1-3
2人は奥の読書スペースに足を踏み入れる。
ディスは真っ先に目の前の椅子に座り、足の開放感に浸った。
そしてユウは左右を見渡した。
初めて入ったその場所は、左右に無数の机と椅子が並び、規則的に配置された天井カメラが誰もいないはずの空間を見つめ続けていた。
ユウは誰もいないその空間に不気味さを感じながら、ディスの向かいの席に座ろうとした。
『会話を止めて帰宅しなさい。図書の貸し出しは、次週に変更します。代わりに、次の小説を読みなさい。httpspqc://www─────────』
通知に書かれた長々と続くURLを見たユウは、固く唇を結んで椅子を引いたまま立ち尽くした。
今日、本を借りられないだと?
借りるために会話を続けていたのに・・・
「もしかして通知?」
先に向かいに座っていたディスが怪訝そうな表情を浮かべる。
「そうだけど・・・ディスの方には・・・いや何でもない」
「どうせ『会話やめろ』って言われたんでしょ。早く座って」
「いや、しかし─────────」
「いいから早く!」
ディスは人差し指を机に突き立て、不機嫌そうにユウに着席を促した。
ユウは通知とディスを交互に見返しながら、渋々と言った感じに着席する。
すると、ディスが机に身を乗り出し、ユウの方に手を伸ばした。
「なっ─────────!」
顔が近づき、鎖骨に視線が吸い寄せられたユウは咄嗟に眼を閉じた。
その後、首筋に少しの暖かさを感じると、暗闇の眼前にアクセス許可画面が現れた。
ディスはユウの耳裏にあるデバイスの記憶装置に手首をかざし、とあるファイルをアップロードしようとしていた。
「ファイル送るからアクセス許可して、実行もして」
「いや、なんのファイル─────────」
「は・や・く!」
「・・・変な物だったら警察に突き出してやるからな」
ユウは目を閉じながら威嚇して見せたが、ディスの言われるがままにファイルを実行した。
すると、視界の左下に表示されていた通知が、小さな猫のイラストに変わった。
ディスはユウの首筋にかざしていた手を放し、元の位置に戻った。
「これは・・・」
「私が作った通知の非表示プラグイン。本当はネットで送れたら一番いいんだけど、毎回何故かエラー吐いて送れないから、こうやって直接渡さなきゃいけないんだ」
「いやいや。これじゃあ次に何をすればいいか分からないだろ」
「それぐらい自分で決めてよ、大人でしょ。あと、ついでに昨日のご飯代も送っておいたから、確認しておいて」
「・・・」
「それと、これから私と話すときは絶対にそれ、ONにしてて。つまらないから」
ユウは首元をさすりつつ、通知が見えなくなった視界に奇妙な感覚を覚えていた。
先の見えない不安感、目新しさからくる高揚感、勝手な行動を取るディスへの苛立ちと呆れ等が綯い交ぜになっていた。
ユウがキョロキョロと非日常的な視界を楽しんでいると、ディスは咳ばらいをした。
「では気を取り直して・・・今度はこっちから質問させて貰うよ。昨日からずっと聞きたい事があったんだから」
「・・・昨日から、ね」
ユウは昨日、喫茶店で受けた数々の嫌がらせを思い出した。
燻っていた怒りが再燃しそうになるが、彼は平静を装った。
ここまでして聞きたい事が何なのか、聞かなきゃ気が済まないって言うのもあるが・・・
ディスとの会話を続ければ、本が借りられるように通知が修正されるかもしれない。
本当はこんな事はしたくない。通知に従わないと、確実に不幸になるのが分かってるからな。
だけど、今日、本を借りられないと来週まで何も読めなくなってしまう。
俺はどうしてもデバイスで小説を読みたくないんだ。
ユウがカメラに目配せして見せたが、その無機質な視線は冷たく2人を捕え、次の未来を予測し続けた。
「それで、聞きたい事って?」
「それはね・・・」
ディスは質問を勿体ぶり、静かなフロアに緊張感が漂った。
ただならぬ気配を感じたユウは、先ほどの選択に迷いが生じ、今頃になって後悔し始めた。
やっぱり通知通りに帰るべきだったか?
ユウが肩唾をのんでディスの目を覗き込んでいると、彼女は頃合いを見計らっていたかのように沈黙を破った。
「どうしてユウ君は本を読むの?」
「・・・それだけか?」
「うん」
身構えていたユウはディスの単純過ぎる質問に唖然とした。
「だって変だよ。ネットで全部読めるのに、どうしてこんなところまでわざわざ来て、デバイスを使わず本で読もうとするの?」
「1つ聞きたいんだが、それを聞く事は、そんなに重要な事なのか?」
「私にとってはね」
「・・・」
前のめりに机に両肘をつくディスに対して、ユウは椅子の背もたれにもたれかかった。
普通に聞けば済む話じゃないか?
どうして俺の結婚を・・・
違う。話せば通知が変わるかもしれない。
俺が会話を続ける理由はそれだけだ。
「これは感覚の問題だから、分かりづらいと思うけど・・・実感があるんだ」
「実感?」
「そう。自分が『幸せ』だという実感」
ディスは目に好奇心を湛えて、ユウの話に耳を傾ける。
「俺も最初は皆と同じようにデバイスで小説を読んでた。
ウィールの選んでくれる小説はどれも面白くて、確かに満足してた。
でも、いつも読み終えた後に思うことは『幸せなのか?』ってことだった。
『面白かった』という実感はあっても、『幸せだった』という実感は不思議と感じられなくてな。
『面白かった』なら『幸せ』だって言う人もいるけど、俺は納得できなかった」
ユウは、癖で視界左下の通知を確認した。
しかし、そこには猫のイラストがこちらを見つめ返しているだけで、新規通知の有無を確認できなかった。
彼はそれを歯がゆく思いつつも、一縷の望みに縋って話を続けざるを得なかった。
「だけどまぁ、小説は面白くて満足してるし、同じ話題で盛り上がれる友人もできたし、そこまでこだわる必要はないんじゃないかと思ってな。
これまで通りに読書ライフを謳歌することにしたんだ。
そして違和感が常に付き纏う読書を繰り返していたある時、職場にいた同じ読書家の先輩に『本』というのものがある事を教えてもらった。
俺は物質的な『本』に興味をそそられた。
何か違う形を通して読書をすれば、この違和感の正体も分かるんじゃないかと思った。
それで図書館を探し出して『本』を手に取った。
そして1枚1枚ページを捲ってみてようやく分かったんだ。
デバイスで読むと読みやすすぎたんだ。
自動スクロールやフォントの自動調整、視界に映る背景を考慮した色調補正。
どれも読書体験を円滑にするための機能だが、それがいけなかったんだ。
あまりに読みやすすぎて、読んではいるが、読んでいる実感が無くなってしまっていたんだ。
読みたいときにいつでも取り出せないし、文字はたまに潰れてるし、ページを捲らないと物語が進んでいかない。
そういった不便こそが読んだ実感を抱かせるもので、そして読んでいる実感こそが、読書における『幸せ』だと気づいたんだ。
だから、俺は自分の『幸せ』を実感するために、わざわざ『本』で読むことにしてるんだ」
ユウは一通り答え終えると、ディスに悟られない様に視線の動作を最小限にプラグインをOFFにして、新規通知の有無を確認した。
しかし、会話の中止を促すだけの新たな通知が5件ほど届いているだけで、本当に欲しい通知は届いていなかった。
彼は僅かな苛立ちを感じつつ、再びこっそりとプラグインをONにすると、ディスの顔色を窺った。
ディスは黙って俯いたまま、肩を震わせており、ユウがプラグインを操作したことには気づいていなかった。
「それで質問に答えたわけだけど、これを聞き出す事がどれだけ大事だったのか教えてくれるか?」
「もちろん!」
ディスは勢いよく顔を上げると両手を机に突き、身を乗り出した。
「同志を見つけて我が社にスカウトするためだよ!」
ディスは鼻息を荒げ、輝くような笑みを浮かべている。
彼女の勢いに気圧されたユウは、椅子を倒して仰け反った。
「・・・我が社?学生じゃないのか?それに同志って?」
「説明しよう!」
ディスはそのまま器用に靴を脱ぎ捨てると、机の上によじ登った。
「ウィールの予測する幸せに疑問を持って、自らの意思で幸福になろうとする人!そういう同志を集めて、本当の幸せを探究する組織!それが私が高1の時に起こした会社だよ!」
彼女は机の上に膝立ちし、誇らしげに胸を張った。
ユウは、今まで彼女が見せていた自信のあるその態度に合点がいった。
この国では就職先も結婚相手と同じ様に、ウィールの予測通知によって最適な職場を教えてもらうことが出来る。
選ぶ/選ばないは本人の自由だが、大体の人間はその通知に従って公営企業のどこかに斡旋される。俺もその一人だ。
しかし、一部の人間だけは違う。ウィールによって才能を認められた人間だけは起業することを勧められる。
勧められた人間の多くは、通知に従い起業する。なぜなら、巨万の富と幸福が必ず得られるからだ。断る理由がどこにもない。
そして社会は、いかんなく発揮されるその才能によって、更に発展していく。
全員が幸福になる素晴らしい制度だ。
「学生起業家ってことか。それはすごい。才能があるんだな」
「ウィールには選ばれてないよ。言ったでしょ。ウィールの予測する幸せに疑問を持ってる人を集めてるって。それなのに社長がウィールに選ばれてたら意味ないじゃん」
「選ばれてないって、それで起業なんてしていいのか?」
「法律上ではOKだったよ」
起業家を目にするのだって初めてなのに、それが学生で、しかもウィールに選ばれてない。
雷に打たれた後、頭上から飛行機が突っ込んでくる確率の方が高そうだ。
「さぁユウ君!転職しよう!」
「・・・就労通知は届いていなかったはずだ」
「同志の条件にも合うし、その内届くって!」
「ウィールの予測に疑問を持つってやつか?それなら俺は同志じゃない。ウィールの予測は常に正しいと思ってる」
「本気でそう思ってる人が本なんて読まないって。今はどうか知らないけど、最初に本を読もうとした時は、ウィールの警告通知まみれだったんじゃない?」
過去を言い当てられたユウは押し黙った。
確かに、本を知った俺はすぐにそれを購入できる場所、借りられる場所をネット上で検索した。
するとウィールは、『移動時間、労力の無駄』『社交時間の減少』『貯蓄の浪費』等、様々な理由をつけ、俺が本を入手しないように制止し続けた。
その程度の行為が、どんな不幸を招くのかと、初めは随分と困惑したのを覚えている。
それでも我慢できずに、警告を無視してここまで来て、本を借りた。
そして俺は大勢の友人を失った。
初めは良かった。
本のおかげで違和感の正体が分かり、ますます俺の読書ライフは充実した。
小説が更に好きになって、毎週足しげくここに通うようになった。
しかし、移動後の疲労や交通費による貯蓄の目減りは、友人との時間を徐々に奪い、1日の終わりに届く通知に交友日程が入らなくなっていった。
友人が居なくなるにつれ、いつの間にかウィールの方も静かになったが、それ以降というもの、俺は通知には従うべきだと強く信じるようになった。
「それでも本を借りに来た。だから、間違いない。同志だよ」
ディスは満足げな表情を浮かべながら、机の上を伝ってユウの隣の席に座った。
「警告されても疑問を持ち、自分の意思で行動する。そういう人って本当に少ないから、私にとってその体験の有り/無しを聞く事は、それはそれは大事な事だったんだよ。分かってくれる?」
分かるとも。
このご時世に、ウィールの予測通知に疑問を持つ人なんているわけがない。
そんな変人を集めようとすれば、とてつもない労力が必要になるだろう。
その人の信念まで聞き出さないと必要な人材か判断できないなら、なおさら集めるのは難しい。
彼女が二日もかけて、俺の後を尾けるのも理解できる。
「・・・だからって、俺に嫌がらせする理由になるのか?」
ユウは席を立ち、ディスから少し距離を取った。
すかさず、癖で通知を確認するが、再度猫と目が合うことになり、先ほどと同じ苛立ちを覚える。
「嫌がらせ?ネタバレの事なら、ユウ君の方が先だからね」
「は?」
「だって無視したじゃん。私、無視されるの昔から大嫌いだから」
「それは、何というか悪かったよ・・・でも、じゃあ何で結婚を破談させたんだ?俺は他に何かしたか?」
ユウはディスから、もう半歩距離を取った。
彼の手には軽く拳が握られており、僅かな苛立ちという種火は、余憤にもう一度火を点けようとしていた。
「それは善意だよ」
ディスは机を伝って元の席に戻り始めた。
「善意で結婚を破談させるのか?そんな馬鹿な話信じろって?」
「確たる証拠があるわけじゃないから、信じなくてもいいよ」
靴を履き終えたディスは、机の上に置いていた本を拾い上げ、ユウの方に向かって歩き始めた。
「あの女の人と結婚したら、多分不幸になってたと思うよ」
「なんでそんな事・・・ウィールのお墨付きの相手だぞ!?」
「あの女の人、喫茶店に行くっていうのに、持ってたバッグも服も全部ブランドものだったよ」
「え?」
「まぁ男の人じゃわからないか・・・それにあの人、絶対成形してる」
「別にいいだろ、成形ぐらい」
「少しならね。でもあの人の顔、気味が悪いぐらい整ってた」
向かってくるディスから離れるために、後ずさりを続けたユウは、書架を背にして逃げ場を失ってしまった。
「あの人、相当プライド高い人だと思うよ~。結婚したら絶対苦労するタイプ」
「ブランド物を身に着けて、ちょっと他人より成形してるだけで、なんでそう思うんだ」
「女の勘!」
「・・・」
ディスの発言は信憑性に乏しかったが、ユウは妙に納得していた。
彼女が見抜いた要素はどれも、自分が読んだ物語に出て来る嫌な女の典型だったからだ。
どうしてそんな人物との結婚が俺の幸せなんだ?
「だけど、ユウ君とならお似合いなのかもね」
「どういう意味だ?」
「だってユウ君、女性に振り回されて喜ぶタイプでしょ?」
「それも女の勘か?」
「そうだね!」
ユウが緩めそうになった拳に、再度力を込めたその時、フロア中に大きな鐘の音が鳴り響いた。
『閉館15分前となりました。本の貸し出し窓口は、残り5分で─────────』
ユウは急いでプラグインをOFFにして、通知を確認する。
しかし、そこには変わらず会話の中止を促す警告通知が更に10件程増えているのみであった。
彼は拳を素早く上げ、ゆっくり降ろし、また素早く上げ、またゆっくりと降ろした。
暫くそれを繰り返すと、ほどなくして、彼は拳を解き、大きなため息をついた。
「はい、これ」
項垂れるユウに、ディスは大事そうに持っていた本を指し出した。
「なんだ?」
「ユウ君がフラれた時に笑っちゃったお詫び。これは面白かったからお勧めだよ」
「そうだ!善意ならなんで、あの時あんなに笑ってた!?」
「だって、あんまりにも出来過ぎてたから。普通は気づくでしょ」
ディスはクスクスと思い出し笑いを浮かべている。
ユウは耳が熱くなるのを感じ、腕を振り上げようとした。
「で、借りるの?借りないの?」
「ッ─────────」
ユウは少し浮き上がった手を宙で彷徨わせ、左下に映る通知と差し出された本を交互に見る。
数回の往復の後、浮いた手は自然と本に引き寄せられた。