第一話「死因はタコサラダ」
薬丸小丸は、自宅のトイレにこもりきりだった。
夜勤明けの帰り道、いつものスーパーで買ったタコサラダ。半額シールに目がくらんで手に取ったが、それが運の尽きだったようだ。
食べた直後から腹痛に襲われ、めまいと吐き気が止まらない。
小丸はしばらく我慢すれば治るだろうと思っていたのだが、まるで呪いのように症状は悪化の一途。ついには会社を休み続け、ズルズルと四日が経っていた。
──別にいいって。お前が居なくても、ウチはやっていけるからね。
電話越しに吐きかけられた暴言を思い返す。
この繫忙期に休み続けた小丸に、工場長は完全にお冠だった。
「クソッ、弱小下町ブラック工場め……」
そもそも小丸がこの地元工場で働き始めたのは、単に家を出て一人暮らしをしたかったからだった。名付け親である父はバリバリの営業マンで「覚えの良い名前にしよう!」と張り切っていたが、当の本人はずっとその名前を嫌っていた。
こんな小さな軋轢が重なり続け、遂には決別に至ったのだ。
そして、ひとりで気楽に生きたいと思った矢先が──これだ。
三日間、ほとんど水しか口にしていない。
汗を顔から垂れ流し、狭いトイレの床にうずくまる。
スマホの画面を見つめながら、救急車を呼ぶかどうか幾度となく迷っていた。
――お前が居なくても、ウチはやっていけるからね。
──薬丸くんって、名前以外の印象ないよね。
──二度と帰ってくるな、不孝息子など居ないの同じだ!
あまりに酷い走馬灯に、小丸は苦笑した。
スマホを握り締めた手から力が抜けるのを感じる。いつでも助けを呼べるが、呼んでしまったら家族に連絡が行き、嫌でもまた顔を合わせることになる。
「……このままでいい。このまま……」
声に出した瞬間、虚しさがこみ上げる。
これまで大したことも成し遂げず、何も誇れない人生。
(死んだらどうなる?)
友達と呼べる相手もおらず、会社の同僚とも最低限の会話しかしてこなかった。もし今ここで死んでも、葬式に来るのは両親ぐらいのものだろう。
いや、そもそも葬式さえやってもらえるのか──。
小丸は自嘲気味にスマホを放り投げる。
角度が悪かったのか、壁に当たってバキリと嫌な音がした。
だが、その音を気にする余裕もない。ゆらりと意識が遠のき──暗転。
*
「眼鏡……眼鏡……」
そんな間の抜けた声で、小丸は再び目覚めた。
トイレの固い床に這いつくばっていたはずが、光に包まれた不思議な空間に立っていた。足元にはふわふわとした雲のような地面が再現なく広がっている。
辺りを見渡して、小丸は妙に納得する感じがあった。
つまるところ、自分は死に、天国だか極楽だか、あるいは単にあの世と呼ぶべきなのかもしれないが、とにかく現世ではないところに居るのだ。
不思議とパニックにならないが、この空間の気配がそうさせているのか。
だが、声の主──神々しい出で立ちの女性を見た小丸は、多いに困惑した。
彼女が翼の生えた、光の輪を背負う女神であったからではない。
頭の上に眼鏡を乗せたまま、それを必死に探し続けていたからだ。
「……あ、あった! 良かった、よかったですわ」
(さすがにウケ狙いだろ……? 昭和のギャグマンガかよ……)
その女神らしき女性は小丸が見つめる前で、頭の上にあった眼鏡をそっとかけなおした。それから少しバツの悪そうな笑みを浮かべ、大きく手を広げる。
「ようこそ、天界へ。私はゲーチア。ありとあらゆる世界の魂の管理を、大いなる我らの父……創造神さまから任されている女神! ですわ……!」
バッとフラッシュがたかれ、彼女の背中からは眩い光が溢れ出す。
これがリアルの後光というものだろうか。
とはいえ、先の失態のせいもあり、威厳や神秘性はまるで感じられない。
「女神、女神……うん……」
さっきから女神様の腕がプルプルとしている。
あの腕を広げたポーズ、意外とキツいのかもしれない。
「その、女神さま。……俺ぇ……えっと私は死んだのでしょうか?」
「その通り! トイレで出すもの出し切って死にましたわ!」
「うわ、声でか」
ゲーチアは「失敬」と咳払いをすると、虚空から大きな巻物を取り出した。
古代のパピルスのようなスクロールには、金色に輝く文字が踊っている。
……のだが、本人はその文字を読み取るのに苦労しているようだ。
巻物を顔から遠ざけてみたり、近づけてみたり。
(……女神でも老眼になるのか?)
「……な、神に対して失礼ですわね!」
(すみません。でも、どうか思考を読まないでください)
女神はもう一度、咳払いをして胸を張った。
豊満な胸が弾むが、驚くほど性的魅力を感じない。
おそらく神々しさが原因ではなく、滲み出る残念さから──。
「コホン。女神として告げます。どうか貴方には勇者となってもらい、私が管理する世界のひとつ『アルミニウム』を魔王軍の脅威から救っていただきますわ」
「元素番号13……?」
「──『アルミティアル』でしたわ! すみません、管理数が多すぎて……」
「……っすか。天界は女神の労働環境を見直すべきでしょうね」
小丸は、だんだんと不安になってきた。
こんな女神があらゆる魂を司っていると?
いやいや、これでいて、きっと仕事はできるのだろう。
頭を振って考えを切り替える。そう信じたかった。
人間を超える上位存在が、まさかこんな奴だと思いたくなかったのだ。
「……ともかく! 貴方をアルミティアルに勇者として転生させますわ!」
「理由を聞いても?」
「アルミティアルに現れた魔王軍は、人類を滅ぼすという目標を掲げ、日夜殺戮を繰り返しているのです。これでは世界の魂の数の均衡がぶっ壊れ……」
「あっ、いや、私が勇者に選ばれた理由のほうです」
「魂の『型』が合う人の中で、最もストレス耐性が高かったからですわね」
小丸は眉をひそめ、微妙な顔をした。
褒められたのか、貶されたのか分からなかったからだ。
「あの……」
「質問はそこまで。もう、時間が無いのですわ! 死んだ人々の魂の数は、管理総量が定まってまして、魔王軍がこれより暴れるとオーバーフローが……」
彼女の視線は右往左往し、どうも本当に焦っているらしい。
ゲーチアは何もない空間の中から、慌ただしく巻物を探り出す。
「おお! ありました、ありましたわ!」
女神は巻物を指さすが早いか、小丸の正面に突きつける。
「勇者候補者リストの……薬丸小丸。そこに『転生期限:リタウス歴902年、6月8日』と……。あ、あれ? これ十万年くらい過ぎてませんの……?」
「……は?」
とんでもない単語が聞こえた気がする。
転生の期限が……十万年前?
「えっと、意味が分からない。十万年?」
「えっと。天界は時間の流れが現世とは違うのだけれど……」
ゲーチアは曖昧に笑い、巻物をぐしゃぐしゃに畳んだ。
「……これはきっと何かの間違いですわね! 大丈夫、大丈夫……。では改めて、あなたをアルミティアルに送りましょう。はい、いいですね? ね?」
「あの……すごい大丈夫じゃなさそうなんですが」
「気のせい、気のせい! では準備を──」
ガシャリ、と雲の底から機械のような音が鳴った。
見ると、女神の背後に水晶の大きな門が出現していた。
そこからゴウンゴウンと歯車が噛み合うように光の輪がうごめいている。幻想的な見た目でありながら、旧式のエレベーターが稼働するような騒々しさだった。
「ここを通ればアルミティアルへ転生できます! さ、さ、急ぎましょう!」
「ちょ、ちょっと、一度冷静になって確認しましょう? ねえ女神?」
「アルミティアルのすべての人々が、貴方という救世主を待っていますわ!」
ゴォ、と突風が吹き、体がゲートの向こうへと吸い込まれる。
小丸はその枠にしがみついて抵抗を意思を示した。
「行ってらっしゃいですわーーッ!」
ゲーチアがローブの裾を持ち、ふわりとジャンプする。
両足をそろえた、見事なゴッデス・ドロップキックが炸裂した。
「女神ィーーーッ!」