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The Voice  作者: 幸-sachi-
The Voice‬ vol.1
11/59

間奏曲 4 ーOjiichan Shikisyaー


2014年5月26日(月)


プルルプルル―と姫川真希のスマホが学校の屋上に鳴り響いた。スマホの液晶には今遠藤昭一の文字が映し出されている。

(おじいちゃん指揮者?)

しかし、この電話の相手が遠藤ではなくその妻の妙からのものだという事を真希はなんとなく理解していた。

(おじいちゃん指揮者に何かあったの?)

そう思うと真希はすぐに電話に出る事が出来なかった。真希は険しい顔つきでスマホの画面を凝視してから横にいるみなみに告げた。

「ごめん。電話。またね。みなみ。あ。それから今度話す時は敬語じゃなくていいからね。」

真希はそう言って一瞬微笑んだが、すぐに険しい顔に戻り電話をとった。みなみは真希に気を使って屋上から去って行った。その後ろ姿を見てもしかしたらみなみは他に何か私に聞きたい事があったのかもしれないと思った。

『真希ちゃん?私。もう学校終わった?今電話大丈夫?』

「はい。大丈夫です。何かあったんですか?」

真希は涙声でそう聞いた。

『違う違う。そうじゃないの。』

妙は少し笑いながらそう言ったように聞こえたが次の瞬間から真剣な声で語り出した。

『そうじゃないんだけど…うちの夫ね。実はもう長くないらしいのよ。』

その妙の言葉に真希は目の前が真っ白になった。

「えっ…?」

『でね。夫もそれに気付いてるらしくて真希ちゃんに伝えたい事があるから呼び出してくれって頼まれたのよ。突然で悪いんだけど今から来てもらえないかな?今なら夫も起きてるんだ』

「はい。今から行きます。そう伝えて下さい。」

『ありがとね。真希ちゃん。』

妙はそう言ってもう一度『ありがとう。』と掠れた声で言った。その声を聞いて妙は電話ごしで泣き出しているのだとわかった。

(おばさんは何度おじいちゃん指揮者の事で泣いたのだろう?)

真希は妙の泣き声を聞くと辛くて仕方がなかった。

「今、学校なので急いで向かいます。」

そう言った真希の声も震えていて声を出して初めて真希は自分も泣いているのだと気が付いた。

そして、電話を切った真希は屋上で一人空を見上げた。



真希は息を切らして病院に着いた。そして、そのまま遠藤のいる病室へと駆け込んだ。途中若い看護師とすれ違って走らないように咎められたが真希にその言葉は届かなかった。

「おじいちゃん指揮者っ!」

遠藤は驚いた様子で真希が病室に入って来た姿を見ていた。

「真希ちゃん…どうしたんだい?そんなに急いで何かあったのかい?」

酸素マスクを付けた遠藤はきょとんとした顔でそう言ってから嬉しそうに微笑んだ。

「真希ちゃんが来てくれる時はいつもあなた寝てたのよ。だから、今日は起きてるあなたに会う為に真希ちゃんは急いで来てくれたのよ。急いで来ないとまたあなたが寝てしまうと思ったから。そうよね真希ちゃん?」

真希ははあはあと息を切らして妙の問いになかなか返事が出来なかった。

「まさか学校からこの病院まで走って来たのかい?」

真希は言葉が出ずに頭を上下する事で、遠藤の問いにその通りと答えた。

「まあ!学校からここまではずっと上り坂よ。そんなに急いで来なくても。」

ベッドの横の椅子に座っていた妙が笑いながら立ち上がり、冷蔵庫に入っていたペットボトルのお茶を真希に差し出した。それを真希は半分くらい一気に飲み干した。その様子を見て遠藤夫妻は楽しそうに笑っていた。

「はー可笑しい。こんなに笑ったのはホント久しぶりだよ。」

遠藤は涙を拭きながらそう言った。

「そうね。こんなに笑ったの久しぶりね。」

妙もそう言いながら泣いていた。

「さあ、真希ちゃんベッドの横の椅子に座ってあの人の話に付き合ってあげて。」

妙はそう言って一人病室を出て行った。



真希はさっきまで妙が座っていた椅子に腰を下ろした。起きている遠藤に会うのは久しぶりで何から話せばいいのかわからなくなっていた。遠藤もなかなか真希に声を掛けて来ない。しばらくの間沈黙が続いた。真希はただただ遠藤の体に付けられたチューブをぼーっと見ていた。遠藤は窓から見える景色をただじっと見つめている。その視線は虚ろでまるで真希が見舞いにやって来たのを忘れているかのようだった。しばらく景色を見ていた遠藤の視線が真希と合った。遠藤は優しく微笑んで、「おお。真希ちゃん。来てくれたのか?」と言った。真希はその言葉に驚いた。

「おじ……」

(そんな…今さっき話してたのに…どういう事?)

真希は同様を隠す為に笑顔で言った。

「さっきから来てたよ。私が学校からここまで走って来た事に驚いてたじゃない?」

「……」

遠藤は記憶を辿っていた。が、その記憶は呼び戻されなかったようだった。

「体調はどう?」

話題を変えて真希は聞いた。その問いには遠藤はすぐに答えた。

「凄く良いよ。」

「そう。良かった。」

と真希は出来るだけ自分の顔が引きつらない様に言った。

「おじいちゃん指揮者?」

「なんだい?」

「何か私に伝えたい事があったんじゃないの?それで今日私を呼び出したんじゃないの?」

「……」

またしばらく遠藤は考え込んで自分の記憶を辿っていた。そして、遠藤はまた窓際を見つめ始めた。真希はまた遠藤に記憶は呼び戻されないのではないだろうかと不安に思った時、遠藤は窓の景色を見ながら言った。

「呼び出してしまって悪かったね。オケはどうだい?楽しいかい?」

真希とは目を合わせないが、遠藤の目はさっきまでの虚ろな目ではなくしっかりとしていた。その遠藤の顔を見て真希はいつものおじいちゃん指揮者が戻って来たと思った。

「…おじいちゃん指揮者が来なくなってから全然楽しくないよ。早く戻って来てよ。」

「…真希…嘘をついてはいけないよ。」

「…えっ?嘘じゃないよ。早く戻って来てほしいよ。」

「そうじゃない。キミは楽団に戻ってから楽しそうではなかったよ。私はね。ずっとそう思っていた。

私がいようがいまいが楽しくなんてなかっただろう?」

「……」

「楽団にいて楽しいと思った事は今まで一度もなかったんじゃないのかい?」

「……」

「他にやりたい事がある。そうだね?」

「……はい。」

「よろしい。それなら自分に嘘はつかずにそれをやりなさい。」

「……」

遠藤は窓際に移していた視線を真希に向けて言った。

「去年、浩一君と一緒に久しぶりに真希ちゃんが練習を見に来てくれたあの日。」

(雪乃の演奏を初めて聴いた日。私が楽団に戻ったあの日。)

「あの日、実は浩一君から真希を楽団に戻る様に説得してくれと頼まれていたんだよ。」

「……」

「だけど、私はそれを断った。」

「え?断った?」

「そう。私は断ったんだ。そして、私は浩一君に聞いたよ。真希ちゃんは楽団に戻りたいと思っているのか?真希ちゃんは本当にバイオリンが好きなのか?って。真希ちゃん自身が楽団に戻りたいと思わなければ意味がないと言って断ったんだ。」

「…でも…あの時、おじいちゃん指揮者が…」

真希が話そうとしたのを遠藤は手を真希に向けて話し出すのを制した。

「あの日…久しぶりに真希ちゃんと再会して、私は嬉しくなって、ついバイオリンを弾いてみないかと誘ってしまった。それは浩一君に頼まれたからそうした訳ではない。私はキミの演奏を聴きたかったからだ。そして、キミのまだまだ未熟なバイオリンを聴いて私はキミに楽団に戻って来てほしいと思ってしまった。まだまだ未熟だがキミにはバイオリンの才能があると私は感じたんだよ。それに何より私が一緒にキミと演奏がしてみたいと思ってしまったんだ。悪かったね。私が誘ったばっかりにバイオリンをまた始めさせてしまった。」

「そんな…謝らないでよ。私はあの時、おじいちゃん指揮者に誘われて嬉しかったよ。」

「だけど、バイオリンは好きじゃない。そうだね?」

「…はい。」

「真希…キミは自分が心から楽しいと思える事をやりなさい。」

「……」

「だけど、これは私の勝手な願いなんだがバイオリンは続けなさい。音大に行ってもっとバイオリンの事を学びなさい。きっといつかバイオリンの事が好きになれる日がきっとやって来るから。」

「……はい。」

「それから…楽団はもう辞めなさい。」

「え?」

「このまま続けていても辛いだけだろう。それにどんどんキミはバイオリンを嫌いになっていくだろうからね。私はキミにバイオリンを嫌いになってほしくないんだよ。」

「…でも、それは…楽団に戻る事を決めたのは私なの。だから、こんな中途半端なままなのは嫌なの。」

「いいかい真希?よく聞きなさい。私が真希と一緒に音楽がしたいと思って私が真希を誘ったんだ。キミは私のわがままに付き合ってくれただけだ。そのわがままジジイも、もうタクトを振れそうにもない。だから…」

遠藤の目は赤く充血している。それを見られるのが嫌なのか遠藤はまた視線を真希から窓際に向けてから言った。

「私のわがままに付き合ってくれてありがとう。もう充分だよ。」

その言葉に真希の目からは涙が溢れ出した。

(おじいちゃん指揮者は私が楽団を辞めたがっている事にとっくに気が付いていた。だけど、自分から楽団に戻りたいとお父さんに頼んだ以上自分から辞めたいとは絶対に言い出せない私の性格もわかっていたんだ。だから、おじいちゃん指揮者は自分の生きているうちに今の言葉を私に伝えておきたかったんだ。私が楽団を辞めれるように…)

「おじいちゃん…指揮者…」

真希は遠藤に抱きついた。

「ありがとね。真希ちゃん。楽しかったよ。」

遠藤は真希の頭をポンポンと叩いてそう言った。真希も遠藤の優しさに感謝して泣きながら言った。

「おじいちゃん指揮者…ありがとう。」

遠藤は真希がいる方向とは逆の右側を向いて背中を見せた。

「少し疲れた。ちょっと眠る事にするよ。」

真希はゆっくりと立ち上がり病室を出ようとした時、

「真希。」

と遠藤が呼び止めた。真希が振り返ると遠藤は左腕を上げてゆっくりと大きく3回腕を上下に振った。


この次の日の夜。遠藤昭一は帰らぬ人となった。



2014年5月28日(水)


真希は夜空を見上げていた。

(とても月が綺麗。あの日と同じだ。おじいちゃん指揮者が入院した日の夜と)

「真希。そろそろ帰るぞ。」

浩一に呼ばれて真希は我に返った。遠藤のお通夜に出席して車に乗り込もうとする真希を涙で真っ赤に腫れ上がった目をした妙が呼び止めた。

「真希ちゃん。コレ。受け取ってもらえないかな?あの人がずっと使ってた物だから折れちゃってるんだけど…」

妙が差し出したのは遠藤が愛用していたタクトだった。

「そんな大切な物、私貰えません。」

妙は強引にタクトを真希に握らせた。

「貰ってやってほしいの。お願い。あの人もその方が喜ぶから。ね?」

「…わかりました。」

「いつでも遊びに来て。」

「はい。」

「絶対よ。」

「はい。約束します。」


家に帰ると母礼子が3人分の紅茶を用意してテーブル席に真希と浩一を座らせて遠藤の思い出話を始めた。しばらくの間母が話す話を横でぼーっと聞いていた真希は突然、

「ちょっといいかな?話したい事があるんだけど。」

と母親が話すのを遮ってそう言った。浩一の厳しい視線と礼子の不安そうな視線が真希に注がれた。

(おそらく両親とも真希が何を話し出すのかわかっている。)

真希はひと呼吸ついてから話し出した。

「私。楽団を辞めたい。自分から入りたいって言っといて情けないんだけど、もう辞めたいの。」

礼子は残念そうに俯き浩一は微動だにせず何も言わなかった。

「楽団を辞めてもバイオリンとサックスは練習する。練習するけど、私はやっぱりギターが好き。」

「わかった。」

と、紅茶を一気に飲み干して浩一が言った。

「俺からお前が辞める事は伝えておく。」

浩一は何故かあっさりと真希が楽団を辞めるのを認めた。これから言い争いになる事を覚悟していただけあって真希はあっけにとられていた。

「お前が楽団を辞めるのはこれで2度目だ。わかっていると思うが、もう柴咲交響楽団に戻れない事だけは覚悟しておけ。」

「…わかってる。」

「それと、音大には通ってもらう。」

「それも…わかってる。」

「なら、この話はもう終わりだ。先に寝させてもらう。」

浩一は席を立ちさっさとリビングから出て行ってしまった。その様子を目で追いかけながら真希は礼子に言った。

「お父さん怒ってるよね?お母さんも怒ってる?」

「怒ってないわ。」

礼子は椅子を真希に近寄らせた。

「あの人伝えなかったけど、遠藤さんから真希に伝えておいてほしいって頼まれた事があったのよ。」

「おじいちゃん指揮者から?」

「そう。あなたは素直でいい子だと。だけど、素直すぎてそれがバイオリンに出ていると。退屈だ。窮屈だ。面白くも楽しくもない。こんな堅苦しい場所からは逃げ出したいと言ってるって。

真希は雪乃ちゃんのおかげで合同コンサートだけは出たがっていたけど、遠藤さんはバイオリンを嫌いなままの真希をコンサートに出演させるわけにはいかなかったと仰っていたらしいの。真希が実力がないからコンサートに出演できなかったんだと誤解していたのなら申し訳ないがバイオリンを愛していない真希を本番に出す事はどうしても出来なかったって。」

「……」

真希は両手で頭を抱きかかえていた。礼子が真希の肩にそっと手を置いた。

「皮肉よね。遠藤さんもお父さんも天才と呼ばれている雪乃ちゃんもあなたのバイオリンに才能を感じていた。だけど、あなたはバイオリンが嫌いだなんてね…もったいないなって私は思っちゃうわ。だけど、好きじゃないものを続けるって私にも出来ないと思う。」

「……」

「真希は今日お父さんに楽団を辞めるって言ったら言い争いになるって覚悟してたんでしょ?」

真希は言葉に出さず頷いた。

「楽団を辞める事をあっさり認められてびっくりした?」

真希はまた黙ったまま頷いた。

「1年前ね。私達夫婦で話し合ったのよ。」

「なにを?」

真希が顔を上げて礼子を見た。礼子は真希の肩に置いた手をポンポンと叩きながら話した。

「2年間も家を出て行った真希が帰って来て私達は本当に嬉しかった。バイオリンもサックスも嫌いだって、二度とやらないと言っていたあなたがまた楽団に戻りたいと言ってくれた。本当に嬉しかった。」

「……」

「だけどね。次、もし真希がまた辞めたいって言い出す時が来たら、その時は私達の望みより真希の望みを一番に考える事にしようって。お父さんが言ったのよ。」

「お父さんが?」

「そうよ。お父さんね。真希がいない頃よく言ってたわ。俺は良かれと思って真希に英才教育を施したつもりだった。だけど、いつの間にか親の勝手な理想を真希に押し付けていたんだなって。お父さんは最後の望みとして雪乃ちゃんの演奏を見せたんでしょうね。」

「……」

礼子は真希の肩をポンポンと叩くのをやめて冷めきった紅茶を一口飲んだ。そして、大きく手を広げ、ふぅ〜。と声を出して元の姿勢に戻した。

「でも、真希がやりたい楽器が未だにギターなんてね…あんな事されたのに…」

「あんな事?どうしてお母さんもお父さんもギターを嫌うの?」

「え?」

礼子は目をまんまるとして驚いた表情を見せた。

「お父さんなんてちょっと前まではギターを見るだけで機嫌が悪かった。ギターを教えてくれていた白石の叔父さんだって私にギターを教えてたってだけであれから1度も家に呼ばなくなった。あんなによく家に寄っていた人なのに…どうしてギターを嫌うの?」

「真希。あなた。大丈夫?」

「何が?」

「あなた…何も覚えてないの?」

「だから、何が?」

「そう…いい思い出しか真希には残っていないのね…」

「どういう…意味?」

「真希…あなた弟から何かされた記憶はない?」

「白石の叔父さんから?何かって?」

「そう…本当に何も覚えていないのね…ひょっとして私もお父さんも真希に誤解されていたのね…」

「…誤解?」

真希は小学生から中学生になるまで礼子の弟である白石辰巳にギターを習っていた。今でも真希にはその白石の叔父さんからギターを教えてもらっていた時間は掛け替えのない大切な思い出として心の中にある。が、しかし、礼子から聞く話は真希が知っている過去の出来事とは違っていた。衝撃的だった。自分の過去なのに一切思い出せない。

(私はずっとお父さんとお母さんはギター自体が嫌いなのだと勝手に思い込んでいた。ただ私の両親はバイオリンとサックス以外は楽器として認めない人なのだと思っていた。だけど、違った…私は勘違いをしていた…)



昔の映像がよみがえる。

ギターを持って家にやって来た白石の叔父がギターを奏でる。その姿を見て私は両親にギターを弾きたいとお願いした。父も母も嬉しそうにそれなら真希にギターを教えに来てくれと叔父に頼んだ。最初のうちは家のリビングでギターを習っていたのだが、

「お父さんとお母さんの邪魔になるから、これからは真希ちゃんのお部屋でギターの練習をしようね。」

叔父は小学生の私にそう言った。私は無邪気に「うん。わかった。」と答えた。それからは3階にある私の部屋でギターを練習するようになった。部屋で2人きりで練習をする様になって何日か過ぎた頃、練習を見に来た母がその時、何故か大声で叔父に怒鳴りつけた。

「あなた今、真希に何してたのっ!」

小学4年生の私は母親の声が恐くて泣き出した。何故母がそんな大声を出したのか意味がわかっていなかった。だけど…今、思い出した。あの時、叔父は私にギターを教えながら、私の髪を撫で、肩を触り、そして、叔父の手は私のお尻を触っていたのだ。「姉さん誤解だよ。」叔父は何度も苦笑いをして言っていたのを思い出す。それからは叔父が家にやって来てもギターを教えてくれなくなった。私が何度もギターを教えてと叔父に頼む度に叔父は父と母の目を気にしてた。

そう、この頃からだ。両親がギターの話をすると私を叱るようになったのは。

「真希?白石の叔父さんにもうギターを教えてってお願いしちゃダメよ。」

母の言葉を思い出す。

「どうして?私ギター弾きたいよ。もっと教えてほしいよ。」

父が怒鳴ったのを思い出す。

「何度も言わせるなっ!ギターはもう二度と弾くなっ!お前はバイオリンとサックスにだけ集中すればいいっ!」

「どうしてお父さん?ギターを教えに来てくれって叔父さんに言ってくれてたのにどうしてギターを習ったらダメなの?」

父は困った顔をして「ダメなものはダメなんだ。」と言っていた。叔父が家に来ると父も母も叔父から目を離さなかった。しかし、叔父は真希にだけ聞こえるような小声で告げた。

「君の両親は君にバイオリンとサックス以外を習わす気はないようだ。ギターを習いたいのならお父さんとお母さんには内緒で私の家に来なさい。いいね?」

叔父の家は近かったしそうする事にした。小学5年生の頃から小学校を卒業するまでの2年間私は叔父の家に通ってギターを習っていた。

5年生の頃は叔父から髪を触られたり体を触られても何も抵抗していなかった。6年生になった頃から叔父は髪や体を触るだけでなく服を脱ぐ様に言ってきた。だけど、私はそれには従わなかったし、体を触られるのも拒み始めていた。そして、自分でも気付くのが遅かったと思うが、中学生になってやっとこのまま叔父の家に通うのは危険だと気付いた私は叔父の家には行かなくなった。その代わり前以上に叔父がよく家にやって来るようになった。叔父が来る度にストレスを感じた私は両親がいる前でわざと叔父に言った。

「ちゃんと教わった通りギターの練習してるよ。これからは一人で練習しようと思ってる。だって叔父さんすぐ私を触ろうとするもん。」

その頃はもう叔父の家にギターを習いに通っていなかったが私はそう言った。叔父の顔は引きつっていた。父と母はその言葉を聞いて怒り狂っていた。そして、父は言った。

「貴様っ!二度と家に来るなっ!」

それから叔父とは会ってはいない。

―そう。そうだったんだ。私は両親に助けてほしかったから両親に内緒で叔父からギターを教わっている事を自分から告げていたんだ…なのに…どうしてそれを忘れてしまってたんだろう…



全ての過去を思い出した真希はテーブルに頭を付けて塞ぎ込んだ。

(そうか…そうだったんだ…私は最初から両親にギターを反対されてたと思い込んでしまっていたんだ…)

「お母さん?どうしてだろう?どうして私は間違った記憶の方を本当の記憶だと思ってたんだろう?私…今の今までずっと叔父さんからギターを習ってた思い出は良い思い出しか覚えてなかった。」

礼子は、お母さんの勝手な想像だけど。と前置きをしてから言った。

「きっと…ストレスよ…真希は強いストレスによって過去の嫌な出来事に蓋をしてしまっていたのよ。それで記憶の中に良い思い出だけを残した。」

真希は顔を上げて、

「私…実は記憶障害だったんだね…」

と少し笑いながら言った。そして、父に言ってしまった言葉を思い出した。

「私…前にお父さんに言っちゃった。」

「なんて言ったの?」

「お父さんはお母さんと一緒になって叔父さんの悪い噂を私に言って叔父さんを私に近づけない様にしたって言った。それから…そうやっていつもお父さんとお母さんは私を自分達の思い通りになるようにしてきたんだって…私がやりたい事は私自身で決めるって。2人にとにかく言われる筋合いはないってそう言った。私…勘違いしてたんだ…」

「お父さんはなんて言ってた?」

「全く…勘違いしやがってって言ってた。」

「そう。でも、私達が真希を自分達の思い通りになるようにしてきたのは事実よね。ごめんね。」

母からごめんねと言われて真希は何と答えれば良いのかわからなかった。沈黙の後、真希は話題を変えた。

「お母さん?叔父さんとは縁を切ったの?」

「そうね。言葉にして言ったわけじゃないけど、もうこちらから連絡をする事もなくなったし辰巳からもして来ない。実の弟が自分の娘を性的な目で見ていたなんて考えたら気持ち悪いわよ。しかもあの時、真希はまだ小学生だったのよ。実の弟がロリコンよ。信じられない。姉の娘を狙うなんて本当に気持ち悪い。」

「その一件があったからお父さんとお母さんはギターを見るだけで私を叱る様になったのね…叔父さんを思い出すから…」

「私はギターを弾いてても怒ってないでしょ?でも、そうね。お父さんは辰巳の事を思い出すから嫌だったんでしょうね。」

「そっか…そうだったんだ…でも、良かった。思い出せて。私ずっと勘違いしてたし…お父さんとお母さんはバイオリンとサックス以外の楽器は私にさせないようにしてるって思い込んでたし…」

「まさか。でも、全てを思い出してギターをやっていける?」

「あの頃の私にとってはトラウマになってたんだろうけど、今記憶を思い出したけど全然大丈夫だよ。それに体は触られたけど服を脱いだりしてないし。」

「え?服…脱ぐ様に言われたの?」

「まあ…でもエスカレートする前に叔父さんの家には行かなくなったから良かったよ。」

母の肩がワナワナと震えていた。物凄く怒っているのがわかった。真希は思う。母が弟を許す時はもう二度と来ないのだと。

「お母さん。ごめんね。叔父さんとの縁切らせちゃって。」

「なんで真希が謝るのよ。悪いのはあいつなんだから真希が謝らなくていいの。そうだ。新しいコーヒー豆買ってたんだった。飲む?」

「今から?眠れなくなるよ。」

「まあいいじゃない。たまには付き合ってよ。」



2014年5月29日(木)


遠藤のお葬式には凄い数の人が集まっていた。

(さすがだね。おじいちゃん指揮者。こんなにいっぱいの人から愛されてたんだね)

参列者の中には真希の知る柴咲交響楽団のメンバー達ももちろんいた。父と母は楽団のメンバーに話しかけに行った。しかし、その中には自分は入って行けないと真希は一人隅っこの方にいて昨日妙から貰った遠藤のタクトをただ手に持って見つめていた。

(おじいちゃん指揮者?昨日もらったタクト。持って来たよ。)

すると突然大きな声を出して泣きわめく人物の声が聞こえて来た。

(雪乃だ。雪乃以外で人目を気にせずここまで泣ける人物はいない。)

真希は雪乃がいる方を見た。周りは静かに涙を流す人達ばかりなのに茶色い制服を着た雪乃はそんな事お構いなしに一人で泣き喚いていた。沢山の人の視線が雪乃に注いだ。真希が近づくと雪乃は「真希ちゃん。嫌だよ。嫌だよ。」と急に静かに泣き出した。真希はそっと雪乃を抱き寄せた。そこへ楽団のメンバーである高瀬がやって来た。

「お久しぶりです。」

真希がそう言うと赤い目をした高瀬が言った。

「真希ちゃん。楽団辞めちゃったんだね。さっきお父様から聞いたよ。」

「そうなんです。すみません。」

抱き寄せていた雪乃が真希の腕を振りほどいてびっくりした表情で聞いた。

「真希ちゃん…楽団辞めたの?」

「…うん。」

「どうして?ねえどうして?」

「私…これからバンドをしたいと思ってる。やっぱりバイオリンよりギターが好きだから。」

雪乃の目からはさっきよりも更に涙がこぼれ落ちた。

「嘘でしょ?私との約束は?」

「……」

(約束?)

「一緒にコンサート。しようって約束したじゃない。」

「そう。だったね。ごめんね雪乃。私…一緒にコンサートできないや。」

「嫌だよ。嫌だよ真希ちゃん。一緒にコンサートしようよ。」

「……」

「ほら、雪乃ちゃん。真希ちゃん困ってるから。いつかきっと一緒にコンサート出来る日が来るから。」

「高瀬さん。ホント?」

「ホントよ。楽団を辞めても真希ちゃんはバイオリン続けるらしいし。それに音大にも通う予定なのよね?」

「はい。」

「ほら。雪乃ちゃんも高校卒業したら東京の音大に行くんでしょ?」

「…うん。」

「なら今は無理でも大学に行ったら二人とも一緒の舞台に立ってるかもしれないよ〜。ね?真希ちゃん。」

「…え。あ。ま、まあ…」

「ほら。だから雪乃ちゃん。今日は遠藤さんをちゃんと送ってあげましょう。」

「…わかった。」

「よしっ!じゃあ、雪乃ちゃんは私に付いて来て。」

高瀬は雪乃を連れて楽団のメンバーがいる方へ去って行った。それと同時に新しい柴咲交響楽団の指揮者である芦名が真希の元へとやって来た。

「そのタクト。遠藤さんの?」

「来られていたんですか。」

真希は芦名の質問は無視して冷たくそう言った。芦名は気にする素振りも見せずに、

「ああ。遠藤さんとも古い付き合いでね。」

と真希の顔を見ずに言った。

「そう言えば4年程前に遠藤さんから聞いた話を思い出したよ。」

「……」

「日本に凄い才能を持ったバイオリニストがいると遠藤さんは仰っておられた。演奏する時はいつも裸足になる変わった癖があるようだが今まで出会った事のない特別な子だと。電話越しだが凄く興奮されていたのが伝わった。その子はまだ中学1年生になったばかりで将来が楽しみだって言っておられたな。」

「……」

「それから1年後ぐらいにまた電話で遠藤さんと話す機会があったのでその後中学生バイオリニストはどの様に成長しているのか気になって聞いてみた。ところが遠藤さんはとても残念そうに楽団を辞めてしまったと嘆いておられた。」

「……」

「4年程前に中学1年生だったって事は今はもう高校2年生か…キミと同い年だね。あの遠藤さんが認めた子が今でもバイオリンを続けていれば素晴らしいバイオリニストになっていたんだろうな。」

「……」

真希は無言で芦名を睨み続けた。それまでずっと目を合わせなかった芦名がやっと真希の目を見て言った。

「残念だよ。」

「……」

「私はその子の演奏を一度でも聴かせてもらうべきだったのかもしれないな。」

「……」

「もしキミの同級生に心当たりがある子がいれば伝えておいてくれ。」

「……」

「私を後悔させる程の人物になってくれ、と。」

「……わかりました…伝えておきます。」

「頼んだよ。」

芦名は楽団のメンバーがいる方へと歩いて行った。その背中を睨みつけながら真希は力強く囁いた。

「絶対後悔させてやる!」


遠藤のお葬式は音楽家らしいものだった。棺が車に乗せられると柴咲交響楽団が生演奏を始め遠藤の最後を見送った。

その様子を見て真希は今日だけは一緒に演奏をしておじいちゃん指揮者を送りたかったなと思った。


真希は最後に遠藤と別れた場面を思い浮かべた。

遠藤は病室を出て行こうとする真希を呼び止めた。

そして、左腕を上げてゆっくりと大きく3回腕を上下に振った。


―あれはね。心の中でコン・ニチ・ワと言っているんだよ。


(おじいちゃん指揮者?最後に腕を3回振ったのにはどういう意味があったの?)


遠藤を乗せた車が小さくなって行く。交響楽団の演奏は尚も続く。真希は呆然と立ち尽くし涙した。

そして、遠藤のタクトを握りしめて左腕を大きく振り上げ、それをゆっくりと3回上下に振った。

(サヨ・ウ・ナラ)

「さようなら…さようなら…大好きだよ。おじいちゃん指揮者…」

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