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三、ホンファ③

 ホンファには姓がない。この時代に姓を持つのは貴族か王族と相場が決まっている。最近では、官吏たちがしゃれて姓を名乗るようになったのだが、それでも姓を持つ平民は少ない。

 さらに、男子は成人したらあざなといって、姓・名のほかに自身でつけた呼び名を使うことが多い。

 シュエという名前は、どちらかというと本名というより、字に近いとホンファは思った。


「この名前は、生涯隠し通すのよ。姓も、名も。今日からあなたは――」


 ハッとして目を開ける。

 先の帝の件で出会ったシュエという人間は、腹の内が読めないしたたかな人間だとホンファは思った。そもそも、本来ならばホンファはいち女官としてこの後宮に勤めあげ、骨をうずめるつもりでいた。非常に腹立たしくはあるが、ホンファにとって、ここで生きる以外に生き残る道はない。

 ホンファの両親は数年前に共に死んだ。弟がいたが、それも死んだ。流行病だと思うことにした。原因なんて追究したら、こちらがおかしくなる。

 世の中は不平等だ。身分が低いものの命なんて、その辺に咲いている雑草と同じか、それ以下だ。

 高貴な人になにかがあれば、いつだって責任を問われるのは卑賤な民だ。そして責任を負わされるのだって、身分の低いゴミたちだった。


「ええ、なんで私が」


 帝の食事の助言をしてから七日ほどたって、さてホンファは再びシュエに呼ばれていた。


「ホンファと言ったか。ソナタ、食べ物が食べられなくなる病を知っているか?」

「……はあ。私でなく、医官の役目でしょう、そういった病気は」


 知っていることは知っている。しかし、きっと正直に答えれば、このシュエという人間はまたホンファに厄介ごとを頼む気でいるのだろう。

 ホンファは言葉を濁した。食べ物が食べられなくなる病気。内臓の病気か、あるいは。


「この後宮には、十二の宮があることは知っているな?」

「はい。十二支になぞらえて、位の高い順に、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥。それがどうかしましたか」

「なに。卯の宮の妃がな。どうも食事がとれないご病気らしく」

「卯の宮。確か最年少のお妃さまですよね。齢は数えで十五、六とお聞きしましたが」


 よもや、その妃の面倒を見ろということなのだろうか。そんなのごめんだ。ただでさえ先の帝の件で、この帝国厨房での肩身が狭いというのに、その上妃の件に関われば、女官たちにいびられてしまう。


「主上の件。ソナタの助言もあってか、主上はあの干した豆腐がお気に召したようだ」

「それはよかったです。しかし、脚気ですから、早々よくおなりではないでしょう? それなのに、なんの功績もない一介の女官を卯の宮のお妃さまに遣わせて。下手をしたらシュエさまの首が飛びますよ」


 ははは、とシュエが声を出して笑った。


「ソナタは、わたしを心配しているのか?」

「心配ではありません。私はもう、シュエさまとはかかわりたくないと申しているのです」

「なぜだ」

「無難に生きていきたいのです。シュエさまにはお分かりにならないかもしれませんが。卑賤の民はどこまで行っても卑賤の民なのです。主上の件や――そして卯の宮のお妃さまの件。この件にかかわって、もしもご回復なさらなかったら。飛ぶのはシュエさまの首ではなく、私の首です」


 ホンファは、自分の首を人差し指で指して、右から左に切る仕草をした。

 そう言われてしまうと、シュエにはなにも言えない。


「そうか。ソナタの意見はわかった。しかし現状、卯の宮の妃――鈴鈴リンリン妃は、体重が平均の半分しかないと聞く。医官も私としても、あの手この手で食事を促しているが、どうにもリンリン妃は、食事をなさらない」


 リンリン妃の病状に、宛てがないわけではない。ないのだが、この病気はかなり厄介なものだ。医官だけでは手を焼くだろう。そもそも、ホンファから見てもこの病気の治療法は『ない』。対応策があるにはあるが、それがリンリン妃に効くとは限らない。

 厄介な病気である。


「もう下がってよい。今後はもう、ソナタを頼ることもしない。主上の件は、すべてわたしの判断と申告するゆえ、ソナタの首が飛ぶこともないだろう」

「ありがとうございます」


 拱手礼をして、ホンファはシュエの執務室を後にする。

 薄情かもしれないが、平民にとってこれが最上の選択肢だ。死んではなにもならない。自分だけは生き残らねばならない。死んだ両親や弟の分も、生き延びねばならないのだ。



 医食同源とはこの国では当たり前に掲げられた言葉で、つまり食は医、医は食から、という意味がある。また、毒と薬は紙一重とも。

 これらの言葉は、ホンファにとってごく身近なものだった。父は卑賤な生まれながらも、後宮に勤めて、信頼も厚かったと聞く。

 母は家を守り、父のまねごとをするホンファと、勉強嫌いな弟をよく育てていたと思う。

 父は官職を与えられ、喜んでいた。しかし、結局官職を与えられたって、平民は平民、貴族たちになにかがあれば、真っ先に疑われるのも、平民だった。


「私はもう、料理はしない」


 ホンファの料理の腕は、シュエもお墨付きである。しかし、ホンファはこの料理の知識を隠し通すつもりでいる。

 隠したかった。なのにホンファは、後宮に入るにあたって、わざわざこの部署を希望した。帝国厨房の女官という地位だ。

 帝国厨房の女官は主に、調理した料理を帝に運んだり、妃たちのもとに運ぶ役割を担っている。

 持って行った食事はまず毒見役が味見をし、それから高貴な人々が食べるのだ。

 ホンファは料理が嫌いだ。大嫌いだ。自分の料理の知識だって、誰にもばれないように生きてきた。生きていくはずだった。


「リンリン妃さまには悪いけれど……私は無難に生きるために。目立つわけにはいかないんだ」


 ぎゅっとこぶしを握り締めて、ホンファは頭をよぎるリンリン妃の病状を振り払う。

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