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偽りのハッピーエンドに、弔いのキスを  作者: ledled


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第四話 復讐の果て、俺の隣には誰もいない

あれから、数年の歳月が流れた。

季節は巡り、街の景色も少しずつ変わっていったが、俺の心象風景だけは、あの日から色褪せたまま、時が止まっている。


天城櫂は、社会の底辺を這いずるように生きていた。

かつての栄光が嘘のように、彼は全てを失った。インサイダー取引と背任の罪で実刑判決を受け、数年を刑務所で過ごした後、世に放たれた彼を待っていたのは、冷たい現実だけだった。莫大な損害賠償と慰謝料の支払いは、彼の全財産を奪い去ってもなお、重くのしかかり続けている。


俺は一度だけ、偶然、街で彼の姿を見かけたことがある。

夕暮れの公園。くたびれた作業着を身につけ、無精髭を生やした彼は、ベンチに座って安物の焼酎のパックをあおっていた。その虚ろな瞳には、かつての自信に満ちた光はどこにもなく、ただ深い絶望の色だけが淀んでいた。通り過ぎる幸せそうな親子連れの姿を、彼はどんな思いで見つめていたのだろうか。失ったものの大きさに、今さらながら気づいているのかもしれない。だが、彼に同情する者は、この世界のどこにもいなかった。それが、彼が犯した罪の当然の報いだった。


織部紗良の人生もまた、地獄と呼ぶにふさわしいものに成り果てていた。

俺が彼女の裏切りを暴露した後、彼女の世界は一変した。両親からは勘当され、あれほど大切にしていた友人たちも、潮が引くように去っていった。彼女を見る目は、同情から軽蔑へと変わり、陰で囁かれる悪意に、彼女の心は蝕まれていった。


都心の瀟洒なマンションを追われ、今は都心から遠く離れた古いアパートで、結愛と二人、息を潜めるように暮らしているらしい。昼はスーパーのパート、夜は飲食店の皿洗い。かつての華やかな生活とは無縁の、身も心もすり減らすだけの毎日。鏡に映る自分のやつれた顔を見るたびに、彼女は何を思うのだろうか。あの時、なぜ夫を信じることができなかったのか。なぜ、耳障りの良い嘘にたやすく心を委ねてしまったのか。後悔の念が、亡霊のように彼女に付きまとっているに違いない。だが、いくら悔やんでも、こぼれたミルクが元に戻ることはない。


そして、結愛。

俺の、たった一人の娘。

彼女は、中学一年生になっていた。物事の善悪や、社会の仕組みが理解できるようになった彼女にとって、突きつけられた現実はあまりにも残酷だった。


尊敬していた「かいおじちゃん」は、自分の父親を冤罪に陥れた卑劣な犯罪者だった。

そして、世界で一番大好きだった母親は、その男の嘘を簡単に信じ込み、実の父親を裏切った愚かな女だった。


彼女の世界は、憎悪と絶望で塗りつぶされていた。かつて「パパなんか嫌い」と無邪気に叫んだ少女の心には、その言葉がもたらした取り返しのつかない結末への深い絶望と、母親への消えることのない激しい怒りだけが、黒い渦となって渦巻いていた。


家に帰れば、母親を罵倒する日々が続いていると、人づてに聞いた。


「全部ママのせいだ!ママがあの時、ちゃんとパパを信じてあげていれば、こんなことにならなかったんじゃない!」

「どうして嘘をついたの!?どうしてパパを裏切ったの!?」


幼い頃の記憶がおぼろげでも、今の不幸の原因が誰にあるのか、彼女にははっきりと分かっていた。紗良は、娘からの詰問にただ涙を流して謝ることしかできない。だが、その涙も、もはや結愛の凍てついた心を溶かすことはない。母と娘の関係は完全に冷え切り、その小さなアパートの一室は、互いを傷つけ合うだけの、救いのない地獄と化していた。


結愛は学校でも心を閉ざし、誰とも話さず、いつも一人で過ごしているという。その瞳に、かつてシャボン玉を追いかけていた頃の輝きは、もうない。彼女の青春は、始まる前に終わってしまったのだ。


そして、俺、織部奏は。

復讐を成し遂げた俺は、地方の小さなIT企業に再就職し、新しい人生を歩み始めていた。都会の喧騒から離れ、穏やかな環境で、淡々とプログラムを打ち込む毎日。会社の人間は、俺の過去を誰も知らない。俺もまた、誰とも深く関わろうとはしなかった。


復讐は、果たされた。俺を裏切った者たちは、相応の罰を受け、不幸のどん底にいる。俺の望んだ通りの結末。

だが、俺の心を満たすものは、何もなかった。

巨大な虚無感という名の穴が、胸の中心にぽっかりと空いているだけだった。憎しみを燃やし尽くした後に残ったのは、ただ冷たい灰だけ。あの笑顔を、あの温もりを、自らの手で焼き尽くしてしまったという、取り返しのつかない喪失感だけが、俺の心を支配していた。


ある日の夕暮れ時。

仕事を終えた俺は、帰り道にある海辺の公園のベンチに、一人座っていた。潮風が、頬を撫でていく。ポケットから取り出したデジタルフォトフレームのスイッチを入れると、液晶画面に、色鮮やかな記憶が映し出された。


庭で笑う紗良。シャボン玉を追いかける結愛。誕生日ケーキのロウソクを吹き消す、少し成長した結愛。七五三の着物を着て、はにかむ結愛。

そのすべてに、俺はファインダー越しに寄り添っていた。

もう二度と手に入らない、偽りの幸せの記憶。俺は、このデータだけを、どうしても消すことができなかった。


「……きれいな、夕日ですね」


ふと、隣から静かな声がした。

いつの間にか、制服姿の少女が、俺の隣に腰を下ろしていた。視線を向けると、そこにいたのは、天城莉子だった。


彼女もまた、この復讐劇の被害者の一人だ。父親が起こした事件によって、彼女の家庭もまた、音を立てて崩壊した。両親は離婚し、母親と共に、この地方の街で新しい生活を始めたのだと聞いていた。復讐の協力者となった代償は、彼女の多感な思春期を、灰色に変えてしまったに違いなかった。


「……莉子ちゃん」


数年ぶりに会った彼女は、少し大人びていた。だが、その瞳の奥に宿る影は、以前よりも深くなっているように見えた。


「織部さん……。時々、ここに来るんですか?」

「ああ。考え事をするには、ちょうどいい場所だからな」


しばらく、言葉は続かなかった。二人の間を、気まずい沈黙と、波の音だけが流れていく。

俺は、自分の復讐が、この少女の人生にも暗い影を落としてしまったという事実から、目を逸らすことができなかった。彼女は、俺を恨んでいるだろうか。


やがて、莉子がぽつり、と口を開いた。


「私、時々考えるんです。もし、あの時、私が織部さんに会わなかったら。パパの声を録音しなかったら……。何か、違っていたのかなって」

「……」


俺は、何も答えられなかった。


「ママは、今でも時々、泣いています。パパを信じきれなかった自分を責めて。でも、一番辛いのは、パパがあんな人だったってことを、認めなきゃいけないことなんだって」


彼女は、じっと水平線の彼方を見つめながら続けた。


「私も、同じです。あんな父親だったけど……それでも、私にとってはたった一人の父親だったから。憎いけど、どこかで、昔の優しいパパに戻ってくれるんじゃないかって、信じたかったのかもしれない」


その言葉は、鋭いナイフのように俺の胸に突き刺さった。

憎しみは、愛の裏返し。莉子は、父親を憎みながらも、心のどこかで愛していたのだ。俺が、紗良と結愛を憎みながらも、心の底では今もなお、愛してしまっているように。


復讐は、憎しみの連鎖を生み、新たな犠牲者を作っただけだった。

壊れてしまった人間が、ここに二人いる。復讐を成し遂げた男と、その復讐に利用された少女。俺たちは二人とも、癒えることのない傷を抱えて、これからも生きていかなければならない。


「……ごめん」


俺の口から、か細い謝罪の言葉が漏れた。誰に対しての謝罪なのか、自分でも分からなかった。莉子にか、それとも、このフォトフレームの中で笑っている、かつての家族にか。


莉子は、静かに首を横に振った。


「織部さんが謝ることじゃ、ないです。悪いのは、全部、私の父親と……そして、人の嘘を簡単に見抜けなかった、弱い人間たちだから」


その言葉は、俺の妻だった紗良を、そして、俺自身をも指しているようだった。

俺たちはただ、オレンジ色に染まっていく空を、黙って見つめていた。太陽が水平線に沈み、世界が夜の闇に包まれていく。


俺は、そっとデジタルフォトフレームの電源を落とした。

液晶画面が暗くなり、幸せだった頃の幻影が消える。もう、この過去の光に目を向けるのはやめよう。


完全な虚無と、どこまでも続く孤独。

それが、俺が全てを賭して手に入れた、唯一の結末だった。

隣に座る少女もまた、同じ虚無を抱えている。俺たちは、互いの傷を舐め合うことも、慰め合うこともできない。ただ、同じ闇の中に佇むことしかできないのだ。


偽りのハッピーエンドは、とっくに終わった。

そして、本当のハッピーエンドが訪れることは、もう二度とない。

俺の人生という名の物語には、ただ、静かなバッドエンドだけが待っていた。

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