十二、華鳳の乱①
朝鮮朝顔探しは、まだ続いている。
後宮の隅々まで――個人の菜園まで調べたというのに、朝鮮朝顔どころか朝顔すらお目にかかれない。
最近、帝のご体調が回復傾向にあるらしく、右大臣に任せきりだった政務も、七割は帝が執るようになったのだとか。
チョリエイが食中毒になる少し前、帝が回復してきた折り、礼がしたいとホンファは帝直々に呼ばれたことがあった。シュエは、帝の料理の件は自分が責任を取ると言っていたものの、手柄となると律儀にもホンファの存在を進言したのだ。
シュエ伝いに聞いて、恐縮して一度は断ったのだが、なにぶん帝も引かない。
仕方なく、ホンファは帝に謁見することになったのだった。
華美な調度品が飾られた玉座。その御簾の先に、帝の影だけが見えた。帝のかんばせを見ることは叶わなかったが、しかし、その影だけでも光が差すように神々しく見えた。
「ソナタが、ホンファか」
「しゅ、主上……恐悦至極に存じます」
拝礼し、首を垂れたままにホンファがしゃべる。緊張から声が上ずっていた。
帝が内官に合図を送ると、内官はホンファの前に包みを置いた。
「これは……?」
「ソナタの料理はどれも美味であった。褒美に、フカヒレを遣わす」
「フカヒレ……こんなに大きな……」
そっと包みを手に取って、ホンファはそれを掲げながら、再び帝に拝礼した。
「あ、ありがたき幸せに存じます」
「よい。よい」
朗らかに笑う帝は、ひとであってひとではない。その容貌を知るものはごく限られた側近のみで、やはり帝は、天の子なのだとホンファは思った。
「時に。ホンファといったか」
帝に名前を呼ばれて、ホンファは体を縮こませた。
「しゅ、主上が卑民の名を呼ぶなど……」
「なに。今から話すのは朕のひとりごとゆえ」
明るかった声音が低くなる。
帝は亡くなった東宮の思い出を語るのだった。
それは、玉のように美しい赤子だった。帝に似て、賢そうな赤子が、亥の宮の妃に抱かれている。
「主上。私などが亥の宮の位を賜るなど」
「いや。本来なら、東宮を産んだゆえ、もっと高い位を授けたいくらいだ」
亥の宮の妃はもと帝の女官だ。帝が見初めてお手つきとなった。
亥の宮の妃は息子を憐れむように見ていた。この子が本当に東宮となれば、周りの人間からうとまれるだろう。命の危険さえ。
「主上。この子は東宮にはしたくありません」
「現状、妃たちにおのこはいない。それに」
今いる妃は、辰の宮、午の宮、子の宮。それから、亥の宮だ。
「子の宮の妃は何者かにより毒殺。辰の宮は女児を産んだ際に子宮を取り、午の宮の妃は高齢」
つまり、今後子を設けるには、新しい妃を迎える必要がある。とはいえ、帝は亥の宮の妃に夢中で、ほかの女人など目に入らない。
「朕はもう、ソナタ以外は望まぬ。身分が不相応だろうが、この子を東宮としたい」
実際、帝はこのあと、亥の宮の妃が死んでから、長いこと妃を迎えることはなかった。
亥の宮のおのこは、すくすくと育った。とは言い難い。
まず、一歳のころには暗殺者に襲われて、それを庇った亥の宮の妃が亡くなった。刺殺で、失血死だった。
「妃よ、妃よ!」
誰もが思った。妃が死ねば、帝は次の妃を迎え入れ、新たに子をもうけると。
しかし、帝は違った。亥の宮の妃は、形だけの妃ではなかったのだ。帝は亥の宮の妃を心から愛していた。ゆえに、この件を契機に、正式に亥の宮の妃の子を東宮とした。
このころから、帝は東宮の顔や容貌を、他者に見せぬよう徹底した。
外に連れ出す時も、祭事の際も。いつも冕冠を被らせて、そのかんばせを見たものはいない。
「ソナタは朕の宝だ」
「しかし、帝。妃の位を長く空けるのはよろしくないかと」
時の流れは早く、東宮が十五の時、帝は新たに丑の宮に妃を迎えた。いまだ、東宮の容貌を知るのはごく一部の人間だ。
「形だけのものだ。朕の心はいつも、亥の宮の妃とソナタにある」
偏った愛情にも、東宮は気づいていた。ゆえに、自分に向けられた関心を、少しでも妃に向けられたらと思ったのだ。決して帝を邪険にしたいわけではなく、狭い人間関係は時に欠点となりうる。こと、妃が長いことひとりもいなければ、帝に悪い噂がたつ。
例えば、帝は不能だとか、女人には興味がないとか、東宮が帝を操っているとか。
帝は、新しい妃を迎えて、結果的にいい気分転換になったようだった。いくら東宮が賢い子供とはいえ、大人のようにはいかない。そもそも、家族と話すのと、まったくの他者と話すのでは、気の持ち方が違うものだ。
帝は、東宮には話せない悩みを妃に話し、また、新たにひめが生まれれば、やはり嬉しさはひとしおだった。
「ソナタに妹ができたぞ」
「はい。それは可愛らしく」
「だそうだな。そなたが妹目当てで丑の宮に通っているのは知っているぞ?」
東宮との会話も増え、幸せに満ちた時間だった。
その東宮が、帝の四十歳を祝う宴席で、帝に毒を盛ったと騒ぎになった。
あの東宮に限ってそんなことはないはずだ。しかし、実際帝は、毒で死にかけた。
宴席の料理は東宮に任せていた。なら、料理人たちが独断で毒を盛った?
「父上。どうかなさいましたか」
「いや。なんでもない」
孝行な息子は、毎朝欠かさず帝に朝の挨拶に訪れる。が、見れば見るほど、かかわればかかわるほど、誰が敵で味方なのか、わからなくなる。
食べることが怖くなった。あの日を思い出す料理が食べられない。豪華な肉、魚を避けるようになった。辛うじて、米と餅は食べられた。
東宮が帝を心配している。しているのだろうか。本当は内心で、自分を引きずりおろして帝の座を狙っているのではなかろうか。
疑心暗鬼が重なって、とうとう帝は、真夜中の東宮の寝所に忍び行った。
「……っ、ちち、うえ?」
ぎり、と東宮の首をしめ、東宮が抵抗すらせずに帝を見上げている。東宮の顔が赤くなり、目からしずくがこぼれた。
最近ことさら、東宮は亥の宮の妃に似てきた。
ハッとして、帝は東宮から手を離した。
けほ、と東宮が思い切り息を吸い込む。起き上がり、帝を抱きしめて、
「父上。周りのものがわたしを疑っているのは知っています。でも、父上がわたしをこれ以上庇えば、父上が苦境に立たされます」
庇ったことなんて一度もなかった。帝自身、もしかしたら東宮が企てたのではと何度も思った。
食事がままならなくなったことも相まって、正常な判断がくだせない。
みるみる弱っていく帝を、東宮は見ていられなかった。
「父上。わたしを死罪にしてください。さすれば、官僚たちの不信感も拭えるでしょう」
常々、賢い子だとは思っていた。しかし、帝のために命すら投げ出すほどとは思っていなかった。
帝は回らない頭で考える。東宮は暗い寝所で、帝をはっきりと捉え見据えている。
帝がすっと息を吸い込んだ。
「ソナタの気持ちは、よくわかった」
帝は、東宮の命よりも、自分の立場を守った。
官僚たちは口々に東宮を死罪にと申し立てる。帝はそれでも、踏み切れなかった。帝自身も東宮を疑うことはあったが、亥の宮の妃の忘れ形見だ。
最後まで迷った。我が子をころすなど、帝として褒められたものではない。……歴史上は、なにも珍しいことではないとはいえ。
「朕は、東宮を華鳳の乱の主犯とし、死罪に処した。また、この件にかかわった料理人を始めとしたすべての人間を、厳罰に処す」
帝の決断に、みなが帝を崇め奉った。帝は冕冠の向こうで、そっと涙を流した。
すべてを話し終え、帝は御簾の向こうからホンファを見据えた。
「朕は薄情だと思うか?」
「いえ……帝の決定は天のご意思ゆえ」
本当は、帝をののしってやりたかった。
華鳳の乱では大勢のものが処刑された。大した捜索もなされず。
「ソナタには、これからもリンリン妃たちのことを頼みたい」
「御意」
ふと、帝の部屋に飾られた植物が目に入った。
「朝鮮朝顔……」
「ああ、これか。毒があるゆえ、これは観賞用の植物だ」
「主上もご存じでしたか」
「これはもらいものだ」
「へえ。誰か朝鮮朝顔を育てておいでで?」
これを個人で育てている人間がいるとすれば、かなりの物好きか無知だ。
「さて、誰にもらったか。右大臣左大臣、高官たちから日ごと贈り物が届けられるゆえ」
しかし、花を管理する花吏ではないことは確かなようだった。
「もう下がるがよい」
こうべを垂れたまま、ホンファは部屋を出ていく。
ホンファは朝鮮朝顔のことはいったん忘れることにした。
今日、帝はなぜ亡くなった東宮の話などをホンファに聞かせたのだろうか。
帝のかんばせすら見ることのできない低い身分のホンファに。
もしかしたら、苦しい心のうちを誰かに吐き出して、許されたかったのではと思うも、かぶりを振った。
「主上のお心なんて、平民にわかるはずがない」
ホンファには帝の真意なんて、これっぽっちもわからなかった。




