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 シャーデーがドアノブをひねると、明るい我が家が彼女を出迎えた。


「ただいま・・・」


 いつもの様に帰宅を告げても、返事を返す者はいない。

 分かり切っていても、長年の癖は抜けてはくれなかった。


 明るく照らされた廊下を進み、リビングに入ると我が子同然の植物達が彼女を出迎えた。

 しかし、彼女のかける声には元気が無く、荷物を置くと早々に椅子に腰かけた。

 疲れた様に溜息をつき、静かな室内を見渡す。


 本当に広くなるものね・・・


『ベランダに出していた観葉植物を室内に戻し、以下の種類に給水、施肥、剪定を実施しなさい。1.フィロデンドロン 2.アンスリウム 3.─────────』


 シャーデーは、ウィールから届いた通知を見ながら独り言ちる。


「こんな時でも・・・」


 彼女は悪態をつきたくなる気持ちをぐっとこらえ、指示通りに植物の世話に取り掛かる。

 彼らは彼女無しでは生きられない。管理を怠れば、たちまち枯れてしまう。

 シャーデーはそれを理解していた。だからこそ、どんな日でも欠かさずに世話を続けてきた。


「少し減らそうかしら・・・」


 思わず口をついて出た言葉に植物達は何の反応も示さない。

 シャーデーに寄り添うこと無く、彼らは変わらず青く瑞々しい葉をつけている。


 伸びすぎかしら・・・?


 虚ろな目をした彼女は剪定鋏を手に取り、幹に刃を立てる。

 それでも彼らは何も言わない。次第に指先に力が入り、刃が幹に食い込み始めた。


 その時、突然インターホンが鳴った。


 自分のしている事に気づいたシャーデーは、戸惑いながら鋏を引っ込めた。

 そして傷ついた植物を気にかけるわけでもなく、慌てて通知の履歴を遡る。


 特に来客の予定は無かったはずだけど・・・


『来客対応をしなさい』


 暗かった廊下に明かりが灯る。

 彼女は植物の手入れも中途半端に、新着通知に促されるまま玄関へと向かった。



 何も考えずにドアノブに手をかけようとしたシャーデーの手が止まる。


「どなたかしら?」


 シャーデーは用心深く、再度通知履歴を確認する。

 しかし、何度見ても新着通知は来ていない。


「お久しぶりです、ユウです」


 シャーデーはドアから一歩遠ざかり、新着通知が届くのを静かに待った。

 だが、どれだけ待っても通知が届くことは無かった。


「あの・・・シャーデーさん? まだそこにいますか?」


 ユウの声にシャーデーの心臓は跳ね上がる。

 ノック音が聞こえ、なおも届かない通知に、彼女の脳裏にはあの日の過ちが過っていた。


「ご、ごめんなさい。もう通知に無いことは・・・あなた達とはお会いしたくないの。ごめんなさい。ごめんなさいね・・・」


 思わず漏れ出た声には、罪悪感が滲んでいた。

 それを感じ取ったのか、ドアの向こうにいるユウは何も言わなくなった。


 もういいでしょ・・・?

 もう十分、対応したでしょ・・・?


 シャーデーの表情は徐々に沈み込み始め、彼女は立ち尽くしたまま通知アプリを凝視した。

 その許しを請う眼差しは、悲哀に満ちていた。


「フロイデ先輩からシャーデーさん宛にお預かりしているものがあります。直接お渡しするように言われてるので、ドアを開けてもらえませんか?」

「・・・え?」


 シャーデーは顔を上げざるを得なかった。


「・・・それは何かしら?」

「説明は・・・難しいです。ただ、直接お渡ししなければいけないものとだけ」


 彼女はドアノブと通知アプリを交互に見た。


 ドアを開けさせようとしているように感じる。

 言い方に違和感もある。

 それなのに、ウィールは何も言ってくれないのは何故?


 応答の無いアプリを見ながら、シャーデーはドアに引き寄せられていく。

 一歩、また一歩踏み出す足は、全くの無意識であった。


『来客対応』なんて曖昧な指示、どこまですればいいの!?

 もう不幸になるのも、不幸にするのも嫌なの!!

 どうすればいいか、早く─────────


「今回は都合が悪そうなので、また近いうちに伺わせていただきますね!」


 ドア向こうから大きな声が聞こえ、シャーデーは身をすくめた。

 咄嗟にドアノブに手が伸び、喉の奥から込み上げる声を絞り出す。


「・・・っと待って」


 力を入れて、ドアを開けようとする。

 しかし、扉はとても重く、僅かな隙間を開けるので精一杯だった。


「あの人があなたに預けたものを見せてちょうだい」


 目の前の青年は少し驚いた後、哀傷の表情をシャーデーに向けた。



 唇を噛みながら、ユウはポケットから紙片を取り出した。

 白紙の面をシャーデーの方に向け、静かに差し出した。


 シャーデーは怪訝そうに、ユウの顔と紙片を交互に見る。

 説明を請う視線を投げてみたが返答はなかった。


 彼女は不気味に感じつつも、恐る恐る差し出された紙片に手を伸ばした。

 そして今にもシャーデーの指が紙片に触れそうになったその瞬間、ユウは落ち着いた声音で警告した。



「受け取る前に、プラグインをつけてください」


 シャーデーは手を少し引き、その警告の意図を目で訴えた。


「これに触れると大量の警告文が届くからです」


 シャーデーは伸ばした手を慌てて引っ込める。


「それは・・・本当に主人の物なの・・・?」

「はい。先輩が自室の機械を使って作られたものです」


 シャーデーは伸ばした方の手を庇う様に、もう片方の手でさすりながら、ユウに疑いの目を向けた。

 ユウは視線に動揺せず、甘んじて受け入れながら、シャーデーの手を見ていた。


「・・・なんで主人はそんな不気味な物を?」

「まずはプラグインを起動して、受け取ってもらえませんか?」

「主人の物だとわかったら受け取ります」


 受け取る素振りを見せないシャーデーに、ユウは黙考した。


 シャーデーさんがどんな通知を受け取っているか分からない以上、いつ締め出されてもおかしくないはずだ。

 そしてそれは、これを受け渡してからも同じだとすると、やっぱりどうしても・・・


 黙り込むユウに、シャーデーは疑心を募らせていた。

 そのせいか彼女の視線は無意識に、紙片にも、ユウにも向かわず、ただこの会話を終わらせるための通知が来ることだけに注がれていた。


「ごめんなさい」


 ユウが小さくそう呟いた瞬間。

 彼は素早く腕を伸ばし、シャーデーの手を掴むと、強引に紙片を握り込ませた。


「それは、これが先輩の未練だからです」


 突然視界を埋め尽くす警告文にシャーデーは小さく悲鳴を上げる。

 紙片を握った手からは顔を背け、力なく崩れ落ちそうになる。


「落ち着いて。プラグインをつけて、深呼吸してください」


 ユウは呼吸の浅くなったシャーデーを支え、彼女はなんとか壁に手を突き、踏みとどまった。

 そして言われるがままにプラグインを起動し、息も絶え絶えに問いただす。


「これは・・・これはいったい何なの・・・? 未練って何・・・?」

「それは本の一部。恐らく日記になるはずだったものです」


 シャーデーは苦しそうに俯いたまま、眉間に皺を寄せる。


「日記・・・?」


 彼女は息を整えながら、発言の意図をくみ取ろうと必死に頭を動かす。

 必死に酸素を肺に入れ、血流を伝って、酸欠の脳に送り込む。

 しかし、全く理解できず、空の色が橙から黒に移り変わろうととしていた。


「先輩は昔、何かとても重要な選択をウィールに任せて、自分の意思で選ばなかった。その事を大変後悔していました」

「後悔・・・?」

「はい。恐らくお子さんの事だと思います」


 顔を上げるシャーデーを、点灯した渡り廊下の照明が青白く照らし出す。


「なんで・・・二人であれだけたくさん話し合ったじゃない・・・? それにどうして日記なのよ・・・?」


 ユウはシャーデーの状態をつぶさに確認する。


 先程と比べて息は整いつつある。

 思考もはっきりしており、当然の疑問を抱いている。

 しかし、頑なに紙片を見ようとしない。


 視界から得られる情報は思考になる前に加味され、彼は慎重に言葉を選んで話始める。


「シャーデーさん。写真を撮られたりするのはお嫌いですか?」

「ええ、好きではないけれど・・・」


 シャーデーは眉を顰め、陰になったユウの顔を覗き見る。


「それじゃあ、何か一緒に作ったものは?」

「料理ならあるけれど・・・さっきから言ってる意味が・・・」

「先輩は欲しかったんだと思います。2人だけの思い出が」


 ユウはシャーデーの手の中の物に視線を移す。

 しかし、シャーデーはそれに気づいていながら、視線の先を追うことはしなかった。


「思い出なら沢山あるわ。映画館に植物園。どこに行って何をしたのか、ちゃんと思い出せる。フロイデはそんな事のために─────────」

「それは手に触れられなかった」


 話を遮ったユウは徐に後ろを振り返り、空を見上げた。


「形のない記憶は無かったものまで思い出してしまう」


 ユウは眩しそうに、そこから見えないはずの夕日を幻視していた。


「先輩の病気、調べさせてもらいました。どうやら記憶障害を引き起こす事もあるみたいですね」


 ユウはシャーデーに向き直る。

 彼女は頑なに手で紙片を握りしめたまま、焦っていた。


「ええ・・・お医者様が言うには、ウィールの補助があったって。誰も気づけなかったのは、そのせいだって聞いてるわ。でも、それが子供とどう関係があるの?」


 口調は少しだけ早く、時折、どこを見ているのか分からない焦点の合わない視線。

 先の見えない話と、それでも知りたいという欲求の板挟みに、年老いた彼女の精神は少しずつ擦り減らされていた。


「子供という存在は、ある意味で形ある記憶なんです。つい先日、実家に帰省する機会があったのですが、母が家族アルバムを見ながら私が幼かった頃の話をするんです。写真が手元にあったこともありますが、母が昔話に花を咲かせたのは、ひとえに私がそこに居たからではないかと思うんです」


 ユウは自身の胸に手を当てた後、次に自身の頭を指さした。


「正直、写真を見ただけで思い出される記憶って朧気なんですよ。そんな事あったっけ? この時、何考えてたんだ? って。でも、写真と一緒に本人が目の前にいたなら。それが形ある記憶なら、普段は忘れているようなことも思い出せる・・・」


 手をひらひらと振りながら、彼はシャーデーの足元に視線を落とす。


「しかし、お二人には子供がいなかった。あやふやになっていく記憶と過去を思い出す手がかりの乏しい現実に先輩は、怖くなった」


 そこでシャーデーは静かに息を漏らした。

 握った手からは次第に力が抜け、ゆっくりと降ろされていく。


 別に電子媒体の日記でもいいじゃない・・・なんて言うのは、私の我儘よね。

 私がフロイデを追い詰めた。


 シャーデーは俯き、顔は青ざめていく。


 あの時の話し合いも、フロイデが引いてくれたから話がまとまっただけだったのかも。

 だって多数決じゃあ、私とウィールで、こっちの方が多いじゃない?

 そんなの私だって、誰だって意見を引っ込めるわよね。


 視界は歪み、平衡感覚さえ失いそうになる。


 考えていなかったわけじゃないけれど・・・

 全部話してくれないのも納得でき─────────


「妻が1人になってしまうと」


 その意外な真実に、シャーデーは顔を上げた。


「形ある記憶としての自分が消えかけていると認識した先輩は、1人この世界に残していく妻の事を考えた。子供もおらず、思い出す手がかりも少ない、過去は消え、自分が誰なのかも分からなくなる。そんな恐ろしい世界を孤独に生きて行かなければいけないなんて、そんな事あってはならない。2人が共にいた時間を形に残さないと。そうして作られた1欠片がそれです」


 ユウはシャーデーの握った手を指さし、開くように促した。

 シャーデーは少し迷った末、自身の握った手をゆっくりと開く。


 恐れも落胆も後回しにして、彼女は知りたかった。

 ユウの言った事の真偽を、今は話す事さえ叶わない夫の真意を。


<あなたと居れて幸せだった>


 線は寄れ、大きさも疎らなひどく汚い文字。

 書き損じたと思われる黒塗りが、いくつもあるそれを見ながら、シャーデーは淡々とユウに問いかける。


「じゃあなぜ、フロイデは私に何も話してくれなかったの?」

「病状を明かさなかったのは、あなたに余計な心配を掛けたくなかったから。それを作るのを黙っていたのは、あまりよくない方法で材料を集めていたからで、あなたを巻き込みたくなかった。観葉植物だって、紙の材料にできたはずなのにそれもしなかった。全てはシャーデーさんを思っての行動です」

「根拠がないわ」


 ユウはたじろがなかった。

 それは、これまでの推論を展開する上で何よりぶれない主軸であったからだ。


「シャーデーさん、初めて会ったイレギュラーに驚かれてましたよね?」

「えぇ」

「衝動的な先輩が妻の前では一度もイレギュラーを起こしていない。これだけで、先輩があなたの幸福を最優先にしていたかわかりますよ」


 シャーデーはユウの言葉を聞きながら、静かに紙片に目を落とす。

 指で不均一なインクの凹凸と質の悪い紙面をなぞりながら、奏でられた音の中に思いに耳を傾ける。

 やけに大きく感じるその音を聞きながら、斑点の様になっている黒塗りの経緯を考え、彼女は頬を綻ばせた。


「昔ね。一緒に観葉植物を育てようとした事があるの」


 ユウは緊張した面持ちで、シャーデーの話を静かに聞いた。


「ちょうど子供を産まないって決めた後だったわ。ウィールがそうするべきだって言うから、言われるがままに育て始めたんだけど、何故か上手くいかなくてね。フロイデったらすぐに枯らしちゃうのよ」


 シャーデーは懐かしそうに目を細め、黒塗りの隙間から消された文章に思いを馳せる。


「「通知通りにしてたら枯れないはずなのに!」「どうして守らないの!?」って私が怒って、フロイデは「水も肥料も多いに越したことないだろ!」「ウィールの予想なんて裏切って、大きく育てるんだ!」って言い返してね。何度も枯らすものだから、最後には、自分は植物は向いてないって言って、辞めちゃったのよ」


 苦笑するシャーデーは紙片を優しく手で包み込み、ユウの方に顔を向けた。

 彼女の目には溢れんばかりの涙が溜まっていた。


「喧嘩なんてあれ一度きりだったけど、あの時、私が諦めずに声をかけてたらこんなことにならなかったのかしらね?」


 そう言って彼女は大粒の涙を流しながら、包み込んだ紙片を胸に抱えて膝を折った。

 ユウは心臓が締め付けられる感覚を覚える。


 言うべき言葉があった。考えてきた言葉があった。

 しかし、静かに泣くシャーデーを目前に、声が喉の奥から出てこない。


 まったく、メルツはすごい・・・

 こんな怖い事、1人じゃ無理だったよ・・・


 思い通りにならない体に、不思議と焦りは無かった。憤りは無かった。

 ユウは友人に対する深い尊敬の念を胸に抱き、ゆっくり大きく深呼吸をする。

 三度の呼吸の後、彼は小さく独り言を呟いた。


「これで終わりなんて納得出来ない」


 彼はしゃがみこみ、シャーデーの手を握った。

 不自然に揺れる呼吸と大きな心臓の音を認識する余裕を持ちながら、ユウはシャーデーに宣誓する。


「俺が作ります」

「・・・え?」

「俺が白紙の本を作って2人にお渡します。それが俺が唯一出来る()()()ですから」


 だが、シャーデーも理解していた。

 自分達では変えられない今がある事を。


「でももうフロイデは・・・」


 明るい未来は、もう来ない。

 そう言いたげなシャーデーの絶望した目を、ユウは真っ直ぐと見据えた。

 少し前の自分の目を見ているような気がして、握る手に僅かに力が入る。


「これは可能性の話ですが─────────」


 その提案に確証は何も無かった。

 今を過去に、過去を変え、未来を思い描く。

 そんな夢の様な理想を、彼は目に希望を湛えて語って見せた。



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