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エピローグ②

***


 名前なんて、最初からどうでもよかった。シュエメイだろうがホンファだろうが。だが、親がつけてくれた名前に愛着があるのも事実で、シュエメイは結局、本来の名前をユイユイたちに明かし、今日も料理を配膳する。


姐姐ジェジェ! 今日の配膳はジェジェなのですね!」

「リンリン妃さま。もうだいぶ大人になられて」


 思春期の成長はことさら早い。シュエメイよりだいぶ低かった身長は、今やすっかり追い越されてしまった。胸も膨らみ、帝のお手付きとなる日も近いだろう。


「あら、ホンファ――じゃない。シュエメイ。私の宮にもたまには顔を出してくださいな」


 ユーチェン妃の手には、生まれたばかりの赤ん坊が抱かれている。季節はもうすっかり春めいて、草花が芽吹き始めている。


「ユーチェン妃さま、芽芽ひめさま、こんにちは」


 待ちに待った御子の誕生だった。東宮とは二十も歳が離れている。


「帝ももうお年なのに、よく頑張ったなあ」

「こら、シュエメイ」

「申し訳ありません、ユーチェン妃さま!」


 つい漏れた本音に、シュエメイは恐縮してこうべを垂れた。


「それで、東宮とはどうなのです?」


 ユーチェン妃が目を輝かせながら問うてくる。


「どう、とは?」

「もう。アナタたち、いい相性だったじゃない」

「私と東宮さまが? ないですないです!」


 あんなにふりまわす人間はもううんざりだ。

 シュエメイは膳をリンリン妃の傍に置いて、そそくさと卯の宮を後にした。



 昼餉の配膳を終えて料理場での食事が始まる。シュエメイとユイユイは、仲良く並んで食事をしている。


「あらあらあら、東宮さまのお気に入りが、こんな粗末なところで食事なんて」

「はあ、お気に入りとかじゃないですし」

「聞いた? ほら、遊ばれてただけよ。あの東宮さまがこんな子を好きになるなんてありえないでしょう?」


 くすくす、きゃっきゃと女官たちのいびりは今日も健在だ。

 さて。

 シュエメイはさっさと食事を終えて、下膳の準備に取り掛かる。


「あ、シュエメイ。さっきハクシュウさまっていう宦官さまがこれを」


 渡されたのは、書簡だった。


「こちらに来られよ」


 書かれた文字に、シュエメイは一抹の不安を感じる。


「ここって……」


 なにを隠そう、東宮の元・執務室だった。


***


 ハクシュウが自分になんの用だろうか。シュエメイは逸る心臓を抑えきれずに、その場所に向かう。

 いよいよ、首が飛ぶのだろうか。……飛ぶのだろうな。シュエメイは東宮に散々ひどい扱いをしてきた自覚がある。特にあの日、シュエメイの身分が回復した日、東宮の胸を殴ってしまった。

 入り口の前で深呼吸する。


「シュエメイ、参りました」

「入れ」


 東宮の声だった。

 どっどっどっど。

 心臓が耳から出るのではというくらい、早鐘を打った。

 入り口を開けて、シュエメイは執務室に入る。きゅっと目を瞑って。


「ホンファ、こちらに来い」

「はい……」


 薄眼を開けて、一歩、二歩、三歩。

 机の前まできて、シュエメイはようやく目を開けた。

 そこにいるのは、東宮――ではない。シュエだ。

 冕冠も、龍の描かれた衣も着ていない、ただの漢服姿の、シュエ。しかし、髪は白銀だ。

 こたびの件で、東宮は生きていたと公表された。しかし、東宮が『ふたりいた』ことは明かされなかった。明かせば民や朝廷が混乱するのは目に見えていたからだ。


「えっと、東宮さま?」

「ああ、俺は今は東宮ではない」

「?」

「わたしはシュエとしてここに来た」


 なにを屁理屈を。


「だとして、私になんの用ですか。シュエさまだって高貴なお方でしょうに」

「ああ、ソナタには世話になったゆえ。秘密主義は終わりにする。順を追って話そうか」


 もともと、東宮は正式な妃の子供ではなかったのだそうだ。いうなれば、十二支以外の宮の妃――平民との間にできた子供だった。しかし妃は一番位の低い亥の宮に据えられた。帝はそれだけ亥の宮の妃を大切にしていた。見た目の美しさもそうだが、なにより帝に正直であろうとする姿勢に惹かれたのだと聞いている。

 帝は亥の宮のおうじをそれは可愛がり、次期東宮にするという話は誰もが知るところだった。

 問題は、その御子が双子だったことだろうか。


「兄上。俺は帝になるつもりはありません」

「シュエ。ソナタとわたしはふたりでひとり。わたしひとりが帝になるわけがない」


 実際、帝はふたりともを慈しんでいたし、ふたりともを帝に据えただろう。

 兄東宮は穏やかで、弟東宮から見ても帝に相応しかった。

 ふたりは冕冠を被って、父帝の政務をそばで見てきた。七日ずつ交代で、帝のそばで政治のなんたるかを学んだ。

 十五になると、ふたりの性格の違いはより顕著になった。

 兄東宮は帝に新たな妃をすすめ、弟東宮は貴族王族たちの腐った政治を正すために、度々政務の場で意見を出した。


「シュエ、ソナタのやり方ではいけない。政治を支える貴族や王族を大事にしなければ」

「しかし、兄上。貴族たちは俺たち――東宮は正当な血筋ではないと、何度暗殺されかけたことか」


 基本的に、皇宮は兄と弟が交互に住まう。

 交互に住まってなお、暗殺はあとをたたなかった。


「次期帝は、兄上がなるべきなのです」

「わたしはそうは思わない。わたしたちはふたりでひとり。共にこの国を導いてはくれぬのか?」


 兄東宮は父親に似ているが、仕草や柔らかな性格は母に似ている。というのは、帝の口癖だった。


「俺は、本当の息子ではないのです」

「またシュエは」


 弟東宮は帝にも母親にも似なかった。唯一、髪と瞳の色は受け継いだが。弟東宮はそれが気に入らないらしい。なにかにつけて、兄東宮を困らせる。


「ソナタの正義感は、母上に似たのだろうな」

「まことですか」

「まことだ。あとで帝に聞いてみるといい」


 平民の出の亥の宮の妃は、聞いた話、下女に優しく接し、時には間違ったことを正す正義感を持っていた。それらは後宮では有名な話だった。


「父上。母上はどのようなかたでしたか」

「ソナタはまたその話か」


 しかし、帝の顔は笑っている。


「ソナタの母は、冤罪で投獄したものを放免するために、自ずから進んで証言を買ってでるようなひとだった」

「冤罪はよくないです」

「ああ。だが、そのものは身分も低く、疑われても仕方のない素性の持ち主だった。しかし母は、『どんな人間の命も等しく尊い』、そう言って、敵を作ることすらいとわずに、身分の低いものを助けたのだ」

「人間の命は等しく尊い……」


 うん、と弟東宮が首肯する。母の言った言葉の意味がよくわかる。自分と同じ考えだ。ならばきっと、自分は兄東宮の言う通り、母親に似たに違いない。

「父上。兄上。俺は母上に似たのですね!」

 平和な日々だった。兄東宮と弟東宮。どちらが次期帝となっても、きっとうまくやっていけると思っていた。

 それが、昨年の帝暗殺未遂事件で、兄東宮が死んだ。兄は弟をなんとしても守りたかった。

 華鳳の乱以降、帝の食欲が落ちたのは、なにも毒を盛られたことだけが原因ではない。目の前で息子が自刃したとなれば、引きずりもするだろう。さらには、弟東宮を皇宮外に出して、いつその正体が明かされるかという不安。

 そもそも帝は、亥の宮の妃が死ぬ際に、くれぐれも東宮を頼むと言われていたのだ。それを果たせず、どれだけ苦しんだか。

 兄東宮を処刑した帝は、苦渋の選択で弟東宮に華鳳の乱の真実を調べるように、秘密裏に命じた。シュエという偽名を与えて。

 さらに最悪を想定して、昨年の件の真相が分からずとも、『シュエ』として生きられるよう、取り計らった。

 そして、帝は新しい妃を迎え入れた。これらは、弟東宮たっての希望である。東宮が死んだこと、愛情がもうないことを示す目的もあった。


「ユーチェン妃のお子がおなごだった。おのこが生まれたら、俺は東宮の座を降りるつもりだった」

「そう、ですか」


 それはただの詭弁だと思った。この東宮は、誰よりも兄東宮の遺志をつごうとしている。

 帝がこの東宮を殺さずにいたのは、なんとしても弟東宮だけは次期帝にしたかったからだろう。

 これだけ優秀な人物だ、帝が放っておくはずがない。

 仮におうじが生まれていても、帝は東宮を手放さなかっただろう。亥の宮の妃の忘れ形見で、兄東宮が守り抜いた弟。


「どうもわたしは、この場所(東宮)から離れられないようだ。ゆえに、腹を決めた。わたしは東宮として、帝をお支えするつもりだ」

「はあ」


 だったらなんだというのだろうか。はなはだ疑問だ。シュエメイを呼んだ理由に、宛てがなかった。

「それでは、頑張ってください。私はこれで」

「まて、本題はこれからだ」


 傍ら、ハクシュウが頭を抱えてため息をついている。嫌な予感しかしない。いや、聞いたら最後だ。この場を早く去らなければ。

 シュエメイが踵を返し一歩踏み出す。しかし、音もなくシュエに背後を取られ、


「なに。東宮に戻った俺には――優秀な女官が必要だ。俺の手足となるような。そもそも」


 シュエメイの料理を一度食べてしまえば、もうほかのものは食べられない。そのうえ、食中毒の知識もある。放っておく手はないだろう。


「東宮さま、私には料理しか能がありませんゆえ」

「ユエ イールゥーと呼ぶがよい」

「いや、東宮さまをお名前で呼ぶわけには……」

「ソナタは言った。高貴な人間は卑賤の民を人間扱いしないと。だが、それは平民も同じこと。民と王族。どちらも同じ人間だ、違うか?」


 東宮の言葉はシュエメイにはよくわからない。この東宮はいささか頭が良すぎるがゆえに、平民では理解しがたい考えをお持ちのようだ。

 だらだらと変な汗が流れる。

 ああもう、損な役割だ。

 こんなことになるのなら、あの日、帝の病を治そうなんてしゃしゃり出なければよかった。

 いや、それも無駄か。そもそもシュエメイの手が、料理人のそれだったのが悪いのだ。

 あかぎれとタコだらけの、右手。この傷は、勲章だ。


「で、では、身の回りの世話をする、下女としてなら」

「よし分かった。では、ソナタには私の宮に引っ越してもらって。東宮付きの料理専属女官としよう。そうだ、衣もあつらえねばな」

「はは、あはは」

「はは。なんだ、そんなにうれしいか?」


 東宮が、嬉しそうに破顔している。このどうしようもなく憎めない東宮に頼まれて、断れる人間などいるのだろうか。

 シュエメイの後宮生活はまだまだ幕を開けたばかりだ。


「時にシュエメイ。いや。あえてソナタを『ホンファ』と呼ぼう」

「それは偽名です」

「いや。そなたにあざなを贈ろう。今後は字を、ホンファと名乗るがいい」


 字など、高貴な人間にしか許されない名だ。

 しかし、この東宮は言い出したら聞かないだろう。ホンファは諦めたように顔をひきつらせて笑った。


「兄上。わたしは生きます。兄上の分も」


 傷が癒えたわけではない。ましてや、兄を忘れたわけでも。

 しかし、ホンファを見ていると、自分も強く生きねばと思わされる。ホンファはどんな気持ちで後宮に入り、どんな気持ちで復讐を諦めたのだろうか。

 復讐に燃えることよりも、復讐を諦め生きる道を選ぶことのほうが、どれだけ困難だろうか。


「ホンファ」

「なんでしょうか」

「いや、呼んだだけだ」


 清々しい顔で、東宮が笑った。

 シュエメイ(雪梅)とイールゥー(雨露)。雪は解けて雨となり、春の花が咲くように、後宮に幸いをもたらす存在になればと、傍で見守るハクシュウは、ふたりに隠れて笑みをたたえるのだった。

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