十六、華鳳の乱⑤
ホンファの料理の腕は父親譲りで、ホンファは聞いただけで父の料理を再現するほどの才能を持っていた。
「オマエが男の子だったらどんなによかったか」
「アナタ。男だろうが女だろうが、私たちの子供に変わりはないですよ」
「そうだな。おお、翠は甘えん坊だな?」
スイとは、ホンファの弟の名前だ。
「お父さま。僕もお父さまのような料理人になれますか?」
ホンファの父親は実家からの通いの料理人だ。それだけの地位を得た。ホンファの父は、帝国厨房の料理長である。
父は世界各国を回ってその料理を味わい尽くし、その腕を買われて帝国厨房に入った異例の料理人だった。
最初はみな、異国かぶれの父を疎んじていたが、次第に料理の腕一本で父は認められていった。
仲間もできた。夢もできた。
「娘よ。オマエが料理人になりたいというのなら、わたしの勤める帝国厨房に来られるように計らおう」
「父上、まことですか?」
「ああ、本当だ」
あんなに朗らかで明るく、人望のあった父が、帝を暗殺するなんて思えない。
だが、現状毒見役にはなんの異常もなかったわけだから、これには深い陰謀が張り巡らされているのは明らかだった。
「さあ、これを食べなさい」
真夏には、氷を砕いたものに甘葛をかけて食べさせてくれた。冬には熱々の点心を。それだけでホンファは、幸せだった。
「父上。このあつものは、少し塩気が多いです」
ホンファが十八になるころには、ホンファの料理の腕は父をもしのいでいた。父は仕事が忙しいのか、最近は痩せ細り、ホンファは父を心配していた。
「先日と同じものを作ったが?」
「いいえ。これは前のよりも味が濃いです」
「……ははは。我が娘ながら末恐ろしい。娘よ」
父がホンファを抱き寄せて、
「父は帝国厨房を辞めることにした」
「え。なぜです。父上は料理人としてもっと腕を磨きたいと夢を語っていたではないですか」
「……そうだな。わたしは確かに、料理人になりたかった。しかし、家族と余生を過ごすのも悪くない。だろう?」
本当は今すぐ辞めたかったのだそうだが、高官たっての頼みで、最後に帝の四十回目の生誕の宴を任されることになったのだそうだ。
「そこまでの期待を受けながら……父上のお気持ちがわかりません」
ホンファには、後宮の厨房がどんなに厳しい場所なのか、わかっていなかった。わかっていたのなら、父の悩みをもっと、真剣に聞いただろうに。
そうして父の出した料理で帝が倒れ、父は極刑に処され、弟も同じく殺された。
女は卑民として売られ、母は奉公先の貴族の屋敷で息を引き取った。
「いい? その名前は誰にも知られてはならないわよ。ソナタだけは生き延びて」
病の母の、最後の言葉だ。
名をホンファと偽って、後宮に入ったのは母が死んだ半年後のことだ。
こんなこと、父も母も弟も望まないだろうが、ホンファはこの事件の真相が知りたかった。帝を暗殺しようとした不埒な輩を自分が捕まえて、一族の汚名をそそぎたかった。
そんな理由で後宮入りしたホンファは、目立たず、息をひそめてその時をうかがっていた。
「華鳳の乱で、東宮さまが毒を盛ったのはまことですか?」
ホンファは最初、厨房の人間に誰彼構わず聞いて回った。しかし、その件を口にすれば、始末される。だからほとんどのものが、口を噤んだ。だが、わかったこともあった。
「東宮さまは普通ではなかった。ある日は朗らかで、ある日は凛としていらっしゃる。まるで別人のように」
「いわくつきの東宮さま……」
そして、同じ言葉ばかり繰り返される。
「東宮さまが、当時の料理長と共謀して毒を盛ったらしい。しかも、獄に繋がれた料理長は、東宮さまを庇って言ったそうだ。『これは東宮さまは関係ない。私が至らぬために魚が毒となった』」
そこまではホンファも知るところだった。ホンファが知りたいのはその先だ。
チョリエイがホンファを気にかけるようになったのはこの頃で、ホンファはチョリエイが華鳳の乱から厨房にいる人間だということも知っていた。知っていたが、チョリエイは頑なになにも話そうとしない。チョリエイに限らず、華鳳の乱に直接関わった人間からの証言は得られなかった。先の東宮と元料理長の話は、宦官たちに聞いてようやく出てきた唯一のものだった。
しかし、半年しても一向に有力な手掛かりはつかめず、ならばもう、母の遺言通り、自分は最後まで生き延びようとも思った。ユイユイと仲良くなったのもこの頃だった。
人知れず働いて、目立たぬように。目をつけられぬように。
そうだ、すべては父に料理の腕があったことが原因なのだ。ホンファは後宮に入って以来、自分らしさを捨てて生きてきた。目立つことはしたくない。料理の腕だって隠し通した。
こんなことなら、初めから後宮になど入るのではなかった。ホンファは年季奉公ではなく、生涯この後宮で暮らす決意でここに来た。ゆえにホンファは、復讐を諦めてもここから出ることはできない。
なのになんでいまさら、シュエという人間は華鳳の乱のことを蒸し返すのだろうか。
このままシュエが捜査を続ければ、いずれホンファにたどり着くだろう。それだけはごめんだ。
「シュエさま」
リンリン妃の昼餉を済ませて、ホンファはいの一番にシュエのもとへとはせ参じた。
付き人のハクシュウがホンファに茶を出した。
「ホンファ殿。まずは落ち着いてください」
それだけ取り乱していたのだろう。ホンファは無意識であった。
お茶を一気にあおって、ぷはっと茶碗を机に叩くように置く。
「シュエさまのその、華鳳の乱について、私も微力ながら捜査のお手伝いをします」
その報酬に。
「その代わり、私が何者なのかは、詮索無用で」
「ああ、わかった。ならば、交渉成立だ」
手を差し出される。本来なら、高貴な人間に触れることすら許されない。
しかしホンファはシュエの手を固く握り、握手を交わすのだった。




