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ミルクコーヒー

作者: カクザトウ

 残暑が過ぎ去って、僕の住む町は狐色に染まっていた。吹きとおる風が上着の下をすり抜ける。

 今日は日曜日である。僕は日曜日は決まって隣町にあるカフェに通っている。週末にまとめて課題をやるためだったり、リラックスをするためだったり、用途は様々だ。今日は課題をやるために向かっていた。

 長い坂を下ると大通りに出る。そこは丁度谷になっているようなところで、左右には住宅街が山のようにせり上がっていた。

 大通りを十分ほど自転車で漕いで、左に折れる上り坂に入る。その坂は丘のようにそびえる住宅街を通る道だ。日曜日の昼は子どもの笑い声や遠くを通る車の音がひっきりなしに聞こえてくる。

 住宅街を通りすぎるとコンビニや飲食店が立ち並ぶ場所に出る。更にそこを上っていくと、丁度丘の中腹辺りに位置するところに開けた交差点がある。その交差点の一角に僕の通うカフェはあった。

 カフェの名前は「FOREST」といった。森である。その名に相応しいように、店自体が山小屋を思わせる造りになっていた。

 自転車を停めて店のなかに入ると、いつもより少しだけ人が賑わっていた。恐らくはこの寒冷が原因だろう。ここ数日で突然夏が終わって冬になろうとしているのだから、皆暖かなところで暖をとりたいのだろう。

 ところで、僕はカフェに通ってはいるけれどコーヒーは苦手である。ならばなぜ通うのかと思われるかもしれないが、それに答えるならば居心地の良さだろうか。このカフェは落ち着いた時間が流れている。図書館のような静寂でなければ、フードコートのような喧騒でもない。まるで子守唄を歌うがごとく、丁度よい騒がしさがある。

 僕はそこに惚れたのだろう。だから僕にはコーヒーなどと言うほろ苦い薬は必要ないのである。

 いつも通りにバニラフラペチーノを頼んで窓際の席に座る。今日はいつもより混んでいたので、空いている席が二人がけのものしかなかった。

 木でてきた丸いテーブルの上に筆記用具とノートを取り出す。そしてバニラフラペチーノを少しすすって、僕は課題に取りかかった。

 集中すると次第に辺りの声が楽器のように聞こえてくる。店内に流れている音楽にのるように様々な楽器がそれぞれの音を奏でる。

 ペンはすらすらと進む。頭も冴え渡っていて、この調子なら早めに切り上げられそうだった。課題を切り上げたあとはゆったりとした空間で読みかけの本を読む。あるいは昼下がりの町並みを見てぼうと呆けるかだ。

 僕は課題に集中しながらも、この後に訪れる特別な時間に思考を巡らせていた。

「ここ相席させてもらっても、いいかな?」

 ノートに食いつく僕の頭に女の人の声がかかった。あまりにも突然のことだったので、自分の世界に没頭していた僕は身体を跳ねてしまった。テーブルがガタンと揺れて恥ずかしかった。

 顔をあげると、ほっそりとした女性が僕の正面に立っていた。青白い肌は尊くて、細長い身体はガラス細工のように脆そうだった。髪と同じ深い黒色をした瞳は底の見えない海溝のように深く、深海のように神秘的に輝いていた。

 おっぱいは大きかった。

「は、はい。ええ、どうぞ」

 僕はノートと筆記用具を引いてテーブルを半分ほどあけた。

「ありがとう」

 女性がするりとイスに座ると甘い花の香りが僕の鼻孔をくすぐった。

 女性はブラックのコーヒーを頼むと、膝においた肩掛けのバッグから読みかけの本を取り出した。

 僕は課題を進めながらも、女性がちらちらと視界に入って気が散漫してしまっていた。

 少し目をあげれば豊かなおっぱいを拝むことができた。しかも顔は伏せ気味のまま目だけを動かして見えるので、そこはベストポジションだった。

 女性がコーヒーをすする音が聞こえる。甘い香りに混じって仄かな苦味が感じられた。

 気がつくと僕の課題は終わっていた。無心とはなんと恐ろしいことか。

 出来栄えはいいとして終わってしまったのだ。そうすると僕は顔をあげなければならない。だがあげてしまうともうおっぱいが拝めない。

 僕は緩い葛藤の末にもう少しだけ課題を見直すことにした。

「ねぇ君」

 また唐突だった。女性が僕を呼んだ。

 もしかしてばれたのだろうか。僕は後悔した。きっとこのカフェにはもうこれないだろう。束の間の安息がたった二つの球体によって潰されんとしていた。

 胸がずきんと痛んで、いっそ死刑宣告されるかのように鼓動が早くなって胸を叩いた。

「この曲、知ってる?」

「……今流れてる曲、ですか?」

「そう。ボレロ」

「ボレロ、ですか」

 僕はほっと胸を撫で下ろして店内に流れる曲に耳を傾けた。

 それは同じリズムが延々と繰り返される曲だった。あまり音楽の芸術に詳しくない僕には、乏しい感想しか抱けなかった。どころか聴き入っていたら眠ってしまいそうですらある。僕と言う人間はあまりにも稚拙だった。

 女性はとても曲に聴き入っているようだった。頬杖をついてじっとテーブルを見つめている。長いまつげがぱたぱたと瞬くと、風が起きそうな気さえする。テーブルに乗り上げた球体がまんじゅうのように潰れていた。

 僕には店内に流れる曲よりもしんと聞き入る女性の方がずっと神秘的に思えた。

 やがて終盤の盛り上がりを過ぎて演奏が終わった。新しい別の曲が流れ始めると、女性は魂が戻ったかのようにようやく身体を動かした。

「今の曲。私好きなんだ」

「僕も、初めて聴きましたけど、なんだか落ち着く曲ですね」

「うん、落ち着く。だけど、私には夜明けを表したようにも感じる」

 にっと女性が微笑んだ。

「白みがかった空のしたを歩いていくの。あたりは死んだように静かで、空気は冷たいと思う。でもきっと胸はどきどきしていて、これからの期待で一杯なんだ」

 女性は細い目をしてテーブルを見つめた。けれどその瞳はテーブルよりもずっと遠くのものを見ているようで、煌めいていた。

 女性はコーヒーを飲み干すと読み終えたであろう本をしまって立ち上がった。もう帰るのだろう。

 バッグを肩にかけたところで「そうだ」と思い出したように女性が言った。

「君にいっておくことがあるんだった」

「なんですか?」

 僕が聞き返すと女性は意地らしく笑ってこう言った。

「このエロがき」





 次の週の日曜日。

 僕は少し時間を早めて昼前にカフェに入った。先週は思わぬアクシデントのせいで集中して本が読めなかったので、今日こそは平穏たる時間を過ごすために少しだけ早めに来たのである。

 店のなかはまだ人が少なかった。コーヒーのほろ苦い匂いが漂っている。これは落ち着いて本を読めると思い、僕は窓際の席に目を配った。

 すると見覚えのあるおっぱいを持つ女性が目に入った。女性もたまたまこちらを見たようで僕らは視線が重なってしまった。女性がひらひらと手を揺らして呼んでいた。

 気がつくと僕は吸い寄せられるように女性の正面に座っていた。

 女性は何やら手紙のようなものを書いていて、その枚数は十数枚に及んでいた。

「それは、誰かへの手紙ですか?」

 僕は頼んでいたバニラフラペチーノを飲んで、聞いた。

「んー? これは家族や友達とかに向けた手紙だよ」

 言いながらも女性は走らせるペンを止めなかった。書き終えた手紙たちの横には、冷めきったコーヒーが置いてあった。

 僕は女性があまりにも集中しているので、話しかけるのは野暮かと思って読みかけの本を読み始めた。

 本の内容はミステリーものだった。西洋が舞台の重厚な物語だ。不可思議な謎とそれを解き明かすヒントが文中に散りばめられていて、まるで自分も事件を追っている探偵のような気分になる。

 物語は佳境に入った。ついに探偵が犯人を追い詰めたところだった。

 探偵が言った。

「どんな動機であれ人を殺してはいけない」と。

 犯人が言った。

「それは綺麗事だ。俺は無闇にあいつを殺したんじゃない。殺すしかなかったんだ。」

 犯人と探偵のやり取りがしばらく続いて、やがて犯人が駆け付けた警察に捕まった。犯人の判決は死刑となって、あとは執行される日を待つだけだった。

 場面が移って探偵と助手が事務所で話し合っていた。

 助手が言った。

「彼はきっと天国にはいけないでしょうね」

 探偵が言った。

「どうだろうね。それは私たちが決めることではないと思う」

 更に付け加えて、探偵が言った。

「命は死んでしまったらどうなるのだろう。そこはきっと、私も彼も平等なのかもしれない」

 そうして、その物語は幕を閉じた。

 僕は数々のトリックや名推理よりも、探偵が最後に話した言葉が頭に引っ掛かって仕方なかった。

 命は死んでしまったらどうなるのだろう。どこにいくのだろう。

 例えば電池の切れた機械みたいに何も感じない無になるのか。無と言うことは、存在しなくなるということだろうか。そう考えると恐ろしいことだ。

 こうして止めどなく流れている時間も止まってしまい、死んだ命はその先を歩むことができなくなる。全てに置き去りにされていき、その瞬間に取り残されるのだろうか。

 恐ろしくおぞましいとは思ったけれども、何も感じない無なのだからやはり何ともないのだろうか。

 そうして堂々巡りの謎に突き当たっていると、「それ読んだことある」と女性が言った。

「懐かしいなぁ。それ高校の時に読んだんだっけ」

「最後のところ、なんだか引っ掛かりますよね」

「あー、何だっけ」

 僕は女性に本を見せて、最後のところを読んでもらった。

 女性は思い出したように何度も一人で頷いて、それから少し思案して口を開いた。

「私はきっと消えてしまうとおもうな」

「消えるってことは、無になるってことでしょうか」

「んー、私もよく分からないんだけど、全部から解放されて、自由になるっていうの? そんな感じだと思うよ」

 女性の言葉は掴み所のない雲みたいだった。

 けれど、きっと女性は死んだあとを悲観的には捉えていないんだろう。理由はないけれど、僕はそう感じていた。

「それにしても、君は真面目なことも考えるんだ」

 女性はまるで僕が阿呆か馬鹿かのように、くすくすと笑って言った。

 僕とて真剣な悩みは多いのである。勉強、人間関係、部活、その他にも色々と考え悩むことの多い忙しい身なのだ。

「考えますよ。僕にだって真面目な悩みの一つや二つもあるのです」

「おっぱいばかり見てるくせにね」

 女性は書き終えた手紙をまとめていくつかの封筒に小分けにすると、ようやく冷めたコーヒーを口につけた。「うわ冷めちゃってる」と言って残りを一気に飲み下すと、新しいブラックコーヒーを注文した。

 僕は時計に目を配った。今日は夕方から妹の誕生祝いで食事に出かける用事があるので、そろそろ帰らなくてはならなかった。

「今日はそろそろ帰らせてもらいます」

「ん。そうか。次はゆっくり話ができるといいね。君とはなしていると面白い」

「僕も面白いです」

 そうして僕は店を出て家に帰った。茜色の太陽が丘に敷き詰められた家を光らせていて、眩しかった。



 ⬛



 次の週の日曜日。

 僕はいつもと同じ時間にカフェに入った。店のなかはお客さんで賑わっていた。

 僕は窓際の席に目を配った。今日はまだあの女性の姿はなくて、席も一人がけの席がちらほらと空いていた。

 けれど僕は二人がけの席に座って、きっと女性が来るだろうと思って待っていた。待っている間、僕は彼女について色々考えた。

 まず彼女は僕より年上だ。それも六つか七つは離れているだろう。きっと社会人に違いない。それから彼女はインドアを好むと思う。あの青白くて澄んだ色の肌は太陽にあまり当たっていないからだろう。彼女はクラシックが好きだ。特に、あの「ボレロ」という曲が好きなのだろう。

 僕もあれから家に帰ってから何度かパソコンなどで聞いたことがある。けれどどうしても途中で飽きてしまって、最後まで聴いたことは未だにない。

 僕はボレロを聴くときにいつも女性の言っていた景色を思い浮かべて聴いている。だけれど、やはりというべきか、僕には単調なリズムを刻んでいる絢爛と光る管楽器や弦楽器、打楽器たちしか思い浮かばなかった。

 いつか僕も彼女と同じ景色を見てみたいと思う。白みがかった空とは、死んだように静かな景色とは、沸き上がる期待とは、一体どんなところでどんな気持ちなのだろうか。

 そうしていると、ぬっと大きな影が僕の座るテーブルに被さった。

 顔をあげると、そこにいたのは身体の大きな老けた西洋人だった。

「ここ、あいて、ますか?」

 西洋人は大きな身体を丸めて、片言の日本語で訊ねてきた。正直圧倒されはしたけれど、あの女性も今日は来なさそうなので僕は席を西洋人に譲った。

 西洋人はぺこりとお辞儀をすると、どっかりと大きな腰を椅子に降ろした。

 コーヒーを頼んで、そのなかに沢山の砂糖を入れる西洋人。

 僕がじっと西洋人の所作を見つめていると、彼はにっこりと笑って「ごめんなさい。ほか、あいてない」と言った。

「いや、大丈夫、です」

 僕がおどおどとそう言うと、西洋人は熊のような身体を揺らして愉快そうに笑っていた。何とも豪快で気持ちのよい男であろうか。

「いやいや、しつれい、しました」

 西洋人はその皿のように大きな手で小さく見えるカップを口に運ぶと、革のバッグから分厚い本を取り出した。それはまるで百科事典のようであった。

 西洋人はバッグから丸い眼鏡を取り出してかけた。しわくちゃの顔を更にしわくちゃにして、その分厚い本を読み始めた。

 店内には聴いたことがあるかどうかもわからないクラシックが流れている。他のお客さんの雑踏が楽器のように奏でられる。

 僕はバニラフラペチーノを飲んで、音楽プレイヤーを取り出した。イヤホンを耳につけて曲を流す。聴いているのは僕の好きなロックバンドの曲である。

 そうして目を瞑ると楽器の音がより鮮明に聴こえる。ボーカルの口が見える。弾かれて震えるギターの弦。激しく揺れるドラムの打楽器。下地を造り出すベースの強かな音。

 音の一つ一つが胸に訴えてくる。まるで僕一人のためにライブが行われているみたいだった。

 そうしていて二時間ほど経ったろうか。イヤホンをはずし目を開けると、店内はすっかり閑散としていた。

 僕の前では相変わらず西洋人が顔をしわくちゃにして分厚い本を読んでいた。

 僕が音楽プレイヤーをしまうと、西洋人がゆっくりとその大きな目玉を動かした。そうして僕を見て、拳ほどのありそうな口を小さく開いた。

「ほんというものは、おもしろい。いつも、わたしを、しらないせかいにつれていく」

 西洋人は丸めていた身体を大きく伸ばして、手元にあるコーヒーに口をつけた。きっとあのコーヒーはとても甘いのだろうなと思いながら、僕も残り少ないバニラフラペチーノを口にした。

「わたしは、しらないせかいがみたくて、いつもほんばかり、よんでしまう。ですが、かれらは、ほんをよんでばかりではない。かれらは、じぶんのあしで、せかいをあるく。じぶんのめで、せかいをみる。わたしは、そんなかれらが、うらやましい」

 西洋人はガラス越しに僕を観察するように見て、にっこりと微笑んだ。

「きみは、まだわかい。ならば、ほんをよむのは、ほどほどがいい。わたしは、もうあるけないけど、きみは、まだあるける。たくさん、ほんをよむのは、あるけなくなってからがいい」

 西洋人はかけている眼鏡とテーブルに広がった本を鞄にしまうと、のっそりとした動きで立ち上がった。

「きみは、ほんがすきか」

「はい。好きです」

「そうか。ならよかった」

 西洋人は最後にまたにっこりと笑うと、店の外へ出ていった。

 僕は西洋人が去ったあともしばらく席に座っていた。そうして女性やさきほどの西洋人のことを考えていたら空が藍色になってきたので、僕は帰ることした。





 次の週も次の週も女性はこなかった。そのうち季節は秋を超して冬になろうとしていた。

 今日は日曜日だ。

 僕は厚手のニットを着て、そのうえに更に上着を羽織ってカフェに向かった。頬を掠める風は鋭く冷えていて、大きく息をすると肺が凍るようだった。

 坂を下って大通りにでて、上り坂に差し掛かろうとしたときだった。坂のふもとで立ち往生している車椅子が見えた。

 僕は車椅子にのっている人の髪に見覚えがあった。髪は海溝のように深い黒色をしていて、その艶は深海のように神秘的な輝きだった。

 僕は車椅子の横に自転車を停めてその人に声をかけた。

「どうかしましたか」

「おや。君か」

 女性は以前に会ったときよりもげっそりとした顔をこちらに向けた。厚手の上着から覗く首や手は、今にも折れてしまいそうに細く、儚かった。

「いやね。どうにもこの坂がのぼれそうにもなくて」

「坂の上に何か用が?」

「カフェに行きたいんだ」

 女性は思いを馳せるように坂の先を見上げた。つられて、僕も坂の先を見上げた。

 確かにこの坂は車椅子ではのぼれそうもなかった。勾配のきつい箇所もあるし、何より距離が長かった。

「僕が押しますか? 一度自転車を置いてきてからになりますけど」

「すまんね。よければお願いできるかな」

「もちろんです」

 僕は一度坂をのぼって自転車をカフェに置いてきてから、のぼってきた坂を下って女性のもとに戻ってきた。

 車椅子の押し方は学校の授業で一度実習したことがあるので、問題なくのぼれそうだった。

「ありがとう。君がいなかったら私はずっと坂の下にいたね」

 女性は覇気のない声でそう言った。今日の女性は体調が優れないようである。いや今日だけではないだろう、身体の痩せ具合を鑑みるにこのところずっと調子が優れないのだろう。

 そして車椅子に乗っているということは、よほど体調が悪いのだろうか。あるいは何かの病であろうか。

 けれどそんなことを訊いたところで何もできまい。僕はこうして談笑することくらいしかできないのだ。ならばこの場で病を訊くのは無粋なことになるだろう。

 僕は女性の車椅子を押した。女性の乗る車椅子は実習で押した時のよりもずっと軽くてすいすい進んだ。

 開けた交差点に出て、僕らは一角にあるカフェに入った。店員さんと僕とで二人がけの窓際の席に女性を座らせた。

 女性は中身が抜けたように軽かった。

「本当にありがとう。今日は私が全部出させてもらうよ」

「いやいいですよ。僕もあなたと話しがしたかったところですから」

「それは嬉しいな。でも今日は私に甘えてくれたまえよ」

 大袈裟に偉ぶって女性は胸を張る。豊かな球体がぷるんと跳ねた。

 女性の好意をこれ以上無下にするのも失礼だと思ったので、僕は甘えさせてもらうことにした。

 女性がコーヒーを二つ頼んだ。僕は横から訂正しようと思ったけれど、それはあまりにも恥ずかしいのでやめておいた。

 きっとこれから僕は苦いコーヒーを飲むのだろう。前に会った西洋人のように沢山の砂糖を入れればこんなちんちくりんでも飲めるだろうか。

「ときに君。最近面白いことはなかったか?」

「西洋人の老人と相席したときは面白かったですよ」

「西洋人とな? それはどんな人だ?」

「うーん。おっとりしていて、百科事典みたいな本を読んでましたかねぇ。あと、本についての話とかも聞きましたね」

 そうして僕は西洋人から聞いた話を女性に話した。女性は西洋人が話したことを聞いて、少し憂いた目をしていた。

「面白いことを言うもんだな。その老人も」

 女性は鼻を鳴らして小枝のように細い腕で頬杖をついた。

 熱々のコーヒーがきた。

 湯気と共にたちのぼる薫りは苦い豆の匂いがした。女性はふー、ふー、と息を吹き掛けてから湯気立つコーヒーを啄むように口にした。

 僕がコーヒーとにらめっこをしていると、女性がふふんと嫌らしく笑った。「ミルクならあげるよ」と女性が言った。

 ここでミルクを受けとるのは男としてどうかと僕は考えた。もう僕も甘いミルクをすする歳ではないのだ。

 僕はその申し出を断って熱々のコーヒーを一口、口に含んだ。渋い薫りが頭のなかに立ち込める。舌がアレルギー反応を起こしたみたいに苦味を拒絶する。このまま口に含んでいても苦渋を舐めるだけだと判断し、僕は一思いに苦いコーヒーを飲み下した。

 喉を熱々の液体が通りすぎていく。コーヒーは食道を通って胃のなかに着水した。

 口のなかに残ったざんしが渋い風味を漂わせる。

 苦味に苦しんでいる僕の前で、女性は涙を滲ませて笑っていた。

「あーお腹痛い! 本当にアホだね、君は」

 そういって女性はテーブルに置いてある水をくれた。僕はその水を一気に飲み干した。

 苦味はまだ拭えなかったけれど、幾分かましにはなったのでよしとしよう。

 それよりも、僕は恥ずかしくてたまらなかった。大人ぶった挙げ句にそれが失敗して、更にそれを助けてもらうなど、とんだ体たらくである。

「ごめんよ、まさか飲めないとは思わなくて。ほらこっちを向いてくれよ、いつも飲んでるやつ頼むからさ」

 くすくすと笑いながら女性はとても愉快そうだった。

 たいして僕は顔を真っ赤にして窓の外に顔を向けていた。とてもではないが恥ずかしすぎる。これならば虚栄心をおさえて素直に飲めないといっておけばよかった。

 そうしていると女性が頼んでくれたバニラフラペチーノがテーブルに置かれた。「ほら飲めよ、これは甘いぞ」と女性がからかう。

 僕は断固として飲むまいと維持をはっていたけれど、甘い欲望には抗えないのが僕という男だった。

 バニラフラペチーノはやはり甘かった。

「なぁ」と女性がコーヒーを飲み干して口を開いた。

「ひとつ頼みがあるんだけど、聞いてくれるかな?」

「へんなことじゃなければいいですよ」

「君というやつは疑り深いな」

 女性はくすりと笑った。

「丘の上に行きたいんだよ、私は」

 




 僕らはカフェを出て丘の上を目指した。太陽はすっかり茜色になっていて、澄んだ冬の空気を透過していた。細長い雲が空のずっと上に見える。その雲はピントが合わなかったみたいにぼやけて見えた。

 自転車はカフェの駐輪場に置いてきた。多少の時間ならきっとばれはしないだろう。

 丘を上る途中、女性は懐かしむように過ぎ去る町の風景を眺めていた。僕には後ろ姿と振り向いたときの横顔しか見えないけれど、背中からも彼女の切なさと喜びは伝わっていた。

「町とはかわってしまうものだな。おいてかれた気分だよ」

 丘の頂上についたときにはあたりはすっかり藍色になっていた。頂上は展望台みたいになっていて、木で彫られた景観を模した地図といくつかのベンチがおいてあった。

 西をみるとふつふつと灯る町の光と微かに残る茜色の空が見える。東側はいくつかの住宅街とあとは森になっていて、黒い海に点々と暖かな灯りが点っていた。

「ここは星がよく見えるんだ」

 女性は顔をあげて空を見た。僕もならって透き通る冬の寒空を仰いだ。

 空には白い月が浮かんでいた。まるでそこだけが暗闇から丸く切り取られたみたいに輝いていた。周りには小さな星たちが散りばめられている。子供のころにビーズという玩具で遊んだことがあるけれど、まるでその玩具が空にこぼれて散らかったようである。

「綺麗ですね。こんなところ、知りませんでした」

「ここはいいところだ。私が君くらいのときは、落ち込んだりしたらよくここにきたものよ」

「今日も来てるけど」女性は自嘲気味に笑った。

 僕は首が疲れたので顔を戻した。

 女性はずっと星空を見上げていた。まるで空を飛ぶことに憧れる雛鳥のように、女性はほっそりとした首を空に向けて伸ばしていた。真っ黒な瞳に絢爛な夜空が吸い込まれていて、僕はしばらく彼女のことばかりを眺めてしまってた。





 あの日以来、また女性はカフェにこなくなった。季節は年を超して一月になっていた。

 全く来ないものだから僕は病が悪化したんじゃないかと思い、ずっと胸が締め付けられたように苦しかった。身体は重く咳も出て熱も出て、気がつけば病になっていたのは僕の方だった。

 インフルエンザという厄介なものに僕はかかってしまったらしい。あまりのだるさに布団で寝耽っていると、インターホンを押す音が聞こえた。母がどたばたと歩いて玄関で誰かと話をしている。それから僕の部屋にきて、部活の友人が授業のプリントを届けてくれたのだと言った。

 それから剥いてもらったリンゴを食べて、薬を飲んでまた眠る。そうして起きたあとは何だか前よりも身体が軽くなっていて、四日目の朝には熱以外は殆ど健康体だった。

 僕は冴え始めた頭で考える。何か重要なことを忘れているような気がしたからだ。けれど考えれども考えれども何も思い付かないので、僕は諦めて本を読むことにした。

 西洋人が言ってたことを思い出す。確かに歩けないときにこそ本というものは助かるものだ。歩かなくとも摩訶不思議の世界に読み手を誘ってくれるのだから。

 そうして本を読んでいると、僕はいつの間にか夜の町にたっていた。

 あたりはしんと静まり返って、灯りの一つもついていない。正しく真っ暗というやつだった。

 薄着だというのに寒さはない。吸い込む空気は冷たくて肺が洗われるように新鮮だ。

 僕はじっとしていてもつまらないので、いつものカフェに向かうことにした。坂を歩いて下っていると、途中であの女性とあった。顔に血色が戻っていて、はじめに会ったときよりも少しだけふっくらとしていた。女性は薄手のセーターに白いスカートをはいていて、何だかいつもより女の子らしい服装をしていた。

「こんばんは。涼しいですね」

「こんばんは。まだ夜だからね」

 女性の横には僕の自転車があって、僕は自転車に跨がった。女性を後ろにのせて、二人のりで坂道を素早く下った。なぜだか事故を起こす気がしなくて、北風のように僕らは町を吹き抜けた。

 大通りを通って坂を上る。女性は空気のように軽くて、すいすい僕らは丘をのぼった。

 カフェにつくと、入り口の前に西洋人が立っていた。西洋人は真っ黒なスーツに身を包んでいて、闇に顔だけが浮いているようだった。

 黒い帽子を脱いで西洋人はお辞儀した。僕と女性も自転車に乗ったままお辞儀した。

「楽しんできてください。歩けるうちに歩くのです」

 西洋人がそう言うと女性はぺこりと頭を下げた。僕もならって頭を下げた。

 僕は女性が丘の上まで行きたいというので、行き先を変えて丘の上に自転車を転がした。

 丘の上に近づいていくと、風にのった音楽が微かに聴こえてきた。頂上に近づくにつれてその音楽ははっきりと力強く響いていた。

 丘の上につくと、数多の管楽器、弦楽器、打楽器が僕らの到着を出迎えた。演奏者はいなくて、彼らは自由に音を奏でるだけだった。まるで楽器たちが談笑しているみたいである。

 白色の月光を浴びて楽器たちが煌めく。

 眼下に見える町は死んだように静かだった。

 座ってへんてこな楽器たちの談笑を見ていると、女性がふいに立ち上がって楽器たちの前に屹立した。そうして空気をつかむように中空で腕を滑らすと、しんと騒がしかった楽器たちが鳴りやんだ。

「すごいですね」

「いつも同じことを言うのね」

 女性はふふっと笑ってそんなことを言った。僕は女性の言っていることが分からなかったけれど気にもしなかった。

 女性が冴え渡る月に手を伸ばす。それから一定のリズムを刻んで、腕を波打つように動かした。

 それに応えるように楽器たちが演奏を始めた。静かで落ち着いて、けれども飽きやすいその曲はボレロだった。

「彼女の演奏は何度聴いても良い」

 気がつくと西洋人が僕の横に座っていた。あまりにも真っ黒な服装だったので気付けなかったのだろうか。

 西洋人は目を細めてとっぷりと女性の奏でる音に聞き入っていた。

「あの、これって何回もやってるんですか?」

 ふと僕が疑問に思ったことを訊ねると、西洋人は笑顔のまま「ああ」と応えた。

「これで四回目かな。君といつもこうして聴いていた」

「僕、それ覚えてないです」

「そうだろう。きっと今日も忘れる」

 西洋人はただ女性の演奏に酔いしれていた。

 僕は少しだけ寂しく感じた。これだけ綺麗な演奏を忘れてしまうなんてもったいない。

 白い腕が暗闇を舞う。月明かりに艶めく髪が反射する。瞳は楽器の輝きを吸い込んでいて、宇宙のように光っていた。

 空が東の方から白ばんでいく。燦々と煌めく太陽がその頭角を覗かせた。

 町の輪郭が白く溶けていく。まるでチョコレートが溶けていくように、どろどろのジェル状になって原型がなくなっていく。溶けたジェル状のものは津波のように僕らの町を呑み込んでいく。

 僕は不安には思わなかった。それよりも、何が起こるのかという期待で胸が一杯だった。

 ジェルの津波は町を呑み込むと、まるで僕らに手を伸ばすようにその触手を丘に伸ばした。次々と押し寄せる津波はあっというまに僕らの通うカフェを呑み込んだ。きっと僕の家も呑み込まれてしまっているのだろうか。母は、父は、妹はもう呑まれてしまっただろうか。そう考えると、今更に不安が沸き上がってくる。

 押し寄せる津波は気がつくと僕らのすぐそばまで差し迫っていた。広場の入り口に停めていた自転車が呑まれる。すると粘土細工のように車体が歪んで、津波の中に溶け込んでいった。

 僕は隣に座る西洋人を見た。彼はただ女性の演奏を眺めるばかりでこの事態には微動だにしていなかった。

 僕は女性に目を移した。彼女も演奏に集中するばかりで津波のことは意にも介していなかった。なんということだ。この事態に気づいているのは僕だけかもしれない。

 ならば彼らに津波のことを教えなければいけない。それが今の僕の使命であり義務である。

 僕は勇よく立ち上がって振り返った。その瞬間、僕は津波に呑み込まれてしまった。

 もうだめだと思い僕は身を固めて目を瞑った。あとは精々祈ることくらいしかできなかった。僕は無宗派なのでこういうときに誰に祈ったものか分からない。なのでとりあえず頭に浮かんだ偉そうな人たちに片っ端から祈ることにした。

「神様、仏様、お釈迦様、天使様、閻魔様、大王様、姫様、王子様、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ……」

 まるで呪文のように祈りを繰り返していると、くすくすと笑う声が横から聞こえた。その声は聞き覚えのある声だった。

 僕が恐る恐る目を開けると、見渡す限りに青い世界が広がっていた。そこは海のようだった。

 ぱしゃぱしゃと水を跳ねてあげて遊んでいるのは女性だった。スカートの裾が水に濡れていた。

「なんと素晴らしい世界なの! 私はこの世界が大好きだ!」

 女性はまるで少女に戻ったように、無邪気に水を蹴り飛ばしたりして遊んでいる。跳ね上がった水しぶきが僕の服にかかってしっとりと濡れた。

 僕はもう一度辺りを見渡した。

 空は夜明けのような白みがかった紺色だ。雲ひとつない快晴の空だった。浅い海は透き通っていて、遠くで空と交わっていた。

 踏みつける大地は砂の地面だった。柔らかくて、ぐっと指で握ろうとすると指と指の隙間に入り込んでくる。

 津波で濡れたはずの服は水しぶきがかかったところしか濡れていない。肌も何事もなかったように乾いていた。

「ここはどこでしょうか」

 僕が訊ねると女性はふふんと鼻を鳴らしだ。

「どこだろうね。でも素敵なところだ」

「……そうですね。とても綺麗なところです」

「ほら、君も突っ立ってないで来いよ」

 女性はそのしなやかな手を僕の方に差し出した。真っ黒な瞳は宝石のように輝いていた。

 僕は自分の手を女性の手の上に恐る恐る重ねた。そうすると女性がぎゅっと手を握り返してきてにっこりと笑った。なんとも少女的で可愛らしい笑顔だった。

「走ろう!」

 女性は僕の手を引いて走り出した。大地に覆い被さる水を白い足が掻き分けて進む。

普段の女性からは想像もできない活力のある走りだった。蹴り上げられた水が後を追う僕の顔を撫でかすむ。白いスカートが青空を散り飛ぶ雲のように風になびく。

 僕は降り注ぐ水しぶきに目を細めて必死に女性の背中を追っていた。

 手に感じる温もりはとても暖かく、そして脆く今にも崩れてしまうそうだった。

 気がつけば僕が女性を追い越していて、僕が彼女の手を引いて走る形になっていた。水を割って走っていると身体全体が高揚感に包まれる。不思議といつまで走っていても足が疲れを感じることはなかった。

 僕たちはどのくらい走っていただろうか。やがて僕たちは自然と足を止めていて、青い海にぽつんと浮かぶ白いベンチに座っていた。

「あー! 楽しい!」

 女性は遊園地ではしゃぐ子供のように、紺色の空に吹き抜ける声を飛ばした。

 すらっと伸びた足がぱたぱたと振り子のように揺れている。水で濡れたスカートが脛や膝に張り付いてはりのある曲線を際立たせる。透明な肌がうっすらとスカートに浮かび上がっていた。

「さすが、男の子は速いね。とても追い付けなかったよ」

「そんなことないですよ。僕はまだまだ遅いほうです」

「そうなのか? だとしたら私なんてどんくさい亀みたいなもんだな」

 女性は乱れた髪を手で払って、深く息をついた。目を瞑って、耳をすますように静かになった。

 僕は彼女の横顔をじっと眺めた。長いまつげが貝殻のようにぴたりと閉じている。黒い髪は誰かが掻き回したみたいに乱れていて、青い光が水を透過したように乱反射していた。

 固く閉じられた唇は艶めいていて、ふっくらとした形はきっと触ると気持ちの良いことだろう。

 女性が息を吸うと肩がほんのり盛り上がる。息を吐くと肩がすぅっと盛り下がる。 僕は彼女の姿を見ているだけで飽きなかった。

 そうしてじいっと見ていると、ふいに遠くの方から音楽が流れてきた。最初は風に煽られた波の音かと思ったが、それは確かな音楽だった。

 一定のリズムを刻んで音楽は盛り上がる。最初は少ない楽器で奏でられていた音に、様々な音楽が次から次へと重なり、重厚な音を形成する。そして次第に音は鮮明に耳に訴えてきて、気づけばすぐそこにきらびやかな合奏団が強かな音色を弾いていた。

 力強い重奏に胸を打たれる。僕はそれがこの曲の終盤であることを知っていた。

「……あなたは、ずっとこの景色を見ていたのですか?」

 僕が訊ねても女性はこたえない。ただその愛らしい口元を歪ませて、おちょくるように微笑むのだった。

 僕はこの景色が女性の見ていた景色であってほしい。そしてこの景色を二度と忘れたくないと思った。たとえ泡沫の夢だとしても決して忘れないように、僕はこの景色を脳の奥まで焼き付けた。

 見れば見るほどこの世界は青く美しい。海溝のように深く、深海のように煌めいている。

 金色の音が青い世界を豪奢に彩る。聞けば聞くほど音は身体の深みに染み渡っていく。

 僕の横にはそんな何よりも美しく、可愛らしく、儚く、尊く、深い女性が座っていた。

 女性はやがて瞼を重たそうに開けると、真っ黒な瞳を僕に向けた。

「コーヒーは飲めるようになったか?」

「いえ。まだ飲めません」

「まだということは、いつかは飲めるようになるのかな?」

「そのつもりですよ。僕だっていつまでも子供の舌じゃないんです」

「君は時間がかかりそうだ」

「僕は僕のペースで大人になるからいいのですよ」

「そっか。いずれは君も大人になるときがくるんだな」

「当たり前です。あなただってそうして大人になったんです」

「……そうだったかな」

「そうなんです」

 女性はくすくすと笑いながら僕の言葉を聞いていた。まるで合奏団の音が消えたように、僕らはお互いの音だけを聞いていた。

 女性の黒い瞳に僕の顔が映りこんでいた。

「君よ。いずれコーヒーが飲めるくらいに成長したら、ちゃんと私に教えろよ」

 ぱしゃん、と大きな水音をたてて女性がベンチから立ち上がった。僕も立ち上がろうとしたけれど、身体が重くなって動かなかった。

 女性は僕に背を向けて合奏団の方に歩いていく。細いからだがゆらゆらと揺れて、艶めく髪がふわりと浮かんだ。

 いつの間にかあの西洋人が女性の横に並んでいた。西洋人は相も変わらず真っ黒な服装だった。

 西洋人に導かれるようにして女性は歩いていく。合奏もじきに終演を迎えようとしていた。

 僕は女性を呼び止めようとした。呼び止めなければ、とても悔いが残ると思ったからだ。だけれど身体が石になったように動かない。呼ぶことも追うこともできず、僕は女性を目で追うことしかできなかった。

 ふいに女性は立ち止まった。それから僕の方に横顔だけを見せて、何かを呟いた。言葉は合奏の音に消されてしまって聞こえなかったけれど、女性は嬉しそうに微笑んでいた。

 まもなく、長い長い演奏が終わり、青い世界は眩しい日の光に包まれた。





 今日は日曜日だ。

 インフルエンザが治ってからも、女性は依然現れていない。彼女はまだインフルエンザか何かにやられているのだろうか。実に心配である。

 僕はインフルエンザの間、おかしな夢を見たと思う。内容は覚えてないけれど、楽しくも寂しい夢だったと思っている。

 僕はカフェに入って窓際の席を探した。今日はいつもより人が賑わっていて、二人がけの窓際の席しか空いていなかった。

 仕方なく僕は窓際の席に座って注文を頼んだ。店内にはいつしか女性と聴いたボレロが流れている。

 目を瞑ると、不思議と青い世界が頭に浮かぶようになっていた。紺色の空は白みがかっていて、大地は一面の水で覆われている。踏みつける地面は柔らかい砂だ。

 その世界の真ん中で、僕は白いベンチに座っている。その横にはいつも女性がいて、少女のように愛らしく微笑むのだ。

 女性が見ていた景色はこういう景色だろうか。今度彼女がやってきたら、是非とも訊いてみたい。

 僕のテーブルに黒い液体の入ったカップが運ばれる。渋い薫りが頭の中に立ち込める。

 僕はミルクをそっと淹れてコーヒーとよくかき混ぜた。渦巻き模様に白と黒が絡み合って、やがてやわらかい土色になる。

 カップを持って窓の外に視線を投げる。真新しい緑色が道路の向こうの青い丘に見えていた。

 季節は春になっていた。

 僕の前の席は誰もいない。

 僕は熱々のミルクコーヒーを口にした。ミルクと混ぜたコーヒーは、ほろ苦かった。


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