サイドストーリー:私が押した、復讐のスイッチ
私のパパ、天城櫂は、ヒーローだった。
少なくとも、私が小学生の頃までは。
背が高くて、かっこよくて、いつも笑顔で、面白い話をしてくれる。学校の友達はみんな、私のパパを羨ましがった。「莉子ちゃんのパパ、モデルさんみたい!」と言われるたびに、私は誇らしい気持ちになった。
お母さんのことも大好きだった。いつも優しくて、綺麗で、私がおねだりするものは何でも買ってくれた。
パパと、ママと、私。
私たちは、絵に描いたような「幸せな家族」だった。週末にはお洒落なレストランで食事をして、長い休みには海外旅行に行く。リビングには、そんな私たちの完璧な笑顔が詰まった写真が、たくさん飾られていた。
その「完璧」な世界に、小さな亀裂が入り始めたのは、私が中学生になった頃だったと思う。
学校での人間関係や、勉強のこと。思春期特有の、言葉にできないモヤモヤを抱えるようになった私は、少しずつ、家の外と中でのパパの顔が違うことに気づき始めた。
外でのパパは、完璧なヒーローのままだった。
でも、家に帰ってくると、彼は時々、別人のような冷たい顔を見せるようになった。
「また、そんなものを買ったのか。どうせ、俺の稼いだ金だろう」
ママが嬉しそうに見せた、新しいブランドのバッグ。それを見たパパは、吐き捨てるようにそう言った。ママの笑顔が、一瞬で凍りついたのを、私は部屋の隅から見ていた。
「莉子、お前もいつまでそんな子供みたいな格好をしてるんだ。天城家の娘として、恥ずかしくない格好をしろ」
私が友達と選んだ、少しだけカジュアルな服。それを見たパパは、まるで汚物でも見るかのような目で、私を蔑んだ。
一番、嫌だったのは、彼が電話で話している時だった。相手はきっと、ママのお父さん、つまり私のお祖父ちゃんだ。
「ええ、お父様。いつもありがとうございます。はい、もちろん、玲奈のことは、私が生涯をかけて幸せにします」
電話口では、そんな甘い言葉を並べているのに、電話を切った瞬間、彼は真顔に戻って、小さな声でこう呟くのだ。
「……あの老害、いつまで生きる気だよ」
その言葉を聞くたびに、私の心臓は、氷水に浸されたように冷たくなった。
パパは、ママのことを、お祖父ちゃんのことを、本当は好きじゃないんだ。
じゃあ、私のことも?
私に見せる優しい笑顔も、全部、嘘なの?
ママは、そんなパパの裏の顔に、気づいていないようだった。ううん、もしかしたら、気づかないふりをしていたのかもしれない。彼女は、パパが作り上げた「完璧な家庭」という物語の、ヒロインであり続けることに必死だったから。
家の中は、見えない緊張感で張り詰めていた。私は、息を潜めるようにして毎日を過ごした。パパの機嫌を損ねないように。ママの悲しい顔を見ないように。
そんなある日、私は、一人の「おじさん」に出会った。
学校の帰りに立ち寄った公園。ベンチに座って、スマホをいじりながらため息をついていた私に、その人は声をかけてきた。
作業着姿で、少し疲れた顔をした、どこにでもいいる普通のおじさん。最初は警戒したけど、彼の声は不思議と穏やかで、私の話をただ黙って聞いてくれた。
「辛いな。信じてるお父さんが、そんな人だったなんて」
私のとりとめのない愚痴を、彼は一度も否定しなかった。ただ、そう言って、悲しそうな顔で頷くだけだった。誰にも言えなかった、心のモヤモヤ。それを初めて、誰かに受け止めてもらえた気がした。
別れ際に、彼が私のスマホにインストールしてくれた「お守り」。
「声のお守りだよ。君が聞いた辛い言葉を、全部吸い取ってくれる」
それは、ボイスレコーダーのアプリだった。
その日から、私は、パパの暴言を聞くたびに、ポケットの中でそっと、そのアプリの録音ボタンを押すようになった。それは、誰かに聞かせるためじゃない。ただ、私の心が壊れてしまわないように、辛い言葉を吐き出すための、私だけの儀式だった。
『玲奈なんて、親の金がなきゃ何の価値もねえ女だ』
『織部のガキか。馬鹿な母親に似て、単純で扱いやすいよ』
織部さん。
確か、パパの会社の同僚で、家族ぐるみで何度か会ったことがある人だ。奥さんと、私より少し年下の、結愛ちゃんという女の子がいた。その織部さんが、会社で大きな問題を起こして、クビになったとパパが話していた。
『あいつは、元々追い詰められてたからな。自業自得だ』
ママにそう説明するパパの顔は、心から同情しているように見えた。でも、私は知っていた。その少し前に、パパが誰かと電話で、笑いながらこう話しているのを聞いてしまったから。
『計画通りだよ。あのマヌケ、まんまと罠に嵌りやがった。これで、あの家族は俺のものだ』
頭が、真っ白になった。
織部さんの事件は、パパが仕組んだことだったんだ。
そして、その奥さんと娘さんを、パパは「自分のもの」にしようとしている。
まるで、ゲームの駒を手に入れるみたいに。
吐き気がした。
私のパパは、ヒーローなんかじゃなかった。人の人生を平気で破壊する、悪魔だったんだ。
私は、どうすればいいんだろう。
ママに話しても、きっと信じてくれない。警察に言っても、子供の言うことなんて誰も聞いてくれないだろう。
私の無力さが、憎かった。
何もできないまま、時間だけが過ぎていった。
そんなある日、公園で出会ったあのおじさんと、再会した。
彼は、何も聞かなかった。ただ、私の顔を見て、「また、辛いことがあったんだな」とだけ言った。
私は、もう限界だった。
堰を切ったように、全てを話した。パパが、織部さんを罠に嵌めたこと。パパが、ママやお祖父ちゃんの悪口を言っていること。そして、私が、その声を「お守り」に録音していること。
おじさんは、黙って私の話を聞いていた。
そして、全てを聞き終えた後、静かにこう言った。
「莉子ちゃん。もし、君が、今のお父さんを止めて、お母さんを助けたいと本気で思うなら……その『お守り』を、俺に預けてくれないか」
彼の目は、とても真剣だった。そして、その瞳の奥には、底知れないほどの、深い悲しみと怒りが宿っているように見えた。
「……おじさんは、誰なの?」
「俺は……君のお父さんに、人生を壊された人間の一人だよ」
その時、私は全てを悟った。
このおじさんこそが、織部さんだったのだ。
パパが罠に嵌め、全てを奪い去った、あの。
私は、迷わなかった。
震える手で、スマホを彼に差し出した。
これが、正しいことなのか、間違っていることなのか、分からなかった。でも、このままパパの悪事を見て見ぬふりなんて、絶対にできなかった。悪魔を止めるためには、私も、悪魔になるしかないのかもしれない。
「お願い……します。パパを、止めてください」
それが、私が押した、復讐のスイッチだった。
その後のことは、まるで悪い夢のようだった。
パパが逮捕され、テレビのニュースで、彼の全ての罪が報道された。不倫、横領、インサイダー取引。そして、織部さんを陥れた事件の真犯人であったこと。
ママは、泣き崩れた。
私が録音した音声データが、決定的な証拠になったと知った時、ママは私を責めなかった。ただ、私を強く抱きしめて、「ごめんなさい」と、何度も何度も繰り返した。パパの裏の顔に気づかず、私を一人で苦しませていたことを、謝っていた。
私たちは、住んでいた家を出て、ママの実家がある、この地方の街に引っ越してきた。
パパとママは、離婚した。
私の「完璧な家族」は、完全に終わった。
これで、よかったのだろうか。
私は、自分の手で、父親を社会的に抹殺したのだ。
その事実は、重い十字架となって、私の心にのしかかっている。
時々、考える。もし、私がお守りの録音ボタンを押さなかったら。もし、私が織部さんにスマホを渡さなかったら。
パパは、今もヒーローのふりをして、ママは、幸せなヒロインのふりをして、私は、何も知らない娘のふりをして、あの偽物の家で笑っていたのだろうか。
その方が、幸せだったのだろうか。
答えは、分からない。
数年後、私は、あの海辺の公園で、織部さんと再会した。
彼は、デジタルフォトフレームを、一人で静かに眺めていた。そこに映っていたのは、きっと、彼がパパに奪われた、幸せな家族の記憶なのだろう。
彼もまた、復讐を果たしたけれど、幸せにはなれなかったのだ。
彼の心にも、私と同じように、大きな穴が空いている。
「……織部さん」
「……莉子ちゃん」
私たちは、言葉少なに、ただ、夕日を眺めていた。
私たちは、共犯者だ。
一人は復讐の計画者として、一人はその引き金を引く者として、一人の人間を、そして一つの家族を、破滅させた。
だから、私たちは、互いの傷を慰め合うことなんてできない。
ただ、同じ痛みと、同じ虚無を抱えて、それぞれの人生を生きていくしかない。
夕日が、水平線に沈んでいく。
私の子供時代も、あの夕日と一緒に、もう二度と戻らない場所へ沈んでしまった。
私は、父親を売った娘。
その事実は、一生消えない。
それでも、私は生きていかなければならない。
偽りの「完璧」な世界を、自らの手で壊してしまった罰を、一生、背負いながら。




