サイドストーリー:私が信じた「完璧」な夫
ティーカップの中で、琥珀色の液体が静かに揺れている。
窓の外に広がる手入れの行き届いた庭園は、数年前と何も変わらない。季節の花々が咲き誇り、穏やかな午後の日差しが芝生の上に優しい光の斑点を描いている。この家も、この庭も、私の日常も、何も変わっていないはずなのに、私の世界はもう、かつての世界とは全く違うものになってしまった。
「……お母様」
テーブルの向かい側で、娘の莉子が心配そうに私の顔を覗き込む。十四歳になった彼女は、時折、私よりもずっと大人びた表情を見せるようになった。
「大丈夫よ、莉子。少し、考え事をしていただけ」
微笑んでみせるが、きっと、うまく笑えてはいないのだろう。莉子は納得いかない顔で、それでも「そう」とだけ呟いて、読んでいた本に視線を戻した。
私の夫、天城櫂は、「完璧な夫」だった。
誰もが羨むようなルックスと、スマートな立ち居振る舞い。仕事は常にトップクラスの成績で、私の父である社長からの信頼も厚かった。家に帰れば、優しい夫であり、良き父親。記念日には美しい花束を欠かさず、私の話をいつも笑顔で聞いてくれた。
私の友人たちは、皆、口を揃えて言った。
「玲奈は本当に幸せ者ね。櫂さんのような素敵な旦那様、どこを探してもいないわよ」
その言葉を聞くたびに、私の心は優越感で満たされた。私は、世界で一番幸せな妻なのだと。
父が、取引先の社員だった彼を私に紹介してくれた時、私は一瞬で恋に落ちた。まるで映画俳優のような彼が、少し照れたように笑いながら差し出した手。その手に自分の手を重ねた時のときめきを、今でも鮮明に覚えている。
私たちの結婚は、周囲から「格差婚」と揶揄されることもあった。けれど、私にはそんな声は届かなかった。彼が私を愛してくれている。それだけで、十分だった。
彼との結婚生活は、夢のように幸せだった。莉子が生まれ、彼は理想の父親になってくれた。忙しい仕事の合間を縫って、娘の学校行事にも必ず参加してくれたし、週末には家族で出かけるのが常だった。
私たちの家族写真は、いつも完璧な笑顔で満ちていた。リビングに飾られた、銀色のフォトフレームの中の私たち。それを見るたび、私はこの幸福が永遠に続くと信じて疑わなかった。
もちろん、彼が女性に人気があることは知っていた。会社のパーティーに行けば、多くの女性社員が彼に言い寄ってくる。でも、彼はいつも、私を一番にエスコートしてくれた。
「玲奈が、俺の一番だよ」
そう言って、私の腰を抱き寄せる彼。私は、そんな彼を誇らしく思ったし、彼の愛を少しも疑わなかった。
だから、あのEメールが、私の個人アドレスに届いた時、私は最初、何かの悪質ないたずらだと思った。
『天城櫂の裏の顔』
そんな、悪趣味な件名のメール。
添付されていたファイルを開く気にはなれず、すぐに削除しようとした。けれど、その時、ふと胸騒ぎがしたのだ。
最近の、莉子の様子。家にいる時の、夫に対するどこか冷めた、反抗的な態度。
「パパは、外面がいいだけだよ」
そう呟いた時の、娘の寂しそうな顔。
私は、娘がただの反抗期なのだと思い込もうとしていた。夫が完璧な人間であるがゆえに、その完璧さに反発しているだけなのだと。
震える指で、私はファイルを開いた。
そこに広がっていたのは、私の信じていた世界を根底から覆す、おぞましい地獄の光景だった。
夫が、会社の経費を不正に流用している証拠の数々。
そして……複数の、見たこともない女性たちとの、生々しいメッセージのやり取り。ホテルの予約履歴。二人きりで写る、淫らな写真。
その中の一人の女性の顔には、見覚えがあった。
織部紗良。夫の同僚の奥さんで、何度か家族ぐるみで会ったことがある。夫を亡くし(その時はそう聞いていた)、女手一つで娘さんを育てている、可哀想な人。櫂が、何かと気にかけていると話していた、あの女性。
彼女のSNSに投稿されていたという、夫と仲睦まじく写る写真。そこに添えられた「信じられる人と一緒にいられる幸せ」という言葉。
頭が、真っ白になった。
息ができない。心臓を、鷲掴みにされたような痛み。
違う。何かの間違いだ。これは、誰かが櫂を陥れるために作った、偽のデータに違いない。
そう思おうとした時、追加で、もう一つのファイルが送られてきた。
それは、音声データだった。
再生ボタンを押す。スピーカーから流れてきたのは、紛れもない、夫の声だった。
『あの老害、早く死なねえかな。いつまで社長の椅子にしがみついてるつもりだよ』
老害。それは、私の父のことだ。彼を心から信頼し、実の息子のように可愛がっていた、私の父親。
『玲奈なんて、親の金がなきゃ何の価値もねえ女だ。俺が一緒にいてやってるだけで、ありがたいと思えってんだ』
私の、こと。
私との結婚生活の全てを、彼はそう思っていたのか。私の愛も、私が捧げた献身も、彼にとっては「親の金」の付属品でしかなかったのか。
吐き気がして、私はトイレに駆け込んだ。胃の中のものを全て吐き出しても、胸のむかつきは治まらない。
私が信じていたものは、何だったのだろう。
彼の優しい言葉も、甘い笑顔も、愛の囁きも、全てが、嘘だったというのか。
私たちの結婚生活そのものが、彼が仕掛けた、壮大な詐欺だったというのか。
涙も出なかった。
ただ、底知れない、冷たい怒りだけが、体の芯から湧き上がってきた。
私を、そして私の父を、家族を、彼は踏み台にしただけなのだ。私たちの愛情を利用し、自分の欲望を満たすための道具としか見ていなかった。
私は、その足で父の会社へ向かった。
父に、全ての証拠を見せた。父は最初、信じられないという顔で絶句していたが、音声データを聞き終えた時、彼の顔は怒りで赤黒く染まっていた。
父が、どれほど彼を信頼していたか。私が、どれほど彼を愛していたか。
その信頼と愛情が、無惨にも踏みにじられたのだ。
「……許さん」
父が絞り出したその一言で、天城櫂の人生は終わった。
会社の調査が始まり、彼の犯罪は全て白日の下に晒された。私は、弁護士を立て、一切の躊躇なく離婚届と慰謝料請求書を彼に突きつけた。
彼が逮捕される前、一度だけ、私に会いに来た。
「玲奈、頼む!俺が悪かった!もう一度だけ、チャンスをくれ!」
みっともなく、私の足元に跪いて許しを乞う彼の姿に、かつての面影はどこにもなかった。そこには、ただの、追い詰められた哀れな男がいるだけだった。
「チャンス?あなた、自分が何をしたか分かっているの?」
私の声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。
「あなたは、私の人生を、私の愛を、弄んだのよ。金輪際、私の前に顔を見せないで。あなたと呼吸する空気さえ、汚らわしい」
私の言葉に、彼は絶望の表情を浮かべ、ふらふらと去っていった。
もう、彼に対して何の感情も湧かなかった。愛も、憎しみも通り越し、ただ「無」だった。
全てが終わり、日常が戻ってきた。
夫という存在が消えただけで、私の生活は何も変わらない。
だが、私の心には、巨大な空洞ができてしまった。
私が信じ、愛し、築き上げてきた十数年の歳月は、一体何だったのだろう。リビングに飾られていた、あの完璧な笑顔の家族写真は、全て、嘘で塗り固められた幻だったのだ。
そんなある日、莉子が、私の部屋にやってきた。
そして、小さな声で、全てを告白した。
「ごめんなさい、お母さん。あの音声データ、私が録音したの」
公園で出会ったという、見知らぬ「おじさん」のこと。その人に「お守りだ」と言われて、ボイスレコーダーアプリを入れられたこと。そして、父親への不満から、そのアプリで父親の暴言を録音してしまっていたこと。
私は、娘を叱ることができなかった。
娘は、ずっと気づいていたのだ。父親の本性に。そして、それに気づかないふりをしている、愚かな母親の姿に、一人で傷ついていたのだ。
「謝らないで、莉子。あなたは、悪くないわ。むしろ……教えてくれて、ありがとう。おかげで、お母さん、目が覚めたから」
私は、莉子を強く抱きしめた。この子だけは、私が守らなければ。私の、たった一つの真実。
匿名で送られてきたEメールの差出人が誰なのか、私にはおおよその見当がついていた。
織部奏。
夫が、情報漏洩の罪を着せた、あの誠実そうな男性。
彼の妻であった紗良という女性は、夫の無実を信じず、天城櫂という嘘の塊を信じた。そして、全てを失ったと聞く。
私は、紗良とは違う。
私は、夫の嘘を、見破ることができなかった。だが、真実を知った時、私は彼を切り捨てることを選んだ。それが、私と、私の家族を守るための、唯一の方法だったから。
時々、考える。
もし、あのEメールが届かなかったら。
私は今も、夫の嘘に気づかないまま、偽りの幸福の中で笑っていたのだろうか。
それは、幸せなことだったのだろうか。それとも、不幸なことだったのだろうか。
答えは、出ない。
ただ一つ確かなことは、私の愛は殺されたということだ。完璧な夫を演じた、あの男によって。
そして、その傷は、一生癒えることはないだろう。
私は、ティーカップを静かにテーブルに置いた。
もう、甘い夢は見ない。偽りの幸福にも浸らない。
私は、私の足で、この現実を生きていく。
たとえ、心にぽっかりと穴が空いたままだとしても。
それが、私が選んだ、そして、選ばざるを得なかった、これからの人生なのだから。




