だにえるクエスト ~オークの母親を料理したら娘に「大きくなったら殺す」と懐かれました~
※本作には、残酷・グロテスクな描写および倫理的に不快感を覚える可能性のある表現が含まれます。
苦手な方はご注意ください。
森の奥で、オークの母親は息絶えていた。
大きな身体を苔の上に横たえ、すでに動かない。胸元には一本の矢が刺さっていた。
そのすぐそばに、小さなオークの子供が立っていた。
まだ牙も短い。大きな耳を垂らし、痩せた両手で母親の服の裾を握っている。
「……おかあ」
返事はなかった。
「おかあ」
もう一度呼んだ。
母親は目を覚まさなかった。
少し離れたところで、料理人は困ったように頭をかいた。
「子供がいたのか」
旅装の上に革の前掛け。腰には包丁。
背負い袋には鉄鍋、塩、香草、油、バター、それから半分ほど残った赤ワイン。
男は狩人ではない。
料理人だった。
「腹は減っているか?」
子供は答えなかった。母親の服を握ったまま、動かない。
「まあ、減っているよな」
料理人は荷物を下ろした。
三つの石を並べた。乾いた枝を組む。
火打石を鳴らす。
ぱち。
ぱち。
三度目で枯れ葉に小さな火が灯った。
料理人は息を吹き込み、火を育てる。ぱちぱちと枝が爆ぜた。
鉄鍋を据える。
「おかあ」
「うん」
料理人は答えた。
「お前のお母さんだな」
からかっているわけではなかった。怒ってもいない。
ただ確認するような声だった。
だから子供は何も言えなかった。
料理人は母親の身体の前へしゃがんだ。包丁を抜く。
少し考えてから、子供との間に自分の背中を入れた。
「見ないほうがいい」
それなりの配慮だった。
しばらくして、料理人は肉の塊を持って戻ってきた。
肩の肉だった。
厚い赤身の間を、白い脂が細く走っている。
少し痩せてはいる。
脂はやや足りないが、肉質そのものは悪くない。
料理人は親指で押した。
沈んだ肉が、ゆっくり戻る。
「これなら十分だ」
もう一度、確かめるように押す。
子供の指が、母親の服を強く握った。
料理人は肉の筋に沿って包丁を入れた。刃を長く滑らせる。
一枚。
もう一枚。
掌ほどの厚い肉が二枚取れた。
余計な筋を落とす。脂は取りすぎない。
両面へ塩を振る。
高い位置から、さらさらと。
白い粒が赤い肉へ落ちていく。指先で軽く押さえる。
「すぐ焼くより、少し待ったほうがいい」
料理人は独り言のように言った。
「塩が馴染むからな」
子供は答えなかった。
待っている間に、ニンニクを包丁の腹で潰す。
ばきっ。
皮を剥く。
森で摘んだ香草を指先で揉む。青臭く、爽やかな香りが立った。
黒胡椒を布に包み、柄で粗く砕く。
準備が終わるころには、鉄鍋から薄く煙が上がっていた。
料理人は手をかざした。
「よし」
油を落とす。鍋を傾ける。
薄い油膜が鉄の上を走った。
そこへ肉を置いた。
じゅううううううっ。
森の静けさを裂くような音がした。
子供の耳がぴくりと動いた。
肉の縁から細かな泡が生まれる。
赤かった表面が熱を受け、少しずつ色を変えていく。脂が透き通る。
一滴。
二滴。
鍋へ落ちるたび、ぱち、と小さく爆ぜた。
香ばしい匂いが立ち始める。
料理人は肉に触らない。
ただ待っている。
子供も動かない。
じゅう。
ぱち。
じゅうう。
「料理というのはな」
火を見ながら料理人が言った。
「待つのが一番難しい」
返事はない。
「焼けていると、触りたくなるんだ」
肉の縁が褐色になった。料理人はようやく火鋏を取った。
「だが、我慢する」
肉を返した。
こんがりと焼けた表面が現れた。
濃い飴色。
ところどころ焦げた脂が、小さな泡を吹いている。
「うん」
料理人は満足そうに頷いた。
潰したニンニクを入れる。香草を入れる。
そしてバターをひとかけ。
料理人は焼け方を見て、もうひとかけ、バターを落とした。
「このくらいでいい」
鍋へ落ちた瞬間、黄色い塊が溶け始めた。
じゅわっ。
細かな泡が一気に広がる。
溶けたバターが肉の表面を包んでいく。
乳脂肪の甘い香り。
ニンニクの刺激。
焼けた肉の脂。
香草の青い香り。
ばらばらだった匂いが、熱の上でひとつになった。
子供の鼻が動いた。
ほんの少し。
自分でも気づかないほど、小さく。
料理人は鍋を傾けた。端へ溜まった泡立つバターを匙ですくう。
肉へかける。
じゅっ。
もう一杯。
じゅっ。
表面が濡れ、艶を帯びる。
またすくう。
またかける。
ニンニクと香草の香りを吸った熱いバターが、焼けた肉の上を流れ落ちていく。
ぐう。
料理人の手が止まった。
子供が自分の腹を押さえた。
「……」
「腹が減っているじゃないか」
「ちがう」
初めて子供が料理人を見た。
「ちがう」
「そうか」
料理人はそれ以上言わなかった。
また肉へバターをかけた。
焼き上がった肉を木皿へ移す。すぐには切らない。
料理人は火の横へ皿を置いた。
「休ませる。焼いてすぐ切ると、せっかくの汁が全部出るからな」
肉の表面には薄く脂が光っている。湯気が細く立ち上る。
その間に鍋へ赤ワインを注いだ。
じゅうううっ。
白い蒸気が立った。
葡萄の酸っぱい香りが一瞬広がり、そのあとを焼けた脂の甘い匂いが追いかける。
料理人は木匙で鍋底をこそげた。
貼りついていた焦げ。
肉汁。
バター。
ニンニク。
それらが赤ワインへ溶けていく。
赤かった液体は煮詰まるにつれて暗くなった。
赤から紫へ。
紫から、艶のある黒へ。
木匙を持ち上げる。
とろり。
ソースが細い線になって落ちた。
料理人は小指の先につけ、舐めた。
「酸味が立つな」
背負い袋から小瓶を出す。
蜂蜜だった。
一滴。
鍋へ落とす。
混ぜる。
もう一度味を見る。
「うん」
今度は満足そうだった。
休ませていた肉へ包丁を入れた。
さく。
焼けた表面を刃が抜ける。
その下から、柔らかな肉が現れる。
外側は濃い褐色。
内側には十分に火が入り、肉汁を抱いたまましっとりとしている。
「オークはしっかり火を通したほうがうまい」
料理人は切り口を確かめた。
「これくらいがいい」
切り分けた肉を皿へ並べる。
黒いソースを匙で流す。肉の上をゆっくり伝う。
仕上げに黒胡椒。
かり。
かり。
挽きたての香りが立つ。
森の中には似つかわしくない一皿が完成した。
料理人は端の一切れを取った。
口へ運ぶ。
噛む。
表面の焼き目が歯に触れる。
その下から柔らかな肉がほどけた。
脂の甘み。
バターの香り。
遅れてニンニク。
黒胡椒の刺激。
濃く煮詰めたワインの酸味が、口に残った脂をさらっていく。
あとには、かすかな甘みだけが残った。
料理人は目を閉じた。
「……うまい」
本当に嬉しそうだった。
子供は母親の身体へ顔を押しつけた。
「おかあ」
料理人はもう一切れ食べた。
噛むたびに、焼けた表面が小さく音を立てる。
子供にはそれが聞こえた。
匂いも消えない。
目を閉じても消えない。
鼻を塞ごうとした。
でも片手は母親の服から離せなかった。
「たべないで」
小さな声だった。
料理人が手を止めた。
「ん?」
「おかあ、たべないで」
料理人は皿を見た。
それから、横たわっている母親を見た。
最後に子供を見る。
「でも、もう死んでいる」
「おかあだ」
「そうだな」
「おかあなの」
「うん」
料理人は否定しなかった。
少し考えてから、肉を見る。
「でも、肉でもある」
子供の目から涙が落ちた。
一滴。
また一滴。
料理人は困ったように眉を下げた。
「……そうか」
それだけ言った。
しばらくして、もう一枚の木皿を出した。
肉を一切れ載せる。ソースも少しだけ。
子供の前へ置いた。
「食べるか?」
子供は勢いよく首を振った。
「いらない」
「そうか」
「いらない」
「嫌いなものは無理して食べなくていい」
料理人は皿を自分の手元に戻す。
そして自分の食事へ戻った。
一切れ。
また一切れ。
子供は目を閉じていた。
じゅう。
鍋に残った脂がまだ小さく鳴っている。
ぱち。
薪が爆ぜる。
料理人が肉を噛む。
子供の鼻へ香りが入る。
焼けた脂。
バター。
ニンニク。
香草。
赤ワイン。
ぐう。
腹が鳴った。
子供は腹を殴った。
一度。
二度。
ぐう。
また鳴った。
昨日から、ろくに食べていなかった。
母親はもう起きない。
もう食べ物を探してくれない。
それでも。
皿を見た。
黒いソースが肉の側面を伝っている。
冷め始めているのに、まだ湯気が残っている。
表面には焦げ目。
縁には透明な脂。
料理人が食べているものと同じもの。
子供は唾を飲んだ。
ごくり。
自分の喉が鳴ったことに気づいて、泣いた。
料理人は何も言わない。
すすめない。
笑わない。
ただ食べている。
子供は母親を見た。
それから皿を見る。
また母親を見る。
料理人が最後の一切れへ手を伸ばした。
「……まって」
手が止まった。
子供は泣いていた。
涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだった。
「……それ」
「これ?」
料理人が肉を見る。
子供は口を開いた。
閉じた。
また開いた。
腹が鳴った。
「……ちょうだい」
料理人は少し驚いた顔をした。
それから頷いた。
「わかった」
最後の一切れを子供の皿へ置いた。
子供は肉を見た。
母親を見た。
小さな指を伸ばした。
肉をつまむ。
まだ温かい。
指先にソースがついた。
「……おかあ」
口へ入れた。
噛んだ。
涙が落ちた。
もう一度、噛んだ。
舌が味を拾ってしまった。
塩。
脂。
焦げた肉。
バター。
少し酸っぱいソース。
そして。
甘かった。
信じられないほど、甘かった。
子供は泣きながら飲み込んだ。
皿を見た。
黒いソースが残っていた。
小さな指で拭う。
指を口へ入れる。
舐める。
もう一度。
皿の端まで、指で集める。
料理人は何も言わず、それを見ていた。
やがて鍋を覗き込んだ。
まだ肉は残っている。
料理人は包丁を取った。
「熱いから、ゆっくり食べろ」
森の奥で。
また、肉の焼ける音がした。
それから、しばらくして。
料理人は火のそばに腰を下ろした。
革の前掛けの胸元を探り、少し潰れた煙草を一本取り出す。口にくわえる。
薪の中から、先端の赤く燃えた小枝を拾った。
煙草の先へ近づける。
すう、と吸う。
紙の先端が赤く灯った。
もう一度、深く吸い込む。
ふう。
白い煙が流れた。
煙草の苦い匂いが、鉄鍋に残った脂と、バターと、焼けた肉の甘い香りに混じった。
料理人は目を細めた。
「食後の一本は、うまいな」
子供は答えなかった。
木皿を抱えていた。
もうソースは残っていない。
それでも小さな指は、皿の表面を何度もなぞっていた。
料理人は煙草を吸った。
先端が赤くなる。
吐く。
白い煙が昇る。
子供は母親の隣で、空になった皿を抱えている。
料理人は何も言わなかった。
子供も何も言わなかった。
薪が、ぱちりと爆ぜた。
しばらくして。
「……なまえ」
料理人が横を見る。
子供は皿を抱えたまま、彼を見ていた。
「なんていうの」
料理人は煙草を口から離した。
少しだけ考えるようにしてから、答えた。
「ダニエルだ」
「……だにえる」
「ああ」
子供は皿を抱えたまま、もう一度その名前を口にした。
「だにえる」
料理人――ダニエルは煙草をくわえ直した。
深く吸う。
ふう。
煙草の煙と、
焼けた肉の匂いが、
ゆっくりと森へ溶けていった。
後に少女は、ダニエルへこう告げることになります。
「いつかわたしが、りっぱなオークになったら、だにえるをころす」
だから、それまでは離れない。
そうして二人は、ずいぶん奇妙なパーティを組むことになるのですが――
それはまた、別のお話。




