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偽りのハッピーエンドに、弔いのキスを  作者: ledled


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9/9

エピローグ:私が失くした「パパ」の記憶

駅の改札を抜けると、ひんやりとした夜風が頬を撫でた。

見慣れたはずの帰り道が、今日はやけに遠く感じる。私は、織部結愛おりべゆあ、二十歳。都内の大学に通う、どこにでもいる普通の女子大生……の、はずだった。


「ただいま」


古いアパートのドアを開けても、返事はない。

電気の消えた薄暗いリビングを抜け、自室のベッドに倒れ込む。鞄の中から、一枚の写真をそっと取り出した。今日、祖母の家で偶然見つけた、古いアルバムに挟まっていた一枚。


色褪せた写真の中には、三人の男女が写っている。

日焼けした若い男の人の肩車の上で、小さな女の子が、歯が抜けた口で満面の笑みを浮かべている。その隣で、綺麗な女の人が、幸せそうに微笑んでいる。

若い男の人は、私の父親。綺麗な女の人は、私の母親。そして、無邪気に笑う女の子は、幼い頃の私。


「……パパ」


呟いた声は、掠れて震えていた。

私の記憶の中にある「パパ」の像は、ひどく曖昧だ。

優しくて、物静かで、いつもカメラを片手に、私とママのことばかり撮っていた人。私の拙い話にも、いつも真剣に耳を傾けてくれた人。公園で、高い高いをしてくれた時の、大きくてゴツゴツした手。

そんな、断片的な温かい記憶。


でも、その記憶は、ある日を境に、おぞましい悪夢によって上書きされてしまった。

八歳の冬。

私が、この手で、大好きなパパを地獄に突き落としてしまった、あの日。


『パパなんか嫌い!あっち行って!』


あの日の光景は、十年以上経った今でも、鮮明に思い出すことができる。

泣きじゃくるママ。そのママを優しく慰める、「かいおじちゃん」こと天城櫂さん。そして、仕事で大変なことになって、ボロボロになって帰ってきたパパ。

ママは、私に言ったのだ。「パパのせいで、ママが泣いているのよ」と。

私は、ママが大好きだったから、その言葉を何の疑いもなく信じた。大好きなママを泣かせるパパは、悪い人に違いない。だから、私は、私の知っている一番ひどい言葉で、パパを拒絶した。


あの時の、パパの顔。

驚きと、悲しみと、そして、全てを諦めたような、深い絶望の色。

あの顔が、私の脳裏に焼き付いて、片時も離れない。


その後、パパとママは離婚した。

私は、ママと一緒に暮らすことになった。かいおじちゃんが、私たちの「新しいパパ」になるのだと、ママは言った。

私は、正直、嬉しかった。かいおじちゃんは、かっこよくて、お金持ちで、いつも私に素敵なおもちゃや服を買ってくれた。パパとは違う、キラキラした世界を見せてくれた。

私は、あっさりと、本当のパパのことなんて忘れてしまった。薄情な子供だったのだ。


でも、そのキラキラした世界は、すぐに終わった。

かいおじちゃんが、本当はとても悪い人で、警察に捕まってしまった。パパが会社をクビになったのも、全部、かいおじちゃんが仕組んだ罠だったのだと、後から知った。


そして、ママ。

彼女は、かいおじちゃんの嘘を信じ込み、本当のパパを裏切った。

その事実が、私とママの関係を、取り返しのつかないものに変えてしまった。


中学生になった頃から、私は、ママを責めるようになった。

物事の善悪が、少しずつ理解できるようになった私にとって、母親の裏切りは、許しがたい罪に見えた。


「全部ママのせいだ!ママが、ちゃんとパパを信じてあげていれば、こんなことにならなかったんじゃない!」


家に帰るたびに、私はママに憎しみの言葉をぶつけた。

ママは、何も言い返さなかった。ただ、「ごめんなさい」と涙を流すだけ。その姿が、私をさらに苛立たせた。謝って済む問題じゃない。私のパパを返してよ。私たちの家族を、返してよ。

心の中で、何度もそう叫んだ。


高校生になっても、私たちの関係は修復されなかった。

昼も夜も働き詰めで、日に日にやつれていくママの姿を見ても、私の心は少しも痛まなかった。自業自得だ、とさえ思っていた。

私は、ママが稼いだ金で学校に通い、友達と遊び、青春を謳歌した。家にいる時間を極力減らし、母親と顔を合わせることを避けた。

彼女の存在そのものが、私の犯した罪と、失われた過去を思い出させる、忌まわしい象徴だったから。


大学に進学し、一人暮らしを始めて、ようやく、私は母親という呪縛から解放された気がした。

仕送りは受け取ったが、連絡はほとんど取らなかった。たまにかかってくる電話にも、素っ気なく応じるだけ。彼女が、どんな思いで私を送り出し、一人で暮らしているのか、考えようともしなかった。


そんな私が、なぜ、今日、実家ではなく、祖母の家を訪ねたのか。

それは、数日前に届いた、一通の手紙がきっかけだった。

差出人は、母方の祖母。そこには、こう書かれていた。


『お母さんが、倒れました。末期の癌で、もう、長くはないそうです』


頭を、鈍器で殴られたような衝撃だった。

あんなに憎んでいたはずの母親が、死ぬかもしれない。

その事実に、私の心は、奇妙なほど、何も感じなかった。驚きも、悲しみも、なかった。ただ、空っぽだった。


病院に着くと、祖母が泣き腫らした目で私を迎えた。

病室のベッドに横たわる母は、私が知っている母ではなかった。髪は抜け落ち、頬はこけ、まるで別人のように痩せ細っていた。


「……結愛」


か細い声で、彼女は私の名前を呼んだ。

私は、何も言えなかった。どんな顔をして、どんな言葉をかければいいのか、分からなかった。


「来てくれて、ありがとう」


彼女は、力なく微笑んだ。その笑顔は、私が憎んでいた頃の、弱々しい母親の笑顔ではなかった。どこか、吹っ切れたような、穏やかな笑みだった。


「ずっと、あなたに、謝りたかった。ごめんなさい。あなたのパパを、奪ってしまって。あなたの人生を、めちゃくちゃにしてしまって……。本当に、ごめんなさい」


彼女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

その涙を見て、私の心の中に、今まで蓋をしていた感情が、濁流のように溢れ出してきた。


違う。

謝らなければいけないのは、私のほうだ。

パパを裏切ったのは、ママだけじゃない。私もだ。

無邪気な子供の残酷さで、私は、パパの心を、一番深く傷つけた。

それなのに、私はその罪から目を背け、全ての責任を母親一人に押し付けて、自分は被害者の顔をして生きてきた。

なんて、卑劣で、愚かなんだろう。


「ママ……ごめん、なさい」


ようやく絞り出した声は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。


「私が、私が、パパにひどいことを言ったから……!私が、パパを追い出したんだ……!ごめんなさい、ごめんなさい……!」


私は、子供のように泣きじゃくった。

ママは、痩せ細った手で、私の手をそっと握った。


「ううん。あなたは、悪くない。悪いのは、全部、私。大人の嘘を、信じ込ませてしまった、私が悪いのよ」


その手は、驚くほど冷たかった。でも、温かかった。

何年ぶりだろう。母親の温もりに、こうして触れるのは。

私たちは、どちらかが話すでもなく、ただ、静かに涙を流し続けた。十年以上もの間、私たちの間に横たわっていた、厚くて冷たい氷の壁が、少しずつ溶けていくような気がした。


その夜、祖母の家で、私は古いアルバムを見つけた。

そして、この一枚の写真を、見つけたのだ。


写真の中のパパは、幸せそうに笑っている。

この笑顔を、私は、この手で奪ってしまった。

私は、パパに会って、謝らなければならない。

今さら、許してもらえるとは思わない。でも、謝らなければ、私は、前に進めない。


ママの容態が落ち着いた後、私は、父方の祖父母の連絡先を調べ、電話をかけた。そして、パパの現在の連絡先と住所を、教えてもらった。

彼は、地方の小さな街で、一人で暮らしているという。


電車を乗り継ぎ、バスに揺られ、私は、パパが住む街にたどり着いた。

教えられた住所は、海沿いの、小さなアパートだった。

ドアの前に立ち、インターホンを押そうとして、指が止まる。

十年以上ぶりに会う、父親。

彼は、私のことを、覚えているだろうか。

憎んでいるだろうか。

今さら、どんな顔をして会えばいい?

足が、鉛のように重い。帰ってしまおうか。そんな弱い心が、頭をもたげる。


その時、背後から、静かな声がした。


「……誰か、探してるのかい?」


振り返ると、そこに立っていたのは、少し白髪の混じった、痩せた男性だった。年の頃は、四十代後半だろうか。その顔には、深い皺が刻まれ、瞳には、どこか諦観したような、静かな光が宿っていた。


写真の中の、若々しい面影はない。

でも、私は、すぐに分かった。

その優しい眼差しは、私の記憶の中にある、パパの眼差し、そのものだったから。


「……パパ?」


私の声に、彼の肩が、微かに震えた。

彼は、驚いたように目を見開き、私を、じっと見つめた。その瞳が、信じられないものを見るように、ゆっくりと揺れる。


「……結愛、なのか?」


彼の口から、私の名前が呼ばれる。

その瞬間、私の目から、涙が、堰を切ったように溢れ出した。


「パパ……っ!ごめんなさい……!あの時、ひどいこと言って、本当に、ごめんなさい……!」


私は、その場に崩れ落ち、地面に手をついて、泣きながら謝り続けた。

許してほしい、なんて、言えない。

ただ、謝りたかった。私の罪を、告白したかった。


パパは、何も言わなかった。

ただ、静かに、私の隣にしゃがみこみ、その大きくて、ゴツゴツした手で、私の頭を、そっと撫でた。

それは、遠い昔、私がまだ、彼の「天使」だった頃にしてくれたのと、全く同じ、不器用で、優しい手つきだった。


その温もりに、私は、声を上げて泣いた。

失われた十年という歳月が、この一瞬に、溶けていくような気がした。


私たちは、どちらかが許し、どちらかが許される、という関係には、もうなれないのかもしれない。

壊れてしまった家族が、元通りになることも、きっとないだろう。

でも。

それでも、私たちは、今日、ここから、もう一度、始められるのかもしれない。

父と娘として。

たくさんの過ちと、後悔と、そして、消えることのない傷を抱えながら。

それでも、前を向いて。


潮風が、私たちの涙を、優しく拭っていく。

空は、どこまでも青く澄み渡っていた。

私の止まっていた時間が、今、ようやく、静かに動き始めた。

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