってさっきからマスターと一緒の事ばっか言ってくんなよ!」
「結衣は新治郎の孫だもん。フン。」
拓也は二人のやり取りを聞きながらコーヒーをひと口飲んでみた。新治郎が淹れたコーヒーとなんら変わらない味だと思い拓也は結衣の事を感心した。龍司も拓也がコーヒーを飲む姿を横目で見てコーヒーをふうふうと冷まして飲んだ。
「あっ!咲坂結衣です。自己紹介遅れました。ヨロシクです。」
結衣は頭を下げながら少し遅い自己紹介ををした。拓也も昨日新治郎と龍司からそれなりに話を聞いていたので挨拶をするという事を忘れていた事に気が付いた。結衣と同じように拓也は頭を下げながら名前を名乗った。
「あっ。すみません。橘拓也です。」
「タクって呼んでくれ。」
とこれは龍司がニヤニヤしながら言った。
「拓也くんも龍ちゃんと同じ高2ですか?」
「タクなっ。」
「同い年だよ。結衣ちゃんは中3?」
「結衣なっ。」
「そうでーす。ピチピチの中学3年生でーす。」
「なーにがピチピチだ!ただのガキだろーがっ!」
「拓也くんってもしかして転校生ですか?」
「マスターから聞いてない?」
「聞いてないです。」
「聞いとけっ。」
「なら、どうして転校生ってわかったの?」
「どうしてわかった!特殊能力者かっ!」
「栄女の事知らなかったし。栄女は地元の人ならみんな知ってる学校なの。それに龍ちゃんがいきなり同じ高校のしかも同級生を連れて来るなんてどー考えてもおかしいなって思って。」
「その考え方の方がおかしいだろっ!」
「さっきからうっさいなー!せっかく拓也くんと話してるのに!」
「てか、やっぱり龍司って友達いないのか?いつも学校で誰とつるんでたんだよ?」
「あっ。お前聞いちゃいけねー事聞いたな。せっかく友達いない者同士仲良くしようと思ってたのによ。あー。そうだよ。友達いねーよ。いつも一人か3年のクラスに行ってたんだよ。悪かったな。」
やっぱり友達いないのかという思いも拓也にはあったが、やっぱり龍司は転校して来たばかりの拓也の事を心配して今日は授業が終わるたびに会いに来てくれていたのかと思った。
「で、3年のクラスなんて行ってどうするんだよ?」
「バンドメンバーがいる。赤木って奴と西澤って奴。俺だけ一つ年下で2人とも西校の一つ上なんだわ。」
拓也は泣くふりをして言った。
「そうか…俺が転校して来なかったら来年は本当に学校で一人ぼっちだったってわけか…」
結衣もエプロンを目元に持ってきて言った。
「龍ちゃんよかったね。友達ができて。でも、拓也くんが愛想尽かしても来年は結衣が西高に入ってあげるから大丈夫だからね。」
「なんじゃそりゃ。」
「でも、転校生の拓也くんに龍ちゃんから話しかけるとは思えないんだけど。どうやって2人は仲良くなったの?」
「まあ。春休みにこの近くの河川敷でたまたま出会ったんだよ。」
「龍ちゃんざっくりすぎっ!全然わかんないよっ!河川敷で出会うってどーゆー状況なのよっ。どーやって会話するような出会いが河川敷に待ってるのよっ。いい天気ですねってどっちからか話しかけたわけ?」
「あの時、タク歌ってたんだよな?」
「えっ?歌ってたの?一人で?」
「歌ってたけど?」
「コイツ。ボーカル志望なんだわ。バンド組もうと思ってんだよな?まあ、そんなわけで俺が河川敷で寝てたら綺麗な声がして女が歌ってると思って聴いてたんだけど、よく見ると男なわけ。」
「誰もいないと思って歌ってたから、そこに龍司がいたのが恥ずかしかったのと見た目もコレだろ?だから、立ち去ろうとしたんだけど龍司がやたらと話かけてくるし…でも、俺がサザンクロスのファンだって言ったら何か知ってる風だったからさ。その場でサザンクロスの事聞きたかったんだけど、すぐにどっか行ってしまって…」
「悪かったよ。急に次の日ライブが決まってさ。その練習に集まる事になって。んで、翌日腕がコレになったんだけどな。てか、あのライブハウス…エンジェルのオーナーの奴。警察には連絡しなかったくせに学校にはちゃっかり連絡済みだったとは見損なったぜ。」
「ケーサツ沙汰にならなかっただけ良かったでしょ!どーせいっぱい物とか壊したんでしょーにっ!」
「ま、まあな…」
「で、新学期が始まっても龍司は来ないし、先生に聞いたら2週間の停学でやっと昨日再会したとこなんだよ。」
「なるほどねー。もしかして拓也くんってサザンクロスのファンだからこの街に引っ越して来たんですか?」
「まさか!ホント偶然で。サザンクロスのメンバーがこの街出身って事すら知らなかったし。間宮トオルがこの街にいるなんてびっくりだよ。」
「もうブラーには寄ったんですか?」
「龍司と会った次の日に。あの店のオーナーが間宮トオルだって事はその日、家に帰って名刺を見て知ったんだ。」
「知らずに入って。トオルさんと知らずに会話してたって事ですか?」
「そう。知らずに話してたな…」
「すごいですね。それ。」
「だよね。だから今日会うのが余計緊張するんだよな。あっ。昨日定休日と知らずにブラー寄って。そしたらバイト募集の紙が貼ってあって今日これから電話してバイトの面接行こうと思って。それで時間あるからここに来たんだ。」
「龍ちゃんブラーでライブしてるのになんで定休日知らないのよっ。」
「うっせーな。てか、タクの持ってる名刺に定休日書いてあんじゃね?」
「え…?あ…ホントだ…書いてあった…し、知らなかったな〜。」
龍司は拓也の事を怪しそうに目を細めながら見ていた。
「ちゃんと確認しろよな。」
「あ、ごめん。ごめん。」
「でも、憧れの人の所でバイトできたら最高ですねっ。」
「タクの目的はそれだけじゃねーよな?」
「どーゆーこと?」
「さっき言ったけど、こいつボーカル志望でバンドメンバー探してるんだよ。その為にも今日の面接は受かりたいんだよな?」
「龍ちゃんのバンドに入ればいいじゃん。真希さん抜けてからボーカルってホントは不在なんだよね?」
「あっ。まー。そーだな…」
「じゃ、ちょーどいーじゃんっ。」
「えっ?龍司いいのか?俺も龍司みたいな奴とバンド組めれば楽しそうだし良いなって思ってたんだ。」
龍司はズボンのポケットからタバコを取り出し口に銜えて難しい顔をした。
「俺一人じゃ決めらんねーよ。それに俺らのバンドってケンカばっかだからなー。楽しくはねぇよ。普段は仲良くやってんだけど、ライブ中とかライブが終わるといつもモメるんだよ…まあ、前のライブから俺2人とは会ってねーから今のバンドの状況わかってねーんだけど。次2人に会ったらまたモメるかもしんねーし…だから、新メンバー加入の話なんて出せねーかもしれねー。」
龍司がタバコに火を着けようとした瞬間結衣は龍司が銜えていたタバコを取った。
「何すんだよっ!」
「タバコはダメでしょっ!」
「いいだろ。タバコぐらい」
「いや、ダメでしょっ!」
龍司は軽く舌打ちをした。
「拓也くんのバンド加入の件話せたら話すって感じでお願いしまぁーす。」
「なんで結衣がお願いすんだよっ!」
「拓也くんの歌声どんなのか気になるし。聴いてみたいし。」
「よしっ!タク歌ってやれ。」
「そーじゃなくて。ちゃんとバンドとして聴きたいって意味。」
「一緒だろ。」
「ちがうのっ!」
「わかった。わかった。でも、綺麗な声だったよな。今話してる声と全然違うし。俺、ホント女の人が歌ってると思ったし。」
「へぇ〜。そーなんだ。」
「でも、ロックって感じの声質じゃなかったからやっぱり俺らと違う感じのメンバー探した方がいいかもなー。」
「えー!結衣は龍ちゃんと拓也くんの二人一緒がいーな。二人とも合ってるよ。」
「何が合ってんだか…」
「雰囲気よ。雰囲気。バンドは見た目も大事でしょ!」
「知らねーよ!」
「でもさ拓也くん?ブラーでバイトしたからってバンドメンバー見つかるんですかね?」
「さ……さあ?」
「まあ、何もしねーよりマシっしょ?それにいろんなバンドの演奏を聴くのも勉強になるんじゃね?」
「そだね。もし、面接落ちたら新治郎からトオルさんに話付けてもらうように頼んであげるよ。昔トオルさんうちの常連だったみたいだし。」
その結衣の言葉で拓也は今日ルナにやって来た本当の目的を思い出した。
その事に気付いたのは龍司も一緒だったみたいで大きな声で「あっ!」っと言った。
「そーだった。その昔のトオルさんの話を聞きに今日面接前にタクとここに寄ったんだった。」
「それで新治郎の事を最初に聞いたのね。今日の店番が結衣で悪かったわね。」
「まったくだよ。」
龍司がそう言うとまた結衣は頬をふくらませた。
「いやいや。結衣ちゃんと話せて良かったよ。何か他に情報があれば聞きたかっただけだっだし。それに面接までの時間を潰せればそれで良かったんだよ。」
そう拓也はフォローしてスマホの時間を確認する。6時15分。あと15分すれば電話をしようと思うと緊張してきた。その緊張を少しでも和ますため拓也は話を続けた。
「龍司に結衣ちゃんから聞いたって話聞かせてもらったし。もう充分かな。でも、昔は常連だったって事は今はもう間宮さんはここには顔は出してないって事?」
「そーね。あっ。でも、この街に戻って来てお店を開くってなった時は新治郎に挨拶に来たっぽいよ。
プロになった報告には来なかったくせにって新治郎は言ってたけど、トオルさんも相沢さんもプロになった時って大変な時期だったじゃない?だからしょうがないでしょって怒ったのよねー。」
「大変な時期っていうのは荒れた生活を送っていたっていうデビュー当時?」
「荒れた生活?荒れた生活を送っていたのはトオルさんと相沢さん以外の二人ね。」
「相沢さんて確かボーカルの?CDで見た記憶がある。」
「そうよ。相沢裕紀さんっていう…ボーカルの…って…えっ?
龍ちゃんからトオルさんの話聞いたんじゃないんですか?」
「聞いたけど…相沢っていう名前までは出てきてないな…」
「龍ちゃんそこ大事でしょ!」
結衣が龍司にきつく言うと龍司は天井を見上げ首を傾げている。拓也は話を続けた。
「その間宮さんと相沢さんは荒れた生活を送ってなかったのに他の二人が荒れた生活を送っていたって事はどういう事?」
「……」
結衣は少し考えていた。どうやら拓也が龍司から聞いた話は結衣が知っている内容とは違っている様子で説明の仕方がわからないと言った感じだった。
「拓也くん…龍ちゃんからどんな話を聞いたのか話して下さる?多分、その話間違っているから!」
拓也は昼休みに龍司から聞いた話を結衣に聞かせた。
話を聞く結衣の表情は話が進むにつれて険しくなっていった。そして、話が終わると大声を出して叫んだ。
「ぜっんぜーんちがーうっ!」
「うそだろがっ!全然違うって事ねーだろがっ!」
「合ってる部分はあるけど大事な部分がなーいっ!
結衣の話ちゃんと龍ちゃん聞いてたの?
いいわ。結衣がちゃんと話す。」
そう言って結衣は間宮トオルの話を話し出そうとしてくれたのだが、拓也がスマホの時計を見るともう6時30分をまわっていた。
「ちょっと待った。その話の前に面接の電話してきていいか?」
「そーだな。それがいい。」
拓也は席を立ち間宮から貰った名刺を取り出した。手に取った名刺は緊張のせいで震えている。ひと呼吸ついて電話をかけた。3度目の呼び出しで相手の声がした。拓也は間宮トオルだと思った瞬間にさらに緊張をしたのが自分でもわかった。
「はい。ライブハウスブラー。」
「あっ…あの…もしもし。」
「はい?」
「バイトの…バイトの紙を見たのですが…まだ募集はしていますか?」
「ああ。バイトね。まだ募集中だけど。もしよかったら今から店来れる?」
「あっ。はっはい。今から行けます。」
「場所はわかる?」
「はい。この前入ったので。」
「この前…?まーいーや。待ってるよ。あ、名前は?」
「あ、橘拓也です。で、では伺います。」
「はーい。」
電話が切れる音がした。拓也はふぅーとため息をついた。
(あ〜緊張したなー)
龍司はニヤニヤとこちらを向きながら言った。
「なーにキンチョーしてんだよっ。」
「するだろー普通。中学の時から好きだったバンドの人と今話してたんだから。あの間宮トオルだぞっ!」
拓也は残りのコーヒーを急いで飲み干した。
「わるい。今から面接行って来るわ。結衣ちゃんまた今度話し聞かせてくれる?」
「もちろん。」
「龍司また明日な。あっ。それから龍司のバンドに入れてもらえないか一応聞いてみてくれないか?」
「えっ。ああ。わかった。ってお前ここ帰って来ねーの?」
「ここ何時までやってる?」
「10時。」
「わかった。」
拓也は緊張と期待が混ざったせいかじっとしていられなくなりコーヒー代を支払い、急いでルナを出てブラーへと向かった。間宮トオルの過去の話も気になったが、この話の続きは近いうちにまた結衣から聞けばいい。
拓也が急いで店から出て行く姿を見届けながら龍司はコーヒーカップをゆっくり持ち上げて言った。
「今から面接ってなったからってあんなに焦って行く必要あんのか?ブラーなんてここからすぐだぞ?」
「フフッ。完全に舞い上がっちゃってるね。」
12
電話をかけてから1分も経たない早さでブラーのドアの前まで拓也はやって来た。
少しの距離を猛ダッシュしたせいで呼吸が乱れているのを深呼吸をして整えた。
(ふぅー。緊張するな〜)
拓也はここに来る度に緊張をしている。震える手でドアノブを握った。
(よしっ。開けよう)
ふぅーと息を吐きブラーのドアを開けた。
店内にはカウンターの中に間宮トオルだけがいて他に客の姿はない。
「ブラーへようこそ。」
間宮トオルはグラスを拭きながらそう言った。
「んっ?この前の高校生。」
間宮トオルに覚えてもらっていたのが何よりも拓也には嬉しい事だった。
「あっ。はい!あの…さっきバイトの面接の電話したのも俺なんです。」
「あー。そうか。そうか。しかし早かったなー。じゃあ、そこに座って。」
間宮は拓也をカウンター席に座るように指示した。間宮は持っていたグラスを置き、拓也の分の水をカウンター越しに出した。この前会った時、拓也は間宮の年齢を20代後半から30代前半だと思ったのだが、もう40代に入っているのだろう。どう見ても40代には見えないのはちゃんとセットした髪型と服装のせいだろうか。
今日の間宮はべっ甲のメガネをかけ革ジャンに白いTシャツとジーンズ。特別な服装はしていないのだが腕に巻いたブレスレットと首から下げているメガネを掛ける為のグラスホルダーだけでセンスの良い服装だと感じる。すらっとした体型だからこそ少しのアクセサリーを付けるだけでセンスが良いと感じるのかもしれない。
「その紺色の制服。西高だよな?」
「え?あ、はい。」
「て、事は俺の後輩になるのか。俺もその高校通ってたんだ。」
「えっ!そうだったんですかっ!」
(俺…憧れの間宮トオルの後輩になるのか…)
間宮はカウンターの中から出て来て拓也の横の席に座り拓也の方を向いた。拓也も間宮の方にイスを回転させた。拓也はこれほどの緊張を産まれてから今までした事があっただろうかと思うくらい緊張をしていた。
(やばい…真ん前に間宮トオルがいる。緊張マックスだわ…)
間宮はそれまでかけていたメガネを外してグラスホルダーに引っ掛けた。
どうやらそれ程視力は悪くはないようだ。もしかすると伊達メガネなのかもしれない。
拓也がメガネを目で追っているのに間宮は気が付き説明をしてくれた。
「左目だけ乱視でな。右目は特に悪くはないから遠くはボヤけるが近くの物を見る時は別にメガネはいらないんだよ。」
「はあ。」
拓也は緊張のあまり「はあ。」としか答えられなかったのだが、この反応だけでは間宮からすれば今の話に興味がないものと捉えるだろう。決して今の話に興味がなかったわけではないという事をアピールするためにもぱっと頭に浮かんだ言葉を言った。
「オシャレですよね。そのグラスホルダーも格好いいです。」
「ああ。これ?このグラスホルダー気に入っててな。特注で作ってもらった品物だから特に思い入れがあるんだ。メガネはかけずにただこうやってグラスホルダーに掛けている時の方が多いな。」
拓也はふぅ〜と心の中でため息をついた。
これで興味がなかったわけではないという事をアピール出来ただろう。ぱっと浮かんだ言葉を言ったがそれは本心だった。服装もオシャレだしセンスも良いと思う。そして、特注で作ってもらった品だけあってグラスホルダーはシンプルながら目を引いた。
「それより履歴書は…ないよな?」
「あっ。一応ありあります。」
昨日拓也はバイト募集の張り紙を見てから家に帰るまでの間にコンビニで履歴書を買っていたのだ。それを鞄から取り出し間宮に渡す。
「ほー。やるじゃないか。」
と間宮は感心しながら渡した履歴書を見る。
その間拓也は今言われた「やるじゃないか。」という言葉が嬉しくてたまらなかった。
(憧れの間宮トオルに褒められた…)
こんな些細な事をこれほど単純に自分が喜ぶとは思ってもいなかった。
「17歳か。と、言う事は龍司も17歳だったのか。あいつ赤木にもタメ口だから高3かと思ってたよ。ふーん。高校2年生ね。」
そう言うとまた間宮は履歴書に目を通した。
「生まれは長崎県出身って書いてあるけど?
あれっ?小学校は名古屋で中学は京都で卒業?」
拓也は履歴書に別に書かなくてもいい内容を書いていた。産まれた年の横に長崎出身と書き小学校卒業の年の横には学校名と括弧で名古屋と書いて、中学校の卒業の年の横にも学校名と括弧で京都と場所をあえて書いていた。間宮に少しでも興味を持ってもらう為である。
「父が転勤族でその度に母と一緒に引っ越しを繰り返していたので。この街に来たのは最近なんです。去年1年間は大阪に住んでました。」
「ふ〜ん。これから転校の予定は?」
「もうないです。父が転勤になったとしたら次からは単身赴任するって事になってますので。」
「ふ〜ん。」
間宮は履歴書をカウンターに置き拓也を真っすぐに見た。
「橘拓也君。君の夢は?」
突然名前を呼ばれた事とバイトに関係のない質問を真剣な顔つきで聞く間宮に拓也はびっくりした。
「夢は…小さな夢なんですけど…」
拓也が恥ずかしくて言いあぐねていると間宮は優しく笑って言った。
「聞かせてくれないか?」
「…バンドを組む事です。ホント小さな夢なんですけどこの夢は転校が多かった自分にはまだ叶えられないでいる夢です。」
その夢を持たせてくれた本人が間宮トオルだとこの時言うべきなのか迷った拓也だったがサザンクロスのファンだって言わない方がいいと龍司に言われたのが頭に残っていて今回は言わないでおこうと決めた。
「夢を持つのはいい。」
その言葉に拓也は間宮の夢は何かとても気になったのだが、ここで質問をするのは違うかなと思い間宮の夢を聞く事も辞めておいた。
「んじゃ、合格。よろしくなっ。」
「えっ?」
「わかってると思うが酒とタバコはダメだから。進められても断る。それが出来なかったらクビな。」
「えっ。あっ。はい。」
「そうだ。働いてほしい曜日なんだけど金・土・日の週3日とあと祝日の前日とかなんだけどいけるか?バイト時間はライブが始まるのは7時からだけど、店は6時30にオープンしてる。だから、時間は6時30から23時くらいまで。」
「はいっ!大丈夫です。」
「今日は?これから用事とかないんなら研修がてら働いてみるか?平日は暇だし練習するなら丁度いいけど。」
「はいっ!」
こうして拓也は面接当日にいきなり働く事となった。
間宮はイスから立ち上がり、
「そうだ。何か聞きたい事ってあるか?」
と言った。拓也もイスから立ち上がってから考えた。
(聞きたい事はある…だけど、ここで聞く事は出来ないよな…)
考え抜いた末、拓也が聞いたのはどうでもいい様な事だった。
「この店はいつ頃オープンしたんですか?」
「えっ。ココ?」
そう言って間宮は少し考えてから、
「昔、東京に少し住んでた時があって、東京からここに帰って来てすぐ店を始めたから…確か2002年だったな。今から12年前。ちょうど俺が30歳になった年だな。」
と笑顔で説明をしてくれた。
(と、いう事は現在42歳って事か…全然見えないな…それより随分と若く見える。)
間宮は付いて来いと言って一度店を出た。短い階段を上って行く、そして店の横を通りまた階段を上って行く。どこへ向かうのかわからないまま拓也は間宮の後を追った。ブラーには一度店を出ないといけないが2階があった。2階の広い部屋の手前にはテーブルを囲む形で10人くらいは座れる様にソファが配置されている。そして、奥には仕切りとしてカーテンがかかっていた。カーテンを捲るとスタッフ用の更衣室として使えるようにロッカーが置いてあり中央には長椅子が一脚置かれていた。
「2階は本来、大所帯のバンドとか客が多い時とかに使ってもらうバンド用の楽屋なんだが大体はスタッフの着替えくらいしか使ってないな。1階のステージ横にも小さな楽屋があるからほとんどはそっちを使ってもらってる。まあ、この2階の楽屋はよっぽどの人気バンドかスタッフしか最近は使かってない感じだな。」
間宮はロッカーの一つずつを開けながら説明を続けた。
「今バイトはいないからどのロッカー使ってもいいぞ。新品の制服もどこかにあるはず…」
何個目かのロッカーを開けた時、まだビニールに包まれた制服があった。
「店用の制服だ。制服っつってもこの様に黒のパンツに白のカッターシャツな。
サイズは…Mか。まあ丁度だろ?着替えが済んだら1階に降りて来てくれ。」
拓也は2階で店の制服に着替えて店内に入ると間宮がカウンターの中から手招きをして言った。
「ここにボタンあるだろ?これ外灯の電気のボタンな。これ店がオープンする時に押してくれ。入口の電気が点いたら店オープンしてますよって事だから。この店。入口階段になってて半地下状態だろ?だから、オープンしてるかどうかお客さんが確かめにいちいち階段を降りて来るのは面倒だと思って外灯の光りで開いてるか閉まってるか教えてるってわけ。」
それから拓也は接客の仕方やレジの打ち方や簡単なカクテルの作り方を学んだ。
バイト自体が初めてだった為、何をどうしたら良いのかわからない部分が多かったがこの日はお客さんもそれほど多くはなくバイト初日にしてはそれなりの働きが出来た。
「お客さんも皆帰ったしもうあがっていいぞ。」
間宮のその言葉を聞くまで拓也は客がいなくなった事に気付いていなかった。
「初日にしてはなかなか良かったぞ。この調子で金曜から頼むわ。」
2階に上がり着替えを済ませてスマホを鞄から取り出して改めて時刻を確認する。
(23時か…そういえば…龍司の奴ルナで俺を待ってたのかな?明日謝らないとな…)
間宮に帰る事を告げに1階に降りるとさっきまで客がいなかったはずなのに一人の女性がカウンターに座り間宮と話をしていた。その女性は拓也が間宮に帰る事を告げると拓也に向かって軽くお辞儀をした。拓也もそれにつられてその女性に軽くお辞儀をした。
(誰だろう?)
家に帰る途中、喫茶ルナを通ってみたが予想通り店は閉まっていた。
閉まっている店を見て拓也は龍司の電話番号かLINEでも聞いとけばよかったなと後悔をした。
少し気が緩んだせいかこの時になって初めて拓也は自分が疲れている事に気が付いた。
(ふぅー。疲れたな…でも、働くって気持ちが良いもんだな…)
昼間は温かいが夜のこの時間はまだ寒い。この夜の冷たさが拓也には丁度良く気持ちが良かった。
*
4冊の日記帳を読み終えた後、菜々子は涙を拭った。そして、鮮明な赤色をした最後の日記帳に手を伸ばす。
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今、想う
3月28日
今日から新しいノートに変わった。
日記を付け始めてからもう5冊目となった。
日記を書くようになったのは15歳になった時。
だいたい半年に1冊書き終わるペースだ。
だけど、今回の新しいノートはページ数も多いし長く書く事が出来る。
タイトルは今まで通り「今、思う」に決定。
このタイトルは日記を付け出した記念すべき1冊目からずーっと一緒だ。
毎日とまでは言えないけれど私が思った事。感じた事などを今まで日記帳に綴ってきた。
いつか。大好きなお母さんとお父さんに読んでもらう為に。
いつか。私が恋に落ちた人に読んでもらう為に。
私が生きた証となるように。
大げさかもしれないけれど、私は今日死ぬかもしれない。
明日には日記が書けないかもしれない。
そうなる前に私の声を残したい。今思う事を綴りたい。
できるだけ長く。できることなら何十年も書き続けたい。
そして、できることなら私がおばあちゃんになった時にこの日記を読み返したい。
5冊目となった今回からは新たな試みもある。
去年の誕生日に両親から買ってもらった一眼レフカメラで撮った写真を貼って日記と共に残していこうと思う。
私の声と私が見た景色。
それをこの日記帳に残すの。
私の大切な人。読んでくれていますか?もしかして私と一緒にこの日記を読んでいるのかな?
もし、一人で読んでいるなら…私の日記を読む事に抵抗を感じたりしていますか?
大丈夫です。この日記はいつか私が大好きな人に読んでもらう為の日記帳でもあるのです。
それがきっと今この日記を読んでいるあなたなんですよね?
だから、今の私はまだあなたにお会いしていないけれど、あなたに読んで頂きたく存じます(笑)
いつ会えるのでしょうか?
本当に会えるのでしょうか?
私は恋をするのでしょうか?
私は恋をしてもいいのでしょうか?
恋心を日記に書く時がやってくるのでしょうか?
まぁ…多分…お父さんとお母さんがこの日記帳を読むだけっぽいなぁ〜。
さぁ!明日は桜でも撮りに行くぞー!
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「大丈夫。ちゃんといるよ。彼に…ちゃんと届けるからね。」
菜々子は涙声で優しくそう言った。




