サイドストーリー:私が愛した「理想」の男
鏡に映る自分の顔が、ひどく老けて見えた。
目の下には消えない隈が張り付き、かつて手入れを自慢していた肌はカサカサに荒れている。白髪も、ここ数ヶ月で一気に増えた気がした。スーパーのパートと深夜のファミレスの仕事を掛け持ちする生活は、私の心と体を確実に蝕んでいた。
古いアパートの、カビ臭い洗面所。蛍光灯の冷たい光が、みすぼらしい現実を容赦なく照らし出す。
「……どうして、こうなっちゃったんだろう」
呟いた言葉は、誰に届くでもなく虚しく消えた。
数年前まで、私は幸せの絶頂にいたはずだった。誠実で優しい夫、織部奏。天使のように可愛い娘の結愛。日当たりの良いリビングがある、お洒落な一戸建て。誰もが羨むような、完璧な家庭。
――本当に、そうだったのだろうか。
奏は、確かに優しい人だった。真面目で、実直で、家族を何よりも大切にしてくれた。でも、どこか物足りなかった。口下手で、サプライズなんて気の利いたことは一切できない。記念日も、私がねだらなければ忘れていることだってあった。彼の愛情は、まるで白湯のようだった。体に良いのは分かっているけれど、何の味もしない。刺激も、ときめきも、そこにはなかった。
そんな私の退屈な日常に、鮮やかな色彩をもたらしてくれたのが、天城櫂さんだった。
彼と初めて会ったのは、町内会のイベントだった。奏と同じ会社の人だと聞いて、最初はただの社交辞令で挨拶を交わしただけ。でも、彼の笑顔は、奏とは全く違っていた。太陽みたいに明るくて、一瞬で人の心を掴んでしまうような、不思議な魅力があった。
「織部さんの奥様ですよね?いつも主人がお世話になっております。それにしても、お噂以上の美人で驚きました」
彼は、初対面の私に、そんな気障なセリフをさらりと言ってのけた。奏だったら、きっと照れて俯いてしまうような場面で、彼は私の目を真っ直ぐに見つめてきた。その視線に、私の心臓が久しぶりに大きく高鳴ったのを覚えている。
それから、家族ぐるみの付き合いが始まった。週末にバーベキューをしたり、子供たちを連れて公園に行ったり。櫂さんはいつもスマートで、話題が豊富で、その場にいる全員を楽しませる天才だった。彼の隣にいると、自分まで特別な人間になったような気がした。
「紗良さんは、本当に素敵な女性だ。奏さんにはもったいないくらいだよ」
二人きりになった時、彼は冗談めかしてそう言った。私の胸が、甘く痺れる。分かっている。ただのお世辞だ。彼には、美しくて上品な玲奈さんという奥さんがいる。でも、もしかしたら、という淡い期待が、心の隅で芽生えてしまった。
ちょうどその頃、奏は仕事が佳境に入り、家に帰ってきても疲れ切っていた。笑顔は消え、口数も減り、私や結愛の話にもどこか上の空。分かっていた。大変なプロジェクトを抱えているのだから、仕方がないのだと。頭では理解していても、心は寂しさを感じていた。
そんな時、櫂さんからメッセージが届くようになった。
『奏さん、会社で少し心配なんだ。一人で全部抱え込んで、ピリピリしてる。紗良さん、疲れてない?』
彼の優しさが、乾いた心に染み渡るようだった。夫は私のことなど見てくれないのに、彼は私のことを心配してくれている。その事実が、たまらなく嬉しかった。
『大丈夫。あなたは一人じゃない。俺がいつでも話を聞くから』
彼の言葉は、甘い毒のように、私の思考を少しずつ麻痺させていった。奏への不満が、櫂さんへの思慕へと、ゆっくりと姿を変えていく。奏が家にいない夜、私たちは電話で長話をするようになった。仕事の愚痴、結愛のこと、そして、私自身の夢。奏には話したことのないような、私の心の奥底にある想いを、彼は全て受け止め、肯定してくれた。
「紗良さんのような素敵な人が、専業主婦でいるなんてもったいない。あなたなら、何だってできるはずだ」
彼は、私が一番言ってほしい言葉を、いつも的確に与えてくれた。いつしか、私は奏よりも櫂さんのことを考える時間が長くなっていた。これは、いけないことだ。分かっていた。でも、このときめきを手放したくなかった。
そして、あの日。
会社で大規模な情報漏洩事件が起こり、奏がその犯人だと疑われている、と櫂さんから連絡があった。
『信じたくないけど、最近の奏さんは、少し追い詰められているように見えた。もし、本当に彼がやったんだとしたら……。紗良さんと結愛ちゃんのことが心配だ』
電話口で聞こえる彼の心配そうな声を聞きながら、私の頭の中はパニックに陥っていた。まさか、あの真面目な奏が?でも、櫂さんの言う通り、最近の彼は確かにおかしかった。追い詰められて、魔が差してしまったのかもしれない。
そんな、馬鹿な考えが頭をよぎった。今思えば、なぜ夫の無実を信じてあげられなかったのか。十年以上も連れ添ってきた、誰よりも誠実なあの人を、なぜ疑ってしまったのか。
答えは簡単だ。私は、心のどこかで、奏が「そういう人」であってくれればいい、と願ってしまっていたのだ。彼が悪者になれば、私が彼を裏切り、櫂さんを選ぶための、完璧な言い訳ができるから。
そして、奏から会社をクビになったと電話があった時、私の口から出たのは、夫を労わる言葉ではなく、ヒステリックな詰問だった。
「どうしてそんなことをしたの!」
それは、私の本心からの叫びだったのかもしれない。どうして、私の「理想の物語」を壊すようなことをしてくれたの、と。
電話を切った後、私は泣き崩れた。櫂さんがすぐに駆けつけてくれ、私の肩を優しく抱きしめてくれた。
「大丈夫だ、紗良さん。俺が、君と結愛ちゃんを守るから」
彼の腕の中で、私は安堵していた。これで、もう迷わなくていい。奏は悪者で、私は可哀想な被害者。そして、櫂さんは私たちを救ってくれるヒーロー。なんて分かりやすい、都合のいい物語だろう。
結愛は、泣いている私と、優しく慰める櫂さんの姿を見て、全てを察したようだった。私が「パパのせいで、ママが泣いているの」と囁くと、彼女は素直な心でその言葉を信じ込んだ。帰ってきた奏を見る、怯えたあの目。そして、「パパなんか嫌い!」という拒絶の言葉。
私は、自分の娘を利用して、夫に最後のとどめを刺したのだ。酷い母親だと、今なら分かる。でも、あの時の私は、そうすることでしか、自分の選択を正当化できなかった。
離婚は、驚くほどスムーズに進んだ。櫂さんが紹介してくれた弁護士の言う通りに、私は調停の場で涙ながらに嘘の証言を並べた。「夫からの精神的DVがあった」「家庭を顧みない人だった」。奏が絶望に染まった顔で私を見ていたが、私は目を逸らした。もう後戻りはできない。私は、新しい幸せを手に入れるのだ。
離婚後、櫂さんとの関係は公然のものとなった。彼は頻繁に私のアパートを訪れ、結愛にも本当の父親のようによくしてくれた。高級レストランでの食事、週末の旅行。奏では決して叶えてくれなかった、夢のような時間。私はSNSに、幸せな写真を次々とアップした。
『やっと手に入れた穏やかな日々。信じられる人と一緒にいられる幸せを噛み締めています』
それは、元夫である奏への当てつけであり、そして、自分の選択は間違っていなかったのだと、世間に、そして何より自分自身に言い聞かせるための、必死の叫びだった。
そんな偽りの幸せが、音を立てて崩れ落ちるのに、時間はかからなかった。
テレビのニュースで、櫂さんが逮捕されたと知った時、私は一瞬、何を言われているのか理解できなかった。情報漏洩事件の真犯人。インサイダー取引。そして、複数の女性との不適切な関係。
画面に映し出される、手錠をかけられた櫂さんの顔。そこに、いつもの爽やかな笑顔はなかった。
どういうこと?何かの間違いでしょう?
パニックになった私の元に、櫂さんが保釈された後、金の無心にやってきた。その時の彼の目は、私が知っている彼の目ではなかった。冷たく、欲望にぎらついた、獣の目。
「紗良、悪いけど金貸してくれ。弁護士費用がいるんだ」
「む、無理よ……。私だってお金ないもの」
私が断ると、彼は舌打ちし、吐き捨てるように言った。
「チッ、使えねえな。お前みたいな中古品に価値があるとでも思ったか!少し優しくしてやったら、すぐ股開きやがって」
その言葉に、全身の血が凍りついた。
ああ、そうか。この人は、最初から、私を愛してなどいなかったのだ。ただの、退屈しのぎの玩具。奏を陥れるための、都合のいい駒。
私が信じていた「理想の男」は、幻だった。私が恋い焦がれていたときめきは、全て、彼が仕掛けた巧妙な罠だったのだ。
崩れ落ちる私を尻目に、彼は去っていった。
私は、震える手で奏に電話をかけた。謝らなければ。私が、馬鹿だった。どうか、もう一度。結愛のためにも、やり直したい。
だが、返ってきたのは、氷のように冷たい拒絶の言葉だった。
「もう遅いよ、紗良」
そして彼は、私の嘘の証言や、櫂さんとの不貞の証拠を、私の両親や友人、果ては結愛の学校関係者にまで送りつけたと告げた。
電話の向こうで響く彼の静かな声が、悪魔の宣告のように聞こえた。
私の世界が、終わる音がした。
それからの日々は、地獄だった。
両親からは勘当され、電話にも出てくれない。あれほど仲の良かった友人たちは、蜘蛛の子を散らすように去っていった。近所を歩けば、ひそひそと噂をされ、侮蔑の視線を向けられる。私は、この街で生きていくことすらできなくなった。
逃げるように、この古いアパートに引っ越してきた。
だが、本当の地獄は、ここから始まった。
物事が理解できるようになった結愛が、私に向けるようになった、憎悪の目。
「全部ママのせいだ!ママがあの時、パパを信じなかったから!」
家に帰れば、結愛からの罵声が待っている。彼女の言う通りだ。全て、私が招いたこと。私が、彼女から父親を奪い、彼女の人生をめちゃくちゃにしたのだ。
「ごめんね、結愛……。ママが、馬鹿だったから……」
私が謝るたびに、結愛はさらに激しく私を責め立てる。
「謝って済むと思ってんの!?パパは今どこにいるのよ!会いたいよ……!パパに会って、謝りたいよ……!」
泣き叫ぶ娘を、私はただ抱きしめることしかできない。その小さな体は、私を拒絶するように固くこわばっている。かつて、奏を拒絶した、あの日の結愛のように。
ああ、因果応報とは、このことか。
私は、夫を裏切り、娘を裏切った。その罰として、今、娘から永遠に許されないという地獄を生きている。
鏡の中の、老け込んだ女が、私をじっと見ている。
もし、あの時。櫂さんという「理想」に出会わず、奏という「現実」と向き合っていれば。白湯のような愛情の中に、確かに存在した温かさや安らぎを、大切にできていれば。
だが、後悔するには、あまりにも遅すぎた。
私の人生という物語は、私が自ら選んだ選択によって、救いのないバッドエンドを迎えてしまったのだ。この先、何十年と続くであろう、出口のない暗闇の中で、私はただ、犯した罪の重さを噛み締めながら、生きていくしかない。
もう二度と、幸せだった頃のようには笑えないまま。




