.1 拡張子
拡張子。脳科学を専攻する絹川昴教授が提唱した新たな脳機能の呼称であり、同時に、それを有する人を指す。脳波の変化により特異な力を発現する現象が確認されているが、その力には個人差があり、全貌は未だに解明されていない。
彼らの存在は不可解で希少だが、そこに偽りはなく、確かであった。
二十一世紀中期。若い世代は将来への自由を渇望し、多岐に渡る夢を追う時代。暦では春の只中にあり、新生活が目前に迫るこの時期の日本国内は青くも活気付いていた。だが、依然として寒さが未練がましく残っており、往来する人々の格好は厚着が目立つ。
「待てッ!」
「……クソ、ついてねぇ! 何で見つかるんだよ!」
都内にある、外れた通り。普段であれば比較的に人や車が少ない場所だが、この時期だけは桜並木により一時だけ華やかさを見せていた。しかし、そんな隠れた名所と言わんばかりの夜桜を前に、不躾な喧騒が来賓してしまう。
大の男達は荒い息遣いで狭い路地を蹴り、騒がしい足音と共に駆け抜ける。追う者と追われる者。それが両者の関係であったのだ。
「しつけぇんだよ、一々! そこで踊ってろ!」
だが、その関係も長くは続かない。前を行く不審な男は追っ手を振り払うため、道端にあったゴミ箱を蹴倒して時間稼ぎを弄した。鉄籠から飛び散る空き缶と、街灯の光と共に反射する金属音。それらは互いを小突き合いながら路地を埋め尽くす。
後ろを走っていた男の体格はクマやゴリラと揶揄したくなる程の大柄。ふたりも並べない道幅に大は小を兼ねてはくれず、大柄な男は忽ちにして足の踏み場と速さを失った。
「――――よし」
姑息な策が嵌まったことを確認すると、不審な男は桜並木の通りに飛び出した。そして、背にある桜の奥を見据え、一目散に桜並木の中を突っ切っていく。芝生を捲るように踏み荒らす不審な男。彼は先にある金網のフェンスをよじ登ると、土の付いた靴底でアスファルトに降り立った。
「しまったッ⁉ 車か!」
無料の駐車場と、その奥で駐まっている一台の黒いワンボックス。追走していた大柄な男も桜並木の通りに出たことで、不審な男の思惑が見えてきた。逃がしはしない。彼は逃走を阻止するべく全力疾走すると、花弁を巻き込みながら金網のフェンスを軽々と飛び越えていく。しかし、視界に映る彼我の距離は相応にあり、持ち前の体力を以てしても大柄な男には厳しく思えてしまう。足止めされたことが思いの外響いていたのだ。
「間に合わん……!」
【大丈夫、そのまま追い掛けて】
大柄な男が焦りを見せた時、突然、頭の中で少女の声が聞こえる。普通なら有り得ない状況。しかし、大柄な男は驚きもせず、当たり前のように心中で返事をした。そして、少女の声からお墨付きを得たことにより、冷静且つ全力で走り出していく。その見た目に違わず、圧倒的なフィジカルを見せた大柄の男。力強く、瞬間的な一歩の連続は加速度的に彼我の距離を詰めていく。
しかしながら、人の脚が出力できる速度には限界がある。五〇メートル近くあった差は縮まりきらず、不審な男が黒いワンボックスに辿り着いてしまった。
「EXTと言えど、肝心の拡張子がいないとなぁ!」
不審な男は勝利を確信すると、追っていた大柄な男に捨て台詞を吐く。後は逃げるだけ。彼は運転席側に回り込んでワンボックスのドアハンドルに指を掛けると、ドアを開いて乗り込もうとした。
その時である。
一方的に与えられた衝撃と、伴う痛み。刹那は、スローモーションに映る暇さえ与えはしない。
不審な男は顔面で空を切りながら視界を車のシートで埋め尽くした後、黒く塗り潰された。一瞬にして両腕と首元を抑えられた不審な男。彼は混乱と狼狽の最中、少なくとも背後に原因があることだけは理解できた。
そして、少ない判断材料を頼りに無理やり身体を捩って、後ろに目を向ける。
「…………」
すると、そこには幼さが抜け切っていないツインテールの少女がいた。
口を開くこともなく、街路灯の明かりをスポットライトに見立てて浴びる少女。彼女は光の下で髪を冷たく靡かせると、絵に描いたように端麗な容姿を見せつける。
だが、軟な細腕のどこにそんな力があるのか。不審な男は泳ぐような視線を少女に向けていく。すると、彼女の着ているジャケットが追い掛けて来た大柄な男と同じデザインであることに気が付いた。
「……その恰好、EXTに……子供……? もしかしてお前、まさか……ッ⁉」
その途端、不審な男は唯一誇れた自らの肉体さえに馬鹿にされ、人格や存在を否定される感覚に襲われる。彼には、世間知らずで恵まれた子供に振るわれた特別な力が、酷く傲慢に見えたのだ。所詮、傍から見れば幼稚で下らない拗らせ方をした逆恨み。自らの悪しき行いを棚に上げてまで覚える感覚ではない。しかし、それでも本人にとっては貴重な尊厳であり、だからこそ踏み躙られた事実を認められなかった。
不審な男はどうしようもなく憎悪に塗れ、腸を煮えくり返す。
「拡張子だからって……! ガキが舐めてんじゃ――」
感情的になった不審な男は音が出る程の歯軋りをし、無理やりにでも蹴るべく重心が傾く。
しかし、その一挙一動は全てが少女の手の平の上。
彼は少女に首根っこを掴まれた状態でもう一度シートに沈むと、直ぐに引き上げられ、視界が横線になる。身体は遅れて、その方向にのみ重力を感じた。
刹那とも取れる僅かな時の中。不審な男は自らの言動を悔やむ暇もなく車外へ摘み出されると、勢いそのままに、背中をワンボックスに叩き込まれる。
夜の駐車場に、激しく響く。
片輪が浮く程に大きく跳ねる車体。蜘蛛の巣のような亀裂が走るドアガラス。交通事故でしか聞かない鉄がへしゃげる音を出すスライドドア。それらは到底、人の出せる力ではなかった。
少女の軟な細腕によるフルスイングは車体の側面にクレーターを作ると、不審な男の全身に激痛という結果のみを与えていく。
抵抗は無駄。否が応でもその事実を叩き込まれた不審な男は負けを認めるように力尽き、地面にへたり込んだ。
『――――火名、目標の無力化に成功した』
『お疲れ様、鈴島隊長』
鈴島と呼ばれた、クマやゴリラのような体格をしている大柄な男が追い付いた頃には、既に決着していた。彼はジャケットの襟に内蔵されたマイクで、先程聞こえた声の持ち主である火名と通信する。
『今検証班を向かわせたところだから合流まで時間が掛かると思う。 もう少しだけその場で待機だね』
『了解。 相変わらず手際が良いな、火名は』
彼女によって事後処理の手配も早々に済んだため、鈴島は通信を終える。そして、不審な男の身柄を拘束した後、所持品を探っていった。
だが、上着のポケットからはナイフの一本も姿を見せない。囮や陽動の類か。違和感を膨らませる鈴島であったが、一先ずボトムスのポケットから財布が出てきたことに安堵すると、運転免許証を取り出して身元を確認していく。
「……若いな」
十八歳。記されていた年齢を鑑みると、詰めの甘さがあって当然。道を踏み外さなければ新卒や学生として生活していたのだろう。そんなことを考えながら、鈴島は遣る瀬無さを感じてしまう。彼は腰を上げると、現場の時間や状況、使用されていたワンボックスのナンバーや車体の状態を画像に残し、現場保存を徹底していく。
「手掛かりのひとつでもあればいいんだが……」
ツインテールの少女に周囲を警戒してもらっている間、鈴島は証拠を見つけるためにワンボックスのリアゲートを開けた。すると、人身売買の取引があったにしては使用した形跡が見当たらず、後部座席を倒しただけの空っぽな荷室が出迎える。なにか罠を仕掛けているかもしれない。そう踏んだ鈴島は瞬時に警戒すると、足早に運転席へ向かった。
「――――やってくれたな」
シートの周辺から始まり、カップホルダーとグローブボックス、ドアポケットやサンバイザー等を隈なく探したが、当然のように証拠は現れない。用意周到。鈴島は若者がやるにしては意外にも抜け目がなく、精密な計画性を疑ってしまう。だが、今は他に優先すべきことがある。早々に割り切ると、鈴島はワンボックスから降りていった。
「これは……また随分と派手にやったんだな」
「ひっ⁉」
合流して以降、激しく主張し続けていたクレーターように大きく凹んだスライドドア。それを目の前にした鈴島は興味深そうにしゃがみ込むと、ツインテールの少女が肩を跳ねさせているとも知らずに痕跡を見つめる。
そんな鈴島を後ろから眺めていた彼女は、背筋を凍らせながら恐る恐る尋ねた。
「あの……隊長、やっぱり…………駄目ですよね……?」
若い男を少女が無傷で鎮圧。文字や言葉だけで考えると難しく思えるも、特別な力を持つ拡張子がそれを可能にしてしまう。それは望まれた役割でもあったが、だからとは言え、自らの判断で起こした行動によって丸腰同然の人間に力を振るっている。その事実と責任が彼女の双肩を必要以上に重くさせていた。やり過ぎてしまったのではないか。そう思わずにはいられないが故に。
「……そうか? たったの二週間足らずでこれだけ制御出来ているなら十二分だろう。 寧ろ、あの土壇場で車両を特定して待ち伏せが間に合うなら上出来だ。 相手にも大きな外傷は無いし、自信を持て月名! 今回の俺なんて、蓋を開けてみれば走っているだけだったぞ?」
だが、ツインテールの少女、月名に掛けられた言葉は、彼女の想像からは大きく外れていた。
鈴島は月名のことを褒めた後、笑いながら労いと励ましの言葉を贈る。彼の視点では取り逃がしそうなところを月名に対処してもらったことから、その評価は高かった。
「そ、そうですか……? それなら、良かったです……!」
所々に冗談が混じった話に困惑しつつも不安が晴れたのか、月名は表情に柔らさを取り戻していく。彼女は着実に自らの能力が認められていくことに喜びを感じ、思わず笑みを零した。
そんな微笑ましい様子を見ていた鈴島。彼は目まぐるしい成長を見せる月名に、ひとつの結論を出す。
「月名に良い知らせがある。 研修は今日で終わりだ」
「────っ! 隊長! それほんとなの⁉」
予想だにしていなかった月名は興奮して思わずため口になり、言葉の節々が幼いものになってしまう。そして、彼女は間髪入れずに身を乗り出すと、元気に鈴島へ迫る。
「あ……ああ、本当だ。 良いか月名? 明日からは――――」
鈴島は溢れんばかりに喜んでいた月名の勢いに押されながらも、彼女に今後のことを話していった。
外灯に照らされた桜並木から、冷たい夜風が花弁を攫う。それは少女の頬を撫でることで、ひとつの節目を告げていた。
「――――月名、どっちがいい?」
「良いんですか? ありがとうございます、こっち貰いますね!」
鈴島はその手に持っていた二本の缶をそれぞれ月名に見せる。コーヒーとココア。今夜は存外肌寒く、月名は迷いなくホットココアを選び取った。冷える両手に握られた、甘くて温かい飲み物。それが彼女に安らぎを与えていく様子を眺めながら、鈴島はコーヒーを堪能する。
「お、来たな」
「来ましたね」
飲み終えた頃、街灯とは違う光が遠くからふたりを照らしながら近付く。鈴島は腕時計で時間を確認すると月名が飲み終わった缶を貰い受け、ゴミ箱に放り込んだ。
程なくすると、検証班の車両と護送車、さらにその後ろにあるもう一台を含めた計三台が連なって到着した。
「外灯はあるが照明はいつも通り使う。 配置は任せたぞ」
拡張子特殊対策機関と書かれたドアを開けて車両から人が降りると、淡々と大きな鞄や機材を運び出し、準備を進めていく。その殆どが鈴島や月名と同じジャケットを着ており、同じ組織に所属している人間であることが、傍から見ても一目瞭然であった。次第に似た身なりの人だまりできると、その中にいた長身でスタイルの良い男が鈴島に近付いてくる。
「どうだ、鈴島。 ランニングは楽しかったか?」
「月名が頑張ってくれたお陰で良い運動になったさ。 橋木、これだ」
鈴島は橋木と呼んだ男に対して冗談交じりに受け応えると、先程記録した端末を手渡した。
「…………お前は良いよな、かわいくて優秀な部下ができて。 それに比べて検証班は一向にむさ苦しい中で徹夜だ」
「安心しろ、どうせ俺達も徹夜だ」
鈴島と同じく、橋木は車両の状態にきな臭さを感じつつも一通り見終えていく。現場保存や記録等を行う、検証班の班長。その立場にある彼にとって、拡張子である月名の配属は羨ましいものであった。
そんな橋木の口から月名の名前を聞いたことで、鈴島は研修の件を思い出す。
「――そういえば橋木、月名には話したが研修は今日で終わらせる予定だ」
「……本気か? 月名が拡張子の力を自覚をしたのは、確か今年に入ってからだ。 年度は跨ぐが、来月一杯までやっても罰は当たらないだろ」
鈴島の唐突な発言に、橋木は思わず動作を止めて難色を示す。しかし、その顔は鈴島の抱えていた心境を如実に表していた。
立場上仕方がなかった鈴島だが、彼は自らと共感してくれていた橋木の首を縦に振らせに掛かる。
「そうしたかったのは山々だが、生憎、これは所長と代表からのお達しでもある。 互いに言いたいことはあるだろうが、まあ、そういう事だ」
「……成程な、そんなんだと思ったよ。 俺だって所長や代表が決めたことに文句はねぇ。 緊急事態になったらお互いに四の五の言ってられなくなるからな」
言葉の節々に、どこか世知辛い後ろめたさを感じさせる橋木。彼は心情的にどうであれ、人手不足の現状を鑑みれば致し方のないことだと言葉で割り切りを示した。
だが、橋木の口振りに憂いを覚えた鈴島。彼は大して意味もない、励ましの言葉を口にしてしまう。
「あの子は想像以上に飲み込みが早い。 大人達の期待や心配なんて、直ぐに飛び越えていくさ」
「だとしても、最悪を想定して実を取りに行く姿勢は相変わらずあの人達らしいな。 よし、お前達は先に上がってくれ。 そろそろ俺も作業に入る」
鈴島に愚痴を零していたことに気が付いた橋木は気持ちを切り替えると、荷物を手に取り、検証現場に向かっていった。
「――――あれ、月名はどこだ? もう戻ったか……?」
橋木の背を見届けた鈴島は、月名の姿がないことに気が付く。彼らがいたのは開けた駐車場なため、特段人を見失うような場所ではない。鈴島は先に乗り込んでいると考え、最後尾にある自分達の車両まで足を運んでいった。
しかし、その道中で鈴島の耳に話し声が流れ込む。
「月名ちゃん、すっかり拡張子として板がついてきたね」
「でしょ! お姉ちゃんもそう思うよね! 私だって結構頑張ってきたんだから!」
同じ顔、同じ背丈、同じ年頃、同じ声。鈴島に見え、聞こえていたのは一部を除いて数多の要素が酷似した少女達による、仲睦まじい姿と会話であった。
ロングストレートの少女、火名。月名と同じく拡張子であり鈴島達を後方から支援していた彼女は、月名と一卵性の双子という関係を持つ。しかし、唯一にしてその髪色は月名と違い、仄かな熱を帯びていた。
「それに隊長も今日で研修は終わりだって言ってたよ!」
「……そっか、隊長がそう言っていたなら大丈夫だね。 でも、明日から大変になると思うから今まで以上に気を引き締めてね?」
「うん、分かってる!」
未だに興奮が冷めないのか、月名は研修の終わりを嬉々として報告すると、火名は微笑ましくその話を聞いていた。程度の差はあれど、隊長である鈴島はふたりの関係を把握している。故に、姉妹の仲に割って入るのは無粋と考え、一足先に車へ戻っていった。
すると、鈴島は運転席にいた女性から、姉妹にも負けず劣らずな可愛らしい声で話し掛けられる。
「あれ? 鈴島、あの子達は来ないの? もう結構遅いんだけど」
「……え、千裕、もうそんな時間か?」
腰辺りまである大きな三つ編みをふたつ下げた、童顔で小柄な女性、千裕。鈴島は彼女に言われて時間を確認すると、時計の針は夜中の入り口を示していた。未成年である姉妹達の刻限。鈴島は大人としての責務を果たすべく姉妹の会話に割って入り、乗車を促す。
「ほら、ふたり共! そろそろ戻らないと千裕に怒られるぞ!」
「鈴島、あんたねぇ……」
「――あ、ごめんなさい隊長! 今行きます!」
鈴島が姉妹に呼び掛けると、ふたりは思い出したかのように会話を切り上げ、小走りで車に駆け込んでいく。横で聞いていた千裕は頬杖を突き、鈴島の言い草に不服を申し立てて姉妹を待った。
「すみません、千裕さん!」
「大丈夫だよ、月名。 でも、もう遅いから話は帰ってからしてね?」
慌てて謝罪する月名であったが、千裕は彼女の気持ちを汲み取って優しく注意する。そして、準備を整えた彼女は通信で橋木に一言だけ入れると、現場の後処理を警察や検証班に任せて車を出した。
夜も深まりつつある都内に一際目立つ敷地がひとつ。そこは三メートルを超える塀にひたすら囲まれ、連なっていた。照明が並び立つ塀に沿って道を進んでいくと、複数の施設が奥から顔を覗かせる。
千裕は特に気にも留めず正面ゲートまで車を進めると、ドアウィンドウを下げて顔を出す。その瞬間、ここぞとばかりに夜風が流れ込み、千裕は荒ぶる前髪を抑えた。
「結構な風でしたね」
「うん、今夜は思ったより冷えるかも。 月名達も風邪引かないようにね」
警備員に開門してもらったためドアウィンドウを上げて敷地内を進んでいく。しかし、オフィスまでは依然として距離があるため、道中では外から見えていた施設の全貌が露わになっていった。
シンプルに巨大な箱型の訓練施設、特殊車両やヘリの格納庫、拡張子の研究所や試験場等が併設されており、政府の協力により設立した、拡張子特殊対策機関、EXTの規模の大きさと、その片鱗が伺える。
そんな敷地内に聳え立つ高層ビルの根元で、千裕は車を駐めた。
「もうこんな時間だし私が家まで送っていくから、火名達は帰りの支度してきて。 私はここで待っているから」
「ありがとうございます。 なるべく早く戻りますね」
「……あ、千裕さん、ありがとうございます……!」
火名が千裕に感謝の言葉を伝えると、先に降車した月名がその姿を見て慌てて感謝を述べた。少し気が緩んでいた月名に小言を言いたくなった火名だが、今日だけでも色々なことがあった妹の気持ちが理解できることもあり、特に言及はしない。
鈴島もふたりに続くように助手席から降車すると、本日最後の一仕事のために姉妹と共にオフィスへ向かった。
「…………」
二時間もすれば明日になる。静かになった車内で独り、千裕は薄い桜色の腕時計を見ながらそんなことを考えてしまう。
上昇を続けたエレベーターから降りてオフィスに戻った鈴島達。既に深夜帯ということもあり、当然のように部屋は暗く、そこはかとなく冷たさを感じる。しかしながら、このオフィスは上層に位置するため、都内の夜景を一面ガラスに良く映えさせていた。
「……うわぁ! きれ――」
初めて見る光景に、月名の瞳と心は夜景に負けない程煌めきを見せる。だが、鈴島と火名には見慣れた景色のため、いつもの癖で風情もなく照明を点けてしまう。
趣のない光がオフィスを隅々まで満たしていく。すると、燦燦と煌めいていた月名の瞳と心は現実へ引き戻され、忽ちに輝きを失った。
火名は目に見えて気を落とした月名を慰めていると、既に書類作成の準備を進めていた鈴島が入り口付近まで不思議そうに戻ってくる。
「ふたり共、何かあったのか?」
「これ」
「……あ!」
火名はオフィスの照明スイッチを指し、その後、夜景が映る一面ガラスにも向けていく。火名の主張を察した鈴島は手を合わせて月名に頭を下げると、気が利かなかったことを謝罪する。自身の我儘に申し訳なさを感じた月名は慌てて鈴島の頭を上げさせ、各々は気を取り直して準備を進めていった。
月名は制服から着替えるために更衣室に行き、その間に火名と鈴島は自分のデスクで手を付けていない書類に囲まれながら今回の報告書を作成しに掛かる。だが、作業量に対して火名の時間はあまり残されていない。そこで火名は、自らの分を明日に回し、今は鈴島が必要とするであろう書類を優先することにした。
「お姉ちゃん、準備出来たよ?」
「……うん」
「もう、全然聞いてないじゃん……」
それから数分が経ち、月名が着替えを終えてオフィスに戻った。だが、火名は振り向きもせずに空返事で済ませると、切りの良い箇所まで作業を続ける。そんな仕事熱心であった姉の背を前にした月名は、興味本位で後ろから覗く。すると、そこにはモニターを埋め尽くさんとする勢いの資料と文字の中で行われる作業という、絶望的な絵面が広がっていた。将来的に自分もこれをやらされるのかと思い、月名は後悔よりも恐怖が上回ってしまう。
十中八九来るであろう未来に打ちのめされそうな妹の気配を感じながら作業を終えた火名。彼女が漸く送信に漕ぎ着けると、それを受け取った鈴島は火名に対して軽く手を挙げ、無言で感謝の意を伝えていた。
「……ふう、待たせちゃってごめんね。 じゃあ隊長、お先に失礼します」
「お、お仕事頑張って下さいね、隊長。 応援してますから……!」
小さな一息を付き、徐に立ち上がった火名は帰る準備を秒で済ませる。そして、既に徹夜を決め込んでいる鈴島を心配する月名と共にオフィスを後にした。
姉妹としての仲は決して悪いものではなく、第三者の視点からは良好と言えた。しかし、約十年振りの再会と、そこから一年も経っていない年頃の姉妹。ふたりにしか伝わらない合言葉のような摩擦が、廊下を歩く僅かな時間でさえ窮屈に感じさせてしまう。
そんな姉妹を乗せたエレベーターは、一時の夜景を見せてくれた。
「きれい……!」
光がオフィスでの続きを見せんとばかりに月名を求め、瞳に流れ込む。すると、月名は包み隠さずに童心を見せた。
流れる空気が鉛のように重く感じていた火名。彼女は妹の純粋な横顔に思わず手を引かれ、一歩、また一歩と近づいていく。火名自身、何百、何千と飽きる程見てきたはずだが、不思議と妹の隣で見る夜景は、初めて見た時のような煌めきを持っていた。
ふたりの空白を、地上の星々が輝きに変えていく。
「……うん、本当にきれいだね」
「――っ⁉」
火名が零した言葉を聞いた月名は、いつの間にか隣にいた火名に驚いて、気恥ずかしくなる。すると、その様子を眺めていた火名は、揶揄うように優しく笑んだ。
「ふふ、月名ちゃん、この景色を忘れないでね」
いつも自分に投げ掛ける言葉には裏や含みを感じていた月名だが、姉にしては珍しく真っ直ぐで、どこか慈愛に満ちていた言葉を無意識に噛み締める。その結果、月名は反応が示せず、沈黙する形となった。
普段の調子なら一言か二言は可愛くないことを口にするはずの妹が見せた、見たこともない反応。それを前に、いつもと変わらない言葉を掛けたつもりであった火名は戸惑ってしまう。
数多の人の心に触れることができる拡張子であったため、却って人と接することに重きを置くようになった火名。彼女は月名の心を覗けば真実は容易く真実を知ることができたが、それを良しとせず、堪えていた。
火名自身、それを人としての弱さの根源とも捉えている。しかし、臆病な一歩でも誰かに寄り添えると信じていたいからこそ、彼女にとっては、拡張子である自身の答えでもあったのだ。
「うん、忘れないよ」
月名はその一言の後、遅れてやってきた照れ隠しに頬を軽く染める。意識して姉に素直になること。それがこれ程までに気恥ずかしくなるとは知らず、後悔したのだ。
しかし、その真っ直ぐな言葉は火名の臆病な心から戸惑いを押し退け、強く抱きついていた。妹の言葉に救いを感じた火名はそっと抱き返すように慈しむと、もう一度笑む。
月名は、今までにはなかった温もりを姉から感じ取った。
「――――千裕さん、お待たせしました」
エレベーターが一階に到着し、ふたりきりの時間に終わりを告げる音と共にドアが開く。ふたりはビルから出て直ぐのところに停まっている千裕の車に声を掛けて乗り込むと、千裕は姉妹の自宅である絹川家に向けて車を出した。
「何か良いことでもあった?」
「千裕さん、実はね――――」
その道中、ふたりの仲が良いことに気が付くと、千裕はそれとなく話を振る。すると、月名が夜景や火名のことを本人の前で話しだした。
それを横で聞かされた火名は恥ずかしさのあまり止めようとするが、こうなった月名を制止させるのは難しく、随分と手こずってしまう。打つ手がなくなり、最終的に根負けした火名は紅潮した顔を隠すように俯き、拗ねていた。
嫌に静かだった火名を見て月名は我に返って謝るも、火名はせめてもの抵抗として、顔を背ける。
「ねえ、言い過ぎたのは反省してるから。 こっち見てよ……」
「やだ……!」
月名は褒めていた相手の機嫌を直すという不可解な状況に疑問を感じながらも、体を揺すったり、甘えたりと、あの手この手で試みる。しかし、月名の奮闘も虚しく、火名の心身は揺るがない。本日何度目か、姉の意外な一面に月名はお手上げとなり、大人しく到着を待とうとした。
「そんなに怒らなくてもいいじゃん……」
月名は無力感や徒労感から肩を落とし、つい、そんな言葉を重たそうに漏らしてしまう。だが、火名の耳はその一言を聞いており、思わず口が動く。
「だって恥ずかしかったし。 あと、別に怒ってない……」
火名の弁解と指摘は、とても弱々しいものだった。もともと火名は、周囲の大人達から評価されることが殆どで、同年代からの評価、増してや純粋な誉め言葉には慣れていない。それを妹から洪水のような言葉で浴びせられたということもあり、火名の許容量は限界を迎えていく。
月名はそんな姉の等身大とも受け取れる一面を見ると、小さな親近感を湧かせた。
そこから十数分後。千裕は大きな門がある敷地の前に車を駐める。
「さあ、着いたよ」
絹川家。そこは拡張子の原理や概念を提唱し、拡張子対策機関、EXTを創設した姉妹の祖父、絹川昴と、父である絹川大地の実家であり、同時に姉妹の帰る場所でもあった。詰まるところ、千裕達に言わせればここは上司やお偉いさんの家で、彼女達はそこのお嬢さんということになる。
千裕は車から降りると、一般家庭ではまず見ない広さの敷地を姉妹と共に歩いていく。
そして、案の定大きく立派なドアを開けて火名と月名が中に入ると、その音を聞いて女性が姿を見せた。
「ふたりともお帰り。 千裕ちゃんもこんな遅くに送ってくれてありがとう」
「真名さん、こちらこそこんな時間になってしまい申し訳ありません」
「ねえ、千裕ちゃん。 今日は月名の現場入りだったらしいけど大丈夫だった? 迷惑を掛けてないと良いんだけど……」
千裕は長居しても悪いと考えていた時、姉妹の母親である絹川真名に引き留められるように月名の様子を訊かれてしまう。過去や経緯はどうであれ、十年振りの親子の再会と生活。真名が娘のことを気に掛けているのは千裕も察しており、無下にはできない。しかし、だからと言って本人の前で話すのも、それはそれで憚られていた。
千裕が考えるふりをしてそれとなく火名に視線を向けると、彼女の意図に気が付いた火名は月名をリビングに連れて行こうと画策する。
「――――っ!!」
だが、当の本人である月名は母親に対して、自分を見てくれていたことに充足感を得ていたものの、目の前で堂々と訊く配慮の無さに感情を喉元まで押し上げていた。そして、それは自立心の芽生えにより、自らにも遺伝しているかもしれないという、ある種の投影や同族嫌悪を加速させる。
「千裕さん、送迎ありがとうございました! ほら、月名ちゃんも明日早いからご飯食べるよ!」
「――ちょっ⁉ まッ!!」
母と妹の多様な喧嘩パターンを学習していた火名は、千裕に迷惑を掛けさせまいと先手を打った。彼女は月名の意識が逸れているのを利用して背後に回る。そして口元を押さえ、速やかにリビングまで連行していく。
「ふたりとも遅くまでお疲れ様。 明日も忙しくなるからしっかり休んでね」
千裕は内心で火名に感謝しつつ、良くも悪くも健全な絹川家のやり取りを見送ると本題に入る。
「彼女は、月名は遅咲きではありますが優秀な拡張子です。 そこに一切の疑いはありません。 それも先天性ですので、力の扱いに関しては特に心配要らないでしょう。 ですが、同時に人として未熟な部分が意外にも多く、今後も心身ともに鍛える必要がありそうですね」
過去の境遇や、それに付随する確かな才を鑑みても所詮は思春期真っ盛りの子供。それが千裕から見た絹川月名の、現時点での端的な評価であった。
そんな千裕の評を意外そうな顔で聞いていた真名は、うっかり感想を口にする。
「凄い……あの千裕ちゃんが褒めてる……」
「ま、真名さんは私の事何だと思っているんですか……⁉ というか! 私の事、いい年して人を褒めない人間とか思ってますよね⁉」
「千裕ちゃん、私そこまで言ってないけど⁉」
褒めているつもりがなかった千裕はそこまで言われるとは露程も思わず、気恥ずかしさから可愛らしい地声で反論してしまう。その勢いは意外にも強く、真名は慌てて千裕を宥めた。
そんな時、千裕のポケットに入れていた携帯電話からメッセージの着信音が聞こえ、彼女は頭が冷える。
「もしかして、樟くんから夜のお誘いでも来たんじゃない?」
タイミングで理解したのか、真名もそれとなく鈴島の名前を挙げる。
時間的にも十中八九、鈴島からだろうと考えた千裕は真名の冗談を軽く受け流しつつも当人の愚痴を零す。
「まさか、どうせアイツの事です。 書類の山にでも埋もれているんでしょう」
しかしながら、自らの発言のせいで鈴島の事務処理に対して不安が広がると、なぜか真名も釣られてしまい、鈴島のことを案じた。
「あぁ~……樟くんの事務処理はね……うん、そうだね……」
「ええ、ですからこれ以上長居しても悪いので、この辺りで」
本人の預かり知らぬところで鈴島に対する意見が一致する。彼女達は先程のやり取りが嘘のように落ち着いた会話をしていき、そのまま流れるように別れの挨拶へ移行した。
「――――じゃあ、お仕事頑張ってね、千裕ちゃん。 あと、要くんにもよろしく言っといてね」
「はい。 では失礼しました」
千裕は奮闘しているであろう同僚の応援に少しでも早く向かうため、真名へ別れを済ませると足早に車へ乗り込む。そして車内でメッセージを確認すると、案の定、鈴島からラブレターが届いていた。
溜め息交じりでハンドルを握ると、千裕は残された業を清算するべくオフィスへ向かう。
拡張子特殊対策機関、EXT。拡張子の研究と解明、保護や更生等といった支援を主とする、国に認められた組織。また、拡張子による凶悪な犯罪やテロ行為に対応するために武装が許可された、対拡張子特殊部隊、通称対拡を擁している。
そして、若くしてそこの隊長を務めている鈴島はある事件を追っていた。
拡張子主導で行われている人身売買。その非人道的行為は一年以上前から噂され、実在性が高いとも言われている。しかし、確定的な証拠がないことで、事実上、捜査は打ち切りの扱いとなっていた事件でもあった。
本来ならばEXTと対拡の本分であったが、EXTと対拡には実働に耐え得る拡張子が不在という、致命的な人材不足によって手が打てないでいた。その結果、存在意義を疑われ始め、社会での肩身は狭いものとなっている。
そんな暗雲が立ち込めていたEXTと対拡だが、ひとりの少女によって光が差し込む。
優秀な索敵能力を持つ拡張子、絹川月名が突発で編入したことにより状況は急変する。彼女の力を借りることで取引現場の特定を皮切りに、少量ではあるものの確実に捜索は進展を続けていった。
「────月名には頑張って貰うしかないな……」
鈴島はオフィスでひとり、月名の研修完了手続きとそれに関する報告書をまとめ終えると、大きく伸びをして天井を仰ぐ。そして、嬉しそうな月名の顔を思い出したことで負い目を感じた彼は、つい、そんな独り言が出てしまった。
本来なら一ヶ月以上の時間を使い丁寧に行われる研修。その方が都合が良かったとは言え、彼女が絹川の名を冠していることによって大人達の事情が僅か二週間足らずで切り上げさせてしまった事実に、鈴島は世知辛さを感じていた。
それでも隊長という立場上、現状打破には月名を重用せざるを得ない鈴島。彼は複雑な感情の中、今回拘束できた男の身元や状況に今一度違和感を覚えていた。
「…………やはり引っ掛かるな」
直前で場所が変更されたのか、或いは囮に使われたのか。拡張子主導の人身売買にも拘らず取引現場はもぬけの殻で、末端と思われる若い男を残すだけ。使用されていた車両こそ一致していたが、想定していた成果を思えば結果は芳しいものではなかった。
しかし、一歩は一歩。確実に進捗があると考えを改め、鈴島はもう一度記録に目を通していく。
「今戻った。 進捗はどう?」
「まだ少し残ってはいるが、正直なところ橋木待ちだな」
すると、絹川姉妹の送迎から戻ってきた千裕がオフィスに入ってくる。そして鈴島に呪いの言葉を掛けて自分のデスクへ向かうが、見慣れたはずのデスクは資料の山で彩られていた。
「おい」
「あの資料どこにやったかなあ」
あまりの前衛さに千裕は拳を握ると、デザイン担当の鈴島をどすの利いた声を添えて睨んだ。
千裕からの熱い視線に秒で耐えかねた鈴島は、そそくさと資料を探すふりをして顔を反らしていく。
人を小馬鹿にする態度に腹を立てた千裕は溜め息と共に資料の一部を手に取ると、鈴島の頭で良い音を出しながら返却した。
「これぐらいは自分でやって……!」
「善処します」
コーヒーを淹れに行く千裕の後姿を横目にした鈴島は頭に乗せられた資料を手に取ると、渋々作業に戻っていった。電子化が主流になって久しく、紙媒体の数は激減こそしたが依然、その存在を認められている。鈴島は煩わしさを感じつつも、決して薄くはない重ねられた紙に染み込んだ文章と睨めっこしていく。
戻ってきた千裕は二の次となっている鈴島のデスクを少し整頓し、コーヒーカップの置き場を作った。
「これくらいなら、私達でやれば橋木が戻ってくるまでに終わるんじゃない?」
「千裕、お前……!」
鈴島はコーヒーを飲もうとしたが、あのメールを見て千裕が徹夜に参加する気でいた事実に、まるで女神を見るような眼差しを向ける。
「やめろ鈴島、絵面が酷いし気持ち悪い!」
自身と同じ年であるはずの成人男性が見せる情けなさ。千裕はある種の居たたまれなさに思わず顔が引き攣ってしまうと、誤魔化すためにコーヒーを一気に飲み干してデスクに戻っていった。
「…………」
「――――」
時計の針達は頂点をいつの間にか通り過ぎてしまい、気が付けば明日が今日になっていた。しかし、そんなことは気にも留めず、ふたりはオフィスで黙々と仕事に耽る。
月名の力を以てしても、人身売買の主犯格の人物や動機の特定はできておらず、事件の全貌は見えてこない。捜査は進んでいたがその先は行き止まりで、どん詰まり。オフィスの空気は重く、淀んでいた。
だが、そこから暫く続くと思われた辛気臭い雰囲気を換気するべく、ドアが開く。
「ふたりとも、遅れてすまない」
「橋木! どうだった?」
現場の検証を終えた橋木が、荷物を抱えてオフィスに到着した。すると、その姿を見るや否や、待っていましたと言わんばかりにふたりは立ち上がり、橋木のところに寄って集る。
「まあ、見れば分かるさ」
橋木は荷物から取り出すと、検証結果が入った端末を手渡した。そして、端末を覗くふたりに横目にデスクへ戻ると、キーボードを叩いて電子の海に身を投げる。
被疑者と押収された車両から割り出された足跡が複数判明していることが記してあった。
千裕が顔を上げると、絹川姉妹のデータをそれぞれ眺めていた橋木は被せるように口を開く。
「警察に身柄を渡した被疑者は何も知らないの一点張り。 明日の朝一番、EXTに身柄を移す予定だ」
橋木の発言は、千裕の質問に対する答えではなかった。見当違いなことを言い出した橋木に千裕は眉を顰めてしまう。すると横で聞いていた鈴島は、すかさず橋木から聞き出そうとふたりの会話に割って入る。
「……じゃあ、今となっては、警察よりも俺達の方が取れる手段は多いってことか?」
「ある程度は警察にも根回しをしてもらうが、まあ、そういういことだ。 何しろ、街の各所のカメラに映っていた車両からある程度の移動範囲を割り出したが、その一部分が先週に月名が捜索してくれた場所と一致している」
橋木は別の端末で地図を映す。すると、そこには車両のより詳細な移動範囲と月名が目星を立ててくれた場所が複数個所で重なって表示されていた。
「お前、良く数時間でそこまで調べられたな……」
「こればっかりは警察の捜査力と科学技術の賜物だな。 明日から皆忙しくなるそ、ほら」
鈴島と千裕が感心に由来する困惑を見せていると、橋木はふたりに有無を言わさず、次々と端末を渡していく。橋木から端末を受け取ったことで、翌朝からの方針が定まっている事実を察したふたり。彼らは一秒でも早く眠るため、残っている作業を分担して片付けていった。
「つ~~き~~な~~! あなた、いい加減本当に起きないと研修明け早々に遅刻するよっ!! 」
「あ~もう! 分かったから!」
翌朝。午前八時頃の絹川家は騒がしかった。月名は母親である真名に叩き起こされると、慌ただしく二階から降りてくる。
既に身支度を済ませていた火名は、その様子をリビングのソファから心配そうに眺めていた。
「お姉ちゃん、なんで起こしてくれなかったの~⁉」
「月名ちゃん返事だけで起きなかったでしょ?」
月名が洗面所に駆け込みながら自分のことは棚に上げて火名に嘆く。すると、その態度を見た真名は怒りのボルテージをひとつ上げた。
「月名も中学卒業してEXTで働くんだから、いい加減自分のことはある程度やれる様になりなさい! どうせ今まで、お父さんに起こしてもらってたんでしょ?」
「――――っ!!」
寝起きであまり頭が回ってなかった月名は寝癖が着いた髪と格闘していると、真名から数々のありがたい言葉を貰い、スイッチが入ってしまう。
「だってお父さんしかいなかったんだよ! 仕方ないじゃん!」
「そういう問題じゃないでしょ! お母さんは日頃の行いのことを言ってるの! 開き直らないで!」
ふたりの間で戦いのゴングが鳴り響く。母と娘による言葉の応酬が始まると、それは時間と共に激化していった。自分と瓜二つの顔と声で繰り広げられる、聞くに堪えない親子喧嘩。流石の火名も辟易としたのか、腰を上げると両者の間に割って入り、なんとか制止を試みる。
「お母さん! これ以上は本当に月名ちゃんが遅刻するから、その辺りで勘弁してあげて?」
「……っ! いい、月名? 今の時間ならまだ間に合うからちゃんと準備して。 分かった?」
「……分かってる!」
真名は火名に免じて怒りを鎮めると、月名へ忠告を済ませてキッチンに戻る。対して月名は釈然としておらず、可愛らしい顔についた眉間の皺は簡単には取れそうになかった。
火名はぶつくさと文句を言っている月名を洗面台の鏡の前に立たせると、櫛を使って自分の髪のように梳かしていく。きめ細かく、さらさらな髪質こそ姉妹で同じ。だが、月名の髪は地毛とは対照的な色で染まっていて、その部分に関しては姉妹の違いとして如実に表れていた。似合っているはずなのに。なぜか寂しさを感じた火名は、無意識に手を止めてしまう。
「やっぱり、色が気になる?」
「――あ、ごめん」
月名の姉に対する勘は本日も絶好調であった。火名は月名の言葉で我に返ると急いで手を動かし、いつものツインテールにセットしていく。
火名のお陰で普段より早く、そして綺麗なセットで月名はダイニングに送り出される。するとそこには、示し合わせたように真名が温め直した朝食を並べてくれていた。
「ほら、月名ちゃん?」
「あ……ありがとう、お母さん……」
「ふふ、どういたしまして。 今度は冷めないうちに食べてね?」
火名が月名の袖を軽く引っ張って何かを求めた。言いたいことが分かっていた月名は、照れくさそうにして真名に感謝の気持ちを口にすると、その姿を真名と火名がにやついて眺める。
恥ずかしくなった月名だが、言い返すような雰囲気でもなかったため静かに朝食を取っていくと、以降は淡々と身支度を済ませていった。
「はい、準備できたよ!」
月名は腰に手を当てて自信に満ちた様子を見せると、火名はリビングのソファから立ち上がった。そして、母親に見送られる中、ふたりは出発する。
「火名、月名、いってらっしゃい! 気を付けてね」
「うん、いってきます!」
「――月名ちゃんは現場向きだから、隊長と一緒に行動することが多くなると思う。 それに今は人手不足だし、初日から当直上等のハードワークかもね?」
「……うえぇ、もしかしてお父さんみたいなことになるの? それは嫌かも……」
「こういう言い方はあれだけど、病室よりはマシだと思うよ? 酷い時は本当に酷いんだから。 この前だって――」
今日から月名の本格的な活動が始まることもあってか、火名は可愛い後輩のためにロビーやエレベーター内で過去の出来事を交えて様々なアドバイスをしていく。話を聞いていた月名は姉の話がにわかには信じられなかったが、貴重な前例として耳を傾けながらオフィスに足を運んだ。
「おはようございます」
「おう、ふたり共おはよう!」
絹川姉妹はドアを開けて挨拶と共に入室すると、そこには既に鈴島を始めとした三人が集まっており、なにやら話をしていた。鈴島は早々に姉妹を話に加え、改めて説明する。
「昨夜、人身売買の容疑で拘束した男には拡張子の仲間がいる可能性が非常に高い。 これを見てくれ」
「……拡張子ですか」
「じゃあ、思ったよりも大事になりそうだね」
鈴島はその言葉を皮切りに、徹夜でまとめた資料用端末を渡して目を通させる。そこには橋木達、検証班が掻き集めた様々な映像や画像が載っており、非常に細かいところまで注釈が敷き詰められていた。
火名自身は拡張子に対して行われる作戦行動を幾度も経験している。そのため、彼女は慣れた手つきと視線で資料を読み進めていった。
「……ぇ……ぅん……?」
しかし、日が浅く、未だに資料の文字量に慣れていない月名はどこを見ればいいのか分からない。迷いに迷い、目が泳ぐ。
研修上がりの月名には後から個別で説明されることを理解していた火名は説明を妨げる訳にもいかず、隣で指をなぞるだけに留めた。
姉からの細やかな助け舟のお陰で、月名は辛うじて話についていく。
「──そこで、被疑者である男から主犯格や目的、動機等の手掛かりを聞き出してほしい。 頼むぞ、火名」
「はい!」
説明が終盤に差し掛かり、鈴島が指示を出すと火名はまじめな表情ではっきりと返事をする。月名は、姉がなにやら重要そうな役割を担っていることに感心しつつも資料で確認すると、そこには、外傷を与えず、且つ命を脅かしさえしなければ手段は問わない。という物騒なことが書かれており、新手の拷問を想起して思わず綺麗な二度見をした。
鈴島はそんな月名を微笑ましく見ながらも、他人事ではないと言わんばかりに、月名に今後の方針と指示を出す。
「研修明け早々で申し訳ないが、取り調べにて首謀者や拠点等の位置が判明した場合、月名には俺と共に現地での調査に行ってもらう。 大丈夫だな、月名?」
「──っ⁉ はいっ! が、頑張ります……!」
月名は緊張や困惑の連続で、返事をするだけで精一杯であった。説明を終えた鈴島達は既にまとめていた荷物を手に持つと、事情聴取の事前準備のため別棟にある取調室にぞろぞろと向かっていく。オフィスに到着したその足で説明を聞いていた月名は、身も心もろくすっぽ準備ができておらず、自らの荷物を持っておろおろと辺りを見てしまう。すると、千裕が月名の緊張を解くように声を掛けた。
「寝坊はしなかったか?」
「千裕さん……その、頑張って間に合わせました……はい……」
月名は朝の出来事を思い出し、そのことを申し訳なさそうに白状した。千裕は月名の反応から絹川家の親子のやり取りが容易に想像できたため、彼女を励ますような話をする。
「まあ、昨日は遅かったし色んなことがあったから無理もないか。 今から少しづつ変えていけば大丈夫、月名ならできるよ。 それじゃあ、私達は一足先に取調室に行って準備しているから、着替えたら取調室まで火名と一緒に来て」
「ありがとうございます。 取調室ですね、分かりました」
千裕は月名の不安と緊張を解すと、オフィスを後にしていく。そこへ入れ違うように、自分の分だけではなく月名の端末も抱えていた火名が廊下から呼び掛けた。
「私達も移動するよ、月名ちゃん」
「あ、待ってよお姉ちゃん!」
ロッカーでEXTから支給された制服に着替えている途中、月名は姉の体つきに目が行った。一卵性の双子であるふたりの体型は似ているはずだが、どこか違和感を覚えた月名。彼女は自身の体型と比較すると、勝ち誇ったように火名に問う。
「お姉ちゃん、座り仕事であんまり動いてないから太ったんじゃな~い?」
「ちょっ⁉ もう、何を言い出すのかと思えば……! 月名ちゃんがこっちに来てからは事務処理が増えたせいで、相対的に運動不足なの!」
火名は、内心気にしていた些細な変化を妹に言い当てられてしまい、驚きのあまり肩を飛び上がらせてしまう。取り繕うようにシャツで身体を隠して月名を睨みつけるが、既に図星であることは明白であった。
自分がEXTに加わったことにより姉にしわ寄せがきていたことを知った月名は申し訳なく思い、姉の必死な弁明を前にしても反応が薄いものになってしまう。
「月名ちゃんもそろそろ着替えないと遅刻するよ?」
「……え⁉ もうそんな時間⁉」
話を振った側の反応がいまいちで、やられ損と感じた火名。彼女は月名に時間を確認させると、不服そうに着替えを終えていく。
火名に言われて携帯端末の時計を見た月名は予想していたよりも時間が経っていたことに気付くと、慌ててシャツに袖を通していった。
『──…………事故から十年が経過しました──』
大して珍しくもない高級マンション。その一戸にあるリビングに置かれた大型テレビに電源が入ると、変哲もない朝のニュース番組が流れ出す。台所で食器を洗う音を小気味よく耳に入れながら、大人しくソファに座る小さな少女。彼女は自身が産まれる前に起きた出来事を話すテレビを前に、思わず真剣な顔をして視聴に興じていた。しかし、少女の興味とは裏腹に既に熱の冷めた過去の事故であったため、番組が取り扱う内容は当たり障りがなく、直ぐに次の話題に変わってしまう。
「ねえ、お兄ちゃんは十年前なにしてたの?」
番組の内容に消化不良気味だった小さな少女は生前のことに興味を持ち、台所で洗い物の最中である年の離れた兄にソファから声を掛けた。
「────十年前か。 その頃は幼稚園に行っていたな」
「え~なにそれ、つまんな~い!」
洗い物を済ませ、食器を伏せた少年は少し間を開けて答える。だが、妹である小さな少女は期待していた答えとは違ったため、その内容にどこか不服そうな顔をしていた。少年はそんな妹を尻目に洗濯機から洗濯物を取り出すと、両手一杯に抱えたままベランダに行って窓の前に立つ。しかし、案の定両手は塞がっているので少年は妹に手伝いを頼むことにした。
「継、お兄ちゃんの手が塞がっているから代わりに窓を開けてくれないか?」
「は~い」
小さな少女、継はつまらなさそうに返事をしてソファから立つとベランダの窓を開ける。そして、兄と共に洗濯物を手に取ると広いベランダへ足を運んでいった。そこはよく晴れており、春風が兄妹の頬を撫でて快く迎える。気持ちの良い朝日と風を浴びながら、兄妹は決して多くはない洗濯物を干してリビングに戻る。
「洗濯物干すの、すぐに終わっちゃったね」
「そうだな」
家事が一段落すると、少年は少量の荷物をまとめて準備を始める。その様子を見た継は、春休みに入ってからは久しかった外出の気配を感じ取り、嬉々として兄の背中に近寄っていく。
「ねえねえ、お兄ちゃんどっか出かけるの?」
「……え? あ~……ごめんな、継。 花を買いに行くだけなんだ」
「……そっか……」
妹の輝く眼差しを前にした少年は期待させるのも悪いと考え、家族サービスではないことを苦笑いで伝えた。
兄の言葉聞いた継は純粋さ故か圧倒的な速度で萎れ、その目は赤くして沢山の涙を蓄えていく。
少年は妹に何もしてやれないことにもどかしさを感じると、せめてもの慰めとして、頭を撫でて抱き上げた。
「ほら!」
「ちょっとお兄ちゃんっ⁉ はずかしいよ~!」
唐突に始まった兄の愛情表現に敬は困惑するも、流れる前に涙は拭かれ、照れくさそうな笑顔を兄に見せた。少年は妹の表情を見て安堵すると、抱き上げた、軽くて小さな体躯をゆっくりと降ろしていく。口では嫌がりつつも名残惜しそうな顔をする継に、少年は目線を合わせ、両腕に手を添えて話し掛ける。
「……継、帰りにどこかへ寄るか?」
「ほんとっ⁉ 約束だよ! 早くいこ!」
継は少年の誘いを聞いて喜びのあまり跳ねて確認すると、上機嫌で靴を履きにいく。
子供らしい現金さを見せる継であったが、少年はそんな妹の姿になぜか憂いを抱いてしまう。彼は妹に急かされながら玄関に向かうと、その途中、リビングにあった写真立てに小さく声を掛けてから、家を出た。
「お父さん、お姉ちゃん……いってきます」
朝の日は高くなり、都内のアスファルトやコンクリートは人や車の雑踏に塗れることで、彼らを歯車として動かし、それを強いていた。
少年も例外ではなく、既に進路は決まっており、十日もすれば新たな環境に身を投じることになっている。しかし、それは家族のために選んだ道であり、だからこそ彼の心に眠る使命感がそれを赦さず、燻らせていた。思春期特有のものと考えれば幾分か気は紛れるが、変に生真面目であった少年にはそれが器用な考え方だと感じてしまい、より難しく捉えてしまう。
「お花、喜んでくれたかな……?」
そんな時、大きな交差点を前にした少年とその思考に、可愛い声が待ったを掛ける。小さな少女、継。彼女はいつになく難しい顔をしていた兄を心配し、思わず手を握ってしまっていた。
「……ああ、今日は継が選んでくれたんだ。 喜んでいたに決まっている」
数珠繋ぎになった自動車達が引っ切り無しに走っていく光景を横目に、少年は優しく、自信を持って答えた。忙しい社会に視界を目まぐるしく遮られ、焦りを覚えていた少年。彼は妹と言葉を交わしたことで、無意識下で苛立っていた気持ちを落ち着けていく。
「継、新しくできたケーキ屋さんに寄ってみるか?」
「ケーキ⁉ うん、良いよ!」
少し年の離れた兄妹は次の行き先を決めると、都内にある硬い動脈路を接がれた巨大な十字を前に待ち続ける。赤を示された自動車達は流れを止めて列をなすが、その中にあまりお目に掛かれない一台があった。
「――――旦那、アレですか?」
「ああ、アレだな。 あの護送車の中に俺達の大事な尻尾が乗っている」
赤と青が入れ替わる大きな交差点。そこに面する路地裏の影の中でふたつ、男の声がした。だが道という道が奏でた雑音により、声は持ち主達に以外を拒んで蓋をする。
陰に隠れることも、日に当たることも否定した気配達。彼らは街を行き交う数多の歯車よりも、その奥にある護送車を見えない視線で狩人のように待ち続けていた。
「でも本当に良いのか?」
「日和見すれば向こうの思う壺だ。 それに火種は幾らでもあったからな、気にすることはない」
ふたりが会話している間に再び色が変わると、大きな交差点を自動車が何台も曲がっていった。いつの間にか後方に止まっていた護送車は先頭になっており、彼らに見える形で曲がり始める。
「派手に、しかし丁重に持て成してやらんとな……」
気怠くもニヤついた声色の男は前を通りがかった護送車に向かって、見えもしない手の平を翳した。すると一秒もしないうちに、十メートルは離れている護送車の助手席側が異音と共に大きなへこみを作り、ドアを突き破る。そして、護送車の前方部分は鈍くも高い金属音と火花を撒き散らすと、歩道や、そこを正しく歩く人々を運転手ごとすり潰していった。
その際、靴や手荷物、車の金属片を赤く吐き捨てながら派手に横転するも、護送車の勢いは一切の衰えを見せなかった。寧ろ速度を増しながら、燃料やオイルごと人々を引き摺ることで数メートルの帯を作り上げていく。
「――――継ッ!!」
留まることを知らない人の悪意が彩る地獄の様相は、偶然にも信号待ちしていた少年を目掛けた。次の瞬間、少年が妹の名前を叫んで庇うも、全てを掻き消す程の大きな衝突音が、空と地に響き渡る。そこには、最早原形を拝めない程の突き破る大穴が虚しくも天を向き、終点を知らせていた。
立ち始める煙や炎に混ざった悲鳴が人々を恐怖で支配し、逃げ惑わせ、散り散りになる。地獄はそうやって伝わっていくと、瞬く間に交差点から人を消していった。
その有様を路地裏で見ていた白コートの男が裾を靡かせ、もう一人の男と共に姿を現す。そして、周囲へ視線を配りながら状況の把握をし始める。
「……手を抜き過ぎたか」
途中、標的である護送車を冷めた目でなぞっていると、ゲートが閉じていることに気が付いた。いらぬ手間が増えたことに白コートの男は内心面倒臭がるが、予定通りに進めるためもう一人の男を顎で使い、向かわせる。
「榎町、中には護衛がいるはずだ。 手筈通り手短に頼むぞ」
「勿論」
榎町は一言だけ残すと、瞬く間に自身の姿を無に秘めた。そして、革靴から小さな足音だけを残して走っていく。
「相変わらず怖えよ、旦那は」
榎町は護送車のゲート前に到着すると、ほぼ真横に向いていたロックを外して勢いよくゲートを開ける。光が差し込まれた中には、想定していた通り護衛の警官がふたりと、その奥で蹲っていた大事な尻尾を確認できた。
すると、ゲートを開けた音で目を覚ました警官のひとりは状況を確かめようと外に向かっていくが、当然、榎町の姿はない。
「……ふん、馬鹿がよ……」
手短と頼まれた榎町は懐から拳銃を取り出すと、なにも見えていない警官を馬鹿にすると、眉間にふたつの鉛玉を贈呈することにした。
酷く事務的に、そして躊躇いなく鉄が引かれると、警官は呆気なく仲間のひとりを失ってしまう。
動揺と恐怖を隠せない中、残された警官はなんとか絞り出すように体を動かし、通信機に手を伸ばした。
情報共有されるのを警戒した榎町は通信機を撃ち抜こうと狙いを定めたが、それよりも先に通信のスイッチが入れられた。
『――――――』
しかし、電波が悪いのか全くと言っていい程繋がらず、ノイズだけが聞こえ続けた。
これ幸いと、榎町は銃口の先を通信機からゆっくりと警官の眉間に変更し、狙いを定める。
だが、そんな状況に陥っているとは微塵も思っていない警官は応援も望めないまま、ただ独り、発砲音のした方に銃を向けることしかできないでいた。
時間が惜しく、長居によるリスクを負いたくない榎町。彼は警官の涙ぐましい努力に眉のひとつも動かさず、眉間に二発の鉛玉を撃ち込む。
造作もなく物に変わり、力なく倒れた警官。それを邪魔と言わん限りで足蹴にすると、榎町は横転した護送車の中に中腰で入っていく。
暗い中、前方で横たわる警官を足で退かしながら奥に行くと、榎町は被疑者である男が倒れているのが見えた。
被疑者の男は、救出に来たと思われる榎町の姿を見て、起き上がる。
「あんた……助けてに来てくれたのか……!」
「これも旦那からの命――」
榎町は男に銃を向けようとした瞬間、護送車が軋む音と共に大きく揺れて態勢を崩してしまう。白コートの男が隠れて見張っているためEXTや警察の可能性は低く、榎町は生き残りがいるとは到底思えなかった。念には念を入れ。榎町は得体の知れない存在に一抹の不安を抱えながらも、外の様子を確認するために引き返す。
幸か不幸か、その用心深さと臆病さは正しいものとなる。榎町は外に出た瞬間、にわかには信じられない光景を目の当たりにしてしまった。
「……継! しっかりしろ、継! おい、なんだよこれ……何がどうなっているんだ……?」
なにひとつ状況を呑み込めていない少年が妹を抱き寄せ、必死に声を掛けていた。
「…………う、うそだろ……⁉ 冗談キツイぜ……」
少年の存在もさることながら、榎町は生存者がいたこと、それも五体満足だったという事実に驚きを隠せず、思わず自身の姿を晒してしまう。
後ろから声が聞こえたことで少年は慌てて振り返ると、目の前にいた榎町の姿を見て言葉を失った。
「…………ぇ………ぁ…………」
目の前で起こっている悲劇が事故ではなく、銃を握っているこの男が起こした事件。少年の直感は、そう告げていた。少年は次第に恐怖が全身を蠢き、這いずる感覚に陥ってしまう。そして、金縛りのように重く震えていき、身体の自由を奪われていく感覚に襲われる。
だが、本能に訴え掛けられた少年は、強かった。
彼は妹をそっと地面に寝かせると、徐に立ち上がる。そして拳を硬く握り、睨みつけながら身構えた。
「…………ッ!!」
「……くッ⁉」
榎町は、少年の目の色が変わったことに気が付くと、両者の間に流れていた僅かな沈黙を破り捨て、慌てて姿を消していく。完全に想定外であった榎町。彼は急遽、目撃者の始末に移ることにした。
「え⁉ き……消えた……⁉」
手品でも、CGでもない。正真正銘、目の前の人間が姿を消したことにより、少年は慌てて周囲を見渡す。しかし、当然と言わんばかりに姿は見えない。彼の目に付くのは、つい先程まであったはずの砕け散った人々の活気と、四方八方に散らばった地獄の渦中のみ。取り残された少年は、あれだけ悩んでいた進路や家族のことが跡形もなく消し飛んでいた。そして、焦燥以外なにもない中で、不幸にも相手が銃を持っていたことを思い出してしまう。
「ッ⁉ 不味い……!」
「……遅かったな、あばよ」
自分の死を確実視してしまい、望んでもいない絶望に強いられていく。そんな打ちひしがれた少年の額に、答え合わせとして重い鉄が押し付けられた。そして、少年の心が揺らぐよりも先に、その鉄は引かれてしまう。
乾いた音と共に少年は後ろに強く倒れ、その額からは弱々しくも赤く流れていた。
少年の最後を見届けつつも、想定外なことに手間取ってしまった榎町は熱の入った舌打ちをする。そして、背を向けて本題である男のところへ足を運ぶ。
「──────待て──────」
瞬間であった。
榎町は聞こえた。今さっき聞いた、もう聞くことのない声。それが、背中の方で確かに聞こえた。次第に全身の身の毛がよだち、精神ごと凍り付くような感覚に襲われていく。彼は恐怖した。殺されることよりも、生きていることに。死に勝る、生の存在に。
震えが止まらない榎町は、自らの手を抑えるように握り、己を昂らせて振り向く。指で押し込んだ引鉄により威勢のいい銃声を発するも、その音とは裏腹に、手の震えが影響したためか鉛は頬を掠めるだけに留まった。
少年は額の殆どを赤く染めながら、覚束ない足取りで真っ直ぐに向かっていく。
その光景を目の当たりにした榎町は、迫りくる恐怖から距離を置くように後退り、撃ち続けた。何度も、何度も。硝煙と鉛を叫ばせた。
だが、腕や足、腹にさえ命中しても、仰け反って血を流すだけで、一向に死なず、榎町の行為を拒絶するかのように少年は近づいてくる。
「……お、お前……! も、もしかして……⁉」
理性を感じさせない生命を見た榎町は、破れかぶれに残弾を吐き出した。結果、その全てが無駄玉に変わり、拳銃は弾切れを起こす。この時の榎町は恐慌状態の最中にあり、正常な判断ができているか既に怪しくなりつつあった。
そんな榎町の目前まで少年は近付くと、その鉄臭い腕を伸ばし、地獄へ誘うように掴み掛かる。
「ふざけんじゃねぇぞ! 馬鹿! 放せッ!!」
榎町は死に物狂いで抵抗して銃で少年の頭を力一杯に殴打するも、コンクリートのように硬く、まるで手応えがない。いよいよもって打つ手がなくなり、怯えるだけになった榎町。
少年は彼が縋るように持っていた銃に腕を伸ばし、添えるように片手で握っていく。
そして次の瞬間、手に力を加えると銃は飴細工のように容易く砕け、やたらと響く金属音を出しながら鉄屑はふたりの足元に散らばった。呆気なく行われたそれは、少年の分かり易い暴力によって告げられる、ある種の警告でもあったのだ。
彼はどこを見ているのか想像もできない曇りなき眼で榎町を見ると、その拳を握り、赤く滴らせながらゆっくりと振りかぶっていく。
そして、殴った。




