タクシー屋さん
男は仕事の帰りに、タクシーに乗った。午後の九時ちょうど。
タクシーは、タイミング良く、会社から出た瞬間に男の目の前に停まっていた。男はもうかれこれ、数十年間は会社勤めだが、個人タクシーとはいえ、車種が日産の4ドア、スカイライン…、通称、『鉄仮面』のタクシーは珍しかった。
座席に座り、ネクタイを緩める男が行き先を伝えると、タクシードライバーは、はい、と静かに頷く。そして、ギアをローに入れ、車を発進させた。川のようなテールランプの流れに、入り込んで行く。
右折の際、チラッとタクシードライバーの顔が見えた。ドライバーは、二十代くらいの若い男のようだが、髪の毛は坊主なのかスポーツ刈りなのか解らないくらいに黒髪の量が少ない。さっき、二十代の若造だと、男は思ったが、変に落ち着きのある運転中の姿勢から、二十代なのか、三十代なのか解らなくなった。
タクシードライバーは、なにかを思い出したかのように、急に口を開いた。
「すみません、ラジオを流しても?」
構わないと、男は答えた。
タクシードライバーが、カーラジオのスイッチを押すと、ステレオからニュースが流れた。ニュースの内容は、数十年前に起きた未解決の殺人事件が、明日で時効成立、迷宮入りになるとのことを伝えていた。
男はタクシードライバーから視点変え、片腕にあるアナログの腕時計を眺めた。時刻は、九時のニ分。
「お客さん、この事件、ご存じで?」
タクシードライバーが、そう言うと、男は見つめていた腕時計から視線を逸らし、また、タクシードライバーに視線を向けた。男は、ああ…、と静かに相づちを打つ。
「結構、悲惨な事件だったらしいですね…。犯人は、未だに、誰だか解らないそうで…」
タクシードライバーが、バックミラー越しに後部座席の男を見つめると、偶然に、二人の視線はぶつかった。急に男は顔を窓に向け、視線を逸す。ミラー越しにぶつかった、タクシードライバーの視線が威圧的だったからだ。
カーラジオの向こうのアナウンサーは、その未解決事件に関する一部始終を話す。何年何月何日に起き、現場の状況、死因、被害者、その被害者を取り巻く人間関係、容疑者、なぜ、犯人が捕まらないのか、未解決になった理由すべてを語る。この間、タクシードライバーと男は沈黙し、ただカーラジオから流れる事件の詳細に聞き耳を立てる。
気持ちの悪い沈黙だった。
男は、腕時計や、窓から見えるビルの輝きを眺めながら、この得体の知れない沈黙をやり過ごしていたのに対し、タクシードライバーは、黙々と落ち着きのある運転姿勢を保っていた。男は窓の外を見つめながら、いつもの帰宅路とは違う景色なのに気付いた。
しばらくすると、またタクシードライバーが口を開く。
「この事件があった頃、私は生まれてもいませんでしたね…」
やけに、ラジオから流れる事件について語るタクシードライバーに、男は妙な気持ちの悪さを感じ、脂汗を額から流す。
またもや、タクシードライバーの口が開く。
「お客さんは、この事件があった頃、なにをしていましたか…?」
タクシードライバーの妙な質問に男は、覚えていない…、の一言を咽から絞り出す。
すると…。
「そうですか…」
タクシードライバーは、バックミラーを見つめ、キキィ!とブレーキを踏み、タクシーを停車させる。
そして…。
後部座席のドアが開く。
ドアが開くと、男の目の前には自宅の景色があった。男は、口から大きく息を吐く。
「会計は…」
タクシードライバーはメーターを見つめて、男に料金を告げる。釣りは要らないと言い、一万円札をタクシードライバーに渡し、男はタクシーから降りた。
腕時計には、9時25分と示され、いつもより早い帰宅になった。観たいテレビ番組があったんだと思い出しながら、男は自宅の方に足を向ける。
ブロロン…、と、あのタクシーは男の前から消えて行った。
タクシードライバーは運転しながら、ニュースを告げ終えたカーラジオを切り、腕にはめていたデジタル時計に視線を向ける。
すると、口元を緩ませながら、独り言を呟く。
「あと、2時間30分で時効成立だね…、パパ…」
彼しか居ないタクシーに、その声だけが響いた。
慣れないことに挑戦した作品…。たまには、いいかと思ったら、すごい難しかった…。