第二話 妻が寝取られ、娘に捨てられた俺が、唯一手にした復讐の切り札
家庭裁判所の一室。白々しい蛍光灯の光が、無機質な長机を照らし出している。俺の正面に座る紗良は、憔悴しきった悲劇のヒロインを完璧に演じきっていた。その隣には、彼女が雇ったであろう弁護士が、分厚いファイルをめくりながら座っている。
「……夫は、事件を起こす以前から、精神的に不安定な状態でした」
紗良は、ハンカチで目元を押さえながら、か細い声で語り始めた。調停委員の同情を引くための、計算され尽くした芝居。
「プロジェクトの重圧からか、些細なことで怒鳴ったり、私や娘を無視したりすることが増え……。家庭内は常に緊張感に包まれていました。いわゆる、精神的なDVだったのだと、今になって思います」
嘘だ。全てが、真っ赤な嘘だ。俺が家族に怒鳴ったことなど一度もない。確かに疲れてはいたが、娘の話を無視したことなど断じてない。だが、俺の反論は空虚に響くだけだった。懲戒解雇され、社会的信用を失った男の言葉など、誰も信じようとはしない。
紗良は、天城櫂に指導されたであろうセリフを、淀みなく並べ立てていく。「家庭を顧みない人だった」「娘の将来が不安だ」「もう、夫の顔を見るだけで恐怖を感じる」。俺たちの十年間の結婚生活は、彼女の口から語られることで、おぞましい地獄絵図へと塗り替えられていった。
当然のように、結愛の親権は紗良のものとなった。俺には月一度の面会交流権が認められたが、それすらも「娘が精神的に不安定なため」という理由で、紗良は拒否するだろう。なけなしの貯金のほとんどは財産分与として紗良に渡り、それどころか、彼女が受けた「精神的苦痛」に対する慰謝料まで請求される始末だった。
全てを失った。文字通り、何もかも。
俺は、裁判所からの帰り道、自分がどうやって歩いているのかさえ分からなかった。太陽の光がやけに眩しく、街を行き交う人々の幸せそうな笑い声が、耳障りで仕方がなかった。
新しく借りたのは、都心から電車を乗り継いだ先にある、築四十年の古い木造アパートの一室だった。陽の当たらない六畳一間。壁にはシミが浮き、どこからかカビ臭い匂いが漂ってくる。かつて家族三人で暮らした、明るい日差しが差し込むマイホームとは、何もかもが違っていた。
この薄暗い部屋で、俺の新しい生活が始まった。生きる意味も目的も見失い、ただ時間が過ぎるのを待つだけの日々。天井の木目を数え、時折聞こえてくる隣人の生活音に耳を澄ます。そんな、死んでいるのと変わらない毎日。
何度か、近所の雑居ビルの屋上に立ったことがある。フェンスの向こう側を覗き込むと、アスファルトの上を走る車が、まるでミニカーのように小さく見えた。ここから一歩踏み出せば、この苦しみから解放される。借金も、世間の目も、心の痛みも、全てが終わる。
「……死んで、たまるか」
だが、死の淵で俺を引き戻したのは、生存本能ではなかった。脳裏に鮮明に浮かび上がったのは、あの日の光景。泣きじゃくる紗良を抱き寄せ、俺の娘を自分の膝に乗せ、勝利を確信したように歪んだ笑みを浮かべていた、天城櫂の顔。そして、「パパなんか嫌い」と怯えた目で俺を拒絶した、結愛の姿。
あの男は今頃、俺から奪った家族と、偽りの幸せを謳歌しているのだろう。俺が死んだところで、彼らは少し眉をひそめるだけで、すぐに忘れてしまうに違いない。「可哀想な人だったわね」と、まるで他人事のように。
冗談じゃない。
俺だけがこんな地獄を味わって、あいつらが何のお咎めもなしに幸せになるなど、絶対に許さない。
「死んでたまるか。あいつを、あいつらを地獄に突き落とすまでは」
その日を境に、俺の人生の目的は、ただ一つになった。
復讐。
俺からすべてを奪った天城櫂と、それに加担し、俺を裏切った織部紗良への、完全なる復讐。
その日から、俺の生活は一変した。昼間は日雇いの解体作業や工事現場の警備員として働き、最低限の生活費を稼いだ。汗と埃にまみれ、肉体は悲鳴を上げたが、心の痛みは不思議と和らいだ。肉体的な疲労が、精神的な苦痛を上書きしていく。
そして夜。安アパートの一室は、俺だけの復讐の司令室と化した。なけなしの金で揃えた中古のハイスペックPC。モニターに映し出される無数のコードは、かつて家族を守るための生活費を稼ぐために使っていた俺のスキルだった。だが今、その能力は、憎い男を社会的に抹殺するための、冷たく研ぎ澄まされた刃と化していた。
天城櫂。その男のデジタルデータという名の急所を、俺は貪るように探り始めた。まずは、SNSの解析からだ。彼の華やかな交友関係、一見完璧に見える家族との写真。その裏に隠された綻びを、俺は見逃さなかった。特定の女性アカウントとの不自然なやり取り。時間差で投稿される、酷似した景色の写真。
「見つけた」
俺は、櫂のPCに、かつて自分が開発に関わったセキュリティの脆弱性を突くプログラムを仕掛けた。それは、かつての同僚でさえ気づかない、俺だけが知る裏口だった。櫂のプライベートな領域への扉が、静かに開く。
そこは、欲望と欺瞞に満ちた汚泥の海だった。
俺の妻である紗良だけではない。複数の取引先の女性社員や、部下の妻との、破廉恥な関係を示すメールやメッセージの数々。会社の経費を私的に流用し、高級レストランやブランド品に費やしたことを示す、偽装された領収書のデータ。そして何より、俺の目を引いたのは、彼の妻の実家である大企業の内部情報を利用した、インサイダー取引を匂わせるやり取りだった。
「……こいつ、ここまでやっていたのか」
画面に映し出される証拠の山に、俺は吐き気を覚えた。外面の良さとは裏腹に、その内面は腐りきっていた。他者を利用し、見下し、自分の利益のためなら平気で他人を陥れる。彼は、人の心を持たないサイコパスだったのだ。
俺は、それらの証拠データを一つ一つ、慎重にバックアップしていく。焦ってはいけない。復讐は、最も効果的なタイミングで、最も残酷な方法で行わなければ意味がない。
櫂の最大の弱点は何か。それは、彼がその地位と富を築き上げた源泉そのものだった。「逆玉の輿」という、あまりにも脆い砂上の楼閣。彼の権力と富の源泉は、すべて妻である天城玲奈と、その父である大企業の社長にある。彼らが櫂の裏切りを知った時こそ、櫂の人生の破滅を告げるゴングが鳴り響くのだ。
復讐の準備を進める傍ら、俺は紗良と結愛の動向も監視していた。紗良のSNSには、俺との離婚が成立した途端、新しい生活を謳歌する投稿が頻繁にアップされるようになった。
『やっと手に入れた穏やかな日々。信じられる人と一緒にいられる幸せを噛み締めています』
そんな言葉と共に投稿された写真には、櫂と、そして俺の娘である結愛が、満面の笑みで写っていた。遊園地、水族館、高級レストラン。俺が家族にしてやれなかった全てを、あの男はこともなげに与えている。結愛は、すっかり櫂に懐き、写真の中では「かいおじちゃん」ではなく、「櫂パパ」とでも呼んでいるかのような親密さを見せていた。
その一枚一枚の写真が、俺の心の傷口に塩を塗り込む。憎しみで、腸が煮え繰り返るようだった。それでも俺は、その投稿の一つ一つに、震える指で、ただ静かに「いいね」を押し続けた。偽りの幸せに浸る彼女たちへの、ささやかな呪いを込めて。
ある休日の昼下がり。俺は、櫂の家族が住む高級住宅街の近くにある公園を訪れた。目的は、彼のもう一つの弱点。櫂と玲奈の一人娘、天城莉子への接触だった。
調査の過程で、彼女が中学二年生で、多感な時期を迎えていること、そして、家庭内で父親の冷酷な本性に薄々気づき、強い反感を抱いているらしいことを突き止めていた。
公園のベンチで、莉子は一人、暗い顔で俯いていた。高価そうなスマートフォンをいじっては、深いため息をついている。俺は、作業着姿のまま、偶然を装って彼女の隣のベンチに腰を下ろした。
「……何か、悩み事かい?」
できるだけ穏やかな声で話しかける。莉子は一瞬、警戒したように俺を見たが、汗と埃にまみれた俺の姿に、逆に危険を感じなかったのかもしれない。
「別に……。あなたには関係ない」
「そうだな。見ず知らずのおじさんだもんな。ただ、なんだか昔の自分を見ているみたいで、つい声をかけちまった。すまない」
俺はそう言うと、立ち去ろうとした。その時、莉子がぽつりと呟いた。
「……待って」
俺は、計画通りだと心の中でほくそ笑みながら、ゆっくりと振り返った。
「どうした?」
「……おじさんは、どうして昔の自分みたいだって思ったの?」
それから、俺たちはとりとめのない話をした。俺は自分の正体を明かすことはせず、ただ、人間関係の難しさや、信じていた人に裏切られた経験を、少しだけ脚色して話した。莉子は、最初は探るような目つきだったが、次第に心を開き、ぽつり、ぽつりと自分の胸の内を明かし始めた。
「パパ、外面はすごくいいの。学校の先生も、ママの友達も、みんなパパのこと褒める。でも、家では全然違う」
莉子の声は、微かに震えていた。
「ママのこと、いつも馬鹿にしてる。『お前の取り柄は、親の金だけだ』とか、平気で言う。ママのお父さん、つまりお爺ちゃんの会社のことも、『あの老害、早く引退しねえかな』とか、陰で悪口ばっかり……」
やはり、俺の読み通りだった。莉子は、父親の裏の顔に気づき、傷ついていたのだ。母親の玲奈は、夫の本性を見ようとせず、理想の家庭を信じ込んでいる。その歪な家庭環境の中で、少女は一人、孤独に苛まれていた。
「辛いな。信じてるお父さんが、そんな人だったなんて」
俺は、心から同情するように言った。もちろん、それも演技だ。彼女の父親への憎悪を、俺の復讐の駒として利用するために。
別れ際、俺は莉子のスマートフォンを手に取り、あるアプリをインストールした。
「これは、お守りだ」
「お守り?」
「ああ。もしまた、お父さんのことで辛くなったら、このボタンを押すんだ。声のお守り。君が聞いた辛い言葉を、全部吸い取ってくれる」
それは、高性能なボイスレコーダーアプリだった。ワンタッチで起動し、バックグラウンドで高音質な録音を続けることができる。莉子は不思議そうな顔をしていたが、「ありがとう」と小さな声で礼を言った。
それが、櫂を社会的に完全に抹殺するための、そして、彼の家族を内側から崩壊させるための、最後の、そして最も強力な切り札になるとは、この時の莉子自身も知る由はなかった。
アパートへの帰り道、俺のスマホが震えた。紗良からのメッセージだった。
『来月の結愛の誕生日は、天城さんが素敵なレストランを予約してくれました。あなたも父親なのだから、プレゼント代くらいは送ってください』
その文面には、かつての妻の面影はどこにもなかった。あるのは、俺への侮蔑と、金の無心だけ。
俺は、ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。紫煙が、夕暮れの空に溶けていく。
「もうすぐだ。もうすぐ、お前たちの偽りの幸せを、終わらせてやる」
復讐のデュエットは、静かに、だが確実に、破滅のフィナーレへと向かって奏でられ始めていた。俺はただ、その演奏が終わるのを、冷たい心で待ち続けるだけだった。




