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翌日は十数か月ぶりに、雨が降った。
誰もが室内で過ごす日に、ユウは外出を余儀なくされていた。
電車に揺られ、バスに乗り、トンネルを抜け、ユウは図書館に来ていた。
東の郊外にある公園の中に建てられたその建物には、窓は一切なかった。
全面コンクリートで塗装された外壁は灰を被った棺を思わせ、読み手のいない本たちの霊廟のようにも、知を集積した神聖な塔のようにも見えた。
公園内を歩くユウの足取りはぎこちない物であった。
水たまりをよけるために右往左往し、時にぎこちなくジャンプする。
例えるならば、運動音痴の道化師のようだった。
普通の公園であれば水たまりなどできはしないが、この郊外にある公園は利用者が極端に少ないということもあって整備費を削られていた。
街頭1つとっても、明滅を繰り返していると言うのに交換さえされていないものまである始末だった。
本当だったら、こんな日に外出させるような通知は来ないはずなんだよなぁ・・・
ユウは昨日から溜まっているフラストレーションを少しだけ口から吐き出した。
バシャリ。
ユウは右足に冷たい不快感を覚えた。
怪訝そうに足元を見ると、水たまりに靴が浸かっている。
一瞬の不注意から、更にフラストレーションは加速することになった。
気持ち悪い・・・
ユウは肩を落としながら、グチョグチョと不快な足音を鳴らし、図書館に入っていった。
入り口のドアを開けると、やけに高い天井のエントランスホールがユウを迎えた。
傘から雨粒を払い落とし、靴下の水気を搾り取ると、通知が届いた。
『本を返却して、地下11階、エレベーターを降りて右手、書架番号:B1108c、ジャンル:ミステリー小説、上から3段、右から14冊目の本を借りなさい』
ユウは、傘立てに傘を差し込もうとする。
目に留まったのは1本の傘だった。
この傘立てに、自分以外の傘が差さっているのを見るのは初めての事だった。
他人の傘をまじまじと眺めながら、いつもより慎重に自分の傘を差し込み終えると、バッグから本を取り出した。
昨晩、予定より早く読み終えてしまったその本は、彼を満足させることはなかった。
結局、あいつが言った通りだったな。
自身の幸福を奪われたことを思い出しながら、彼は入り口左横に設置された返却ポストにその本を投函した。
その後はいつも通りに、入り口正面に設置されているいくつかのエレベーターに乗り込み、目的の階層へ向かうことにした。
エレベーターの扉が静かに閉まると、エントランスに静寂が訪れた。
設置されたカメラが誰もいなくなったことを感知すると、すぐに照明が落ちた。
暫くの間、薄暗い室内でエレベーターのモニターたちが怪しく光っていたが、間もなくモニターの電源も、たった1つを残して全て落ちる事となった。
ユウは、誰とも乗り合わせる事もなく目当ての階へ到着した。
ドアが開くと、視界いっぱいの書架がユウを出迎えた。
目移りしそうなものだが、ユウはエレベーターを降りると、脇目も振らずに目的の書架へと向かった。
彼にとって目的の本以外はどうでもよかった。
通知に書かれていない以上、見る価値がないからだ。
暫く不快な足音を立てながら歩き、通知で指示された書架の通路へ入った時だった。
「・・・」
そこには、ユウが今、最も会いたくない人物が読書に耽っていた。
「・・・お、きたきた。やっほ~ユウ君」
なんでこの子が!?聞いてないぞ!!
ユウは眼球を忙しなく動かして通知履歴を確認する。
しかし、何度見ても少女と会う予定は記されていなかった。
履歴欄を閉じてもう1度彼女の顔を見る。
すると、自分を不幸に陥れ、愉快そうに笑う彼女の邪悪な笑みが重なって見えた。
昨日の出来事が鮮明に思い出された。
犯罪者はイレギュラーな行動を取りがちだと、どこかで聞いたことがある。
もしかすると、こいつは他人を玩具にするヤバい奴で、俺は目を付けられたのではないか。
ユウの脈拍が早くなり、脂汗が浮かび上がった。
「お~い、おはよ~ってば」
「どうしてここにいる!?まさか尾けたのか!?」
「会って第一声がそれ~?尾けてないよ、人聞き悪い。癪だけど通知に従っただけだよ」
「そんなはずは・・・俺の通知には君と会うなんてなかったぞ!」
「え、そうなの?最近よくバグるんだよね~」
ディスは頭を掻きながら、照れたように笑った。
「よくバグる?」
「うん。毎日通知を無視してたら、他人との通知と合わなくなっちゃってさ」
「毎日してる?」
「そうだよ。『朝ごはん食べろ』とか『学校へ行け』とか逐一届く通知は全部無視」
「そんなことしたら警告通知が届くんじゃ・・・」
「そう!逐一通知が届くようになって、鬱陶しいから非表示プラグインまで自作したんだよ。すごいでしょ」
胸を張るディスを見て、ユウはその態度にあきれつつも、胸を撫でおろしていた。
どうやら俺を玩具にしたい犯罪者予備軍というわけじゃなさそうだ。
それじゃあ次するべき事は決まっているな。
「まぁそんな事は置いといて・・・図書館に来たって事はあの本、読み終わったの?」
「・・・君のせいでね」
「君じゃなく、ディス」
「はいはい、それじゃあディス。君の通知はバグってて、俺の通知には君と会う予定は書かれていない。だから、これ以上のお話はなし。いいね?」
「なんで?」
「なんでって・・・通知に従わないと不幸になるからだ。親や教師から教えてもらってないのか?」
「知ってるよ。でも、ユウ君。今、不幸なの?」
「不幸だね。雨の日に外出なんて」
「いいじゃん、雨の日。私は好きだよ」
話を続けようとするディスを尻目に、ユウは通知に書かれた書架を向いて目当ての本を探し始めた。
「上から1、2、3・・・」
「んんん?」
「右から1、2、3・・・」
「もしかしてまた無視してる?」
ユウは、ディスの声を遮るようにわざとらしく冊数を数える。
ディスは通知通り動かず他人に不幸をまき散らす、ただの迷惑者だ。
少しでも反応してしまえば、俺まで不幸になる。
昨日はしくじったが、本来この手合いに合ったら無視するのが安定。
二の轍は踏まない!
「・・・・・12、13、あった」
「あ、その本!主人公が多重人格で犯人がその中の一人だったんやつだ!結構面白かったな~」
「・・・」
本の頭に手を掛けたまま固まるユウに新しい通知が届く。
『予測修正。書架番号:B1108c、ジャンル:ミステリー小説、上から6段、右から9冊目の本を借りなさい』
「え~と・・・4、5、6のこれかな?」
「その本は駄目。犯人が不倫相手の彼氏で、動機もありきたり。メロドラマばっかで面白くなかった」
『予測修正。書架番号:B1108c─────────』
「え~っと、その本は確か─────────」
「ディス」
「なに?」
「随分と、ミステリー小説に詳しいな」
「昔、よく読んでたからね」
ユウはディスの方に向き直ると、努めて柔らかな口調で彼女に要望を伝えた。
「そうなんだ。じゃあ一つだけ言わせてもらっていいかな?」
「なに?」
「ネタバレをやめてくれないか?」
「どうして?」
ユウの手は震えていたが、ディスは不思議そうな顔でユウの表情を見ていた。
「主人公と一緒に犯人を考える楽しみが無くなるだろ。犯人が誰かわかったら、それはミステリー小説じゃない。」
「少し過言だと思うけど、言いたい事は分かるよ。誰が犯人か考えるの楽しいよね」
「分かってるならやめてくれ」
「なんで?犯人が誰かわかってても面白いよ。犯人の動機にフォーカスした作品だって─────────」
「俺は!犯人が誰か!考えながら!読みたいの!」
ユウは声を荒げ、ディスを追い払おうとする。
しかし、ディスはその大声に委縮することは無く、ユウに試すような視線を向けた。
「・・・じゃあなんで通知はいいの?」
「は?」
「通知だって未来のネタバレだよね。それはいいの?」
「それとこれとは話が違うだろ!」
「違わない。一緒だよ」
ユウは自分の顔が熱くなっていくのを感じた。
脈拍はどんどんと早くなり、ディスの顔と通知欄とを目が忙しなく往復する。
「何が一緒だ!小説のネタバレは俺が損してるじゃないか!幸福な未来なら知ってた方が得だ!普通そうだろ!?」
「じゃあそもそも、その未来が幸福なのかってどうやって知るの?」
「見て分からないのか!?君のせいで俺は通知を守れてない!そのせいで結婚は破談になるし、本だって読めない!通知通りならこんな事になってない!」
「不幸じゃないから幸福だって事?それはなんてありえないよ」
ディスは書架から適当な一冊を手に取ると、パラパラとページをめくり始めた。
「どうしてそう言い切れるんだ」
「じゃあなんで今、私はユウ君に怒られてるの?通知通りに会いに来たから幸福なはずなのに、不思議だね」
「それはバグってるって─────────」
「簡単にバグるモノがちゃんと予測できるの?」
「・・・」
ディスは最後のページに目を通すと、退屈そうに溜息をついて丁寧に本を元の場所に戻す。
その後、また別の本を手に取ると、同じようにページをめくり始めた。
ユウはディスとの問答を繰り広げる内に、怒りや焦りよりも馬鹿馬鹿しい気持ちの方が強くなってきていた。
そもそもバグってるのは君が原因だろ。
それを棚に上げて通知を疑うなんてどうかしてる。
ちゃんと予測されるから、みんな信頼して利用してるんじゃないか。
それにAIは人間を害することができないようにプログラムされている。
だから、絶対に不幸な未来を通知しない。
そんな義務教育レベルの話すら知らないなんて話にならない。
ディスを頭の中で嘲笑することで、少し余裕ができたユウは、冷静に今の状況を分析し始めた。
さっきから通知が来ないのは、恐らく自分がイレギュラーな行動を取っているせいだろう。
自分は本を借りに来たわけで、言い争いをしに来たわけでは無い。
そもそもディスと会う予定なんて最初からなかった。
今でも遅くない無視しよう。
ユウは先ほどよりも熱心に本を読むディスに憐みの視線を送りつつ、口論から逃げるようにして書架に向き直った。
目の前に置かれている本の題名を黙読しながら待つこと数分、ユウの予想通りに新たな通知が届いた。
ユウは肩の力を抜き、急いで通知の内容に目を通した。
『ディスと会話を続けなさい』
「は?」
「どうしたの?」
「あ、いや・・・」
ユウは手で口を覆い、眉をひそめた。
借りる本の場所じゃない?
会話を続けろ?
なんで続けなきゃいけないんだ?
結婚の破談に小説のネタバレ、それに加えてさっきまでの口論だってある!
こいつと関わると碌な目に合わないっていうのになぜだ!?
ユウは先ほどのディスの発言を思い返す。
『簡単にバグるモノがちゃんと予測できるの?』
一瞬の逡巡の後、大きく首を振った。
俺の通知までバグったわけじゃないはずだ。
通知に従えば幸せになれる。信じろ!
ディスと会話を続けろ!
ユウは眉間の皺を伸ばしながら、ディスにもう一度向き直った。
「・・なんでディスはウィールの予測に疑問を持つんだ?」
「・・・急にどうしたの?」
「いや~、その、気になって」
ユウはぎこちない笑顔を浮かべ、ディスはその表情を横目で見ながら腕を組んだ。
「なんか釈然としないなぁ・・・」
「いいじゃないか。俺と会話したくて会いに来たんだろ?」
「・・・まぁいいよ。教えてあげる」
ディスは若干不服そうに唇を尖らせながら、とんでもない事を口にした。
「ちゃんと不幸になれないからだよ」
ユウは張り付いたぎこちない笑顔のまま激しい瞬きを繰り返した。
「通知を破れば不幸になれるはずなのに、不幸になれないときがあるんだもん。そりゃ予測に疑問を持つようになるよ」
「・・・不幸になりたいのか?どういうことだ?一体全体何故?」
「話せば長くなるんだけどね・・・」
困惑するユウを見たディスは、昨日の見せた様な愉快な表情を浮かべて軽快に話し始めた。
「昔、私がまだ小学生だった頃の話になるんだけど
私の両親って仕事大好き人間でね。通知に従って、家にまで仕事を持って帰ってきて、朝から晩まで笑顔で働くような人たちだったんだ。
だから、二人とも家を空けがちでね。小学生までの私は両親に全然かまってもらえなかった。
でも、その頃の私は通知に従うのが正しいと思ってたから、両親のその行動に疑問は持たなかったし、かく言う私もウィールが選んでくれる小説ばかり読んでた。
実際、選んでくれた物語はどれも面白くて、友達と遊べない日や両親がいない時間に退屈することは無かった。
で、もうすぐ中学生になるかって時に、何を思ったか通知を破って両親の仕事場まで行ったんだ。
行き道は、それはひどかったよ。
どんな不幸が待っているか分からない。私の行動で誰かが不幸になる。私自身が不幸になる。
そんなことを何度も反芻して気分が悪くなるし、届く通知は『引き返せ』ばかりで手伝ってくれない。
道行く大人に縋って話しかけても、みんな困惑して謝るか、無視するかで全く頼れない。
小学生の私は今にも泣きそうだったわけで、その場で引き返せばよかったんだけどね。
でも、不思議と帰ろうとは考えなくて、必死に地図アプリを開いて職場へ向かったんだ。
なんとか職場について両親の顔を見た瞬間、安心して、もう笑っちゃうぐらい号泣したよ。
泣きじゃくる私に二人とも困ってたけど、私にとってあの時間はとても幸せな時間だった・・・」
ディスは懐かしそうに微笑み、どこか遠くを見つめていた。
「それで思ったんだ。通知を破れば、確かに不幸になるけど、本当の幸せって不幸の先にしかないんじゃないかって。
それからはちゃんと不幸になりたくて、毎日通知とは違う事をしてみた。
たくさんの人から怒られたし、通知は警告一色になってずっとうるさかった。
でも、これで本当の幸せに巡り合えると思ったら、そんな事はどうでもよくて、何度も何度も通知を破った。
それで中学も卒業って頃に気づくわけ。
通知を破ったところで、確実に不幸になれるわけじゃなかった。
不幸じゃなくて別の幸せに巡り合う事だってあったし、幸福も不幸も感じない事だってあった。
そして1つの疑問が思い浮かんだ。
『それならこの通知に書かれてることって何なの?』って・・・
これが私がウィールの予測に疑問を持つ理由だよ」
真剣な表情でディスの昔話に耳を傾けていたユウは、少しの間、視線を上げて思案した。
「怒られることは不幸だって言ってなかったか」
「言ってないよ。私はただ『ユウ君に怒られてる』って言っただけ」
「それでも怒られるの普通に嫌だろ」
「愛のある説教はある意味幸せな事だよ?」
ディスは屁理屈を捏ねながら、得意げな顔をユウに向けた。
ユウはその表情に呆れつつ、今度は視線を落とし、考えを巡らせる。
ディスの考えは明らかに間違っている。
本当の幸せが不幸の先にしかないのなら、どうして人類は技術を発展させるのか。
自転車も眼球内デバイスも電車、レンジ、カメラ。全て人々の生活を豊かにしている。
新しい技術は全て、人々から苦痛を取り除き、世界を幸せにするために生まれるはずだ。
しかし、彼女の考えが正しいとすると、その行いは巡り巡って人を不幸にする。
人類は幸福になりたくて、不幸な未来に邁進しているという話になる。
そんな馬鹿な話ないだろう。
少し考えれば、自分が幸か不幸か、その原因は何かぐらい分かるだろう。
・・・いや、今の自分はどうだ。
通知通りに話を続けている自分は今、幸福に向かっているはずだ。
だが、それを実感しては・・・
ユウが1人で悶々と議論を深めていると、ディスは本を1冊脇に抱え、ユウを背にして歩き出した。
遠のく足音に気づいたユウは、慌ててディスを呼び止める。
「お、おい。どこいくんだよ」
「流石に立ちっぱなしは足が疲れるよ。座らない?」
ディスは奥の読書スペースを指さした。
その表情は愉快そうではあったが、痛そうに足をさすっている。
かく言うユウも立ちっぱなしで足が棒のようになっていた。
「・・・そうだな。とりあえず座ろう」
「それじゃあ次はこっちの番だからね。昨日からずっと聞きたい事があったんだから・・・」
ユウはディスの後ろに続きながら、左下の通知を確認する。
新しい通知はまだ届いていなかった。