四、ホンファ④
翌日の昼のことだった。
今日はことさら暑い気温ゆえに、公主君の茶会に冷たい果実水が出されることになった。
今日は王族の次に権力を持つ、春明という左大臣の娘が茶会に参上するのだという。そのシュンメイの主催の茶会ゆえ、シュンメイ自ら果実水を用意したのだ。
シュンメイの娘の名を春恋といった。たいそう美しく、噂では東宮の妃候補だったのだと聞いている。
帝には子供が五人いる。女四人、男ひとり。必然的に、唯一生まれた王子を東宮と定めたらしいが、この東宮は、一年前の華鳳の乱で断罪され、斬首となったいわくつきの王子なのである。
東宮は当時、数えで十九歳。帝としては、正式に東宮に次の帝の位を約束したかったのだろうが、事件は突然に起きた。
東宮が主催した宴の席で、帝の暗殺未遂事件が起きたのだ。
幸い、帝は一命をとりとめたものの、その一件以来、帝は食が細くなり、先日ホンファが脚気の食事療法を提案するに至ったのだった。
「東宮さま、さぞ無念でしたでしょうに」
数えで十九といえば、ホンファと同じ年齢である。帝に第一王子が生まれた際、それはたいそう喜ばれたのだと聞いている。同じ年に生まれた子供を、親の身分に関係なくみな平民以上の身分にするなど、帝の王子に対する溺愛ぶりはよく知られた話だ。
つまり、ホンファが平民という身分であるのは、父の官職に関係なく、東宮のおかげであるともいえる。
とはいえ、今のホンファの身分は卑民だが。
「さて、と」
用意された果実水を器に入れていく。赤くきれいな色の果実水は、甘いにおいがして思わずホンファの腹の虫が鳴くほどだった。
「ホンファったら。食いしん坊ね」
「ユイユイ。ユイユイだって、さっき果実水の汁を味見していたの、知ってるんだから」
同い年だからか、ホンファはユイユイとことさら仲が良かった。ほかの女官は出世に目がくらんで、お互いがお互いをけん制しあっていて、ホンファは好きになれなかった。
「ユイユイって、なんで女官になったんだっけ」
「私? 年季奉公。あと一年でお役御免だけど。でも、後宮に残ろうかなあ」
「なんで。せっかく年季が明けるのに。家に帰らないの?」
「だってぇ。ホンファを置いていけないでしょ? それに」
じゅる、とユイユイが厨房を見やる。なるほど、この子は色気より食い気なのだ。つまり、ここで働いていれば、帝のおこぼれとはいえ、食うに困らない。それに、平民なんかでは手に入らない食材だって食べられる。
「ユイユイこそ、食いしん坊だよね」
「へへ、否定はしない!」
にぱっと笑って、今日の配膳はユイユイの担当だった。盆に果実水を乗せて、こぼさないようにユイユイがそろりと歩く。
果実水の中の氷が、からんころんと音を立てた。
ユイユイと入れ替わりで、厨房の料理人の張来が帰ってくる。
「あれ、チョリエイさん。息を切らしてどうしました?」
「いや。今日は暑いな。ちょっと野暮用があって帰ってきたところだ」
ホンファは厨房をちらりと見やる。
「少し待っていてください」
料理長たちの目を盗み、ホンファは果実水をチョリエイに渡した。
「ああ、ありがとう」
「内緒ですから。早く飲んでしまってください」
チョリエイは、ぬるくなった果実水を一気に飲み干し、ふうっと息を吐き出すのだった。
事件は白昼堂々起きた。
「ぐっ! ぁっ!」
今日の主賓である、春恋が倒れたのだ。口から泡を吹き、これには同席していた父親も右往左往するばかりで、誰もなにもできなかった。
ともに果実水を飲んでいたひめたちは、果実水を吐き出すために自分の喉奥に指を突っ込む。
「その女官を、とらえよ!」
「ま、お待ちください、私はなにも……!」
女官、というのはユイユイのことである。現状、毒見役はぴんぴんしている。ならば、毒を盛ったのはこの果実水を運んできた女官ではないかと、みなの意見が一致する。
泡を吹くシュンリエンに、シュンメイはなにもできない。
「お待ちください!」
騒ぎを聞きつけて、ホンファが現場に駆け付ける。はっはと息を切らし、瞬時に状況を把握する。
「シュンリエンさまのご容態をお見せください」
「な、貴様はなんだ。大事な娘にこれ以上下民の手を触れさせるとでも――」
「一刻を争うのです!」
怒鳴りつけ、ホンファはシュンリエンのそばにしゃがむ。息はある。口元の匂いを嗅ぐ。
種子の香りがする。となれば、これは青酸だ。主に青い梅などに含まれる、自然界にも存在する毒だった。
「管と漏斗! それからぬるま湯と炭と薬研と蒸留酒を! 一刻を争います! 急いで!」
道具が届くまでの間に、ホンファはまず、シュンリエンに制吐剤を飲ませる。厨房には、制吐剤が常備されている。これは、料理の材料に毒が混じっていた際のための備えで、ホンファは騒ぎを聞きつけて、迷うことなく制吐剤を手に駆け付けた。
制吐剤を飲ませて、シュンリエンが飲んだものを吐き出す。固形物はなく、毒を盛られるとしたら果実水に絞られる。
しかし、ほかのひめぎみは果実水を飲んでもなんともないところを見ると、なにか仕掛けがありそうだ。そもそも、ひめより先に厨房のチョリエイが果実水を飲んでいる。チョリエイは今もぴんぴんしている。
ホンファはいったんシュンリエンを父であるシュンメイに預けて、果実水の入った陶器の器に目を向ける。器が陶器ということは、不衛生な器のせいで起きた食中毒ではないだろう。
となれば。
ホンファがふたりのひめの器を見る。氷がからころと音を立てた。
「この氷……」
氷をつまみ取り、陽にかざす。中に空洞があり、そこに液体がちゃぷんと動いた。
「失礼します」
ひめに断りを入れ、ひめの髪から銀の簪を借りる。
「なに、わたくしの簪」
「見ていてください。毒の正体は、これです」
ホンファは、ひめが飲み終えた果実水の残りに、簪を浸ける。しかし、色の変化はない。つまり、この果実水に毒はないということだ。
そして、同じ器の中で、今度は氷を割って溶かしてから、再び簪を果実水に浸ける。
果実水に浸けた部分が、黒く変色するのが分かった。
「シュンリエンさまは、氷をかみ砕く癖がおありですね?」
シュンメイに聞くと、こくこくと何度も頷く。
毒の正体が分かったところで、折よく管と漏斗、それからぬるま湯と炭と薬研と蒸留酒が届けられる。
管は蒸留酒で消毒し、十七寸(五十センチ)にして、口から胃の中へ通す。
「な、貴様、わたしの娘になにをする」
「黙っていてください! 毒は時間との戦いです!」
シュンリエンを机の上に寝かせて、管を胃まで入れたら、先に漏斗をつけて、ぬるま湯を一合流しこむ。そのあと、漏斗を外して、管を机より低い位置に持っていくと、胃の中のぬるま湯が流れ出る。流れ出た内容物は桶にためて、あとで毒の検証がなされるだろう。
これを何回か繰り返して胃の中のものを吐き出させて、最後に薬研で細かくつぶした炭を溶かしたぬるま湯を胃に流し込む。炭には毒を吸着する性質があるため、炭に毒物を吸わせて外に排出するのだ。
この間わずか四半刻(三十分)足らず、みながみな、ホンファの手際にあっけにとられていた。
「しかし、毒の量が分からぬゆえ、命の保証は出来かねますが」
処置を終えて、ホンファが手をぬぐいながらシュンメイに言う。シュンメイは昏睡する娘を涙目で見守り、
「わたしの娘に毒を盛ったものを、探し出せ!」
「は」
傍付きの宦官に命じる。
ホンファも思案する。現状、この果実水を出すことを決めたのはシュンメイそのひとだ。だとして、氷を提供した人物がいるのは間違いない。
「シュンメイさま。氷を提供くださったのはどなたなのですか?」
ホンファが問うと、しかしシュンメイは答えられない。動揺しているようだった。
「……氷を用意できるかたとなると、それなりのご身分のおかたしか……」
ホンファのつぶやきに、しかしシュンメイは、
「氷吏の氷に毒があったと? ソナタは帝直属の氷吏を疑うのか!?」
そうなるのは明白だった。しかし現状、氷のなかに毒を仕込むには、日数がかかる。氷のなかに毒を仕込むには、最低でも一日は必要だ。
「氷に毒を仕込むには、日数がかかります。それを女官に用意出来るはずが」
「ソナタの意見など聞いていない。さしずめ、毒を盛った女官と仲間か……」
シュンメイの疑いがホンファに及ぶ。ホンファは思案をやめない。氷、氷……。
そこで思い当たったのが、シュエである。ホンファの頭に浮かんだのは、まぎれもなくあの男のことだった。
あの男は確か、帝への干した豆腐を作るという名目で、氷吏の地下室に出入りを許可されたばかりではないか。
あの男なら、なにかを知っているかもしれない。そもそも、あの男が犯人なのかもしれないとさえ、思った。
「シュンメイさま。少し外してもよろしいでしょうか」
「おい、わたしの娘は」
「医官さまがいらっしゃいましたので、あとのことは申し送っておきます。私なんかより、毒の治療は医官さまのほうがお詳しいかと存じますので」
ホンファは到着した医官に、青酸の毒であること、毒を胃洗浄したこと、炭を飲ませたこと。処置までに四半刻かかったこと、これらを早口に申し送って、向かうはシュエの執務室である。
落ち着いた部屋に、シュエが静かにたたずんでいた。
「来ると思っていたよ」
「シュエさま……シュエさまは、確か、氷吏の氷室に出入りしていますよね。そこで不審な人物を見ませんでしたか?」
シュエ自身を疑っている、とは言わなかった。シュエは考えるまでもなく、
「仮にも、主上のための氷吏の氷を盗まれるなんてこと、あると思うか?」
「それは……」
「それに、貴族たちは各々、氷を手に入れる道筋を持っている。そもそも氷を管理する氷吏は、この国には五つある」
帝の管理する氷吏は都の麻を中心に
、奏、汪、伊誌、それから瑞。これらの五つは、いずれもこの彩の国の都、麻から一里ほどの場所にある。
「では、シュエさま。言い方を変えます。シュエさまは、氷を持ち出したことはありませんか」
「はは、そうか。疑っているのか、わたしを」
笑って、それは困った、とシュエはハクシュウのほうを見た。ハクシュウは困ったようにため息を漏らし、
「そういう態度をとるから、疑われるのです」
「なんだ、ハクシュウ。ただの冗談だろうに」
つまらぬやつ、そうつぶやいて、シュエはホンファに柔らかな笑み向けた。
「あいにく。わたしも暇ではない。いちいち氷を持ち出した人間を調べる暇などなくてな」
「それは……そうですが」
しかし、犯人を見つけなければ、きっと帝国厨房の人間が罰せられる。こと、果実水を運んだユイユイの極刑はまぬかれぬだろう。
ホンファは唇をかみしめる。
「なんだ、ソナタ。リンリン妃のときはわたしに協力しなかったくせに、わたしには協力しろと」
「……友の命が、かかっているのです」
「こちらは、妃の命だ。しかも卯の宮。上から四番目だ」
ああ、本当に嫌だ。偉い人間は卑賤の民の命など、その辺のありを踏みにじるのと同じなのだ。なにも感じないのだろう。このシュエという男もまた、ユイユイといういち女官の命を軽んじている。腹が立った。
「では、リンリン妃さまのご病気を……治せる確証はありませんが、私がリンリン妃のところに行けば、氷の件を……今回の件で、女官への罰を――」
「引き延ばすことならばできる。全くなかったことには、わたしでも難しいだろう。だが、真犯人が見つかれば別だ」
シュエが取引を持ち掛ける。悔しい、悔しい。こんなことなら、後宮になんて来なければよかった。いや、来てしまったものは仕方がない。それに、ここでシュエという高官に恩を売っておけば、のちのためにもきっと役に立つときが来るだろう。まあ、その恩を売る前に、ユイユイの命という借りを作かたちにはなるのだが。
「わかりました。私はなにをすれば?」
「そう来なくちゃ。では、ソナタにはしばらく、リンリン妃の下女として働いてもらう。その中で、病の原因を探ってくれ」
「……御意」
拱手してこうべを垂れて、ホンファは唇をかみしめた。