七、食べたくても食べられない病③
お茶会当日。
一番最初に卯の宮に到着したのは、丑の宮のユーチェン妃である。故郷の棗茶を持参して、リンリン妃を気遣っている。
「またお痩せになったのでは? この棗茶は体に良いゆえ、お飲みになってください。お茶は召し上がれるとお聞きしましたので」
ふんわりとした妃だった。二番目に位の高い妃なだけあって、人望もありそうだ。なにより、胸が大きい。かんばせも美しく、化粧も気持ち程度の薄いものだ。だというのに、存在感があり気品が漂っている。
「……やはり、丑の宮の妃さまではない……?」
リンリン妃の隣に立ち、ホンファが品定めするようにユーチェン妃を見ている。
「初めて見るお顔ね」
「あ、はい。先日こちらに配属になりました。ホンファと申します」
「ホンファ。べにばなね。いいお名前ね」
「……ありがとうございます」
べにばな。べにばなは油の原料にもなるし黄色い色を付ける食紅にもなる。薬としても有名な植物だ。
「あら、出迎えもないの?」
「も、申し訳ありません。リンユー妃さま」
なじったのはリンユー妃の下女だった。慌てて立ち上がったリンリン妃を見るに、この妃、あるいは下女がおそらく今回の元凶なのだとホンファはすぐさま気づいた。リンリン妃の顔が真っ青になり、よろめきながら下女であるホンファををリンユー妃のもとに送る。
「御足労ありがとうございます。リンユー妃さま」
「見ない顔ね。ほんと、妃に似て冴えないお顔で」
リンユー妃にかわり、下女がホンファに不愛想な挨拶をする。傍ら、リンユー妃はなにも言えない。気の弱い妃のようだ。
「……あいにく、下女なのでリンユー妃さまのような美しさは持ち合わせておらず」
「ふっ、褒めたってなにも出ないわよ」
そう言いながらも、リンユー妃付きの下女はまんざらでもないように鼻を鳴らす。妃の誉は下女の誉。そんなのただの幻想だろうに。偉いのは妃であって、この下女ではない。
一緒に来たのか、後ろから顔をのぞかせる酉の宮・メイヨウ妃がひらひらとリンリン妃に手を振っている。
「リンリン妃。お久しうございます」
「メイヨウ妃さま、お久しぶりです」
少しだけほっとしたように、リンリン妃が歩いてくる。傍ら、下女がリンリン妃の体を支えている。それくらい、リンリン妃は衰弱していた。
さて、どうわからせようか。
現状、リンリン妃の病の原因はリンユー妃がらみとみて間違いないだろう。
証拠に、お茶会が始まってからずっと、リンリン妃はリンユー妃の後ろにいる下女たちの顔色を窺っている。
しまいには、くすくすとわざと笑いをこぼす下女たちに、しかし確証がないものはなにもできない。
せめてぼろを出してくれたら、リンリン妃の病の原因を問いただせるというのに。
……いや、ぼろを出してくれたら? そんなの、黙って再びリンリン妃の傷をえぐれと言っているようなものだ。それだけは避けなければ。
ホンファの考えはあくまで推測に過ぎない。証拠もない。それだけで他の宮の下女を問い詰めることは、ホンファの首が飛ぶことになる。だが、こうしている間にもリンリン妃は弱っていく。原因を見つけてから対処するとか、リンユー妃の下女のせい『かも』しれないとか。そんなこと、どうでもいい。
今目の前で、主人が侮辱されている。
「なにをお笑いですか?」
ホンファが低く、リンユー妃付きの下女に言った。
「は? 私に言ってるの?」
リンユー妃付きの下女が、眉間にしわを寄せてホンファをにらんだ。
「リンリン妃さまを、明らかにさげすんでおられますよね? 仮にもそちらのお妃さまより上の位の妃ですよ?」
「……は? なに? リンリン妃さまは、だって今はもう、主上のご寵愛も受けていないでしょうに。知らないの? 主上はリンユー妃さまに毎日のようにお通いですよ?」
リンユー妃は黙り込む。この下女は妃すら丸め込んでしまうのだろう。なにも言えない気の弱いリンユー妃につけ込んで、後宮で好き放題しているのは目に見えて明らかだった。
「知らないのかしら? リンユー妃さまのほうが、元の身分は高いのよ?」
身分だのなんだのと、くだらない。ホンファは下女に冷たい目を寄越した。下女は気に入らなかったらしく、
「私の元主人が仰っていたわ。かの死んだ東宮さまだって、平民の母の血が混じったため死んだのだと。高貴な血筋が穢れぬように、主上自ら手をくだしたのだと」
「はっ。アナタ、東宮さまをそのように言って。命が惜しくないの?」
「誰もが知ってることでしょう? 高貴な血筋はなによりも重んじられるべき。東宮さまは穢れていたし、そちらの妃さまだって、リンユー妃さまより下のご身分。ゆえに、リンユー妃さまが主上に愛されるのはしごく当然」
ふん、と下女が鼻を鳴らした。ホンファはあきれてものも言えなかった。しかし下女は、無礼にも続ける。
「だいたい、そんながりがりにお痩せになって。みっともないったらないじゃない。後宮入りした当初は心労でお太りになって。本当、うちの巳の宮の妃さまと違って、卯の宮の妃さまは自己管理もできないって、もっぱらの噂――」
それを、リンリン妃に、まだ十四歳だったリンリン妃に、面と向かって言ったのだろうか。今と同じ、その言葉を。
身分だのなんだのの話は、ホンファだって弁えていた。だが、これだけは別だ。この下女は、先のような言葉の刃でリンリン妃を傷つけたのだろうか。
怒りが勝り、ホンファは下女の胸倉をつかんでいた。
「それを! 言ったのか!? リンリン妃に! その、心無い言葉を!」
後宮に入って右も左もわからずに、食事だっていつ毒を盛られるかわからない恐怖におびえ、心労から無茶食いをしたとしても、年ごろのリンリン妃に少しばかり肉がつくのは人間として当たり前のことだ。成長期に脂肪がつくのは人間の本能だ。
それをなじられ、リンリン妃は苦悩したのだろう。太った自分は醜いと、そう、思ったのだろう。それとも、直接ののしられたのかもしれない。この下女なら、それくらいのことは言ってのける。現に、妃が四人集まったこの場でも、はばかることなくリンリン妃の悪口を言ってのけた。
「ひとの美醜を見た目で判断するのは、愚かな人間のすることだ」
「はっ。でも、実際に主上のお通いはなくなったのでしょう? それがすべてを物語っているでしょう! 醜い妃。みんながそう言って――」
ホンファが手を振りかざし、下女を叩き――それをぎりぎりでこらえた。叩いたらこちらの負けだ。
しかし、これにはさしものリンユー妃も黙っておらず、ふたりの間に止めに入る。
「私の下女が失礼を言ったことは謝ります。けれど、手を出そうとするなど」
「では、リンリン妃さまの心の傷は、どうでもよいというのですか?」
「心の傷……?」
リンユー妃が、リンリン妃を見る。ほろほろと涙を流して、今にもひきつけを起こしそうだった。
「リンリン妃……もしかして、食べられなくなったのは……このものの言葉のせいなのですか?」
リンユー妃が恐る恐る口にする。しかし、
「ち、違うのです! 私は、私の意志で減量していて」
「減量、しているのですか?」
「ち、ちが。リンユー妃さま、私は」
ことの重大さに気づいたのか、リンユー妃は下女を問い詰める。
「ソナタ、リンリン妃になにを言った?」
「リ、リンユー妃さま。私はただ、太っていては主上のご寵愛を受けられなくなりますよと、ご進言しただけで」
「そのようなことを……!」
袖で顔を隠し、リンユー妃が息を吐き出した。
ユーチェン妃はひきつけを起こすリンリン妃を抱きあやし、メイヨウ妃はこの場を収めるために外に使いをよこした。
「思春期に多いご病気です。ご自身を太って醜いと思い込み、どんなにお痩せになっても自身を太っていると思い込んでしまう。それでもっともっとと減量され、最後にはお命を落とします」
ホンファがリンリン妃のもとに歩く。リンリン妃は、涙にぬれた顔でホンファを見上げた。
ホンファは、優しく、まるで妹や弟にするように、リンリン妃の頭を撫でた。
「お辛かったでしょう」
「わた、わたし」
「大丈夫です。私はリンリン妃さまの味方です」
「ちが……私のせい、で」
「リンリン妃さま。無理矢理食べさせるようなことは致しません。ですが」
きゅっとリンリン妃を抱きしめて、ホンファはリンリン妃の顔を見ないで、
「なになら食べられるか、一緒に探していきましょう。リンリン妃さまは、お好きな食べ物、今食べたいもの、食べたくないもの、嫌いなもの。すべて私に教えてくださいませんか?」
リンリン妃の背中をポンポンと叩く。本来ホンファは、妃に触れることすら許されない身分だ。だが、今はそんなことは言っていられない。言うつもりもない。
自分が味方なのだと、それだけは伝えたい。伝われ。
「干し柿が、食べたいです」
「干し柿。あれは食物繊維や栄養が豊富なので、体にいいですよ」
「そう、なのですか?」
「はい」
食べたくても食べられない病の場合、食事を促すのは禁忌だ。ならば、その人に寄り添って、なになら食べられるかを考える。つまるところ、心の病には寄り添いが一番の薬だとホンファは思っている。
そして、それが一番難しいところなのだ。どんなに誠意を見せたって、一度傷つけられた心はなかなか元に戻らないし、他人に言葉の刃を向けられた人間が、再び他者を信じられるようになるには、気が遠くなるような時間がかかる。
「リンリン妃。私もついています」
ユーチェン妃がリンリン妃を撫でる。メイヨウ妃も頷き、ユーチェン妃も小さく首肯した。
「ユーチェン妃さま、メイヨウ妃さま、リンユー妃さま……」
本来この、リンリン妃とは、純粋無垢で素直な性格だ。ゆえに、リンリン妃は、最後までリンユー妃の下女を責めることはしなかった。
「私、本当は、食べられないの、悩んでいて」
「そうでしたか」
「ホンファ。私、ホンファの料理が食べたい。ホンファは厨房で働いていたんでしょう?」
シュエに聞いたらしい。ホンファは少し考えて、しかしリンリン妃が望むならと、
「わかりました。リンリン妃さまのお食事は、私が作らせていただきます」
リンリン妃が、笑う。
細く折れそうな体つきは相変わらずだが、ホンファがこの宮に来て初めて、リンリン妃の心からの笑みを見たような気持になった。