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偽りのハッピーエンドに、弔いのキスを  作者: ledled


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第三話 さようなら、元家族。ようこそ、地獄へ

復讐の舞台は、完璧に整った。

薄暗い六畳間のアパートの一室。モニターの青白い光が、俺、織部奏の無表情な顔を照らし出す。マウスを握る指は、興奮からか、それとも長年の憎悪からか、微かに震えていた。


数ヶ月にわたって収集し続けた天城櫂の罪の証拠は、一つの巨大なデジタルパッケージとして圧縮されていた。それは、一人の人間の社会的生命を完全に絶つための、致死性の猛毒に他ならない。


俺は匿名性の高いフリーメールアドレスを複数取得し、最初の宛先を入力した。

天城玲奈あまぎれいな

櫂の妻であり、彼の富と地位の源泉。そして、夫の裏切りに気づかず、偽りの幸福の中に安住する愚かな女。


送信ボタンを押す。データは、光の速さでインターネットの海を駆け巡り、彼女の元へと届く。数秒後、俺はもう一つのアドレスに、同じデータパッケージを送付した。

宛先は、玲奈の父。櫂が所属する会社の、最大手取引先でもある企業の代表取締役社長。娘を溺愛し、娘婿である櫂を心から信頼していたであろう老人だ。


パッケージの中身は、三部構成になっていた。


第一部は、「背信」。櫂が会社の経費を不正に流用し、愛人たちとの逢瀬や私的な買い物に充てていたことを示す、偽造された領収書のデータと、カードの利用明細。その中には、紗良へのプレゼントと思われる高級ブランドのバッグの領収書も含まれていた。


第二部は、「不貞」。紗良を含む複数の女性との、破廉恥な関係を記録した動かぬ証拠。ホテルの予約履歴、生々しいメッセージのやり取り、そして二人きりで写る親密な写真の数々。紗良がSNSにアップしていた「信じられる人」との幸せな写真とは全く違う、欲望にまみれた櫂のもう一つの顔がそこにはあった。


そして、第三部は、「犯罪」。彼の妻の実家である会社の内部情報を利用し、インサイダー取引を行っていたことを明確に示すメールのやり取りと、それに連動した株式の売買記録。これは、単なる社内不正や不倫とは次元が違う。明確な犯罪行為だ。


だが、これだけではまだ足りない。彼を絶望の淵に叩き落とすには、決定的な一撃が必要だった。

俺は、公園で出会った少女、天城莉子のスマートフォンに仕込んだ「お守り」から、最後のピースを抜き出した。バックグラウンドで録音され続けた音声データ。そこには、家庭内での櫂の、剥き出しの本性が記録されていた。


『あの老害、早く死なねえかな。いつまで社長の椅子にしがみついてるつもりだよ』


玲奈の父親への、吐き気を催すような罵詈雑言。


『玲奈なんて、親の金がなきゃ何の価値もねえ女だ。俺が一緒にいてやってるだけで、ありがたいと思えってんだ』


妻である玲奈への、底知れない侮蔑。


『結愛?ああ、あのガキか。馬鹿な母親に似て、単純で扱いやすいよ。少し優しくしてやれば、すぐ父親のことなんて忘れるさ』


俺の娘、結愛のことまで、彼は玩具のように語っていた。


俺は、この音声データを、玲奈と彼女の父親に、時間差で追加送信した。自分の娘が、意図せずして父親の破滅の引き金を引くことになった。これ以上の皮肉はないだろう。


全てのデータを送り終え、俺は静かにPCの電源を落とした。あとは、嵐が起こるのを待つだけだ。


変化は、予想以上に早く訪れた。

データが送られた翌々日。俺がかつて勤めていた会社は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。玲奈の父である社長が、取引先企業のトップとして、絶対的な権力を行使したのだ。

彼は、娘婿の裏切りに激怒した。可愛がっていた娘への裏切り、そして自分自身への侮蔑。何よりも、自分の会社の情報を利用して私腹を肥やしていたという事実が、彼のプライドをズタズタにした。


社長の鶴の一声で、俺が罪を着せられた情報漏洩事件の、徹底的な再調査が開始された。今回は、外部の専門調査機関も投入された、言い訳の効かない調査だ。

櫂が仕掛けた巧妙な偽装工作は、プロの目にかかれば児戯に等しかった。俺のIDが外部から遠隔操作されていた痕跡、そしてその操作元が、天城櫂の自宅のIPアドレスであったことが、たちまち白日の下に晒された。


真犯人は、天城櫂。

俺の冤罪は、こうしてようやく晴れた。


会社の取締役たちが、俺が住むオンボロアパートにまで、頭を下げにやってきた。


「織部くん、本当に申し訳なかった。我々の調査不足が、君の人生を狂わせてしまった……」


彼らは深々と頭を下げたが、その言葉には何の感情もこもっていなかった。ただ、自分たちの会社の体面を保つための、形式的な謝罪。復職の話も出たが、俺は静かに首を横に振った。


「もう結構です。あの会社に、俺の居場所はありませんから」


俺を疑い、切り捨て、犯罪者として扱った人間たちと、今さら笑い合って仕事などできるはずがない。俺は、彼らが提示したわずかばかりの解決金を受け取り、二度と彼らと関わらないことを選んだ。


一方、天城櫂の人生は、轟音を立てて崩れ落ちていった。

彼は情報漏洩事件の真犯人として、会社から懲戒解雇された。それだけではない。社長の会社と、元いた会社の両方から、インサイダー取引と背任行為で刑事告発され、同時に天文学的な額の損害賠償請求訴訟を起こされた。


彼の破滅は、仕事だけにとどまらなかった。

妻である玲奈は、夫の全ての裏切りを知り、一切の躊躇なく離婚届と、桁違いの慰謝料請求書を突きつけた。彼女にとって、夫の不貞よりも、自分と父親が侮蔑されていたという事実の方が、遥かに許しがたい屈辱だったのだろう。


彼が築き上げてきた、きらびやかな砂上の楼閣は、一瞬にして跡形もなく崩れ去った。


そして、紗良。

彼女は、テレビのニュースで天城櫂の逮捕と、彼の全ての裏切りを知った。爽やかで、誠実で、自分を愛してくれていると信じていた男の、おぞましい本性。そして、その男の嘘を鵜呑みにし、いかに自分が愚かにも、実の夫を切り捨て、傷つけたかを、ようやく、本当にようやく理解したのだ。


パニックに陥った紗良は、俺に電話をかけてきた。その声は、かつて俺を詰問した時とは比べ物にならないほど、取り乱していた。


『奏!ごめんなさい!私が、私が馬鹿だった!あんな男の言うこと、信じるんじゃなかった!』


電話の向こうで、紗良が泣き叫んでいる。


『お願い、もう一度……もう一度だけ、チャンスをちょうだい!結愛のためにも、やり直しましょう!ねえ、お願いだから!』


嗚咽交じりの、みっともない懇願。

だが、その言葉は、もはや俺の心には少しも響かなかった。俺は、凍えるほど静かな、そして自分でも驚くほど冷たい声で答えた。


「もう遅いよ、紗良」

『そ、そんなこと言わないで!反省してる!本当にごめんなさい!これからは、あなただけを信じるから!』

「信じる?どの口が言うんだ」


俺は、静かに言葉を続けた。


「紗良。お前が俺を裏切って、あの男と一緒になるために、調停でどんな嘘をついたか、覚えているか?」

『え……?』

「『夫から精神的なDVを受けていた』『家庭を顧みない人だった』。よくもまあ、あんな嘘を涙ながらに語れたものだな」


紗良が息を呑む音が、電話越しに聞こえた。


「その嘘の証言、俺は全部録音してある。そして、お前と天城が不貞を働いていた証拠も、もちろん全部な」


俺は、電話を切る直前に、とどめの一言を放った。


「たった今、その証拠データを、お前の両親と、お前の地元の友達、学生時代の友人グループ全員に、一斉送信しておいた。ああ、もちろん、結愛が通ってる小学校の、PTAの役員さんたちにもな」

『な……に……?』

「今までお前を『可哀想な被害者』だと思って同情してくれていた人たちが、これからお前をどういう目で見るか、楽しみだな。さようなら、紗良。お前はもう、俺の家族じゃない」


電話の向こうで、紗良の絶叫が響き渡った。それは、人間が発する声とは思えない、断末魔の叫びだった。

彼女の周りから、全ての味方が、そして彼女が必死に守ろうとしていた「世間体」という名の薄っぺらな鎧が、一斉に剥がれ落ちていく音が、俺にははっきりと聞こえた。


俺は静かに通話を切り、スマホをテーブルに置いた。

復讐のコンチェルトは、その最も激しいクライマックスを奏で終えた。窓の外は、いつの間にか暗くなっていた。街の灯りが、遠くで瞬いている。


俺は、引き出しの奥から、一枚の写真を取り出した。

まだ結愛が小さかった頃、三人で海へ行った時の写真だ。日焼けした俺の肩車の上で、結愛が満面の笑みを浮かべている。その隣で、紗良が幸せそうに微笑んでいる。

そこには、俺が愛した家族の姿があった。もう二度と戻らない、かけがえのない時間。


「……さようなら」


俺は、その写真に小さく呟くと、ライターで火をつけた。炎は、写真の端からゆっくりと、幸せな記憶を飲み込んでいく。紗良の笑顔が、結愛の笑い声が、黒い灰へと変わっていく。


復讐は、果たされた。

天城櫂は社会的生命を絶たれ、紗良は全ての信用を失い、孤立無援の地獄に突き落とされた。

俺の望んだ通りの結末。


なのに、なぜだろう。

胸を満たすのは、達成感ではなく、どうしようもないほどの虚しさだけだった。

灰になっていく写真を見つめながら、俺の頬を、一筋の冷たいものが伝っていった。それが、涙であることに気づくまでに、しばらく時間がかかった。

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