ソフトサイコパス宮内くんの昼休み
とある四月の昼休み。
窓際の席で弁当を食べ終えた僕は、満腹になったからかフワっとした眠さに襲われていた。
生欠伸を噛み殺しつつ教室の掛け時計を見ると、まだ十二時半になったばかりだった。
次の授業まであと三十分近くもある。この春の陽射しが射し込む暖かい席でウトウトするのも悪くない。
やる気のない伸びを一つした後、少しだけ頭を前に傾けて軽く目を閉じる。
するとクラスの喧騒が次第に遠退いていき、頭の中で考えたいたことがバラバラに散らばっていった。
意味を持っていた思考の塊が、紐をほどくように繋がりを無くし、僕はそれに身を任せた。
意識がぼうっとしてきた。あ、これ多分寝れるや……つ……。
「泰治、泰治」
少し眠りかけていたところに、僕を呼ぶ声が聞こえてきた。
「……ん?」
眉間に皺を寄せつつ顔を上げると、同級生の宮内が何やら言いたげな顔つきでこちらを見ていた。わざわざ椅子を反対向きに座り、背もたれに乗せた腕に、自分の顔を乗せている。
「……何だよ。僕寝たいんだけど」
僕が非難めいた声を上げても宮内は意にも介さず、
「俺さあ、この間すごい発見をしたんだよ! 今からその話をしていい?」
「嫌だ」
「三日くらい前の昼休みだったかな。トイレに行った時に、ふと鏡を見たら鼻毛が出ていてさ」
僕は嫌だと言ったはずだったが、宮内はペラペラと話し始めた。こうなるとこいつは一通り話終わるまで静かにならない。
「……うん」
僕は諦めて宮内の話を聞くことにした。
「そこそこ太めのが一本だけ、ひゅって」
「うん」
しかも他人の鼻毛の話か。工藤静香のインスタグラムくらい興味がないな。
「指で奥に押し込もうとしたんだけど、そいつ結構自己主張が強くてさ」
まるで友人の話でもするかのように語る宮内。
「……一応確認するけど、その『そいつ』ってのは鼻毛のことだよな」
「そりゃそうだよ。まだこの話の登場人物は鼻毛しか出てきてないし」
「登場人……まあいい。それで?」
とりあえず続けさせることにした。一々止まっていては宮内の話は終わらない。
「だからもういっそのこと抜いちゃえと思って」
「太いのを?」
「そう」
「意外と勇気あるな」
「その日は爪切りも小刀も持ってきてなかったから、これは直接抜くしかないと……」
「いや待て待て待て。普段なんてもので鼻毛を切っているんだお前は。鼻が血だらけになってしまうわ」
ハサミを使えハサミを。小刀で鼻毛って。山奥の部族でもそんな切り方しないわ。
「まあ両方無かったから指でつまんで思いっきり引っ張ることにして」
「……それで?」
「ふんっ! て抜いたら意外と一発で抜けて」
「おー。それは良かったな。これが一発目でいけないと思いきりがつかなくなってきて、抜けども抜けども空振りの泥沼にはまっていくんだよなあ」
「そうそう。だから一発目で良かったーと思ったんだけど、抜いた瞬間に目からドバドバ涙が出てくるのよ」
「つーんとしてな。わかるわかる」
目と鼻は位置が近いし、涙腺が刺激されやすいのかもしれない。
「くぅーっ! て思いながら堪えてたんだけどさ、ここであることに気が付いたんだよ」
「まさかのここで」
どのタイミングで発見をしているんだこいつは。
「うん。鼻毛を抜いたときって涙が出るじゃん」
「うん」
「あれって抜いた側の目からしか出ないんだよ」
「え」
「例えば右の鼻の穴の鼻毛を抜いたとすると、右目からしか涙が出ない。左も同じ」
「え、本当か? 片目だけってこと?」
「そう。多分間違いない。その後自分の鼻で抜けそうな鼻毛を全部抜いて試して、そうだったから」
「……な、マジか」
「すごいだろ? 大発見だよな!」
「いや、僕はお前が自分の鼻毛を全部抜いちゃったことに驚いているんだが」
宮内は昔から独特なことに情熱を捧げるやつだった。
部活も入らず勉強にも熱を入れず。ただ鼻毛は一生懸命抜く。
いやどんな高校生だ。社会不適合者か。
「まあでも俺と母親と彼女と合わせて二十八本しかサンプルが取れなかったからまだ絶対ではないんだけど」
「いや待て。実の母親と彼女に何をさせてんだよ。サイコパスかお前は」
まさかの斜め上の展開だ。自分の愚行に身内を捲き込んでいるとは。ていうか断れよ。親御さんも彼女も。
「だって他に頼める人いないし」
「そこはせめて親父さんだろ」
どう考えても女性に頼むことではない。まあ男性に頼むことでもないけど。
「あ、言ってなかったけど父さんは二ヶ月前から失踪中で」
「な……! お、おう……。そうなのか。すまん」
大事件じゃねえか。母子揃って鼻毛抜いてないで父親を探せよ。
「まあそれはいいとして、これってすごい発見だろ?」
「いや待て。親父さんの失踪はよくないと思うんだが」
「まあそのうち出てくるだろ」
家で漫画を無くしたときみたいに言うなよ。実の父親だぞ。
「いや、さすがにちゃんと探すべきだろ」
「んー。二階は探したんだけどな」
だからなんで家で漫画を無くしたノリなんだよ。外も探せ。あと一階も。
「これって警察とかに届け出た方がいいんじゃないのか?」
「あー、大丈夫。うちの親父がいないのは日常茶飯事だから。滅多に現れないのにすぐいなくなるんだ」
はぐれメタルかお前の親父は。
「それならまあ別にいいけど」
「うちの父さんのことは忘れてくれ。それより話を戻していいか?」
そんなインパクトの大きい人間、絶対に忘れられないと思うが。
「……まあいいわ。それで?」
「俺もうそれを見つけてからテンション上がっちゃってさあ」
「さっきの鼻毛抜いたら片目からってやつのこと?」
「そう! これ学会とかに発表したら有名になっちゃうんじゃないかとか思ってさあ」
「どんな思考回路をしているんだお前は」
まず何の学会に発表する気だ。
「でも俺もここで冷静でさ、一応職員室のパソコン借りてネットで調べたのよ」
「何を?」
「鼻毛、抜く、涙、片方だけ、って」
「教員用のPCで」
履歴に爪痕を残すな。
「そしたらさー。出てきちゃったんだよ。昔ゴールデンでやってたバラエティー番組でその鼻毛の話が放送されていたって」
「あーなるほどな。先駆者がいたのか」
まさかそんなくだらない内容を放送する番組があるとは。
「あ、でも俺はこの番組を見てないからな? 自分の知恵と経験でこの理論に気が付いたんだ。泰治なら信じてくれるよな?」
宮内は僕の方に向けて体を乗り出した。
「いや、信じるって言われても」
「このままじゃ俺は、テレビの知識を自分が発見したかのように話すクソ野郎になってしまう。だからせめて泰治だけは真実を……」
「いやまっ、お前ちかっ……。落ち着け。信じる。信じるから」
僕がどーどーと押し戻すと、宮内は涙目になり、鼻を啜りながら
「や、泰治……。お前いいヤツだな」
いやそんなじーんとされても。こいつは一体どんな情緒をしてるんだ。
「とにかく落ち着け。そんで感情的になるな」
「そうだな。いくら悔しくても感情的になってはいけないよな」
どこら辺が悔しいのかは僕にはさっぱり理解できないが。
「でもやっぱり向こうに先に発表されてしまった以上、こっちの負けなんだよなあ……」
「そんなに凹むようなことじゃないと思う」
「だって考えてもみろよ」
「何を」
「例えばうちの小三の弟が、定規で直角三角形を書いて遊んでいて、ふと斜辺の2乗はその他の辺の2乗の和と等しいことに気が付いたとする」
「いねえわそんな小三」
そんな弟がいるなら、むしろその弟を学会に発表しろ。
そしてお前の親父は小三の子供がいるならとっとと家に帰ってこい。
「あくまでも例えだから。で、それに気が付いて大発見だと思って学校の担任のおばさん先生に報告をしにいくと」
「ていうか宮内弟いたのか?」
「弟? いや、いないけど」
……なんだこの話。
「まあいい。それで?」
「『先生先生! あのねあのね!』って」
いない弟の声色を真似る宮内。もう反応するのにも疲れてきた。
「うん」
「で、一生懸命報告したら弟は言われるんだよ。『あら、お兄ちゃんに教えてもらったの?』ってな」
「まあそりゃそうなるだろうな」
それか「塾で習ったの?」とか。三平方の定理は確か中二か中三で習う内容だったはずだ。
「こんなの自分で発見したら、本来は世紀の大天才だぞ? ピタゴラスだぞ?」
「だろうな」
「でも先に誰かが見つけていたってだけで『はいはい予習乙』と軽くあしらわれてしまう。ああ、可哀想なうちの弟……」
「いやいないんだろ? 弟」
「俺も弟も生まれる時代を間違えたんだろうなあ」
「ていうかもういいよこの話。お前のサイコパスがこっちに伝染しそうだわ」
「待って泰治。もうちょっとで終わるから」
「僕は五時間目が始まる前にちょっと寝たいんだよ。ていうかお前いつもは休み時間ギリギリまで弁当食ってるじゃないか。今日はどうしたんだよ」
「いや、今日はちょっと弁当抜きで」
「なんで」
「うちの母さんがここのところ寒かったからか、風邪引いちゃってさ」
違う。寒さのせいじゃない。それはお前が全部鼻毛を抜かせたからだ。
「いやだったら食堂でも行ってこいよ」
「あー俺食堂は出禁になってて」
何をどうしたら公立高校の食堂を出禁になれるのか。
「学校の食堂を出禁って。……はぁ、まあいいか。それで続きは?」
「お、ちゃんと聞いてくれるのか? さすが泰治!」
「いいから早く話せ」
「おう! でさ、俺も悩んだんだよ。このやり場の無い気持ちをどうしてくれようって」
「うん。それで?」
「まあ先に見つけられてた以上、鼻毛の理論にこだわっても仕方がないから、鼻毛の理論以上にインパクトのある理論を発見することにした」
「どうやって」
「人体実験」
「…………寝る」
「な、待て康治! 話はまだ終わってないぞ」
「だってお前本当にやりそうなんだもん」
嬉々とした表情でメチャクチャなことをする宮内が目に浮かぶ。
「そりゃやるよ。俺はやるといって実行しなかったことは一度もないし」
「……行動力って持ってはいけない人間が持つと、こんなに不安になるんだな」
「ていうか実はもう今日やることに決まってるんだよ」
「は?」
「一昨日ネットで募集したんだよ。日給三万で人体実験の実験台になってくれる人」
宮内は爽やかな笑顔を浮かべ、僕にスマートフォンの画面を向けてきた。
そこには単発アルバイトの求人サイトが写っていた。どうやら宮内はここのサイトに人体実験のために求人を出したらしい。
……えーっと、なになに。
【超高額案件!】三時間ベッドの上で寝ているだけの簡単なお仕事!【日給三万!】 ※絶対に口外しない方限定。痛みに弱い方はご遠慮ください。
「……怪しすぎて逆に清々しいわ」
「それで実は昨日一人応募が来てさ」
「マジか」
こんなクソ怪しい求人に募集する人間がいるとは。世も末か。
「今日その人と面接することになってるんだよ。そこでもしオッケーそうだったらそのまま実験に入ろうと思ってて」
「いつどこでやるのそれ」
「今日の放課後、四時半から公民館の会議室借りてあるから。泰治もよろしく頼むな」
「え」
何それ。ていうか僕も行くのか?
*
そんなわけで放課後。場所は学校から歩いて数分のところにある公民館の会議室。
僕と宮内は長机の真ん中あたりにに椅子を二つ置いて、それぞれ座っている。
結局口車に乗せられてついてきた自分が情けない。
「さあ、もうおっさんにはスタンバってもらってるから間もなく面接が始まる」
「どんな人なの」
「メールでやり取りした感じだと、サラリーマンのおっさんで、乳首の痛みに堪えるのには自信があるらしい」
「僕たちはそんなことを売りにする人間とこれから会うのか」
未成年が会っていい相手じゃない気がするんだけど。
「まずドアを開けて入ってきたらその場で元気よく自己紹介してもらうことになってるから」
乳首の痛みに強い中年男性の自己紹介か。それはかなり辛いものがある。
「これって僕は必要なのか?」
「泰治はそのおじさんが人体実験の実験台に足る人物なのかを見極める大切な役割があるから」
「変態の自己紹介だけでそんなの判断つかないんだけど」
ていうか乳首の痛みに強いみたいだし、もうそのおっさんでいいじゃん。
「まあこういうのは直感が大切だから」
「僕には人体実験に向いている人を見分ける直感は備わってない」
「大丈夫。俺は泰治のこと信頼してるから」
微塵も嬉しくない信頼だ。……まあいいか。ここまで来た以上文句を言っても仕方ないよな。
「……善処するよ」
「よし! そうと決まれば早速呼ぶぞ。面接の方、どうぞー!」
宮内が外に声を掛けて数秒後、コンコンコンと三回ノックがあり、勢いよくドアが開いた。
さあ、一体どんな変態か。
「こんにちは! 今日はよろしくお願いします!宮内和明、四十八歳です! 乳首を中心に色々な痛みには自信があります! プラスで何千円か貰えるならお尻の穴も大丈夫です! 今日はよろしくお願いし…………」
室内に入ってすぐに元気よく挨拶を始めた中年のおっさんは、途中で言葉を止めた。そして目を大きく見開いて宮内の方を見つめている。
そしてそれとほぼ同時に、隣にいる宮内が席から立ち上がった。
「と、父さん……」
…………ん?
お父さん? 宮内の?
…………。
「…………見つかって良かったね」
おめでとう宮内。僕はもう帰るわ。