第九話「サインしましょうか」
馴染みの「ノース・ノワール」の店を出て、高い摩天楼の下を歩み出す。
朝から飲み続け、夜風が肌に染みる頃合いに、宴会はようやく終わった。
ウロボロス社の上役、アルフレッド・ハーケンフォード。
彼を無事に懐柔し、停戦交渉に成功したことを祝しての宴会だった。
「あ゛ー。飲んだ飲んだ……」
ギドーがふらつきながら、満足気に呟く。
「ミエーフ人の肝臓が強いというのは、迷信ではなかったらしい」
マルクは歯噛みしながら、眉をひそめて言った。
頭痛がしていた。少しばかり、調子に乗って飲みすぎたかもしれない。
いや──。
飲みすぎたといえば、それはエルニアのことだ。
「んにゃ~、無礼講とかぁ言ってるけど、君はデフォで無礼すぎるのよぉ」
エルニアはマルクの肩に頭を乗せて、まだ説教を続けていた。
このエルフは、酒に弱いくせに、酒が大好きな問題児だ。
「……おい、頼むからよだれを垂らすな。10万歳越えの大人だろ」
「うるへぇ~! いっつも誰が仕事取ってきてやってると……うにゃ……」
ふにゃりとエルニアが座り込みそうになり、マルクが慌てて支える。
「あちゃー、お婆ちゃん完全にブッ潰れてるねェ……」
ギドーが笑いながら言う。マルクは溜め息をついた。
「帰ってソファに棄てたら静かになる。それよりギドー、一人で帰れるのか?」
「なに? 酔っぱらったボクも連れ込んで、3P狙ってる?」
マルクは無詠唱のまま、極小のライトニングの魔法を放った。
ギドーの小ぶりな尻のあたりで、パチリと静電気が弾ける。
「痛ッ」
「酔いは覚めたな? さっさと帰れ」
ぐるると獣っぽい唸りをあげ、ギドーはおもむろに帰路につき始めた。
ある程度、彼女の背中を見送ると、マルクは誰に言うでもなく呟いた。
「──前世より、よっぽど楽しい飲みだったかな」
*
エルグラスタ──。
“トップ”と“アンダー”、二つのレイヤーからなるこの街は、その都市構造が象徴するように、ありとあらゆる格差、階級、階層が混在するカオスの檻である。
マルクは帰路の傍ら、都市を支配するメガ・コーポたちのビルを見上げた。
あれがこの街の頂点。全てを支配する、王たちの玉座。
傭兵としてのキャリアを考える以上、彼らからもたらされる「コーポ案件」の依頼は無視できない。もしメガ・コーポと専属契約の傭兵にでもなれれば……。
高額の報酬に、安定した生活。無償で支給される最新鋭の装備。
その代償として、今ほどの自由の行使は困難になるだろう。
専属傭兵の多くは、企業のPRキャラとして扱われる運命にあるからだ。
例えば──。
ちらりと、魔導プロジェクターがビルに投げかける広告を横目に見た。
黒髪ロングストレートの美人が、刀を手に凛と構えている。
──イオリク・フリュー。
ローデストン医薬学術財団の専属傭兵にして、同社のイメージキャラ。
“見られること”を意識したような体の鍛え方で、しなやかな手足には力強い筋肉の質感が、女性的な肉体の曲線美の中に包容されている。
不敵に微笑む顔の有り様は整っており、意思の強さを感じさせる両目が光る。
彼女はどこか、武士だとか、侍だとかを意識させるような装いをしていた。
マルクはぼんやり「興味深いな」と考え込む。
以前にエルニアから聞いた話だが、イオリクのコスチュームは、彼女の故郷──このエルグラスタから遠い東の国──の民族衣装を模したものだという。
それが本当なのであれば、この世界においても、極東の国には和風の文化が定着しているということになる。世界が違うというのに、収斂進化というヤツか。
もしかすると、気候や歴史なんかが、日本と似ているのかもしれないな──。
「あの広告の傭兵さん、お好きなんですか?」
「んあ? ああ、キレイな人だと思うけど、そうじゃなくて……」
ふいの声に、思わず考えのままを喋りそうになり、止める。
振り向いて声の主と対面したマルクの思考は、そのまま停止した。
夜風に溶けるようになびく漆黒の髪、うっすら光る澄んだ瞳。
腰に佩いた長短二振りの刀と、雪を被ったような模様入りの袴。
「……イオリク・フリュー……さん……?」
あまりの出来事に「さん」が小声になって、情けなく消滅する。
「ふふ、気楽にイオリクって呼んでください。サインしましょうか?」
「えっ……あっ……いやっ……」
脳がうまく機能しない。アルコールのせいもあるだろうが。
マルクは大いに混乱した。何だ、いったい何が起きている?
*
翌朝、マルクはいつもより一時間早く起きた。
「オ゛ェ゛ェ゛ェ゛ェ゛ェ゛………」
バケツに頭を突っ込んだまま意識を失っている老齢エルフを跨ぎ越して、傷んだジャケットを羽織り、鏡の前ではねた髪の毛を整える。
すべての身支度を終えてガレージを出ると、そう遠くない場所に“彼女”は居た。
「……待たせたかな」
「いえいえ、いま来たばかりですよ」
「そうか。じゃあ……行こうか」
「はい。エスコート、お願いしますね」
気品の良い所作でお辞儀して、イオリクはマルクに微笑んだ。
そうして、二人は“昨夜の約束”の通りに、街へと繰り出したのだった。